白花曼珠沙華の如く   作:かってぃー

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第8話 linaria

 デート。または逢引とも言うそれは年頃の男女が共に外出する行為であり、それは時に不純異性交遊という踏み入ってはならない領域に至る危険性を孕んだ行為である。また、日常的にそういうことをしている人間を俗にリア充と呼称する。

 脳内でそんな下らないことを考えながら、櫻華はひとり駅前の大時計を背にして立っていた。その恰好は黒いパーカー以外は白に近い色の服で統一された、いつも通りの服装である。

 千聖や日菜と羽沢珈琲店で遭遇してからちょうど一週間後の休日であるこの日、櫻華は千聖が言うデートとやらのために駅前で千聖を待っていた。集合時間が10時である所、櫻華がそこに到着したのは9時30分。今から実に15分程前に、櫻華はこの場に来ていた。

 尤も、デートというのは千聖の冗談のようなものと櫻華は考えている。その実態は商店街の最寄り駅から2、3駅程先の駅前に新しくできたカフェの下見。次に花音と行く時に迷わないようにするため、一度櫻華と行ってみる。それが千聖の弁である。

 しかし実のところ、それはある種の方便である。勿論下見の真実ではあるが、千聖にとって今回の外出は花音と共に外出するのとは別ベクトルで重要であった。それに櫻華が気が付くことはないが。

 大時計を背にしてスマホを弄り、ニュースサイトの記事や動画投稿サイトに投稿した歌ってみた動画に付いたコメントなどを流し見していく。そうしていると、画面の上方にメッセージアプリの通知が表示された。店番をしている母親からだ。それをタップし、メッセージアプリを起動する。

 

『千聖ちゃんとデートだって? 現役アイドルとデートなんて、羨ましいなぁ。私が櫻華だったらどうなっちゃうか分からないよ! あ、でも昨夜はお楽しみにはならないようにねぇ~』

「あんの母親……!」

 

 怒り半分呆れ半分といった声音でそうことばを漏らし、櫻華は適当な返事をしてメッセージアプリを落とした。彼の母親はメッセージアプリ上でのみだけではなく、現実(リアル)でもこのような感じなのだ。ある意味で櫻華が生真面目な性格になったのは母親がこのような性格だからということもある。

 何故知っているのか、とは思わない。櫻華の母親はどうやら千聖の連絡先を知っているらしいということは、数年前から分かっている。彼にとってそれは最早気に掛けるようなことではなかった。

 千聖だけではない。紗夜や日菜、友希那等の友人で花屋によく来る相手の連絡先を、櫻華の母親は知っていた。その社交性の広さたるや、少しは彼も母親の爪の垢を煎じて飲むべきである程だ。

 続く母親からのメッセージを未読のまま無視し、パーカーのポケットから音楽プレーヤーを取り出してイヤホンを耳に突っ込む。そうしてCDから落としたRoseliaの曲を再生しようとした時、櫻華の耳朶を声が打った。

 

「櫻華!? もう来ていたの?!」

「おう。来てたな。具体的に言えば15分くらい前に」

 

 そこは冗談でも今来たところと言うものじゃないかしら、という千聖の抗議を櫻華は悪いという一言の短い謝罪で返した。そもそも櫻華がそういった気の利いた発言をしない人間であることは千聖も了解している。

 それでも不満を表そうとあえてわざとらしい程にあざとく頬を膨らませる千聖に大した反応を示さず、その恰好を見た。長く流麗な金髪をポニーテールに纏め、眼にはカラーコンタクトに加えてサングラス。服は常の黄色系統のものではなく、淡い寒色系で纏められている。

 千聖と毎日のように学校で会っている櫻華は一目で彼女と知れるが、テレビ越しに見ている程度ではすぐには分かるまい。人間とは目が違えば思いの他分からないものだ。もう一度千聖を上から下まで見て、櫻華が頷く。

 

