結局、女学院にしばらく住み込みさせてもらい勉強をすることとなった。雛里の、こちらの様子を伺う上目遣いが大変良かったから、という理由だけではない。雛里が落ち着く時間もあった方がいいし、オレも最近夢見もよくない。そして知識は何事においても大事なのだ。そんなことなど色々合わさって、ここ二か月現在進行形で女学院で勉強中なのである。
司馬さん……いや、水鏡さんはとても博識な人で、色んなことを教えてくれている。水鏡先生と呼ぶのはあの夢の所為かどうしても嫌な感じがして、その微妙な気持ちに気付いてくれたのだろう水鏡さんは好きに呼んでくれて大丈夫だと言ってくれた。
水鏡さん、と心の中では呼んでいるが、雛里にメって怒られた結果、声に出だす場合は水鏡師傅と呼ぶことにしている。雛里もつられてたまに水鏡師傅って呼ぶこともあるけど、雛里の口からは先生という言葉で聞きたい。しぇんしぇって舌ったらずで呼んでるのはとってもかわいらしい。かわいいは正義。
母さんも色々と教えてくれていたが、噛み砕いて教えてくれているせいかとても分かりやすい。昔教養だっつって、笛やら琴やら二胡やら、どこにその楽器仕舞ってたんだ? ってぐらいの数多い楽器の演奏技術を習っていたが、ここでは教えてもらっていない。覚えたいなら教えてくれるらしいけど、オレそういう才能なさそうだから遠慮しておいた。
ちなみに雛里は笙に興味があったみたいだが、一尺程の大きさと管の数が十九程あり結構難しそうなので、やるならば時間をゆっくりかけて覚える時間を取らないといけない、ということもあって今は塤を教えてもらっている。
黄土色よりもやや白っぽい卵型のそれを大事に抱え込むように、小さな指を一生懸命伸ばして穴を押さえ吹く姿は、オレの心をものすごーく癒してくれた。にまにまとした様子で雛里を見ていた為か、以後教えてもらう時には同席させてくれなくなったのが大変残念である。
今は水鏡さんと雛里とオレだけだけど、どうやら新しく生徒が来るらしい。女学院っていうだけあって、女の子が来るそうだ。雛里と同じ年ぐらいの女の子だそうで、大変楽しみだったりする。雛里は人見知りが激しい方だから、仲良くできるか不安だと漏らしていたけど、水鏡さんが言うように自然体でいれば問題ないとオレも思っている。無理して繕ったとしても一緒に住むんだからすぐに疲れちゃうよ。
「あ、水鏡師傅! 今ちょっと良いですか?」
「あら、何かしら李姓ちゃん」
廊下の先を歩いていた水鏡さんに気付き声をかけた。そう、水鏡さんってオレらのことを親しさを込めてちゃん付けで呼ぶようになったのだ。怒られたり大事な時は呼び捨てで呼ばれたりさん付けで呼ばれたりするので、今のところ機嫌は普通っぽいな。
隣を一緒に歩いていた雛里は巻物を2つ大事そうに抱えて、水鏡さんと同じように足を止めて振り向いた。不思議そうな表情でこちらを見る二人は、顔も髪の色も違うがどこか親子のようにも見える。
「そろそろ一度、母さんのところに顔を出そうと思って」
「っ!!」
「あら、何かあったのかしら」
伸ばし伸ばしにしていた、母親に報告しに行こうと思っている件を水鏡さんに伝えると、雛里が目を見開き息をのんだ。なんでそんなに驚いてるんだ? 旅に出るわけじゃなくって、ちゃんと戻ってくるつもりなんだけどなぁ。
水鏡先生は瞬きをゆっくりしてから、先ほどと同じような不思議そうな表情のまま小首を傾げた。傾げたためか、髪に刺さった簪の飾りがしゃなりと音を立てる。仕草一つとっても大変色っぽい。
