「あっ」
一陣の風が吹くと、それは彼女の手にあった地図を奪い去り、空の彼方へと運んで行った。
「あーあー……」
それを見送って彼女はあんぐりと口を開けて呆けたように呻いた。視線の先で空舞う地図は、すぐに眼下の雲海へと沈み、永久に失われる。目深にかぶった外套、そして身に着けた白磁の仮面によって、口元以外の表情は判然としない。しかし、大きく肩を落としてうつむき首を横に振ると、フードの縁から燃えるような赤い髪がこぼれ、峰を吹き抜ける風に吹かれて炎のようにゆらゆらと揺れた。
「……苦労したんだけどなぁ、地図。帰り道、どうしようかなぁ……」
落胆した声色で、彼女はつぶやく。そのまま数歩、ところどころ岩の飛び出た道を歩き、地図の消えていった光景を覗き込むように身をかがめた。何かに抉られたように崖となった斜面からは、ひたすらに広大な雲が揺蕩う様が見えるばかり。その様を彼女は残念そうに見つめている。
一方で、しばし先を歩む同様の外套を纏った長身の男は一度立ち止まるが、振り向き彼女の間抜け面を一瞥すると、即座に興味を失って再び歩き出した。
「あっ! ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 地図飛んでっちゃったんですけど! どうするんですか!?」
彼との距離が開いたことに気づいて必死に訴える彼女に、男が返事をする事は無かった。まるで聞こえていないかのように、不安定な足元を苦にすることもなく足早に進んでいく。
「返事ぐらいしてくださいよ! ああ地図……あー! ちょっ、待っ、待ってくださいって!!」
愛想どころか関心すらないようにも思える男の背に懇願しつつ、地図と彼に置いて行かれることを天秤にかけた彼女は、苦悶しながらもこの場に置いて行かれることを嫌がって小走りに男の元へと駆け寄った。背負った布に封じられた長物が揺れると彼女もいっしょに揺れて躓きそうになるも、どうにか男の横まで走り寄って、前だけを見据え歩き続ける男を見上げて睨みつけながら口を開く。
「あの、今回は合同での任務なんですよ!? <私たちの神>にだって言われたじゃあないですか、協力しろって! それとも何ですか気に入りませんか!? 確かに
噛みつくように彼女がまくし立てているとまた強く風が吹き、飛ばされてきた細かな礫が彼女の怒りを遮った。彼女はさらに強まるばかりの風に眉間に皺を寄せ、手を顔の前に掲げて咄嗟に風よけにしつつ毒づく。
「ああもうさっきからなんなんですかこの風はタイミングの悪い……!」
苛立ちをなお強くさせた彼女は、さらに強くなり続ける風を受けてさらに呻きを上げた。もはや立っているのが精いっぱいだ。同様に、隣の男も歩くのを止め強まり続ける風に目を細める。風がそのフードをはぎ取れば、露わになったのは幽鬼の如くくたびれ切った風貌。
やせこけた頬に無精髭、乱雑に伸び切った黒い髪。襤褸を纏えば、市中の裏路地に蹲る浮浪者そのものと認識するより無い姿。しかしその中で暗く深い黒を湛えた双眸だけは、浮浪者にはない確固たる意志を宿している。
風がますますその威力を上げた。彼女は両眼を閉じ、もはや喋る余裕もない。対する男は睨みつけるように、さらに目を細めた。そこで、風が止む。
彼女は今の突風に随分と堪えがたかったようで、服に引っかかった赤髪をほどきつつ口の中に紛れ込んだ砂粒を唾と共に吐き出した。そして怒りに満ちて、流れる雲を睨みつけようと顔を上げた。
空に、雲が渦を巻いていた。
「えっ……ちょっ、うわ。やばくないですかこの天気……」
仮面の下で眼を見開いて彼女は冷や汗を流した。それは、目の前の異様な天候に。そしてもう一つ。迫ってくるのが分かったからだ。凄まじい強者の気配が。
廻り回る白雲の中心に黒い点のような、異物の影が現れた。最初は小さかったそれは、一瞬のうちに大きくなる。迫ってくる。それと共に打ち付けるような圧を感じる。それは風であり、迫る者の存在格の強さでもあった。
吹きすさぶ風ばかりを捉える聴覚に、羽ばたきの音が聞こえた。風の中でも、確かに届くのはその力故か。しかし次の瞬間、咆哮がそんな思考と耳を傷めそうなほどの風の音を一息に吹き飛ばす。
竜だ。
20
紺碧の空をさらに圧し詰めたかのような、深すぎる蒼の体。一瞬鳥かと見まごう羽の生えた翼と尾羽、そして嘴を持ち、冠のようにネジくれた角を戴くその竜は、再びの咆哮と共に二人の前に降り立った。
着地と共に砂が舞い上がる。それはまるで、不届き者である二人を打ち据えるかのように空を舞い叩きつけられた。その痛み、苦悶と共に彼女は理解した。眼前の竜こそが、この嵐じみた風を起こしていた張本人だと。
「んッ……相性が悪い……!」
嘆くように呻きながら、彼女は腰に佩いた長剣に手をかけようとした。特別な装飾のない、しかし彼女のためだけに誂えられた一振りだ。地上にはびこるモンスター程度であれば容易く両断できるそれも、目の前の竜が相手となると心もとない。
――――これを使うか?
