氷川日菜にとっての駿河櫻華という男を簡単に言えば、〝例外中の例外〟というのが最も簡潔かつ適切であろう。
日菜は幼い頃から双子の姉である紗夜を見て育ってきた。故に紗夜が始めたことは後からでも始めたし、その全てにおいて例外なく紗夜よりも上位に立ってきた。尤も、後者に関しては自覚はないが。
今でこそ様々な人々と出会い人間として成長した日菜だが、その人格形成において最も大きな影響を与えたのが紗夜であることに変わりはない。何故なら日菜は紗夜がしたことは何でもした、あらゆることを
日菜が櫻華と出会ったのはまだ彼女が幼かった頃、紗夜と共に街を歩いていた時のことであった。その出会いは確かに紗夜によって齎されたものである。それ以前に日菜のいない所でふたりが仲良くなっていなければ、日菜と櫻華はただすれ違っていただけの他人であったのだろうから。
だが日菜と櫻華が友人になった理由に、紗夜は大きな意味を持たない。その時点で当時の日菜にとって櫻華は例外なのである。そもそもとして、
紗夜のように元々好きなのでもなく、パスパレの仲間のように分からないから面白いのでもない。互いに互いがどういう人間であるか感覚で理解していながらも面白い。その関係性を言葉にするならば〝親友〟というのが最も近いか。互いに大切に思っていながら、決して男女の関係になることはない。日菜と櫻華の関係とはそういうものだ。
それは日菜にとっては唯一無二の関係性だ。何せ姉である紗夜ですら少し前までは倦厭していた日菜の天才性を目の当たりにして距離を置くことはせず、その虚無感を理解し得たのだから。
或いは日菜から櫻華への感情が友情以上にならなかったのはその距離の近さ故であるのかも知れない。それでも日菜にとって櫻華は大切な親友で、彼に妙なことをしようとする相手を見て見ぬふりをすることができる程、彼女は薄情ではなかった。
日菜がCiRCLE帰りの櫻華と遭遇して数日後。所属する芸能事務所の会議室で次に出演する番組の打ち合わせを終えた日菜はメンバーとの会話もそこそこに建物の外に出てきた。自動ドアが開き、日に日に冷たくなっている外気が肌を撫でる。同時に鼻腔を突く紫煙の香り。
日菜はその香りが嫌いだった。吸っている人自身はまた別の話だが、煙草という存在そのものが嫌いなのだ。身体に悪いだとか受動喫煙だとかそういう話ではなく、まるでお前はコドモでオトナではないのだと、嘲笑われているようで。尤も、彼女の中では〝るんとしない〟の一言で言語化されているのだが。
できれば煙草を吸っている間の〝彼女〟には近づきたくないと思いながらも、それに逆らって匂いの発生源へと近づいていく。ニコチン、タール、一酸化炭素――日菜には分からないオトナとやらの匂い。その発生源たる女性は日菜の存在に気づきながらも煙草を咥えたままだ。
「氷川か。何の用だ? 見ての通り、私は一服中なんだが」
「……臭い。やっぱりるんっとこないなぁ、ソレ」
「逆に子供がコレの良さを分かるのなら、それはそれで問題なのだがね」
呆れたようにそう言いながら、理央はスーツのポケットから携帯灰皿を取り出して吸っていた煙草をその中に押し込んだ。路上で吸うことはしても決してポイ捨てをしないのが理央の流儀であった。
実のところ、理央は日菜があえて理央がひとりでいる時を狙って訪ねてきた理由が解っていた。十中八九、先日理央が再び櫻華にスカウトをかけたことについてであろう。しかしそれを口に出さないのは理央なりの考えがあってのことである。
伊勢理央は大人である。当然のことだが日菜や櫻華よりも長く生きている分人生経験も多く、酸いも甘いも噛みしめてきた。この年になってまで相手の言おうとしていることを先回りして口に出させないことはしない。
「理央ちゃん、この前さっくんと話してたよね? またスカウト?」
「あぁ。残念ながら断られてしまったがね。まぁ、諦めるつもりなど毛頭ないが」
「そっか。……やっぱり、何でもない訳ないじゃん」
日菜と櫻華の付き合いは非常に長い。故に日菜は櫻華がどのような仕草、表情をした時に嘘を吐いているのか、感覚的に理解している。生まれ持った天才性のために他者の機微に疎すぎる筈の日菜が、だ。
