1月4日。
新春の冷たい空気と、正月のとぼけたような静かな街中。
正月休みも早々に切り上げ、トレーナーは出勤し、自室で各書類に眼を通していた。
普段は若いウマ娘の声が広がる学園内も、正月休み中とあって、自然と静かである。遠くで走るパトカーのサイレン音すらよく聞こえる程度に。
そんな最中、トレーナー室のドアが開いた。
「おっちゃん?」
と、開いたドアからひょっこり顔を出したのは、彼の教え子のアイネスフウジンである。
彼もフウジンの姿を確認すると、手を軽く上げ反応する。
フウジンは何もニコニコしながらトレーナーの元に歩み寄り、
「あけましておめでとうございます」
と一言。
深々と頭を下げるフウジンに対して
「こちらこそ」
と軽く頭を下げるトレーナーである。
顔を上げたトレーナーに
「見てよ、おっちゃん!」
とアイネスフウジンが満面の笑顔で話しかけ
「お年玉が増えました!」
と、目の前にお年玉袋を広げて見せた。
朝日杯でフウジンは一着を取ったのだが、それは瞬く間に親戚や近所の人にも伝わった。
親戚から電話が掛かってくるわ、近所を歩けば『おめでとう!』の嵐。
彼女に浴びせられた祝福の意思は、こうして『お年玉』という形で、目に見える収入となって現れたのだった。
「そうか、良かったな」
と、いつもの淡々とした調子で応えるトレーナー。
そんなトレーナーも、フウジンの見えないところで大喜びしている。彼女の前で感情をあらわにしないのは、彼の大人としての意地だった。
「機嫌がいいところアレだがな、次のレースの話をしてもいいか?」
「うん!」
フウジンの様子を見て、トレーナーはソファに座るよう促す。
フウジンとトレーナーはソファに向かい合って座った。
「皐月賞を目指す」
というトレーナーに
「いいんじゃない?」
あっさり全肯定するフウジン。
皐月賞。芝2000m。若きウマ娘、三冠の一つ。『最も速いウマ娘』の称号が得られるレースである。
それに頷くと、トレーナー話し出す。
「ただ皐月賞に一直線に登録は出来ない。皐月賞に登録するにはトライアルレースの弥生賞で三着以内。それで優先登録権が得られる。だから、弥生賞で三着以内。これが目標だ。それと」
「と?」
「この二つのレースは芝2000mだ。お前は今まで本番では1600m迄しか走ったことがない」
「そうだね」
「だからこのレースに出てもらおうと思ってる」
そう言ってフウジンの前に出された出バ登録書には
『共同通信杯 芝1800m』
と書かれていた。
「1600と2000、それを埋めるためにまずは肩慣らしだ。ただこのレースで伸びる200m。この距離で苦労するようなら、弥生賞への参戦も見直そうと考えてる」
そう話すトレーナーに
「うん、わかったの・・・!」
と鋼のような意志を持ち、フウジンは応えたのだった。
2月上旬、共同通信杯が開催された。
レースの最終局面、実況が叫ぶ。
『さぁ第四コーナーを抜けて最後のストレート!さぁ、アイネスフウジン、後ろを見た!まだ後ろを見る余裕がある!まだスパートを掛けない!さぁ後続がスパートを掛けてくる!アイネスフウジン、軽く加速した!先頭は桃色の勝負服!差を広げた!差を広げた!!!決まった!勝ったのは1番アイネスフウジン!!!』
アイネスフウジンは逃げ切った。
5バ身差の圧勝だった。
「なんだこれは・・・」
あまりの事に戸惑いの声を上げるトレーナー。
多少苦戦しても勝ってくれるとは思っていたが、ここまでの圧勝になるとは予想すらしていなかった。
走り終わったアイネスフウジンが、白い歯を見せながら、ターフの中からトレーナーに手を振っていた。