「いや、特にってことはないんですけど。ただ、元々一度顔を出す予定ではあったんで、そろそろいい加減に顔だけは出しておこうかなって。もう夏も盛りですし。あっ! 勿論、戻ってくるつもりですよ! だから安心していいよ、雛里」
「あ、あわわっ!?」
「あらあら、よかったわね雛里ちゃん」
水鏡さんが袖口を口元に寄せてくすくすと笑っている。その横であわあわと慌てふためく雛里もとても可愛らしい。いやー、いいものが見れたなという、心の中でほっこりしていると、こちらへ視線をまっすぐに向けた水鏡さんの姿に違和感を感じた。
「そうね、話を詰めるためにもここではなく別のお部屋でお話ししましょうか。雛里ちゃん、申し訳ないけれど、抱えているものを第二教室へ置いてくださいな。それと庭先にある畑にいくつか収穫できるお野菜があるの。そちらも取ってきてくださる?」
「ぇ……。あ、はいっ! わかりましゅたっ! あ、あわ……わかりました」
水鏡さんの声はとても優しい声だった。雛里は愕然と水鏡さんへ視線を向けたが、ハッとした様子で頷き、いつものように噛んだ。照れたように言い直した後、こちらへと視線を向けてきたがその瞳は不安で揺れていて、オレは安心させるように微笑む。
ひと月ぐらい前に、女学院で過ごしている時に、母さんの元へ報告に行くときは一人で行くつもりだと言ったことがある。その時の雛里の瞳も不安に揺れていた。
雛里がここで過ごす時間をとても気に入っているという事に、一週間もかからずに理解できた。スポンジが水を吸うように、貪欲に知識を吸収していく。駒を使って盤上で戦略や戦術を練る雛里は、本当に楽しそうで邪魔をしたくなかった。あれは? これは? なんで? と、水鏡さんに質問を投げかけてはああでもないこうでもないと悩み、駒を進めては戻して考察を繰り返す。象棋とか全然雛里には勝てやしないし、意見を聞かれても上手く返せたこともない。そんなオレ相手でも楽しそうに、そして真面目に知識を吸収していくのだ。
だからこそ。だからこそ、オレは一人で母さんの元に顔を出そうと思った。オレを気にせず一人で存分に好きなことに打ち込む時間があってもいいんじゃないかと、そう思った。長い時間じゃない、予定では一週間も満たない時間だ。それならば、悲しませることもないだろうし、寂しさをすごく感じさせることもないはずだ。
「大丈夫だって、雛里。前にも言ったけど十日以内には戻ってくるつもりだし」
「り、李姓さん……はい、その、あの……」
予定日数を伝えて、安心させるように微笑むと、雛里はくしゃっと顔をしかめさせ、潤んだ目でこちらを見て名前を呼び、何かを言いかけて口を噤んだ。
「雛里?」
「なっ、なんでもありましぇんっ!」
「え? 雛里?」
「あ、あわわっ! 置いてきましゅっ!」
「ちょっ、雛里ー!?」
「あらあら」
脱兎のごとくこの場から立ち去り奥の曲がり角へと吸い込まれていった雛里の背中を見送り、困惑した表情を隠しもせず水鏡さんへと視線を向ける。水鏡さんは困った様子で雛里を見送った後、わずかに苦笑を滲ませながら
一体雛里はどうしたんだ? 内心首を傾げながら先を進む水鏡さんの背を追い足を進める。途中厨房に寄り、お茶を汲んで茶菓子を出してもらい、それをオレが抱えて予定していた別室へと向かった。
「それで、里帰りだったかしら」
「え? あ、違うこともないのか。えっと、母さん……鳳尚長はもともと峴山に住んでたんですけど、今は魚梁洲にいるそうなんで探して会いに行こうかと。雛里のお母さんってオレの母さんのお姉さんらしくって、その、亡くなったことも併せて報告しようかなって思ってるんです。まあ、母さん何故かいろんなこと知ってるし、もうすでに知ってるかもしれないけど。雛里を家に送れって言われてたこともあったし、これからのことも含めて早いうちに話しておきたいな、と」
