既に日も落ちた西の
元より、ここは多くの宿や飯屋がひしめくオラリオ屈指の商業区だ。昼にはオラリオ市民たちが、夜には仕事を終えた労働者たちが。そして昼夜問わず、数多の冒険者が足を運ぶ。
その人の流れをかき分けるようにして歩みを進める大柄な影があった。短い白髪、無精髭、片目を覆う簡素な眼帯。老いたるその表情には、普段の好々爺めいた立ち振る舞いを示すかのように、口元と眼元に笑顔の形のしわが刻まれている。誰もが気にも留めぬようなありきたりな衣服とズボンを履きこなし道行く姿はまさに場末の労働者。その腹はだらしなく豊満であり、人々の間を抜けるのにも、それなりに苦労しているようであった。
そんな彼は迷いなく、ある場所に向け一直線に歩みを進めていた。名を【飛ぶ揺り籠亭】と言う。だが、彼の目的は、正確にはその店ではない。その店の近くに潜むであろう、古い知り合いに会いに来たのだ。
そして彼の予想の通り、その者はそこに居た。
「よぉ」
店の裏、路地の入口の暗がりに乞食めいて姿を潜めた者が、呼びかけられた声に応じて顔を上げる。赤衣の襤褸めいたローブを被りフードで隠された顔、その細部までは判然としないが、僅かに見える口元には老いたる男以上に深い皺が刻まれている。
「まぁたこんなところでガキ相手に伝説語りか? 精の出るこった」
「……誰かと思えば、【ファットマン】かい。髭がないせいで分からなかったよ」
「イメチェンしたのさ。悪くねえだろ?」
「そうさね、相変わらずの肥えた腹だ。痩せてから来な」
「ひでえ! ハハハ!」
大笑する老神をよそに、老婆はうんざりとした様子で溜息を吐く。そしてその面倒そうな雰囲気を醸し出したままに老神を見上げて口を開いた。
「で、何の用だい? アンタほどの神が神威を抑えて人に紛れてまでアタシに会いに来るなんて」
「神威を抑えてるのはお互い様じゃねえか。それに、お前ならわかるだろ?」
「質問に質問で返すんじゃあないよ馬鹿垂れ。さっさとおし」
「そいつは失敬」
辛辣な老婆の物言いに、老神はぴしゃりと自身の額を張った。そして、先ほどまでの人当たりの良い笑みを別人のように潜めて、その隻眼を爛々と輝かせて口を開く。
「率直に言うぜ【テュケー】。アンタの力を借りたい。具体的に言えば、俺が都市を離れなきゃいかんタイミングで、俺の家族たちを見てやって欲しい」
「断る」
拒否。一瞬もの間隙すら挟まぬその拒絶に、老人は僅かに見せた威厳あるいかめしい表情を即座に崩れさせて唖然としたように目を見開いた。
「ちょ、ちょっと待てって。流石に判断が速すぎンだろ!」
「アタシにそれを言うかい? 『運命』たる、このアタシに?」
対する【テュケー】と呼ばれた老婆は呆れ果てたかのように老神をねめつけながら言った。半ば、苛立ちに近いその視線に老人は僅かに怯んだ様に後ずさって見せるが、しかし納得できぬように首を傾げる。
「なぁすまん、不躾な願いだが……理由を聞かせちゃくれねえか?」
「『運命』が自分から何かを変えようとしちゃいけないのさ」
「あー…………」
老婆の言葉に、老神は納得いったように声を上げた。そしてばつが悪そうに片手を後頭部にやって、視線を明後日の方向に彷徨わせる。
「いや……悪かったな、そりゃそうか。眷属も作らず、表舞台にも立たず、ただ在り続ける……それが、アンタのやり方だ。俺の物言いは、無粋にも程があった」
「わかりゃあいいのさ」
殊勝ともいえる態度を示した老神に対して、老婆は冷たく、半ば傲慢とも取れる返答で鼻を鳴らした。そして老神から視線を離し、眼を閉じる。老神もそれを見て口をつぐんだ。しばらくの間、二柱の間に沈黙だけが横たわる。
「…………アタシに声をかけなきゃならんほどに、良くないのかい?」
「……まぁ、良くはねえな」
その内、身じろぎするように沈黙を破った老婆の疑問に、老人は難しい顔で答えた。そして顎に手をやって思案しながら、自らの手の内を気負う様子もなく明かしてゆく。
「【ゲリ】は逝っちまったし、【マギー】はもう前線に立てる体じゃあねえ。【
「【古き王】かい。殺しちまいな」
「そうもいかねえンだよ。
「……苦労してるね、アンタ」
「他に出来る奴が居ねえからな」
憐れむような老婆の言葉に、苦笑して老神は肩をすくめた。まるで他者は頼りにならないとでも言いたげな老神の言だが……事実、下界に在る神の殆どは己の娯楽のために心を砕いている。老神のように、何かを危惧して動くものがどれほどいようか。
――――そもそも、俺以外にこの空が見えているのかも疑問だがな。
老神はその言葉を胸中にしまい込んで、ふと夜空に、星々の満ちる暗黒天空へと隻眼を向け、憂うように目を伏せた。神々の黄昏、ひとの夜。迫りくるそれに、現れるやもしれぬそれに、ただ一柱、畏れを見せる。
懸念かもしれぬ、己の恐れが生み出した、妄想にすぎぬかもしれぬ。だが、<奴>は確かに動いている。ならば備えねばならない。全てが滅茶苦茶になどなってしまわぬように。
夜空に浮かぶ月が嘲笑するように老神を見下ろした。老神はそれを正面からはねのけるように視線を返し……ふ、と笑った。
今まで何度も、<奴>の行く道に立ち塞がってきた。【ゼウス】と【ヘラ】の栄光の影で幾度となく敗北に塗れ、それでも奴が撒いた敵意の種を、芽が出る前に摘み取ってきた。ならば、此度もそうするだけだ。今回が最悪なのは間違いない。だが、こちらの手札も最高だ。時流も味方している。ゼウスとヘラが去り頂点の高さは大きく減じたものの、それはあちらも同じ事。
……後は、地底の『あの二人』や
老神は腕を組んでまるで大樹かと見まごうほどに微動だ一つせず、思考の旅へと漕ぎ出していた。一方で、その窮まりつつあるともいえる姿を眺めていた老婆が、まるで世話が焼けるとでも言いたげな顔で溜息を吐き、誰にともなく口を開いた。
「『女神は月に魅入られ、そして獣が現れる』」
「…………おい待て、今お前何て」
「フン、独り言だよ。忘れな」
言って、老婆はそっぽを向く。だが対する老神は今しがた彼女がつぶやいた一語一句を、必死なまでに脳を働かせて記憶しようとしていた。
運命を司るものの言葉は、重い。その一つ一つに示しがある。
それをわざわざ彼女が口にした。その意図は老神にはすぐに理解できた。故に、彼は大仰なまでに、彼女へと向き直り頭を下げる。
「……悪いな」
「感謝される筋合いはないね。さっさと失せないか、この馬鹿垂れ」
「おう、ありがとうよ。またな」
老人は老婆の罵倒じみた言葉を受け踵を返して大通りの人込みへと紛れていった。老婆はその姿を見送ると、懐から手巻煙草を取り出してその先端に火をつける。
そして一吸いした煙草を離して煙を吐けば、その紫煙は月にかかり、その輝きを遮るように空に