それは転じて日菜と櫻華の間に何か通じるものがあることの証左でもある。その共通性のために櫻華は周囲の人間と違い、日菜の放つ才能の輝きに焼かれずに済んだのだろう。それが、彼自身の求めるものとは違うとも知らず。
悲し気な表情で俯く日菜を、理央は手の中で愛用のジッポライターを弄びつつ見つめている。彼女は日菜の言いたいことに漠然と理解しているが、あえて何も言わないでいた。
「ねぇ。何で理央ちゃんはさっくんのこと、そんなに熱心にスカウトしてるの?」
「君までその質問をするのか……私はただ、彼のように或いは埋もれてしまうかも知れない才があるのが見逃せないだけだよ」
だって、私がそう在れなかったからね。次に続くその言葉を理央は寸でのところで呑み込んだ。それは日菜に関係ない、ただの身の上話だ。それを吐き出してしまえば面倒なことになる。
それはただどこにでもある話だ。自分が出会えなかったから、或いは出会ってしまったから、他の人にはそうなって欲しい、そうなって欲しくない。どこまでの独り善がりな、善意の押し売り。出来損ないのオトナとやらがコドモにしてやれる、おせっかい。
理央がパスパレのマネージャーになったのも同じ理由だ。彼女らには確かに才能があり、努力がある。であれば、報われなければならない。それなのに他者から食い物にされそうになった。そういう存在がたまたま理央の視界に入ったから、理央は彼女らのマネージャーになった。
「でも、きっと何度スカウトしてもさっくんは理央ちゃんの誘いに乗らないと思うよ」
「それは、何故?」
「……おねーちゃんが、Roseliaがいるから」
いまいち要領を得ないその解答に理央が眉根を寄せる。氷川日菜の姉、Roseliaでギタリストを務める氷川紗夜。無論、その存在を理央が知らない筈はない。今はパスパレと櫻華で手一杯だが、そうでなければ誘いをかけていたのは間違いない。
だが、それが原因とは一体どういうことなのか。理央が黙っていると、それを催促と取ったのか、日菜が少しずつ語り出す。他人のことを分からないから面白いという日菜が、理解しているとでも言うように。
曰く、櫻華は常に努力し、それを実力に変えてきた。故に彼の中では努力とは報われるものであり、報われなければ嘘だと思っている。加えて、櫻華の内心にはいつもRoseliaの存在がある。強く、強く焼き付いている。
「成る程。……つまり駿河はRoseliaという輝きに目を焼かれてしまっている訳だ」
「そんな言い方……!!」
「事実だろう? あぁ、そういうコトか。常々思っていたんだよ。駿河の演奏と歌は確かにレベルは高いが、何かが欠けているとな。本当に些細なものだが」
櫻華の技術は非常に高い。誰かと手を取り合うこともなくたった独りで走り続けたままでその領域に至ったのは驚愕に値するし、彼の秘め持つ才を示しているとも言えるだろう。
だが、理央はその中に何か欠けているものがあると考えていた。決して不快なものではない。けれど分かる人には分かってしまうもの。それの正体は、自尊心だ。プライドと言い換えても良い。
演奏中は自分こそが主人公、世界の中心と信じることができても心のどこかがRoseliaに引っ張られている。それは明らかな自尊心の欠如だ。自分の音こそが至高だと、そう信じきれていないのだから。
だからこそ理央のスカウトに応じる気が起きない。彼の視界の内にはRoseliaが、友希那が、紗夜が、リサが、あこが、燐子がいて、それに引っ張られている。それほどまでに魅せられてしまった。つまり。
「さっくんはおねーちゃんたちの演奏にるるるんってしすぎちゃったんだよ。だから忘れられないんだと思う」
「……前から思っていたんだが、やはり彼は相当面倒な性格をしていないか?」
呆れを満面に浮かべながらそう言う理央に、日菜はそうだね、と笑って返す。人と関わることが多い、というよりも人との関わりが形成する業界に身を置く理央だが、櫻華よりも面倒な性格をした人間など数えるほどしか見たことがない。