「なるほど……よきかなよきかな、よ。報告、連絡、相談は大事なことです。それをきちんとこなそうとしたこと、本当に偉いわ。流石よ、李姓ちゃん。
この部屋は他の部屋と少し変わっており、靴を脱いで部屋へと入るつくりになっている。書簡の山と併せて本が至る所に積み上げられ、圧迫感に手狭だと感じるだろう。小さな卓の前に向かい合って座っており、水鏡さんはオレが持ってきた湯呑に品よくお茶を注いでくれる。山頂付近に建物があるためか、はたまた窓を全開に開けて風通しを良くしているためか、うだるような暑さまではなっていない室内でも湯気がほのかに立ち上っていた。
自分の前に置かれた湯呑に頭を寄せて、熱くて持ち辛い湯呑を指先で押さえつつ傾ける。
「李姓さん」
「っ!! すいません!」
名を呼ばれ、慌てて頭を上げる。舌先が少しヒリヒリするが、我慢の子だ。姿勢を正してから口の中に溜まった唾液を飲み込む。ちらりと水鏡さんを見るとにっこりと微笑んでおり、思わず視線をそらしてしまった。
「熱いからお気をつけなさいな。それはともかく先ほどの続きですけど、本来なら無条件で背中を押すところですが、今回はいろいろと問題があるわ」
「問題……ですか?」
「そう、問題があるの。……そうね、どこから話ましょうか」
水鏡さんはそう言って湯呑を器用に持ちお茶を上品に啜る。よくわからない緊張感がオレを包み、正座していた足先を組み替え居住まいを正した。
「一番大きな問題から話をしましょうか。……鳳尚長は亡くなった可能性が高い」
室内に、水鏡さんの声が響く。今まで聞こえていた蝉の鳴く声が、世界から消えてなくなった。じんわりと全身に汗をかいていたが、血の気が引いたのか今はとても寒い。汗で濡れた服が肌にくっつき、それがとても冷たく感じた。母さんが亡くなった? そんな、まさか。
「……、え?」
「二か月ほど前、この辺りでは大規模な盗賊退治が行われたのはご存知かしら」
「は、はい。それで、雛里のお母さんが……」
「そう。沢山の豪族名士が駆り出され、そして残念ながら帰ってきた人は少なかった」
「で、でも母さんは盗賊退治に出かけたわけじゃ」
涼しそうな顔で言葉を紡ぐ水鏡さんが、なぜか遠く感じる。事実を淡々と語る姿は心の奥でよくわからない濁った感情を増幅させた。いや、待て。可能性が高いだけだ。
「そうね。……李姓さん、貴方にとって鳳尚長といえばどんな人かしら」
せり上がってくる不安や恐怖心を抑えつけ、滲むように広がる不審を否定しながら返事すると、静かに肯定した水鏡さんが不意に投げてきた質問に瞬きを繰り返す。母さんといえば?
「え? え、えっと……子供っぽくて、すぐ拗ねたりオレを困らせたり、からかったり。勉強も理由を聞いてもどっか曖昧で、でもわかるまで付き合ってくれる。ごっ、護身術もお前は弱っちいからって言っていつもボッコボコにされるけど、最後には頑張ったなって褒めてくれる……賢くて、強い。度量のある、母さん……です」
「尊敬しているのね」
部屋に優しく響く声が満ちた。水鏡さんは目を細め優し気を湛えた眼差しをオレに向けている。オレは眉をぎゅっと寄せどうにか口端を持ち上げると、はい、と頷きを返した。
「先ほども言った通り、亡くなった可能性が高いわ。でも、亡くなったと断定はできない。……彼女は実はここいらでは少し有名なの。知っていたかしら?」
「えっ、いや! 全然知りませんでした」
