10月。
未勝利戦を終えて、アイネスフウジンもようやくだがメイクデビューを果たした。
新バ戦から未勝利戦までそのレース回数は3回。一見すると勝ちきれないレースが続いた中での遅咲きのデビューのように思えるが、アイネスフウジンのウィークポイントを改善するための遠回りであり、フウジンとトレーナー二人の想定通りに事が運んだと言っても過言ではなかった。
「おっちゃん、はろはろ~」
いつものように軽い調子でアイネスフウジンがトレーナー室に入ってくる。
「おう」
奥の事務机で、眼鏡を掛けて書類に眼を通していたトレーナー。
最近は『おっちゃん』と呼ばれる事にも全く抵抗をしなくなってきた彼である。
「それで、今日の練習はどうするの?」
という、フウジンに対して、
「その前に次のレースの話だ」
と彼は言い、机の前にある、古びたソファに彼女を促す。
「ん」
アイネスフウジンがソファに座り、それに続くようにトレーナーが向かい合う形でソファに座りこんだ。
膝の前で手を組んで
「12月の朝日杯。芝1600m」
と、トレーナーは一言。次のレースに、朝日杯フューチャリティステークス。
少しその名前をする彼の声色は固かった。
「どう思う?」
と問う彼に対して
「いいんじゃない?」
と即答するフウジン。
「お前なぁ・・・」
あきれ調子のトレーナーに対して、
「レースのことはおっちゃんに任せるって」
とケラケラ笑うフウジンである。
一つ咳払いをして
「言っておくが、このレース、今までの未勝利戦の1600mとは違うぞ」
と話し出すトレーナー。
「そうなの?」
首を傾げるフウジンだが、
「そう、G1レースだ」
「ふーん」
その態度には緊張感のかけらもなかった。
何か言いたそうなトレーナーの顔を見たアイネスフウジンはにっこり笑い、
「だってさ、おっちゃん、そのレースであたしが勝つって自信があるんでしょ?」
と一言。
「・・・」
それに何も言葉を返すことが出来ず、トレーナーはただ眼を背けるだけである。
少しその様子を満足そうに見たフウジンは
「じゃ、練習やろうよ」
といい、ソファから立ち上がった。
「・・・そうだな」
そしてそれに続いて練習に向かうトレーナーであった。
11月中旬になった。
天高くウマ娘肥ゆる秋、などと言うが、その由来は杜審言の詩『蘇味道に贈る』に「雲浄くして妖星落ち、秋高くして塞バ肥ゆ」とあるのに基づく。素晴らしい秋を称える慣用句だが、トレセン学園のトレーナー達からすると、練習に打ち込むあまり食事量が増える彼女たちのことを指すようにも思えることがしばしばある言葉である。
アイネスフウジンとトレーナーも例外になく、朝日杯フューチャリティステークスに向けて練習に打ち込んでいた。
そんなある日のこと。
「おい、フウジン」
と、トレーナーが新聞を持って、フウジンに話しかけた。
「何なの?おっちゃん」
「これ見てみろ」
フウジンがその新聞を見ると
『京成杯、芝1400m。サクラサエズリ一着』
との見出しが眼に入ってきた。
「おそらく次のレース、一番のライバルはこのウマ娘だ。芝1200mを2回一着、そして今回のG2の京成杯、芝1400mで一着。その速度は同期と比べて段違い」
トレーナーが解説をはじめ、一息つき、
「そして何より、彼女の得意戦法は逃げだ」
と一言。
「あたしと・・・同じ」
「そうだ」
二人の目が合った。
トレーナーの目に映ったフウジンは挑戦的な顔をして、闘志がみなぎっているように見えた。
フウジンの目に映ったトレーナーには勝つための作戦があるように見えた。
「だからここからは」
「うん」
「スタミナに重点を置く」
「えっ」
意外な答えにフウジンの口から戸惑いの声が出る。
「スピードじゃないの?」
