ずぞ、と平たいフライ麺を口の中に啜り入れる。スパイスの効いた醤油味が舌の上で弾けて、身体が内側からほんのりと温かくなるような気がした。それは錯覚じゃない。閉じていた毛穴が広がって、全身から汗が吹き出てくる。暑い、もっと食べたい、という衝動は循環し、生命の炉に火を灯す。
食欲は、言わずとしれた三大欲求の一つだ。食って、寝て、ヤッて。そして生きる、それが生きるということ。俺たち人間、ひいては地球上の生物を生物として成立させている本能の根幹がそれだ。
だから、たとえ次の瞬間には死ぬとしても、最期までそれらの欲求は俺たちを突き動かす原動力で有り続けるのだろう。死は避けられないものだと知っていても足掻き続けるのだろう。どれだけ無駄で、愚かしい行いだと解っていても、なお。それが俺たち生物にプログラムされた正常な動作なのだから。
つまり何が言いたいか、というと。
「世界の終末を見ながら喰うカップヌードルも、なかなか乙なもんだなぁ」
俺は地表を飲み込みつつある強烈な光にフォークの先を翳して、そう呟いた。
小さなネギが付いた先端。その向こうで膨らんでいる光は、思わず目を眇めそうなほどに眩いながらも、おどろどろしい赤色を発していた。たぶん熱量とか空気の濃度とか目の中の血管とか、そういう小難しい理由でそう見えているだけで、実際は赤色かどうかは分からない。ただの物凄い明るい光エネルギーが、俺にはたまたまそういうふうに見えただけで。
事実、隣の笹川はその光を青白い色だと言った。フィルムに焼き付いた太陽光みたいな、力強すぎてすぐに色褪せてしまうような。
「・・・・・・ホント、あなたには呆れます。死の間際にやることが、まさかカップ麺をたべることとは」
「いいだろ、欲求に率直でさ」
混乱のどよめき、悲嘆の絶叫。
突如として告げられた惑星崩壊の報せは、最初はたちの悪い冗談とすら受け止められていなかった。無理もない。今日で地球、終わりです。そんな戯言を鵜呑みにしてしまうような酔狂な人間が、今日のネット社会に現存しているものか。頭のおかしいやつがまたなんかがなり立ててるよ。それはそれとして今日もまたつつがなく一日が続いていく、みんなそう信じていた。
それが地から火が吹き出し、得体のしれない破滅の光条が地上を占領し始めたのを目の当たりにした途端、誰もが確信を得たみたいに態度を変えて騒ぎ立てた。いや、最後まで疑心暗鬼に陥っているやつも居ただろうが、現実に光を目にした者の大抵は滅亡が真実だと理解した。
俺の通う高校も例に漏れなかった。教室の窓から眺める深紅に染まった空。そういや俺たち、今日死ぬんだってよ。そこですんなりと運命を受け入れられるほど俺たちは成熟してもいなければ、どうにかしてやろうとあれこれ頭を使えるくらい無邪気でもなかった。喚き散らすなり、泣き叫ぶなり、狂おしく笑い転げるなりしていた連中も、だんだんとどこかへ消えていってしまい。とめどなく溢れかえり、せめぎ合う悲鳴で混沌としていたはずの校内は、いつの間にか閑散としていた。
俺と笹川はその静寂の中で出会った。
『ねぇ、給湯器どこにあるか知らない?』
突拍子もない俺の問にぽかんと口を開けていた笹川の間抜け顔を思い出す。なんのために、と聞かれて、カップヌードル作るの、と答えたときの笹川もちょうど今と同じ感じの呆れ顔を浮かべていた。
「スケールが小さいんですよ。他にもっとあるでしょう、こう、人生の終わりにしかやらないようなことが」
「たとえば?」
「たとえば・・・・・・ほら、家族に愛を告げる電話をするとか」
頭上にぴん! と人差し指を立てて得意げに語る笹川に、『圏外』と表示されたスマホの画面を突きつける。
「だって繋がんねーじゃん。電波塔折れてるみたいだし」
数十分前まではJアラートの警告音が鳴り止まず、煩わしくて仕方がなかった。今は発信元がやられてしまったのか、翻ってひどく大人しくなっている。
自分のものも同様の状態であることを思い出したのか、むぅ、と唸った笹川は、
「じゃあ、あれですよ、好きな人に思いを告げるとか」
