甚爾は背中に受けた強力な攻撃の理屈を判断するのを無意味だと断じた。自らの戦闘経験からこれは明らかに理屈を考える前に対処するべき者であると判断し、なおかつ追撃の恐れもあった。
故に甚爾は直哉を遠ざけんがために万里ノ鎖を甚爾を中心とした半径約10メートルの半球すべてを通過するように鞭のように振るった。投写呪法は急に方向転換できず、小回りが効かない術式だ。故に甚爾は直哉に当たるものだと考えており、それは甚爾の経験から言っても第三者視点からみても正解だと言えただろう。
だが直哉の頭脳は甚爾がどんな判断をするか、鎖がどう振られるのを1足す1は2であることが当然であるかののように予測した。そして脳の戦闘中枢が弾き出した甚爾の動き、それを前提とした動きを作っていた、当然直哉は鎖に当たることなく赤い血の残像を残しつつ後退し停止した。
その戦闘中枢の計算、そして作った動きは紛れもなく直哉が禪院家での甚壱、直毘人、一応扇との戦闘を見る機会があったこと、何より直哉は太陽に見惚れるかのように甚爾に憧れて、性根が歪むほどに甚爾を追いかけ続けたが故に可能になったものだった。
しかしながらその体はすでにここ数日の警戒による負担、そして慣れない拡張術式、なにより甚爾の天与の暴力。その全てをかけた一撃、それらによって限界に近かった。
肩は大きく上下に動き全身からは血が多くの河となって流れ出している。見えてこそいないが内臓は悲鳴を上げ一部は悲鳴を上げることすらなく破裂している。目からは涙が頬を彩るラインの一つとなっている。常人ならばとっくに生きることを諦め気絶させているか、呻き声をあげるだけの肉塊となることを選択するほどの悲惨な状態だ。
それでもなお直哉は自らの根本にあり、自らの中で最も大きな割合を占めていたが、もう二度と会えないであろうと思っていた甚爾に邂逅できたことによる高揚感、そして自分がここで倒すと言う呪力で固めた肉体よりも硬い決意がすでに完成していた。
だが直哉の心中には天内理子の死亡は一欠片も干渉していなかった。それは決して直哉が非情というわけではなかった。むしろ直哉は箱入り娘であったからかアニメを喜んで鑑賞してくれる天内理子に対して察した時間こそ短いものの確かに友情が出来ていた。
ただそれ以上に甚爾という存在が直哉にとって余りに眩しく、余りに大きすぎた、それだけの話である。
そして直哉の肉体は緊張により酷く硬直していた。だが対照的に甚爾の肉体は弛緩していた。だがそれは油断の表れではなく、むしろいつでも十二分のパフォーマンスを叩き出せることの証明だった。
内心甚爾は避けられた事実を一瞬の驚きと安堵を持って受け入れた。その心中に焦りはなく、幾重もの死線を掻い潜り積み重ねられて来た経験と禪院家にいた時に読み込んだ呪術関係の書物を回想し現在の状況の最善の行動を見極めんとしていた。
(さっきまでより明らかに早くなって避けられたか…呪具はなさそうだしなんかの拡張術式かなにかか?直毘人にこんなのはなかったはずだし恐らくはこいつのオリジナル。
その正体が分からないのは不気味だがこいつを止められたなら悪くはねぇな)
甚爾がそう判断したのには2つ理由がある。一つは投射呪法だ。投射呪法は初速は対処できないほど速いわけではなく(甚爾基準)、拡張術式の投射呪法・壱百弐拾式においてもその弱点は共通である。
また直哉は負傷や負担などにより肉体強度が大幅に下がっている。甚爾への昂りを呪力にし、身体強化したとしても直哉本来の最大最速の域にまで至ろうとすると体が自壊してゆくため加速しきれないでいること。
これらのことを甚爾は冷静に計算していた。そしてもう1つ、かつ甚爾にとってはより重大な事項である黒閃だ。