「いつもと違うが、これはこれで似合ってるな。うん」

「へっ!? そ、そう。それなら良かったわ」

 

 デート前のテンプレートは言わない。そう思っていた千聖にとって、まるで押して駄目なら引いてみろではなく引いて手応えがあったから推してもみたとでも言うべき櫻華の発言は完全に不意打ちであった。

 しかし当の櫻華にそんな策略などなく、完全に素の、本心からの発言であった。何であれ似合っているのならそう言う。それは妙に女性の幼馴染が多い櫻華だからこその考えであった。その割に乙女心を全く分かっていないのが彼の奇異な点なのだが。

 乱れてしまった調子を整えるために何度か咳払いをする千聖。そうよ千聖こんなのまだ序の口なんだから、と自分に言い聞かせて無理矢理落ち着け、せめてもの仕返しとばかりに口を開く。

 

「あ、貴方も、似合ってるわ、よ?」

「そうか? まあいつも通りだしなぁ」

 

 そう言って常と全く変わらない笑みを見せる櫻華は、千聖の発言に対して特に気恥ずかしさなどは感じていないようだった。まるで余裕綽々とでも言うかのようなその態度に、千聖の悪戯心が燃えた。

 白鷺千聖は完璧主義者である。彼女は分別があるためそれを他者に押し付けることは決してしないが、自らには妥協を許さず、弱い面を他者に見せようとしない。その千聖がここ最近、櫻華に何度も狼狽した所を見られている。であれば、少しは櫻華を狼狽させてやりたいと思うのも当然であろう。

 それじゃあ行くか、と踵を返して歩き出す櫻華。その隙を見計らい、千聖はその左腕に両腕を絡ませた。必然的に密着する形になるふたり。全く予想していなかった千聖のその行動に、彼女の思惑通り櫻華が顔を紅く染め上げた。

 あまりに唐突なことに思考が纏まらなくなる。触れている部分が温かいだとか、色々柔らかいだとかそういう邪な思考を追い出し、抗い難い男の(さが)故に主張してくる触覚を無視して櫻華は千聖に言葉を投げる。

 

「ちさ……お前な、そういうのは驚くだろっ。あと、勘違いされるかも知れないからそういうのは控えた方が良い。俺じゃなきゃ勘違いしてるね」

「馬鹿ね、貴方以外にするワケないじゃない」

「うぇ……?」

 

 紅すぎる顔で情けない声を漏らす櫻華。最早思考回路が正常に機能していないその様子を見て、千聖が満足げに櫻華から離れた。それからしばらくして、櫻華の思考が正常値に戻る。

 櫻華は特別他者の感情に疎いことや努力を実力に変える点に発揮する天賦の才を除けば至って普通の男子高校生である。多少捻くれているきらいはあるにせよ、千聖のような魅力ある少女に接近されて何も思わない程枯れてはいない。

 昂れ理性鎮まれ感情、と謎の呪文を内心で唱えながら何度も深呼吸をして櫻華は速まった鼓動を落ち着けようとする。周囲の人間からの生暖かい視線を無視して。千聖はそんな櫻華を待たずして駅の中に向かっていった。

 

「行くわよ」

「あ、おい! お前電車苦手なのにひとりで行くなよ!」

 

 正確に言えば千聖が苦手としているのは電車に乗ることそのものではなく電車の乗り換えなのだが、その壊滅さを知っている櫻華としては乗るだけでも放っておけなかった。すぐに千聖に追いつき、先行するように前を歩く。今の櫻華は案内役のようなものだ。であればその役目を果たさねばなるまい。

 千聖が指定したカフェまでの道程は数日前のうちに下調べを済ませ、乗り換えるべき電車の路線や駅を出てからの道も記憶してある。実家である花屋の手伝いでよく配達をしているうち、そういう類の暗記はすぐにできるようになったのである。

