「クソッタレが!」
叫びと共に振り上げられた右足が路地裏に転がっていたボロボロの木箱を蹴り砕くと、その裏に隠れていた野良猫の親子が悲鳴を上げて逃げ去っていく。その光景を見てもなお、パッチの怒りは収まらなかった。
「どういうイカサマしやがったゴミ冒険者が!! せっかくの臨時収入だったってのによォ!!!」
怒りと共に右拳を壁に叩きつければ、その常軌を逸した筋力が逆に、貧弱な壁に拳大の穴をあけ、屋内からは驚きの悲鳴が上がる。それでも彼の苛立ちは消えない。
事の発端は、彼が数分前までいた酒場で、数人の冒険者の間で行われた賭けに大敗したことにある。この街でもポピュラーなカードを使ったそのゲームで、勝った者が他者の掛け金を総取りするという単純なものだったが…………絶対の自信と豊富な軍資金があったにもかかわらず、パッチは引き際を見誤って、今日思いがけず手に入れた収入の殆どを差し出す羽目になったのだ。
思い出すだけでも苛立たしい、賭けの参加者たちの顔が脳裏を過ると、またパッチは路地裏にあった物に八つ当たりして、怒りのままに早足に歩いてゆく。
「あンのクソ【つらぬき】が……奴さえいなきゃ俺のイカサマはうまく行ってたんだ……! それにあの喋れねえドワーフとエルフのガキ……ツキが来すぎだろうが、クソッタレめ……! クソッ!!」
そして再び、パッチは路地裏に転がる木箱に目をつけて右足を振り上げる。だが、
蹴りが放たれる事は無かった。いつの間にか、彼の背後に現れていた異様な大男―———全身に布を纏い、徹底的にその正体を秘匿したサポーターじみた男が、彼の背に声をかけたからだ。
「ずいぶんな目にあったみたいじゃアねえか」
「あァ?」
まるで同情するかのようなその言葉の響きに、パッチは苛立たしげに振り返る。だが、男の姿をその目に認めた瞬間、先ほどまでの怒りに満ちた眼差しは鳴りを潜め、彼を知るものが最も見慣れた、卑屈で、どこか媚びるような、しかし全く以て敬意を感じさせぬ目へと変じていた。
「よ、よぉ。戻ってたのか。
「その件で話があってな」
思わず一歩後ずさるパッチに、首を傾けて答える大男。その言葉は口調こそ平坦なものだったが、パッチにはすぐにわかった。逃げるべきだと。
――――だが彼がその判断を終え即座に行動に移すよりも、大男の手が彼の首根っこを掴んで背中を壁に叩きつける方がはるかに速かった。
「グハアッ!?」
叩きつけられた衝撃で肺の中の空気を押し出され、大口を開けて音を上げるパッチ。だが大男の方は飛び散り、己にかかった唾も気にすることなく。壁に押し付けたパッチを吊り上げて、首を掴む手にさらに力を籠める。
「12階層で【イシュタル・ファミリア】の奴らの待ち伏せを食らった。テメェだな?」
「げ……ぐが……な、なんの事だか……」
首を絞められたパッチの上げる苦しすぎる弁明に、男は一瞬掴んだ首を握りつぶそうとさらに力を籠め――――思いとどまったように力を緩めると、足元に広がる石畳にパッチを思いっきり叩きつけた。
「ゲホッ! ガッ、クソッ……! ゴホ、グッ……!!」
全力ではなかっただろう。大男の正体を知るパッチは、自身が殺されなかったことに内心安堵しながら苦しげに息を吐く。だが、大男がいつの間にか鉤めいて大きく湾曲した異形の剣を手にして歩み寄ってくるのに気づいて尻もちを着いたまま後ずさり、右手を上げて命乞いをした。
「待ってくれ! ノーカウント!! ノーカウントだ!!! 確かに、イシュタルの奴らにチクったのは俺だ!!! だがあいつだって別に、そんなこと気にしてなかったろう!?」
「そうだな。だから俺が
無慈悲に返答した大男は、右手に握った鉤剣をさらに強く握る。
「<終わり無き苦悩の針>。お前は、俺がこれを使っている所を見たことがあるだろう?」
「ヒイイッ! 待て! 待ってくれ! 俺が悪かった!! 確かにイシュタルの奴らと取引した!! だがまさかそんな早くお前らの所に現れるとは……!!」
「随分と上等な言い訳じゃねえか。反吐が出る」
唾棄するような視線をパッチに叩きつけながら大男はさらに一歩迫り、パッチの鼻先に鉤剣を突き付けた。パッチは顔面蒼白で震え上がる。目の前の男が敵対者に対し、どのようにその鉤剣を扱うか……そして、その鉤剣の持つ残虐極まりない力を彼は知っていた。
――――当然、大男によって鉤剣を振るわれた者が最後、如何様にして命を奪われるかも。
目頭に涙さえ浮かべ、その背を壁にぶつけて尚後ずさろうとするパッチ。それを見下ろす大男は、無慈悲無感情極まりない、あまりにも冷酷な視線でその怯え切った瞳を見据え…………唐突に、鉤剣の切っ先を下ろして肩の力を抜いた。
「…………【
「も、もちろんだ!」
「そこで産出する希少素材を僅かばかりお前が横流しするのを見逃しているのは、口止め料だってことも分かっているな?」
「ああ! ああ!! もうこんな事は二度としねえ!!! だから!!!」
「……相棒に感謝するんだな。次は無いぞ」
無慈悲な声色と視線でパッチを射抜いた大男は、最後通牒を突き付けると、踵を返して闇の中へと消えてゆく。パッチはしばらく、震えながらその背を見送ったが…………しばらくしてから立ち上がると、恐怖と痛みに震えたまま逃げるようにその場から走り去っていった。