「あぁ、スタミナだ」
しかし、トレーナーの答えは間違ってないようだった。
首をひねるフウジンだったが、
「まぁ、こういうことだ」
と、その根拠を話し始めるトレーナーだった。
12月中旬。
寒空の晴れの日。バ場状態は良。ついにその日、朝日杯は開催された。芝1600m、G1レース。阪神ジュベナイルフィリーズと並び、若きウマ娘達のマイルの頂点を決めるレースの一角である。
初めての勝負服に袖を通したアイネスフウジンは、少し浮かれ気味に
「どう?おっちゃん?」
とトレーナーに笑いかける。
「ぴったりだな」
と腕組みをしてトレーナーは応えた。
へへっ、と笑ってくるっと一周してみせるフウジンである。
短いピンク色のスカートがふわっと揺れた。
「じゃ、行ってくるね」
そう言って、控え室から出て行くフウジン。
「あぁ」
とトレーナーが応えるが
「なぁ、フウジン」
フウジンが扉に手を掛ける寸前に呼び止めた。
「何なの?」
と振り返るフウジン。
「作戦通りに走れば勝てる」
と付け加えるように一言言うトレーナーに対して、
「分かってるの」
と応えてにっこり笑うアイネスフウジンだった。
その笑顔は自信とやる気に溢れていた。
遂にレースが始まった。
さすがの若いウマ娘達、前を争うように一斉にスタートする。
そして一番手で抜けたのは、二人がマークしたサクラサエズリだった。
アイネスフウジンは四番手まで脚を上げ、前の三人を見据えてペースを上げていく。
アイネスフウジンは思い出していた。
それは、練習中にトレーナーに言われたこと。
「お前の得意戦法は逃げもしくは逃げ寄りの先行・・・というか逃げしかできない」
「何でなの?」
「脚の問題だ」
一言おいて、トレーナーはフウジンを見つめる。
「お前の不安定な脚だと、ただの先行や差しにしてしまうと、ペースを他のウマ娘と合わせる局面が多くなる。すると不安定な脚の魔物がいつ顔を覗かせるか分からない。ペースを握られることで、いざというときに加速ができず、持ち前のスピードを殺しかねないんだ」
一息ついて、彼は言葉を続けた。
「だからな、フウジン。お前がレースを握れ。お前がレースを引張れ。逃げて逃げて逃げ切って、他のウマ娘を振り回して、お前が一着を取れるレースを作るんだ」
(わかってるよ、おっちゃん)
思い出したことを脳裏にリフレインさえ、アイネスフウジンは加速する。
じわじわとスピードを上げ、第二コーナーを過ぎた頃には、先頭のサクラサエズリの後ろ、2番手にポジションを上げた。
そんな最中、アイネスフウジンの頭の中に再び練習の記憶がよみがえり始めた。
「でもさ、おっちゃん」
「何だ」
「もし、あたし以外に逃げウマが居たらどうするの?その子のペースでレースが進んじゃうかも」
「あぁ、その時はな・・・」
対逃げウマ向けの作戦。
全ての展開を支配するための作戦。
(その時は・・・)
それを彼女は思い出す。
そして
「「常に二番手で併走し、速度を徐々に上げ、プレッシャーを与えて相手を潰す!」」
記憶の中のトレーナーと言葉を合わせ、脳裏に強く掃き出した。
眼には闘志を。心には絆の作戦を。
全てを抱えてアイネスフウジンは鋭く加速し始めた。
桃色の一陣の風が、全てを支配するために、思いを現実にするために、緑のターフを切りすすめる。
『第三コーナー地点、各ウマ娘ややばらけています!第三コーナー地点、サクラサエズリ相変わらず先頭をキープしています!そして二番手にはアイネスフウジン体半分と詰めてくる!』
熱狂した調子の実況が競バ場に響く。
その実況通り、アイネスフウジンがサクラサエズリの横にぴったりとつけていた。
(何なのこの子・・・!ぴったり横に張り付いてくる・・・!!!)