 しかし流石は東京と言うべきか、中心部でもないにも関わらず構内の雑踏は凄まじいものであった。一度迷えばそう簡単には出会えまい。そう考えた櫻華がどうしたものかと振り返ろうとした時、不意にその左手が握られた。再び思考が沸騰しそうになるがしかし、その前に千聖の意図を悟って手を握り返す。

 手を差し出された。だからその手を取った。この上なくシンプルで、これ以上なく櫻華が求めたもの。だからこそ櫻華でも千聖の意図を悟ることができたのである。尤も、他意までは分からなかったが。

 ICカードを翳して改札を通り抜け、ホームに到着した電車に乗る。車内はほぼ満員であったが櫻華は扉と椅子の間に割り込んで自分の身体で空間を作り、そこに千聖を導いた。恰好としては所謂壁ドンのようになってしまうが、背に腹は代えられない。今日一日千聖と行動を共にする以上、その身の安全を確保するのは櫻華の役目なのだ。そう自認すればこそ、邪な思考も消えるというものである。

 しかし――、と櫻華の思考が切り替わる。いつもは千聖に対して小柄な印象を持っていない櫻華だが、こうして接近していると千聖が華奢で小柄なのだと実感する。そもそも20㎝も身長差があれば当然の実感なのかも知れないが。特にこれといった感慨もないままそんなことを考えていると、千聖が口を開いた。

 

「櫻華……近いわ」

「今更それ言うか? てか、仕方ねぇだろ、満員なんだから。痴漢されるよりかはマシだろ? それにな、俺だって恥ずかしいんだよ」

 

 櫻華はその境遇故に親しい女性は多いが、彼自身が仲の良さを理由にして無暗に近づくような男ではない。むしろ親しき中にも礼儀ありとして一定の距離を置いてきたからこそ今の櫻華がいるのだ。日菜などの自分から接近してくる相手は例外である。

 故に櫻華のその行動に他意はない。ないのだが、千聖にとってその距離はあまりにも近かった。先程密着しておいて何を今更という話だが、あれも相当勇気が必要だったのだ。

 バッグを胸に抱え、顔を隠すように俯く千聖。その顔は僅かに紅く、心臓は早鐘を打っている。バッグを抱えているのは櫻華にその鼓動を悟られないようにするためだ。少し過剰な気もするが、それくらいでもないと安心できないのである。

 あぁ、そうだったの、と千聖は理解する。分かって欲しいのに、分かって欲しくない。気づいて欲しいのに、気づいて欲しくない。あまりに矛盾しているというのに、まるでそれが当たり前のように胸中に収まっている。その感情の名は――やはり、恋というのだろう。

 そう考えて更に俯く千聖。そんな千聖を前に、櫻華が首を傾げた。

 


 

 結論から言えば、千聖と櫻華の電車旅にこれといったアクシデントは発生しなかった。これが少女漫画の世界であれば人や電車に揺れの所為でふたりが密着するようなこともあるのだろうが、そういったことは一度もなかった。

 しかし、それでも千聖の精神衛生上非常によろしくなかったのは確かであろう。何せ電車に乗っている間、常にすぐ近くに櫻華がいたのだから。それが千聖が雑踏に紛れたりもしものことがないようにしているだけなのだと解ってはいるものの、感情は理性で制御できるものではない。

 出入口から流れ出していく人々に呑み込まれるようにして電車から出て行くふたり。そうしてその流れから少し離れた所まで退避すると、全く同じタイミングで大きくため息を吐いた。それが少しおかしくて、ふたりが笑う。

 

「それじゃあ行くか。迷子になるなよ? 色々面倒なことになるからな」

「問題ないわ。だって……」

 

 その言葉を千聖は最後まで言わず、代わりに櫻華に手を差し出した。まるで、エスコートしてくれるのでしょう? とでも言うかのようなその仕草に櫻華は困ったように笑いながらその手を取る。この短い時間のうち、最早ふたりはその程度ならば気にしない程に慣れていた。