確かに黒閃は脅威だ。成功率が極端に低いもののノーリスク、ノーコストで威力を2.5乗する。その一撃は先程のように甚爾に強烈な一撃を与えうるのだから。
だが甚爾は黒閃を視認したことこそ不可能でないものの数多の呪術師と戦闘し、そのさなかに黒閃を食らった実体験、そしてその経験や禪院家時代に読んだ書物などから黒閃の実態をほぼ把握していた。
たとえば黒閃は連続で打ててせいぜい二、三発であること。例えば黒閃を狙って出せる術師は存在しないこと、ゾーンに入っていると極端に成功率が上がること、そして、黒閃は間を開けてしまうとゾーンから抜け出てしまい、極端に成功率が落ちること。
そう、直哉は必要であったとはいえ停止し、間を開けてしまった。故にゾーン状態は解除されてたこと、それによって黒閃の発生確率は極端に下がっている。
そして黒閃がなければ甚爾にとって早いだけの直哉は対処は非常に厳しく、難しくはあるが不可能ではない。それだけの実力と経験が甚爾にはある。そしてそんな甚爾は直哉の停止している隙という絶好のチャンスを突いて攻撃は─しなかった。
なぜか?それは先程の直哉の黒閃のダメージが甚爾に痺れを与え続けているからだ。そう、先程の直哉の一撃は確かに天与の暴君たる甚爾の肉体の許容範囲を超える一撃を与えていたのだ。
現に内臓が損傷しているのか甚爾の口からは獲物を前に舌なめずりをした狼が垂れ流す涎のように血が垂れ出て、背中を中心として全身に痙攣が走り。背筋には冷や汗が溢れている。そんな状態で無理やり動いても反撃されて不利になるのが関の山だ。
故に甚爾も万里の鎖などの呪具を全て投げ捨て一時停止して肉体を休めた。奇しくも両者がともに戦況の停滞を望んだのだ。だがその停滞も長くは続かない。直哉の頬から血と涙と汗の集合体がこぼれ、血の池に波紋を起こした。その波紋は直哉と甚爾に伝わり、両者が開放されたバネかのように動き出した。
投射呪法・壱百弐拾式により即座に亜音に到達した直哉はその速度を持って甚爾に突貫した。そう、直哉の選択は
甚爾もその選択に応え刹那に構えを取った。構えが完了した瞬間直哉の拳が甚爾を突き刺さんがために襲いかかる。だが甚爾の取る行動は受容でも、反撃でもなく手を添えるのみだった。それだけで拳は黒閃を発しながらも空を切る結果となった。
なんのことはない、拳をそらした、それだけの話しだ。だが難易度は困難を極める。なにせ亜音なのだから。だが天与の暴君たる甚爾にとっては亜音程度対処可能の域にあった。
だが、甚爾の添えた手からは血が付着していた。亜音を対処したから、それもある。だがそれ以上に黒閃が発生していたことが大きい。そう、甚爾の手が拳に触れた刹那。黒閃が発生したのだ。
その負担はあまりにも大きく、天与呪縛の肉体強度をもってしても傷がつくほどには。だが甚爾は逆に安心できた。なぜなら黒閃はせいぜいあと1、2撃程度しか放てないのだから。
そして直哉は投写呪法によるフリーズを甚爾には使用しなかった。あまりにも触れたことが短時間である。それもあるが直哉は根源と、甚爾との戦闘をフリーズと言う無粋な形で終わらせるつもりはなかったからだ。
次の直哉の左手の正拳突き、これも黒閃であった。だがこれで黒閃の発動数は限界だ。
だが直哉はそんな常識を超越する。
その次の直哉の手刀、これもまた黒閃であった。その次の直哉の上段蹴り、これもまた黒閃だ。次、右の横薙ぎ、黒閃、黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒閃黒────
直哉の攻撃は全て─黒閃と化していた。そしてそれは直哉が黒閃を能動的に発動したと言える者だった。
(これはどう言うことだ!なんでこんなにも黒閃か襲いかかって来やがる!)