努力を実力に変えるという点に発揮する天才性ゆえに努力は報われて然るべきと思っている点。そしてRoseliaという輝きに目を焼かれているために、自分の努力がどれだけ他人から見れば凄まじいものか解っていない点。これだけでも今の櫻華の精神状態が知れるというものだが、それだけではない。
とある原因から彼はたったひとりで盲目的に走り続けているために周囲が見えていないのだ。そうすればきっと誰かの手を握ることができるだけ強くなれると思っているから。それでは握るべき手もいずれ見えなくなってしまうだろうに。
理央が櫻華をスカウトしようと思うのなら、まずその面倒な性格からどうにかするべきなのだが、彼女に直接何かする気はなかった。彼女らオトナはコドモを正しい方向に導くだけであって、常に手を取ってレールに乗せることは重要ではない。出来損ないのオトナでもそれくらいはできる。
「話に聞くキミの姉もなかなか難儀な性格をしているようだし……それでもキミは、彼女らが好きなんだな」
「うん! だっておねーちゃんはあたしのおねーちゃんで、さっくんはあたしの親友だもん!」
屈託のない笑顔でそう言う日菜の声音に嘘の色合いはない。そんなことを探ってしまう自分に、理央は少しだけ苦笑いをした。そもそも日菜は嘘を吐くような性格はしていないし、天才性を由来とする分かりにくささえ除けばかなり単純だと、彼女は知っているのに。
――あぁ、そうか。理央は気づく。彼女がここまで櫻華を気にかけているのは彼女の信念だけでなく、彼の中に昔の自分を見たからなのだ。妙に自分の認識に凝り固まって何にも折り合いを付けられなかった自分を。
だからこそ、自分のようになって欲しくない。何にも折り合いをつけられないまま、出来損ないのオトナになってしまった自分のようには。用は終わったとばかりに事務所の中に戻っていく日菜に、理央は再び煙草に火を点けながら言う。
「駿河に言っておけ。たまにはロックだけではなく、ラブソングでも作ってみるといい、とな」
「ラブソングって言ったって、どうすりゃいいんだか」
学校もなく店番もない完全に休みのとある日、櫻華はCiRCLEのカフェスペースで白紙のノートを前にうんうんと唸っていた。しかし白紙とはいえ今まで完全に何も書いていなかった訳ではなく、何度も消した跡が残っている。
それほどまでに櫻華が悩んでいるのは先日の夜に日菜からあった電話が原因であった。その電話で日菜が言ったのだ。「理央ちゃんがラブソングでも作ったらってさ!」と。
基本的に自分で作った曲を歌う場を〝駿河櫻華〟として歌う場合と〝さっくん〟として歌う場合で分けている彼だが、曲そのものの雰囲気は共通している。それはロックかバラードかなどというものではなく、その内にある感情という意味においての話だ。
無論、別に作詞作曲を依頼された訳ではないから、投げ出して脳裏から捨て去ってしまうこともできる。しかし櫻華の妙に生真面目な性格は、一度手を付けたものを放り出すことを許さなかった。
とはいえ、ラブソングに何を込めたら良いのか櫻華は分かっていない。ラブソングと一口に言っても片思いや両想いの曲だけではなく悲恋の曲もある。有り体に言ってジャンルの幅が広すぎるのだ。その中でも櫻華い当て嵌まるものは強いて言えば片思いだろうが、櫻華の内にあるそれを恋というには少々違うだろう。
今の櫻華の中を探してみても、ラブソングを作るにはその歌詞の源泉と成り得るものがない。或いは、自覚し得ていない。故に歌詞を作ろうにも、それは中身の伴わない外面だけの虚ろなものになってしまう。
「告白された側……いや、ナシだ」
一瞬だけ降ってわいた考えを、櫻華は即座に否定した。そもそも櫻華は告白されたことなど一度もないし、仮にあったとしてもそれを使っては告白した側への冒涜となろう。それでは駄目だ。
半ば手持無沙汰で手にしたシャーペンを回してみても答えなど出る訳もない。代わりにシャーペンを置いてウェイターが運んできたサンドイッチとフライドポテトを頬張る。時刻は午前11時。少し早めの昼食だ。
そうしてサンドイッチを食べながら周囲を見ていると、カウンターで何か注文したと思しき孔雀青の髪をした少女と目が合った。紗夜である。そのまま紗夜は特に驚いた様子もなく櫻華の対面に座る。