母さんが有名? そういえば襄陽から人が何人も会いに来ていた。素気無く帰してたからあまり気にも留めたことないけど。それになんかそいつら偉そうで、怒鳴ったり文句を言ってきたりされたこともある。
「ふふっ、あの人らしいわ。とにかく、彼女は少しばかり有名なためか、巻き込まれてしまったみたいなの。
「っ! それじゃ」
「可能性が高いという理由はね、この情報が二か月前に掴んだ情報だからよ。それ以降の情報を掴めていないから、事実なら生存は怪しくなる」
「それは」
「
目を細め、うっそりと笑った水鏡さんに、無意識に腰が引けた。蛇に睨まれた蛙はこういう気分を味わっているんじゃないだろうか。どうにか辛うじて首を振ると、水鏡さんは困ったような苦笑を見せ、ごめんなさいねと謝った。
「これでも必死で情報を集めてるのよ」
「水鏡師傅……」
「
水鏡さんは目を閉じて、まるで母さんを思い出すかのように言葉を紡ぐ。ゆっくりとした言葉はどこか震えが混じっており、悲しみの色を湛えていた。
「李姓さん、だからね。貴方は覚悟もしなければならないわ。希望は捨てなくてもいい。でも、最悪も考えなさい。貴方が、あの人の娘ならば。
閉じていた瞼を持ち上げまっすぐにこちらを見つめる眼差しは、凛とした表情でいて優しさを湛えている。まるで迷ったときに背を押してくれる母さんのように。
「水鏡師傅」
「何かしら」
「母さんに、大事な人が居ることは知ってますか?」
「ええ、知っているわ」
「その人は。……その人も、亡くなったんですか?」
「そうね、その可能性が高いわ」
「……、わかりました」
母さんも、母さんの大事な人も。戦に巻き込まれ亡くなった可能性が高い。オレは、どうするべきなのか。オレは、これから……。
「も、……」
「?」
「もしかしたら」
「ええ」
「家に、戻ってるかもしれない、から」
「李姓さん」
「わ、わかってます! 事実を。事実を飲み込むためにも。オレは、一度。……一人で、峴山の家に戻りたい、です」
「居ない可能性が高いわよ」
「わかってます!! でも、オレは……帰りたい」
水鏡さんの諭すような言葉に、荒々しく声で切り返す。八つ当たりだとわかっているけど、理性を振り切り声を荒げてしまい、取り繕うように、希望を紡いだ。出てきた声はとても弱弱しく、情けなかった。
「わかりました。……今日はゆっくりと休んだ方がいいわ」
「だいじょうぶ、です。オレ、明日には、行こうと……思います」
「一人で行くのかしら」
「はい。一人で、行きます」
「……ちゃんと、戻ってくるのよ」
「……はい。雛里を、残しておけませんから」
お茶、ご馳走様です。とも付け加え、どうにかこうにか机の上に両手をついて立ち上がる。ふらふらと廊下へと続く扉へと向かい、脱いだ靴を履いた。すると水鏡さんから名前を呼ばれ、壁に手をついて振り返る。
「
いってらっしゃい。そうこちらを真っすぐに見つめる水鏡さんに、オレは唇を噛みしめると深く頭を下げた。
部屋に戻ったオレは、布団に頭を突っ込んで声を殺して泣いた。母さんとの思い出が一つ一つ思い浮かび、そのたびに涙が溢れて止まらなかった。
何時間泣き続けたのだろうか、よく覚えていない。鼻が重く息がし辛くて這うように室内を横切り、ちり紙を見つけて思い切り鼻をかんだ。どんだけ出るんだというほど何度も鼻をかみ、涙を手の甲で拭ってまた鼻をかむ。瞼が重いしまだ息もし辛いが、明日の準備をしなければならない。
窓の外を見ると真っ暗になっており、大分類時間がたったことがわかる。しまった、雛里はもしかして部屋を覗きに来たのだろうか。……雛里には伝えるべきなのか。ん? 雛里は知らないのか?
