4月。
新しい季節の訪れと、新緑の芽吹く、生命の息吹が溢れる月。
トレセン学園にも新しいウマ娘達が入学し、彼女たちのもたらす将来への明るさと希望が伝わるのだろう、学園内は明るさときらめきに満ちあふれていた。
そんな学園内の一角。ひときわ隅にある、ひときわ狭い部屋。それは彼のトレーナー室だった。
お世辞にも小綺麗でもなければ新しくもない、物置小屋を間借りしているような部屋である。
「おっちゃん、はろはろ~」
そんなトレーナー室にウマ娘がひょっこり現れた。
彼女の名はアイネスフウジン。奨学金をもらい、今年度からトレセン学園に入学することになったウマ娘である。
「おっちゃん言うな、トレーナーと呼べ」
トレーナーはぶっきらぼうにそう言った。
「いいの。おっちゃんはおっちゃんなの」
アイネスフウジンはケラケラ笑ってそう答える。
彼女がアルバイトをしていたタコ焼き屋で常連だったのがこのトレーナーだ。
フウジンは、彼の事を『おっちゃん』と呼んでいたのだが、まさか彼女自身が入学することになるトレセン学園のトレーナーであるとは知るよしもなかった。
それはトレーナーも同様で、フウジンがバンダナで耳を隠していたことからウマ娘であることすら気づかず、つい先日、このトレーナー室で面会してびっくりしたばかりである。
何はともあれ、その時の癖から、アイネスフウジンの『おっちゃん』呼びは急に治るものではなさそうだった。
「まぁいい・・・今日から練習始めるぞ、フウジン」
「はーい」
といい、トレーナー室を出る二人。
たどり着いたのは練習場のターフだった。
「とりあえず・・・そうだな。1200mを1本走ってみるか」
「そんなに短くていいの?」
「初めての練習だからな」
「ふーん・・・」
そしてトレーニングを始める二人である。
この後も1200mを何回か走り、その様子をトレーナーはじっと見ていた。
そうこうしているうちに夕方になり、夜闇の迫る時間帯が迫ってくる。
「よし、今日は終わりにするか」
「はーい」
練習を切り上げることにした二人である。
トレーナーの目に映るアイネスフウジンはまだまだ体力が有り余ってそうに見えた。
「これからバイト行くのか?」
ふと、トレーナーがそう尋ねると
「ううん。トレセン学園入ったときに辞めたよ」
と返すアイネスフウジン。
「そうか」
とトレーナーが言うのもつかの間、
「うん。お母さんが『折角奨学金もらったんだから集中しなさい』って」
と、フウジンは言葉を続けた。
「そう、か・・・」
その言葉にトレーナーは僅かばかりの緊張感を胸に抱いた。
この目の前の若いウマ娘は、家族の支援もあり、この学園に通っているんだと、それをどうしても彼は自覚せざるを得なかった。
「じゃ、おっちゃん、また明日ね~」
「おう」
元気そうに寮に戻る彼女の後ろ姿が、トレーナーの眼にぼんやりと残って離れなかった。
練習に二人が取り組み始めて3日経った。
距離を1600m、2000mと伸ばしても、アイネスフウジンがバテることはなかった。
しかし、ただ一つ、トレーナーはその走りに違和感を覚えていた。
「おい、フウジン」
と話しかけるトレーナーに
「なに、おっちゃん」
と汗を拭きながら答えるフウジン。
「ちょっといいか?」
とトレーナーは彼女の後ろに回ると、突然彼女の腿(トモ)をつかんで触り始めた。
「あぁ、やっぱ・・・」
と納得するのもつかの間
「な、ななな!!!!」
驚いたフウジンが後ろに彼を蹴り飛ばした。
トレーナーはその勢いで吹っ飛び、何度かのたうち回ってターフの砂埃にまみれている。
「ってぇ・・・」
「何するのさ、おっちゃん!!!」
顔を真っ赤にしたアイネスフウジンが眉をつり上げ、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あぁ、すまん・・・」
腹を思い切り蹴られ、咳き込みながらもトレーナーは話す。
「お前の脚なんだがな」
とトレーナーは仕切るが
「うん」
フウジンの眼には侮蔑の色が浮かんでいた。
「腿(トモ)の力が異常に強い反面、脛が細い。そして足のサイズがかなり小さいだろ?」
「?」
言葉の意図が分からず、顔をしかめるフウジンである。
それに構わずトレーナーは言葉を続ける。
「いや、ここ3日、お前の走りを見ていて思ったんだが」
そこまで言って軽く咳き込んだ。まだ彼の腹に痛みが残っているようだ。
「うまく前傾で顎引いて走れてると思ったら、上体が上がって姿勢が悪くなることが結構あるだろ?アレ、どうしてだ?」
と、聞かれ、頭をひねるフウジン。
「ええっと・・・何か転びそうになりそうで怖くなることがあるの」
と、彼女は言葉を続ける。
その答えを聞いて
「それだ」
とトレーナーは返し、何かが嵌ったような自信に満ち溢れた笑顔を見せた。
「お前の脚なんだが、おそらくだが膝から下が不安定なんだよ。体力は問題ない。そして脚質もスピードが出せる立派なものだ。だが腿(トモ)の力がとんでもなく強い割に、膝から下が頼りなくて不安定にならざるを得ない。それが走り方に影響してる」
フウジンがぽかんとしているのもお構いなしで、トレーナーは言葉を続ける。
「本当はターフでどんどんスピードが乗せられる脚を持ってる。ただ、バランスがかなり悪いから、途中で転倒しそうになって、ブレーキを掛けてしまってるんだ。それが、上体が起き上がる動作に結びついてる。自然にバランスを取ろうとしてしまうんだな」
