2021/7/7 誤字訂正
2021/7/8 文章の修正
2021/7/8 誤字修正
ひどく静かな夜のトレセン学園の練習場、そこにムーングッドナイトはいた。学生もトレーナーも既に去っている練習場に少しばかりいつもと違う服を着て、何をするでもなくただ一人ポツンと、誰かを待つように車椅子に座り空を見上げていた。映るのは雲ひとつない一面の暗黒と満月。優しく、そして怪しく輝く満月はどこか普段よりも大きいように見える。
夜の静寂を一人分の足音が破る。威風堂々とした佇まいに、三日月のような白い前髪が特徴的な今や皇帝と讃えられるウマ娘、シンボリルドルフだった。
「貴女なら…きっとここにいると思いました」
「ああ、ルドルフ…遅かったじゃないか…」
「生徒会としての業務にトレーニング、他にも色々忙しかったのです」
「そうか…そうだったな…」
目深に帽子をかぶり、月を見上げるグッドナイトの表情は、横からなのも手伝ってシンボリルドルフは読み取ることはできなかった。口元を見る限りではいたずらっ子のように口角を上げていることが確認できるので恐らくは笑っているのだろうが、彼女が放つ雰囲気は嬉しさの中に悲しさと、そして闘志のようなものが感じられた。
「菊花賞、君が歴史に名を刻んだあのレース…実に素晴らしく、そして貴いものだった」
「…」
「故障を起こし引退した日から、醜く歪んで夜の闇に囚われていた私の人生だったが…あの日見たのだ、夜道を優しく照らす月の光を、確かに」
「つまり…」
「私はまた、夢を見ることができた…君のおかげだ、ありがとうルドルフよ」
車椅子を器用に操り向き直ったグッドナイトは優しい笑顔を浮かべていた。月に照らされた彼女は白い肌であることも手伝ってひどく儚げに見え、なぜかルドルフにはそれが漠然と良くないもののように感じたが、気のせいだと結論づけそれを飲み込んだ。
「こちらこそお礼を、これからも同心協力していきましょう」
「ああ、それなんだがね」
少し悲しげな表情と、切り出し方からルドルフは先ほどの嫌な予感が鎌首をもたげるのを感じた。
「医者が言うには、余命1年も無いだそうだ」
「それは…」
「薬を飲んだり色々したのだがね、近々入院することになったよ」
ーこれからレースを見に行こうと思っていた娘もいたのだがね。
と力なく彼女は笑った。その様子から、こうなることをどこか予見していたのだろう。しかし神様と言うのはいつも残酷なものだ、せっかく立ち直った彼女に再度辛い現実を突きつけている。
「『好きなように生き、好きなように死ぬ』。誰だったか…火が異常なほど好きなウマ娘か、無口な片腕が義手のウマ娘か、それとも太ったコウノトリのエンブレムがついた帽子のトレーナーか、誰が言い出したか忘れてしまったが、それが私たちのやり方だった」
だが、今宵は違った。
「ルドルフよ、頼みがある」
彼女の瞳は辛い現実を前に今度こそ折れなかった。
「三冠を達成した君と老いぼれの私では釣り合いが取れぬだろうが、どうか…私と戦ってくれないかね」
発せられたそれはルドルフの想像したものと全く違わぬものだった。何かに飲まれたのか、あるいは何かに酔っているのか、高次元暗黒のようなグッドナイトの瞳は人やウマ娘のようなキラキラしたものではなく獣のようにギラギラしていた。
ここで了承すればグッドナイトの命を削ることになるだろう、自分の恩人を殺すような真似はしたくない。しかしここで断っても彼女は折れないとは言い切れない。
折れた者への答えのとっかかりをルドルフは得たが、破滅へ嬉々として向かう者への対処は知らなかった。
***
トラックに二人は立っていた。芝の1000m
結局ルドルフは押し切られる形で勝負を受けてしまった。悩み抜いた末に出した結論ではあったが、結論が出た今でもどうするべきだったのか悩んでいる。それとは対照的なのはグッドナイトだった、わがままに対して少しばかりの申し訳なさを持ちながら、その心の内の大半を占めているのは強敵と戦えることに対する歓喜だった。
グッドナイトは無言で硬貨を取り出した、どうやらこれを投げて合図にするようだ。
そして硬貨が上に放り投げられー
地面に着いた。
当然と言うべきか飛び出したのはルドルフだった、硬貨が地面に着くと同時に華麗なスタートダッシュを決めてぐんぐんとグッドナイトとの距離を引き離していく。手を抜くのは失礼にあたると思い全力では無いが本気で走っていたルドルフだが、ふと後ろを向けば歩いているくらいの速度で走るグッドナイトの姿が見えた。そもそもがグッドナイトは足の故障で引退し注射を打ってまでして痛みを緩和しないといけない状況だったのだ、立っているだけで耐えがたい激痛に襲われているはずで、そうでなくともリハビリも満足に行なっていないので歩けている方がおかしいのだ。だからこの光景は当然のものだった。