重い身体を持ち上げて、廊下へと続く扉へと向かう。静かに扉を開けて外の様子を伺うも虫が鳴く音ぐらいしか聞こえない。するりと扉を潜り抜けて彷徨うように廊下を歩けば、少し先の空き部屋から光が漏れていた。
コンコンコン。扉をノックして少しだけ開ける。ちらりと中を覗けば雛里がこちらへと向かってくる様子が見えた。
「……李姓さん」
「ひなり、ごめん」
「あっ、謝らないでくだしゃいっ! あわ、あの、謝らないで、ください」
「でも」
「とっ! とにかくこっちにっ」
扉をがばりと開けた雛里はオレの袖口を引っ張って、部屋の中へと引きずり込む。反動でオレはたたらを踏みながらも室内へと踏み込むと、バタンと扉が閉められた。
「……」
「……」
沈黙が部屋を占めた。いや、雛里はあわあわしてそわそわしているから、完全な沈黙ではないだろう。オレは荒んでいた心を少しだけ落ち着け、近くの椅子に座った。その様子を雛里が視線だけで追っかけていたのにも気づいている。オレは雛里に視線を合わせ名を呼んだ。
少し逡巡し、意を決した表情でこちらへトコトコ歩いてくる雛里を見つめながら鼻を啜る。まだ鼻が全体的に重く、ジーンとしていて息をするのがしんどかった。
「ひなり」
「ひゃいっ」
真正面は机があるから、隣に立った雛里に向き直り少し見上げる。名を呼ぶと声が少しひっくり返って、恥ずかしそうに視線をうろうろとさせた雛里にまた心が癒された。
「あたま、なでて」
「ふぇ?」
「いいから、はやく」
急かすと雛里はぎこちない様子でそっとオレの頭に手を置いた。サラサラと優しく指先で撫でられる。てっぺんあたりから後頭部にかけて優しく何度も撫でられ、オレは瞼を下ろした。
室内には虫の鳴く音と髪をなでる音だけが響いている。じわじわと込み上げてくるものがあり、枯れる程泣きつくしたはずの涙が、眦からぽろりと零れた。
「李姓さん」
「なに?」
「明日、あわ……もう、今日だね。お家に、一度帰るって……聞いたよ」
「うん」
「わ、私も」
「ひなり」
「っ! あわわ……ダメ、だよね」
「うん、ごめん」
きっぱりと断り謝ると不意に頭へ推力を感じ、顔全体に柔らかく暖かい感触が伝わった。瞼を持ち上げてみると目の前の一帯が白い。どうやら雛里に頭を抱え込まれているようだ。
「ひなり」
「絶対に」
「うん?」
「絶対に、すぐに、帰ってきてくだしゃい」
ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。少し息苦しくなるが、雛里の言葉に心が温かく感じる。すぐに返事をしなかったためか、雛里は少し慌てた様子で言いなおした。
「あわ、帰ってきて」
「うん」
「すぐに、だよ」
「……すこしだけ、まちたい」
見るだけじゃきっと我慢が出来ない。母さんが戻ってくるのを待ちたくなるだろうっていうのは今からでもわかる。雛里に嘘をつきたくはないから、素直に希望を口にする。
「じゃあ、五日以内」
「もうちょっと」
「三日にするね」
「ごめんなさい」
もう少しの我儘を、と思ったら逆に期間を短くされて素直に謝った。頭の上でくすくすと笑う声が聞こえ、ぎゅっともう一度強く抱きしめられた後解放される。見上げると少し困ったような表情で笑みを湛えて小首を傾げる雛里に、もう一度ごめんと謝った。最初に考えていた理由と違うけれど、オレは一人であの小屋に向かいたい。
雛里はにこっと笑ってオレの頭を撫でると、名残惜しそうにその手をオレの頭から離した。離れた手を視線で追いながら、先ほど零れた涙の残滓を中指で拭う。そんなオレを気遣わしげに見ていた雛里だが、ハッとした表情をしてからもじもじとこちらの様子を伺い始めた。
「あわわ……李姓さん、ご飯……食べる?」
「たべる」
少し俯きがちに上目遣いで尋ねられ、間髪入れずに返事をする。花も綻ぶような笑みを見せてわかったと言う雛里に、オレもつられるように笑みが浮かんだ。
どことなくソワソワしている雛里の後へと続きながら、厨房へと向かう。扉を開け中に入ると椅子に座っててと促されたため、おとなしく席に着いた。雛里の鼻歌が微かに聞こえ、先ほどと打って変わってご機嫌な様子に首を傾げる。何か美味しいものでもあるのだろうか。