黒閃の能動的発動、それは歴戦練磨の甚爾が心のなかで言葉を荒げてしまうほどの衝撃を与えるほどのものだった。そしてそれは呪術界初の偉業でもあった。
そも、黒閃とは打撃との誤差0.000001秒以内に呪力が衝突した際に生じる空間の歪みだ。だがあまりにも僅かなタイミングであるが故に狙って出せる術師は存在しないはずであった。
ではなぜ直哉は能動的に発動できたのか?そのカラクリは投写呪法・投射呪法・壱百弐拾式にある。前述した通り黒閃とはタイミングが非常に重要だ。そしてそのタイミングを合わせるのが困難を極めるが故に能動的発動は不可能とされてきた。
だが直哉の開発した投写呪法・投射呪法・壱百弐拾式はとても細かくコマを打つため極限までタイミングを調整することが可能だ。そう、そして理論上タイミングさえ調整できれは黒閃はいくらでも放つことができるのだ。無論誤差はどうして起こる。だがその誤差は直哉の血の滲むような呪力操作の鍛錬で補うことができる。
結論から述べよう。直哉は、能動的に、100%の確率で、黒閃を発動可能、と言うことだ。
これには直哉も驚いたし、現段階では理屈はわからないがよく起こるのならばそれで良いと考えた。甚爾もまた理屈はわからないが、現実である黒閃に対処するのみだった。
そして直哉と甚爾の間で黒閃が百度ほど迸った時、直哉と甚爾は示し合わせていたかのように同時かつ爆発するかのような素早さで後退した。
なぜなら直哉はこれから先やっても甚爾に全て受けながされ、そのうちに拡張術式の負担で自爆することが目に見えていること、甚爾もまた、黒閃を受け流すことに無理を感じてきたからだ。
そして直哉は後退したまま止まらずに薨星宮の外縁部を血を残像として残しながら流星のように駆け抜け、加速し始めた。外縁部の大きさは約一キロ、直哉のトップスピードに到達するには十分な距離だ。
だがトップスピードに到達することは即ち体が崩壊していくことを表す。ならばなぜ加速するか?それは一撃で決めるためだ。そう、直哉は神速の極みに到達した速度の一撃で勝負を決める決断をしたのだ。
失敗すればその時点で直哉は敗北し、縛りによって耐久量がいくら上がっていたとしても殺されるまでもなく死に絶えるだろう。それでもなお直哉はその選択をしたのだ。
◆◆◆◆
視界は赤、もはや見るのは現世ではなく地獄。音の壁を一体幾度超えたことか。
一歩進むたびに足は進むことを選択した直哉への怨嗟の苦痛を与える。その苦痛は熱く、刺され、冷やされ、まるで地獄の深みへ進み出しているかのようだ。
だが直哉は止まらない。止まれない。それこそが自らの衝動であり、自らを呪い、作り出した動きであり、そして望みであるからだ。
故に直哉は駆け抜ける。甚爾を倒すために。最も負担の大きな足が崩壊してゆくが関係ない。
甚爾は回想する。最適解を見つけ出すために。
直哉は目指す。甚爾に辿り着かんとするために。空気抵抗を受けた頰が千切れて血を流すが関係ない。
甚爾は空気を肺に供給する。最高のパフォーマンスを出すために。
直哉は根源を見る。肉が剥離し、血が流れ体が白に染まってゆくが関係ない。
直哉は辿り着いた。
甚爾は
──結果は、直哉の拳が辿り着き、甚爾の
◆◆◆◆
甚爾は直哉の一撃を受け、腹は即座に発破が行われたかのように粉砕、だがそれでも到底衝撃は消しきれず、壁まで吹き飛ばされ、それでもまだ動きは止まらず、甚爾を弾丸としたならば、弾痕とでも言うべきものがが5メートルほど出来ていた。
だがそれでもなお甚爾は生存していた。もっとも、あと数分もすれば息絶えているであろうが。むしろ重症なのは直哉の方だ。なぜ生存しているのか?なぜ人の形を保っているのか?そのレベルだ。
そして甚爾は、ある一つの結論を導き出した。この戦いの敗因だ。なんのことはない。直哉なんてまともに相手をする必要なぞなかった。万里の鎖を振るい、粘れば直哉は勝手に失血死したはずだ。
だがそれをせず呪具を捨てた。その行動の正体は、同じ条件で、目の前に現れた相伝の投写呪法の使い手を否定して、捩じ伏せたくなった。自らを否定して、拒絶して、差別したその極みを、否定者であり、拒絶され、被差別者である自らが粉砕し、自らを肯定したかったからだ。
故に、呪具を捨てた時点で負けていた。
「
その甚爾の前に
「何か、遺言はあるんか?」
「ハッ、オマエも大概だろ。」
その甚爾の言葉は音速に到達した時に鼓膜は破裂し、目はとうに機能を失っているはずであるのになぜかよく聞こえた。
「あー、そうだな。冥土の土産だ。
そして直哉は天逆鉾を拾ってきて、甚爾の首を跳ねようとした。
そして振われる直前、甚爾の脳裏には僅かではあるが恵と遊んだ記憶が今まで回想したどの記憶よりも色濃く現れた。そして──
「2、3年もしたら俺の
それを最後に甚爾の首は体から離れ、それと同時に直哉はジェンガが崩れるかのように倒れ込んだ。