嬉しい戸惑いを抱えたまま、トレーナーも手を振り返すのだった。
2月。
共同通信杯を終えて、トレーナー室にて二人はレースを回顧する。
「余裕だったな」
「そうなの」
レースを振り返って思ったのは、予想以上の手応えのなさだった。
「今日からどうするの?」
「そう、だな・・・」
少し考えるようにトレーナーは首に手を当てる。
何せ共同通信杯で課題が見つかるかと思ったら、一切見つからなかったのだ。
「・・・弥生賞は、3月に入ってすぐだ」
「うん」
「・・・とりあえず、皐月賞を目指してスピード中心のトレーニングをしよう」
「うん!」
二人はそうしてトレーニングを始める。
もう弥生賞も余裕だと思った。
また圧勝できると思った。
このときは、そう思っていた。
3月1日。夜。
「ただいまー」
「お帰りなの」
美穂寮にて。同室のウマ娘が帰ってきたのを出迎えるアイネスフウジン。
短く整えられた髪、引き締まった筋肉質の体。彼女の名はメジロライアンという。
「最近遅いね、ライアンちゃん」
「うん!弥生賞が近いからね!」
「あ、そうか、ライアンちゃんも出るんだっけ・・・」
「そうだよ、フウジン」
少し怪訝な顔をして
「フウジン、ひょっとして忘れてた?」
「そ、そんなことないの!!」
「本当に~?」
「ほ、ホントなの!!」
そうからかい合い、顔を見合わせて笑い合う二人である。
「フウジンはいいね」
「何が?」
首をかしげるフウジンに対して、
「だってもうG1取ってるじゃん」
と、困った笑顔で返すライアン。
メジロライアン。実力が十分にあるにも拘わらず、いまいち勝ちきれないウマ娘。
そしてその思いが、努力の量に結びついていることを、フウジンはひしひしと感じている。
「そんなことないの」
と困ったように返すフウジン。
そして
「明日も早いからもう寝るの」
といい、
「あ、ごめんね!」
とライアンが返す。
逃げるように布団の中に入るフウジンは、布団の中で思った。
(このままで、このままで大丈夫なのかな・・・)
と。
窓の外には、春の嵐が迫ってきていた。
3月上旬。
弥生賞が中山競バ場で開催される当日。
前日、猛烈な雨が降り、当日は晴れたにも拘わらず、バ場の発表は不良だった。
中山競バ場の控え室にて
「不良、か」
と、トレーナーは険しい顔でつぶやいた。
アイネスフウジンも、いつもと異なるトレーナーの様子を見て、容易に話しかけることが出来ずにいた。
しばらく考える様子をしたトレーナーだったが
「いいか、フウジン」
と話し出す。
「今日はバ場のいい場所を通れ」
「はい!」
「お前の脚質から言って・・・不良バ場はかなり相性が悪い」
怪我の危険性もある、と言いそうになって、彼は口から言葉が出るのを押しとどめた。
「あとは・・・いつも通りに走ってくれればいい。レースの展開さえ握れば、お前が負けることはない」
「わかったの!」
元気よく返事をするフウジン。そして
「ねぇ、おっちゃん」
「何だ?」
「大丈夫、今日も勝ってくるの」
と笑顔を見せるフウジン。
「分かってる」
とトレーナーは返す。表情の硬さが若干取れたように、フウジンには思えた。
「じゃ、行ってくるの」
「あぁ、気をつけろよ」
短いミーティングが終わり、アイネスフウジンは控え室を後にする。
一人残されたトレーナーは、椅子に座って天井を仰ぐのだった。
そして弥生賞が始まった。
『さぁスタートしました。若いウマ娘達、一斉に掛けて行きます』
一斉に飛び出すウマ娘達。不良バ場の芝から泥が勢いよく巻き上がる。
(うわ...)