その言葉を聞いてたフウジンの顔にはもう、先ほどの羞恥心も軽蔑の色もなくなっていた。
「どうだ」
「うん、そんな気がするの」
「だからこれからは練習用のシューズをいくつか履き替えてトレーニングに取り組んでみよう。あった靴を見つけて、安定したバランスさえ取れれば、その脚質を存分に生かせる」
その言葉を聞いて、フウジンは少しだけ笑ってしまった。
「どうした?」
と怪訝な顔をして尋ねるトレーナーに
「なんかね、おっちゃん、トレーナーみたいなの」
と、返すフウジンである。
「だから俺はトレーナーだって」
それを聞いて、明らかに不機嫌そうなへの字の表情で答えるトレーナーだった。
8月になった。
蝉の声もうるさく響くが、それとはお構いなしで、アイネスフウジンとトレーナーの練習は続いている。
あくる日。練習前のミーティングのため、狭いトレーナー室のソファーに向かい合って二人は座っていた。
「さて、もうすぐメイクデビューだ」
「そうだね」
そう、もうすぐメイクデビュー、新バ戦が近いのだ。
二人の練習にも気合いが入っている。
あの後靴を替えて試行錯誤をするうち、アイネスフウジン本来のスピードが出せるようになってきていた。
勿論、彼女自身の成長もあるため、靴の選定は定期的に見直さざるを得なかったが、それも二人の楽しみの一つとなっていた。なにせ、見直せば見直すほどに、彼女は更なるきらめきを見せるのだから。
ただ、メイクデビューに向けて課題が一つあった。
「メイクデビューでは今までの練習用の靴は使えない」
そう、レースに出るからにはそれ専用の靴でないといけないルールである。
「え!?マジなの!?」
「冗談でこんなこと言うかよ」
驚くフウジンに対して冷静に返すトレーナー。
そして
「だから、レース用の靴をオーダーした」
と言い、レース用の靴の入った箱を、テーブルに置く。
トレーナーはそのまま箱を開け、フウジンの目の前には、真新しくもかわいらしい、ピンク色の靴が現れた。
「うわ~~・・・」
と眼を輝かせるフウジン。
初めてのレース用の靴。
初めての自分だけの足にまとう宝石。
真新しい桃色の輝きをはなつそれに、ついつい彼女は眼を奪われていた。
「喜ぶのはまだ早い」
「?」
「練習用の靴とレース用の靴は勝手が違う・・・というか、練習とレースだと勝手が違う」
「・・・どゆこと?」
首をひねるフウジン。
「練習はあくまで練習だ。一人でのびのびと走れるし、緊張感もない。ただレースは違う。全てのウマ娘が一位を目指して全力で走る」
天井を見上げながら、トレーナーは淡々と話す。
メイクデビューの難しさを知る彼だからこそ、何度もウマ娘を育て、そして何度も失敗してきた彼だからこそ、簡単には教え子のデビューを喜べないのが普通となっていた。
「だから練習通りには走れない。絶対に練習とは違った走りになる」
「ふーん・・・」
「だから靴の方も調整しなきゃいけない・・・が、問題は機会がない。他のウマ娘と合わせウマしてもいいんだが、それでも限界がある」
「じゃ、どうするの?」
少し言葉を詰まらせるトレーナー。だが
「ぶっつけ本番で調整するしかない」
意を決したように、フウジンを見つめ、そう彼は言い放った。
「・・・マジなの?」
「だから俺は冗談は言わない」
そして、少し彼女から眼を逸らしてトレーナーは言葉を続ける。
「9月に行われるメイクデビュー。そこで走りながら靴を調整し、まず1勝を目指したい」
自分の手を見つめながらトレーナーはそう話した。
黙って話を聞くフウジンに
「お前の意見はどうだ?」
と、聞くトレーナー。その声には少しだけためらいの色が残っていた。
しかし
「うん、いいんじゃない?」
それにフウジンはあっさりと肯定の言葉を返す。
あまりのことに拍子抜けし
「本当にいいのか?」
と聞いてしまうトレーナー。
それに対して、フウジンはこう答えた。
「おっちゃんが言うことでしょ?間違いないって」
と。
その顔には曇りなどなく。そして疑いの色も瞳にはなく。
少しその様子に面食らったトレーナーだが、
「・・・よし」
と一言頷くのだった。
9月、アイネスフウジンの新バ戦が行われた。芝1600m。結果は二着だった。
9月、未勝利戦に挑戦した。芝1600m。またもや結果は二着だった。
そして10月、通算3回目、2度目の未勝利戦。
東京 芝1600m。
結果は一着。
しかも1バ身と4分の3をつけての堂々としたものだった。
「おっちゃーん!!!!あたし勝ったよー!!!!」
「そうだな」
「この靴サイコー!!!!!一緒に調整してよかったーーー!!!!!」
「そうだな」
遠回りをした甲斐があった。そうトレーナーは思っていた。
繊細な足を合わない靴で無理をさせ、折角の脚をダメにしてはいけない。
何度も何度も慎重に調整した方がいい。
急がば回れの方針で、少し時間がかかったがうまくいったのだ。
そして、アイネスフウジンの勝ち方も満足いくものだった。逃げ足を使い、最初から最後まで他を寄せ付けない横綱相撲。
(あぁ・・・こいつは本物だ)
そう確信した彼は、喜びはしゃぐアイネスフウジンを見ながら、12月の朝日杯フューチュリティステークスへの出走を決めたのだった。