サクラサエズリは焦り始めていた。
スピードを上げてもアイネスフウジンが全く離れない。
むしろ後ろから突き上げるかのように、じわりとバ身を前に出してくる。
これでは抜かれるのも時間の問題。
その焦りがさらに彼女の脚を急がせる。
まだ第四コーナーであるにも関わらず、彼女の脚は速度を上げようとあがいていた。
そしてそれが彼女の心臓の鼓動を必要以上に早め、肺の負担となっていることに、彼女はまだ気づかずにいた。
『第四コーナーのカーブから直線に入りました!サクラサエズリ、ラストスパートに入りました!アイネスフウジンを振り切れるかどうか!?そして三番手は前のふたりから5バ身くらい開いてます!』
そして遂に最後の直線に入った。
レースはサクラサエズリとアイネスフウジンの一騎打ちの模様を描いている。
(あとちょっと、あとちょっとでゴール・・・!)
と、必死の顔のサクラサエズリ。
息は上がりはじめ、その脚色に陰りが見え始めていた。
(あと少しで抜く!)
一方、アイネスフウジンは前だけを見ていた。
200mを過ぎ、二人の視野にゴール版が入ってくる。
(あと200mでこの苦しいのも終わり・・・)
もう既にサクラサエズリの体力は限界だった。
息も絶え絶えとなり、顎が上に上がってしまっている。
レース中盤から、自分のペース以上にアイネスフウジンにペースを上げさせられ、それが遂に顕在化し始めたのだ。
(あと200mしかない!差しきる・・・!絶対に!!!)
一方、アイネスフウジンの体力にはまだ余裕があった。
トレーナーがスピード重心のトレーニングをしなかったのは、スピードはもう十分足りているとの判断からだった。
アイネスフウジンがレースを支配するために必要と考えたのは、ライバルを振り回すことができるスタミナと根性。
そして
『アイネスフウジン差しきるか!?』
それが遂に実ろうとしていた。
(絶対に差しきるの!!!!!)
アイネスフウジンはさらに加速し
そして
『アイネスフウジン差しきった!アイネスフウジン先頭!!!サクラサエズリ二番手を懸命に粘る!』
残り150m。
遂にアイネスフウジンは先頭に躍り出た。
そしてそのまま、ゴール板を駆け抜ける。
『アイネスフウジン、ゴールイン!!!アイネスフウジン差しきりました!!!』
桃色の衣を纏った風神が、師走の寒空の中、若きウマ娘達によるマイル戦を支配した瞬間だった。
「いえーい!!!おっちゃん!!!見た見た~~~!?一着なの!!!!!」
「そうだな」
「言われた通りの作戦でうまくいったの!!!」
「そうだな」
控え室に帰ってきたフウジンは大はしゃぎでトレーナーに話しかける。
一方で、トレーナーは表情を変えず、淡々とそれに応えているのみだった。
それどころか
「なぁ、フウジン。汗が拭けてない。風邪引きかねんし、ライブがあるだろ。さっさと着替えてこい」
と言い、控え室から追い出すように、トレーナーは彼女の肩を押し、扉の外に追いやった。
(何なのおっちゃん・・・)
さすがの態度に少しむくれるフウジンである。
ため息をつき、更衣室に向かおうと歩き始めた彼女だが、
「あ」
いつも使っている化粧ポーチを控え室に忘れたことに気づき、廊下をUターンし、控え室に戻ることにした。
そして控え室のドアノブに手を掛けた瞬間
「いよっ・・・・しゃぁぁあああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
聞こえてきたのは、とんでもない声量の雄叫びだった。
あまりの事に驚き、ドアノブから手を離すアイネスフウジン。
「よしっ!!!いよっし!!!!!よっしゃぁぁぁああああああ!!!!!!!!!」
まだその歓喜の叫びは止まることを知らない。
そっと彼女がドアを開き、隙間から様子をうかがうと、見たことのない笑顔で喜びをぶちまけるトレーナーの姿があった。
(おっちゃん・・・!)
その姿を見たフウジンはそっとドアを締め、静かにゆっくりと、更衣室に向かうのだった。