 無論それは周囲から見れば羨望や嫉妬の対象と成り得るのだろうが、生憎と空いている空間を千聖と櫻華が退避場所にしてしまったためそんな余裕のある人間などその場にはいなかった。

 はぐれないように互いの手を握り、雑踏の中に入っていく。そうして再び改札を通り抜けて駅の構内から出ると、晩秋の太陽と冷たい風がふたりを出迎えた。櫻華はそこで手を離そうとするも、千聖がそれを許さない。

 

「……何で?」

「ふふっ。何ででしょうね?」

 

 そう言って何処か含みのある笑みを見せる千聖。そこにある感情を悪戯心以外櫻華は分からなかったものの、千聖が手を離す気がないというのを察するには十分だった。仕方ないな、と櫻華が笑う。

 駅の外は構内と違って一度目を離したら即はぐれてしまうだけの人込みではない。故に手を繋いでいる必要性もない。けれど千聖がそうしていたいのならば、櫻華はそのままでいることに何の異論もなかった。

 それでも恥ずかしいものは恥ずかしいが、千聖が望んでいるのならば断らない。たとえ時折周囲の人間から妙な視線を向けられていても、櫻華は気にしない。気にしないように努めている。

 それにしても――と櫻華は回想する。こうして誰かと手を繋いで歩くなど、いったい何時(いつ)ぶりだろうか。少なくとも小学校に入学した後は両親とすら手を繋いでいないような気もする。日菜は手を繋ぐというより振り回してくるためノーカウントである。

 ネットの地図を見て覚えた通りの道を千聖と共に櫻華は歩く。そうして辿り着いたカフェは昼時にはまだ早いというのに開店したばかりということもあってかそれなりの人がいた。しかしいざ入ってみると席が空いていたようで、そこに案内された。メニューを見ながら、櫻華が呟く。

 

「なんか、ちょっと罪悪感があるな……」

「どうして?」

「いや、俺、喫茶店って基本的につぐの家しか行かねぇからさ。それに……」

 

 不自然な部分で言葉を切った櫻華に千聖は首を傾げるも、櫻華はそれに答えない。答えられる筈もない。よもや、友人であるというだけでこうして千聖とデートめいたことをしているということに軽い罪悪感と、同時に僅かな優越感を感じているなどとは。

 いや、本当に〝ただの〟友人なのか。内心で独白する櫻華の思考に、そんな疑問が混じる。ただの友人に密着するようなことをするのか? ただの友人と手を繋ぐようなことをするのか? ただの友人と――。

 駄目だ、考えるな。櫻華は無理矢理に思考を断ち切る。きっとその先は羞恥の地獄だ。それに、勝手に期待して、勝手に裏切られたような気になった人間がどれだけ惨めか彼はよく知っている。()()()()()()()()()()()()()()()()

 今まで考えないようにしていたことが出てきた理由は分からないし、分かる気もない。ただの今はありのままにある現実を楽しむことだけに集中する。それ以外は余計なことだ。

 

「……櫻華?」

「――! いや、何でもない。それより、早いトコ注文しようぜ」

 

 そう言って店員を呼び、注文する千聖と櫻華。千聖はパスタとケーキ、櫻華はカレーとパフェ、そしてふたりともラテアートと注文し、店員が下がっていった。そうして、櫻華が周囲を見回す。

 スーツを着てノートパソコンと睨みあっているのは会社員だろうか。それ以外にも女性数人の団体客や部活仲間の学生らしきジャージ姿の人々もいる。無論、男女の二人組で来ているのも彼らだけではない。

 だがそれらは皆、明らかに恋人か夫婦であるらしき空気感を放っていた。互いが注文したものを食べさせ合っていたり、仲睦まじく会話をしていたり。そういう人々を見ていると、千聖が言った。

 

「……私たちも、恋人みたいに見えてるのかしら」

「さぁな。そういう風に見ている人も、いるんじゃねぇか? 実態は別として」

 