いつもとは違うぬかるみに戸惑うアイネスフウジン。脚が滑りそうになるのを感じながら、視線をバ場に移した。
(外側・・・外側がまだマシそうなの・・・)
そう判断すると、内側に入らず、芝が十分に残る外側を走り始める。
『アイネスはどうだ?アイネス無理には行きません!桃色の風神が微風のように掛けていきます!』
そう、実況の言うとおり、彼女は無理をしなかった。慎重に、ライン取りを見極めながら、足下が滑りにくい場所を探り駆けてて行く。
そして
『アイネスフウジン三番手!バ場のいい所を通って第一コーナーに向かっています!』
第一コーナーに入る手前、三番手につけた。
そのままレース運びを慎重に進める彼女だが、この時点でいつもと違うことに、フウジンもトレーナーも気づいていた。
先頭に立てていない。レース運びの主導権を握れていない。
(このままじゃ、まずいぞ・・・)
とトレーナーが顔をしかめるつかの間、
『ここで!アイネス行きました!アイネスフウジン果敢に行きました!行くと言っていたアイネスフウジン、今日も行きました!!!』
アイネスフウジンが先頭に立った。そして第三コーナー手前までさしかかるが、しかし
『さて第三コーナーにかかります!アイネスフウジンのリードはそれほど大きくありません、体半分くらい!』
いつものリードを彼女は作れずにいた。
相変わらず外側のバ場を通り、内側には他のウマ娘達が続いている。
そして展開は変わらず、第四コーナーを抜け、遂に最後の直線に入った。
『さて馬場のいいところを通ってアイネスフウジン!そのインコースを通って後続が追い上げて参ります!各ウマ娘、直線の追い比べであります!』
(もうここしかない・・・!ここで、突き放す!!!)
アイネスフウジンが加速しようと、脚部に意思を集中させる。
『さぁ、アイネス頑張るか!?横に広がった!!!6人、いや7人広がった!!!』
しかし彼女が走っているのは外側だ。内側に他のウマ娘達の末脚が切れ込んでくる。
『最後の坂の追い比べ!!!200を切りましたッ!!!!!』
(負けるわけには・・・ここで負けるわけにはいかないのッ!!!)
懸命に加速するアイネスフウジン。しかし、不良バ場がねっとりと彼女の脚に絡みついてくる。
明らかにいつものスピードが出せずにいた。
(どうして・・・どうして・・・!!!)
あがくアイネスフウジン。その様子を見たトレーナーは自分の指示をひどく後悔していた。
(良バ場を選びすぎたんだ・・・外側をずっと通ってきただけ、距離も長く・・・スタミナの消耗も激しい)
そうこうしているうちに
『内を通るようにヴァイスストーン!!!ヴァイスストーン、いい脚だ!』
ヴァイスストーンが迫り、内側から肩を並べてくる刹那、後ろからとんでもないプレッシャーを感じるアイネスフウジン。
その正体はすぐに分かった。
よく知っているウマ娘。
努力と諦めないことをいつまでも辞めないウマ娘。
力強い差し足。
メジロ家の誇りを掛けた、強い強い意志に裏付けされた、その正体は
『さらにメジロライアン!!!メジロライアンもいい脚で突っ込んできた!!!』
メジロライアン。
(ライアンちゃん・・・!!!!!)
そう彼女が思ったのも一瞬だった。
メジロライアンの末脚はあっという間に後続を引き離し、そして
『メジロライアン抜けた!!!メジロライアン、ゴール前に立った!!!』
先頭に立つメジロライアン。
そして、その勢いのままに、メジロライアンは、ゴール板前を駆け抜けた。
『アイネス、沈んだッ!!!!!勝ったのは、メジロライアンですッ!!!!!アイネス!ゴール板前失速しました!!!』
アイネスフウジンは、弥生賞で四着だった。
レースが終わり、アイネスフウジンは控え室に戻ってきた。
「おっちゃん・・・」
泥だらけの勝負服。しっとりと湿りきった勝負靴。その顔にいつものアイネスフウジンの明るさはなかった。
暗くくすんだ翡翠のような瞳に、ビー玉のような大粒の涙を浮かべ
「ごめん、あたし・・・負けちゃったの・・・」
と力なくつぶやいた。
「あぁ・・・俺のせいだ・・・。俺の作戦ミスだ。指導不足だ」
トレーナーもうつむき加減にそう言い放つ。
その言葉を聞き、その場で泣き崩れるアイネスフウジン。ぼろぼろと、大粒の涙が床に降り注ぐ。
「ごめん、ごめんなさい・・・おっちゃん、ごめんなさい・・・!」
顔を両手で覆うアイネスフウジンの肩に手を置き
「すまない・・・すまない・・・!」
とトレーナーは伝えきれない思いを吐露する。
アイネスフウジンの悲壮な叫びが、部屋いっぱいに響く。
それは季節外れに訪れた嵐の残り香のようだった。