「こんにちは、櫻華」
「よう、紗夜。練習か? それにしては随分早いが」
「えぇ、ちょっとね。貴方は……作詞かしら?」
首を傾げながら言う紗夜。だがそれも仕方のないことであろう。なにせ櫻華が広げているノートには何も書かれていないのだから、事情を知らない者が見れば本当に作詞をしているのか怪しく思う筈だ。
紗夜の問いに苦笑いをしながら肯定の返事をする櫻華。そのまま簡単に事の次第を説明すると紗夜は何となく察したようで、薄く笑みを見せた。――その顔がどこか悲し気に見えたのは、櫻華の気のせいだろうか。
取り合えず一旦保留にすることにして作詞用のノートを閉じ、筆記用具と共に仕舞ってしまう。それとほぼ同時に紗夜が注文したものが運ばれてきた。偶然にも櫻華と同じものだ。
「それで、紗夜は練習……個人練習と見たが、どうだ?」
「そうよ。……どうして分かったの?」
「なんとなく……かな?」
紗夜と櫻華は幼馴染である。故にたとえ櫻華が他人の機微に疎くなってしまったとはいえ、幼馴染の雰囲気の違いを見逃すほど落ちぶれてはいない。特に、いつになくやる気を出しているとなれば。
以前、と言ってもRoselia結成前後であるから数か月前でしかないが、その頃の紗夜は練習の予定を前にして楽しげな気配など見せていなかった。まるでそうしなければならないとでも言いたげな強迫観念だけがあったのだ。
Roseliaの変化と共にそれも改善してきていたのだが、今回は更にそれに輪をかけて楽しげである。櫻華が懸命に感覚を言葉にしながら言うと、内心を見抜かれた気恥ずかしさからか紗夜が少しだけ顔を赤くし、その理由を話し始めた。
「先日、Roseliaのライブがあったのは知っているでしょう?」
「勿論。まぁ俺、店番とか配達で行けなかったけどさ」
「そう。……その後で、Afterglowと2マンライブをすることになったのよ」
「Afterglowと……?」
今度は櫻華が首を傾げる番だった。無論櫻華は先日Roseliaがライブをしたことを知っているし、その場にAfterglowの面々がいたことに疑問を持っている訳でもない。だが、何があったらその場で2マンライブが決定するのか分からなかったのだ。櫻華の疑問に気づいたのか、紗夜がそれに答える。
曰く、事の発端はAfterglowのボーカルでる蘭の〝
そこまで聞けば、櫻華でも友希那が何故誤解をそのままにしてAfterglowを焚きつけたのか察することができた。今のRoseliaはただ闇雲に頂点を目指していた時と違い、自分たちの頂点を見つけようとしている。それを見つめるために一度Afterglowとぶつかってみようと言うのだろう。それは紛れもなくライバル同士が互いの全てを尽くしてぶつかり合う構図だ。
「成る程ね。そりゃやる気にもなる。王道だもんなぁ、そういうの」
「えぇ。やるからには、負けるつもりはないわ」
そう言う紗夜の笑みは今までにない程闘志に満ち溢れている獰猛なもので、自然と櫻華は同質の笑みを見せた。以前と比べて紗夜はかなり変わったが、その変化は櫻華だけではなく周囲にとっても好ましいものであろう。
だからこそ、自分がそこに関わりがないことが櫻華は少しだけ悔しい。まるで、自分では力不足なのだと、お前などいなくとも世界は回るのだと突き付けられているようで。
その醜い感情を櫻華は押し殺す。そうして昼食も終わり、再び一切進む気配を見せない作詞に戻ろうとした時、紗夜が口を開いた。
「櫻華、良かったらこの後の練習に付き合ってくれないかしら?」
「えっ――」
あまりにも予想外だったが故に素っ頓狂な声を漏らしてしまう櫻華。鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはまさしくこういうことを言うのだろう。紗夜はそれを軽い拒絶と取ったのか、「駄目ならいいのだけれど……」と呟く。その呟きに、櫻華は首を横に振った。
ああ――なんて現金な
「あぁ。勿論、付き合うよ。大切な幼馴染の頼みだからな」