剣に添えようとした手を止めると、彼女は姿勢を落とし、背に負った大得物に手を伸ばそうとした。それに、彼女の前に遮られるように持ち上げられた男の手が待ったをかける。
彼女は訝しむように、男に視線を向けた。男は瞬き一つせず、竜を見つめている。
否。嵐の竜の背を踏んだ、黄金の人影を見つめていた。
身長は3M以上あろうか。逆立った灰髪を後ろへと流し、黄金で出来た冠と腕輪足輪と言ったいくつかの装飾品を身に着けている。巨大な体格に纏うは存在格に見合わぬ襤褸めいた布と、余りにつり合った竜鱗の鎧。見る者が見れば驚愕に目を見開くであろう量の竜麟で形作られたそれは途方もない防御能力を誇るだろう。だが、何よりも目を引くのはその手にした、巨大な得物。
一見槍のようでありながら巨大な刃を持つその武器は剣と槍の機能を併せ持つ、文字通り<剣槍>と呼ばれるもの。黄金の輝きと雷光を纏うそれは、もはや世界にどれほど並ぶものがあろうかとも思えるほどの至高の逸品であることは素人目にすら明らか。そして、それ以上にわかった事があった。
強い。嵐を操る竜よりも、さらに。
隣に立つ男も、自身も、常軌を逸した実力者であると彼女は経験から理解していた。仮に二人で力を合わせれば、どれほどの敵も仕留められるという自信が彼女にあった。それが陰った。
嵐を支配する、紛れもなく最上位のそれであろう竜種。その背を踏むことを許された、太陽の如き存在格を持つ男。
単独同士であれば抗えもしよう。後先考えなければ、その喉元に刃を突き付けることも出来るやもしれぬ。だが、この一人と一体を相手にしてしまえば、心を通じ合わせていない自身ら二人では勝てない。それがはっきりと理解できた。
だが、先ほどまで異様な天候に恐れを抱いていたのとは別人であるかのように彼女は笑った。そうでなくては。目の前の竜と男を見据えてさらに笑みを深める。そのために来たのだ。竜たちに支配された頂に立つ、名も無き男に会うために。竜の領域たるこの霊峰に君臨する者を、己の力で以って試すために!
「上等!!」
叫び、獰猛に笑いながら彼女は背の得物に手を伸ばした。布がほどけ、露わになった長物の柄を力強く握りしめ――――
――――その時すでに、竜の背の男は剣槍を持った右手を高く掲げていた。
次瞬閃光が輝いて、轟音が霊峰に轟いた。彼女に向けて、渦巻いた嵐の黒雲より巨大な雷が放たれたのだ。
空気を焼き殺して閃く雷はまさに竜のよう。その顎に捉われれば命は無い。だが、光めいた速度であるはずの雷が、彼女には止まって見えた。
しかしそれは彼女が雷を凌駕したのではない。死を目前としたことで窮まった集中によって、世界が止まったようになるほどにその感覚が研ぎ澄まされただけだ。故に、彼女自身は身動き一つすることが出来なかった。
そもそもとして雷を見てから避けることが出来る者など、この世にどれほどいようか。少なくとも、彼女はその例に漏れなかった。
――――隣にいた男は、その例に漏れる<
雷よりもなお早く動いた男は彼女を抱え込むとそのまま躊躇なく崖から飛び出した。その背を照らすように、降り注いだ雷が凄まじい破壊を齎すのが見える。瞬間、止まった時間から解き放たれた彼女は思わず男の名を口にした。
「エグ――――」
その声は膨大な白い海に飲み込まれる。雲海の白雲の中、影すら映らぬそこへ飛び込んだことで彼女たちは竜と竜駆りの前から姿を消した。
竜の背に乗った男は、そのまま高みから彼女たちが消え去った方をしばらく見ていたが、竜がどこか不満げに声を上げるとその背に屈みこんで鱗を優しく撫でる。すると機嫌を直したように竜は高らかに声を上げて大きく羽ばたき、空へと躍り出した。
そして、男を背に乗せた嵐の竜は霊峰の上空を獲物を探す猛禽の様に優雅に旋回して、しばらくして気が済んだのか、己の領域へと向け、嵐と雷鳴を従えて飛び去って行った。