 素っ気なく、しかし何処か悪戯めいた声音であった。その曖昧模糊とした返事に千聖は少々不満げではあったものの、機嫌を悪くしている訳ではない。ある意味でそれが櫻華らしい返答であったから、むしろ安心してすらいた。

 櫻華自身が自覚しているかは分からないが、櫻華は否と断じたものについては簡単に否と言う性格をしている。自分への陰口を言っている相手に言い返した時もそうだった。相手の思惑など斟酌せずに否を叩きつけていた。

 その櫻華が否と言わないということはつまり〝そう見えていても嫌ではない〟ということなのだろう、と千聖は思う。或いはそれは自惚れであるのかも知れないが、少なくとも周囲からそう思われることを櫻華は嫌がってはいないというのは確かだった。

 ウェイターがラテアートを運んでくる。その液面にミルクで描かれていたのは花だ。流石飲食店のメニューだけあって、非常に精巧に描かれている。それに風情も情緒もなしに口をつけた櫻華に、千聖が言う。

 

「そういえば、貴方、私のことやっと名前で呼んでくれるようになったのに今日は一度も呼んでないわ。どうして?」

「ん。まぁ一応の配慮(言い訳)だよ。ファンにでもバレたら、大変だろ?」

 

 最早ラテアートではなくただのラテになってしまったそれを飲みながら、櫻華が答える。それは果たして何のための答えであったのか、今こうして千聖と共にカフェに来てしまっている今となっては分からない。

 そもそもそれは誰のための配慮なのだろうか。櫻華のような何でもない――匿名とはいえ全国的に人気の動画投稿者と何でもないというのは奇妙だが――男と外出していると知られて千聖の周りに起きるスキャンダルを回避するためなのだろうか。それとも、単なる自己保身か。或いは、そのどちらでもない別の何かか。

 櫻華は千聖を尊敬している。それ故に自分のせいでその経歴に泥を塗ってしまうような真似はしたくないと思っている。だが、それならば千聖の誘いを断ってしまうこともできた筈だ。なのに、櫻華はそれをしなかった。この場合、櫻華は何を優先したのか。――考えるまでもない。千聖の意志だ。言葉と行動があまりに矛盾したその答えを、櫻華は意外にも簡単に受け入れた。

 

「ハァ……分かったよ、千聖。今更かも知れねぇが、バレても俺は知らんぞ」

「大丈夫よ。その時は、カレシですとでも言っておくわ」

「へっ……!?」

 

 素っ頓狂な声を漏らして顔を真っ赤にする櫻華に千聖は冗談よ、と言って笑う。至って普通のいつも通りの遣り取りだ。千聖が揶揄って、それに櫻華が若干オーバーにも思えるリアクションをする。

 千聖はその遣り取りが好きだった。中等部の頃からずっと繰り返していても、飽きが来たことはない。けれど同時に日増しに膨れ上がっていく感情があることも彼女は理解していた。それこそ、他では徹底しているリスクヘッジを疎かにしてしまう程に。

 アイドルというものがファンに夢を与えるものであることは解っている。千聖は別に恋愛禁止という契約を結んではいないが、事務所がたったひとりマネージャーである理央を除いて恋愛禁止めいた暗黙の了解を押し付けようとしていることも分かっている。けれど、だからといってアイドルが夢を見て悪いことがあろう筈もない。

 運ばれてきた料理をふたりは他愛のない会話をしながら食べ、その後にデザートであるケーキとパフェが運ばれてきた。千聖のはチーズケーキ、櫻華のはイチゴのパフェである。

 そのパフェを見て、ふと櫻華は先日紗夜や日菜と羽沢珈琲店で出会った時のことを思い出した。その際、櫻華は紗夜を揶揄おうとして失敗し、自爆してしまった。しかし性懲りもなくまたやってみようかなどと悪戯心が鎌首を(もた)げて口を開きかけた時、完全な不意打ちで口の中に何かを突っ込まれた。直後に彼の味覚を刺激したのは程よい酸味と甘み。そこから何をされたのかを理解して狼狽する櫻華に、千聖は妖艶さすら覗かせる笑みを向ける。