やはり無茶だったのではと考えるルドルフの頭に、唐突に一つのイメージが流れ込んだ。霞みがかったような夢の中のようなおぼろげな場所、よく手入れされた花壇とその傍らに置かれたぞっとするような美しさの人形、綺麗に並べられた墓石。そしてポツンと存在する大きな屋敷、その前には車椅子に座ったよく見慣れた人物。
どこか寂しさを感じるイメージはいつかの昔に聞いた空を切るような音と共にルドルフの耳へとやってきた、後ろをちらりと見ればそこにはグッドナイトの姿。その目は現役の時よりも獰猛でありながら先ほど見せたような獣の眼光はなく、理性的に輝いていた。足を動かすたびに激痛に襲われているはずで、さすがにその通りなのかすぐに置いていかれる。さすがに現役の時のような速度ではないものの、距離が空けばあの特徴的な音とともにまたすぐ後ろへとやってくるのだ、まるで獣を追い立てる狩人のようであった。
「ああ、強いなあ…」
グッドナイトは笑っていた。弱った気管支は最初の100mほどで限界を迎え、脚は絶え間なく激痛の信号を送り続けている。本格的なレースでもなければ観客もおらず出走者は二人のみ、しかしその唯一の対戦相手は類い稀な強者、ならば自身を襲う痛みなどに構っている暇などないと強靭な意志で押さえ込んだ。しかし、いくら押さえ込もうとその背中を捉えるばかりで、僅かに追い抜くことすらできない。
残り500m地点、それが彼女の限界だった。所詮は衰えた身体だったのだ、多くのアスリートが復帰するのに長い年月を要するそれを無視して走ったのだ、むしろここまで走れた方が奇跡だった。激しい痛みと疲労感により徐々に失速していく。
「まだだ…私はまだ戦える」
だが闘志はまだ燃え上がっていた。
戦いたかった、戦えなくなった、腐っていった、そんな中で見た輝き、ひどく焦がれる有様。もう一度夢を見せてもらった、そして戦える歓びをくれた、グッドナイトはそれをこんなところで終わらせたくなかった。
「ここが、この戦場が、私の魂の場所だ…」
戦い続ける歓びを。
得意な距離ではないものの、それでも皇帝たる走りを見せるルドルフの脳に再度イメージが流れ込んできた。大きな月の夜、墓石に囲まれた一面に白い花が咲き誇っている美しくも寂しい花畑、そこの中央に生えた大樹の下で車椅子に腰掛けたグッドナイト。おもむろに立ち上がった彼女は腰に下げていたブレードと背中に背負っていた柄を組み合わせ死神の持つような鎌に変形させた。
ドンという音に後ろを確認して見れば、一瞬姿が消えるほどの速度で疾走するグッドナイトの姿があった。口から血を流し顔は苦痛に歪む姿はひどく悼ましかった。しかしグッドナイトは最後の最後に往時の走りを取り戻した。
ゴールまで残り200m、ルドルフにはもう止めようという思いはなかった。あるのは文字通り命をかけて勝負をかけてくる敵を、全力で迎え撃つことのみ、苦手な距離など関係ない。あの日京都に大輪の花を咲かせたように、ただ前へ前へとかけて征く、そしてー
***
あれから1年ほど経った。先輩はあの後入院し、半年後に亡くなった。今際の際には私をはじめとした彼女の世話になった者や親しかった者が駆けつけその最期を看取った、ハルウララが泣いたのにつられて皆も泣いてしまったのはよく覚えている。
あの日先輩はついぞ私を追い抜くことはできなかった、それでも満足そうに笑顔を浮かべていた。あの時の選択が最適解だったのかどうか、明確な答えは出ていないが全てのウマ娘の幸福を考えるにあたりいつか自信を持って言えるように様々な論文を業務の合間に読んでいる、エアグルーヴには働きすぎだと心配されているが。
そういえば最近では「満月の夜に車椅子に座ったウマ娘にアドバイスをもらったが気づけば消えている」という噂が流れ始めているそうだ。さっきも怖がったテイオーにそうかいテイオーと相槌をうっていたが、もしその正体が私のよく知るあの人であれば少しばかり文句の一つでも言いに行っても構わないだろう、助言を受けた者の走り方が先輩の走りに似ているので9割確定しているようなものだし…
そういえばー
「今宵は満月だったな」
加速
かつてひとりのウマ娘が上位者と見え得た業で、元は違う世界の
者達が扱うものである
かつての使い手が死者となった後も引き継がれウマ娘の力に
なるそれは、まさに狩人の業であろう