雛里の可愛らしい鼻歌と虫のコーラスをBGMに、家のことを考える。明るい歌声は暗くなりがちな思考を上向きに修正してくれるのか、ちゃんと五日で帰って来ようと思うことができた。
ご飯は襄陽で買っていけばいいか。まだ路銀は少し残っていたはずだ。襄陽での聞き込みをするつもりはあまりないから、移動距離は往復で三日を見てればいいだろう。二日は待てる。もし、二日の間に母さんが戻ってこなくても、置手紙を置いてたまに見に行くこともできるだろう。なんなら母さんを探しに旅に出てもいい。本当は、今にでも探しに行きたいが、そうなると雛里もついてくるって言うだろう。
それはダメだ。あんなにも学ぶことが楽気な雛里を、連れ出すことはしたくない。今度こそ幸せになってほしいのだ。あんなことはあってはならない。
ここを拠点にたまに山を下りて探す、ぐらいなら雛里を置いていっても大丈夫なような気がする。それにもうすぐ他に女生徒がくるだろうから、その子と一緒に勉強すればそれほど寂しくも思わないだろう。できればオレみたいなタイプじゃなく、雛里みたいなタイプの子がくればいい。ライバル的なそんな感じで切磋琢磨できる、そんな子。
香ばしい匂いが漂ってきた。食欲を刺激される、いい匂いだ。正直なことを言えばそれほど腹が減っているわけではない。でも、やることが見えてきた今なら、素直に食事を楽しめるだろう。瞼はまだ腫れているが、鼻の重さは大分薄れてきた。にこやかな笑顔でお盆を持ち、こちらへと向かってくる雛里に口端を少し持ち上げる。
「李姓さん、お待たせしましたっ」
「ありがとう、雛里」
少し焦げた腩炙に、不揃いの野菜と卵が浮かぶ蛋花湯、乱雑に切られた葱と山椒が目に付く鱠。並べられた料理がいつもと違う出来栄えに雛里の目を見つめると、雛里は照れた様子で俯いた。
「あわわ……、一人で作ってみました。……どう、かな?」
「雛里が?」
「うん……。一度も、通して一人で作ったことないから、その、美味しくないかもしゅれないけど……、しれないけど。えっと、食べてくだしゃいっ」
雛里はお盆で顔を隠すようにしながらそう言うと、お盆の端から目だけを出してこちらの様子を伺っている。オレは箸を手に取ると手を合わせていただきますと言って、まずは蛋花湯へと手を伸ばした。
毛湯の味がしっかり出ており、卵と野菜の味の親和性も高い。若干の臭みがあるが、初めてにしては上出来だ。膾はどうだろうか。魚醤をかけて一口いただくと、山椒が前へ前へと主張しているが全然美味しい。ご飯を間に挟み、腩炙へと手をかける。かぶりつくと肉汁が口の中へと広がった。あぶり焼き豚とか、ホント旨い。豆板醤がいい仕事していてご飯がすすむ。残念なところを上げるなら、焦げ目がつきすぎて、黒くなってるところが苦い。それ以外は本当に旨い。
無言でバクバクと食べ進め、すべての皿を空っぽにすると両手を合わせてご馳走様をする。雛里はおろおろを通り越し、ハラハラしてオレの様子を固唾をのんで見守っていた。視線を雛里へと向けるとビクッと大きく肩を揺らしたが、オレは気にすることなく満面の笑顔でうまかったと伝える。
「美味しかった。雛里、ありがとう」
「っ!! よ、よかったでしゅっ! です!! 本当に、よかったよぉ……。あわ、ほ、本当に美味しかった……?」
「うん、本当に旨かった」
「! ……えへへっ」
安心したような、嬉しそうな笑顔を見せる雛里に心がポカポカする。やっぱこうやって人に作ってもらえるご飯は、本当に嬉しいし、美味しい。
「あの、私っ」
「うん?」
ほっこりしていると、雛里は真剣な様子でこちらを見て言葉を紡ぐ。なんだなんだと思いながら雛里へと視線を向けると、顔を朱に染めた雛里がお盆の影から続きを口にした。
「お、美味しい料理を作って、待ってましゅっ……待ってる、から!」
「……」
「だから、えっと……。はやく、帰ってきて、ね?」
もじもじとした様子が大変に可愛らしく、言葉で返せず無言で何度も頷いた。