 

「あら。私とのデート中に他の女のこと考えるなんて、お説教が必要かしら?」

「お、おんっ……!?」

 

 それが千聖の悪戯心の発露であることは解っている。だが今回のそれは今までのものとはレベルが違った。たとえ台詞が芝居がかっていたのだとしてもそれに気づく余裕すらない程に。

 しかし一見余裕そうに見える千聖だが、彼女もまた紅くなりそうな顔を必死に意志力のみで抑え込んでいた。それは流石の女優魂と言うべきだろう。尤も、少々隠しきれずにいる部分もあるが。

 沸騰する思考。心臓が早鐘を打ち、喉が異様に乾く。それは櫻華だけではなく、千聖もそうだ。そんな自爆大爆発とも言える状況でまともに会話などできる筈もなく、妙な空気感のまま時間は過ぎていった。

 


 

「今日は楽しかったわね」

「俺は色々と大変だったよ……」

 

 太陽が西へと傾き、人々や烏が家路に着くような時刻。黄昏に染まる空の下でふたりはそんな会話をしていた。場所は集合場所であった駅前の大時計下。心底愉しそうな表情の千聖とは対照的に、櫻華はひどく疲れた顔である。それでも手は繋がれた――というよりも千聖が掴んだままである。

 件のカフェから出た後もふたりのデートは続いていた。付近のショッピングモールをふたりで見て回ったり、特に目的もなく出歩いていたりと、その様は傍から見てもデートと言って差し支えあるまい。

 たとえその様子が殆ど千聖が櫻華を精神的に振り回していたのだとしても、それは距離が近いからこそできる行為だ。櫻華もそれは解っている。千聖のそれは、断じてただの友人にすることではない。

 

「千聖は……」

「何?」

「……いや、何でもない」

 

 何となく、その言葉の先は言ってはならないような気が櫻華にはしていた。下手に何の覚悟もなく問えば、それだけで千聖との関係性が不可逆的に変質してしまいそうで、言えなかった。

 別に櫻華はいつも通りが変わることを恐れている訳ではない。だが、何の覚悟もないまま変わり始めたものに放り出されるのも御免だった。臆病だとは、彼自身思っている。それが自分の我儘であることも分かっている。

 そんな暗い思考を断ち切って、櫻華は背中を預けていた大時計の基礎から離れた。そうして今日のところは千聖と別れて帰ろうとして、その直後、この場にいる筈のない人間の声が耳朶を打つ。

 

「――櫻華? と……そっちは、白鷺さん……?」

「紗夜……?」

「紗夜ちゃん」

 

 恐らくRoseliaでの練習の後なのだろう。紗夜はギターケースを背負い、見慣れた私服姿でそこに立っていた。ただそれだけだ。だというのに、櫻華の胸中に何か得体の知れないものが生まれる。

 紗夜の視線が吸い寄せられるように動いた先は、櫻華と千聖の手。その実態は千聖の方から掴んだものであっても、繋いでいることに変わりはない。それが紗夜の裡に暗い影を落とす。

 最悪の、或いは最良のタイミングであった。神の悪戯というものが本当にあるのだとすれば、まさしくこういうことを言うのであろう。そんなことを考えてしまう程に、それは運命的な遭遇だった。

 茫然と立ち尽くす紗夜。千聖は櫻華の手を離すと、紗夜の隣にまで歩み寄った。そうしてまるで3人だけが世界から切り離されてしまったかのような空間の中、紗夜に向けて千聖が小さく呟く。

 

「――――――」

「……!!」

 

 それは櫻華には聞こえないような音量であったが故に、彼に届くことはない。けれど、何かが変わり始めて、自分が風に吹かれるだけの花弁(モブキャラクター)でいられなくなったことは彼にも分かった。

 長針が、時を刻んだ。

 

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