「今際の際にぃ? それすげぇ迷惑じゃん。この状況だと受け入れもしづらいし、断るとも言いづらいだろ」
「じゃあもうセックスですよ! セックス! 好きな人とセックス!」
「えぇ・・・・・・なんでキレてんの・・・・・・」
ヤケになって臆面もなくセックス連呼を始めた笹川にドン引きしつつ、俺はフォークに麺を絡めていく。クラスの中でもクール系美少女の地位を
さすがにパスタのようには巻けないので、謎肉と玉子でフォークの刃先を塞いで諸共口に放り込む。奥歯で一口噛みしめると、塩気と融和した肉の旨味がビリビリと舌に迸った。うん、やっぱエビとこの謎肉はクセになるよなぁ。コロチャーだけだと満足できない、独特のジャンク感。そして全体的なスパイシーさを程よく諌めてくれる玉子の甘み。そうそう、これでこそカップ、ヌードォーですよ。
数回咀嚼して素材の味を味わってから、そこに熱いスープを流し込む。終末に直面しての最後の晩餐なのだから、少し勿体ない食べ方なような気もするが、これでいい。元来カップ麺とはそういうものだろう。腹持ち、賞味、食べ応え、そして迅速。戦後のえきそばから続く、忙しない日本人に向けた食文化。かっこみ、啜り。本能のままに喰らい尽くす満足感。これがまた堪らない。
ぷはっ、と熱い吐息を一つ。
ああ、生きている。生の歓びがここにある。
ふと視線を感じて首を横に向ければ、体育座りした笹川が、恨めしいような、物欲しいような眼つきで俺を睨めつけていた。大きな二重瞼の下から、ナイフの如く鋭い瞳が俺を貫いている。
「えっと・・・・・・なに?」
「・・・・・・・・・・・・」
滞った空気と、微かな沈黙。
俺はスッ、とカップを横に振る。
笹川の視線も揺れ動く。
「・・・・・・ん?・・・・・・お?・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・っ・・・・・・!」
うーん、なかなか楽しいぞ。あんまりやっていると笹川の表情が切実なものになってきて、俺は不覚にも可愛いじゃねーかと思わされてしまった。くそ、見てくれがいいだけに。
「──────っ」
「・・・・・・たべりゅ?」
「気持ち悪い噛み方しないでください」
ちょっと意地悪しすぎたかな、と手を差し出した瞬間にひったくるようにカップを奪われる。相当腹に据えかねていたらしい。もともと低かった視線の温度が四割程度下がった気がする。
「・・・・・・フォーク」
「え? あ、はい」
唇を尖らせて要求する笹川に、俺はわずかに戸惑いながら小ぶりなテーブルフォークを手渡した。その困惑は眼差しとなって空中を彷徨い、やがてすぼめられた笹川の唇へと行き着く。よくよく手入れされているのだろうか。瑞々しくたわわに実った唇は、しかし引き締まっていて気品がある。
これってもしかしなくても間接キスってやつでは? と悶々としてきた俺、童貞。常日頃から間接キス程度がどうしたっていうんだ、とか思っている割にいざ現実のものになろうとしているとちょっとドキリとしてしまう。主にモラル的側面で。大丈夫? 菌とか伝染らない? あっ、もうすぐ死ぬんだから関係ないか。
そんな俺の思考回路を察してかもしくは気にも留めていないか、不可解そうに一瞥くれた彼女はどちらにせよそれどころではない様子で。立ち昇る湯気を顔面に浴びてごくり、と生唾を呑み。半分ほどの深さになったカップを覗き込んで、おそるおそるフォークを差し入れた。
黄色のストレート麺が、ちゅるちゅると笹川の唇に吸い込まれていく。俺の体面もなにもかなぐり捨てた食い方とは違って、あくまでお淑やかに。けれど一口噛みしめると眼を瞠って、静かながら火がついたように麺を啜り始めた。スープを口にし、具を挟み。尋常ならざる気迫を上げて食べ進めていく。
熱心だった笹川がはっと我に返る頃には、その額には玉のような汗が浮かんでいた。透き通りそうな白皙の肌はほんのりと紅潮し、蒼白だった気色には血の気が戻っている。
「あ、あの。すみません・・・・・・」
「ははは、結構いい食べっぷりだった」
口許を拭ってから、笹川は申し訳なさそうにカップを返してきた。フチから覗く残り具合はあと一口、といったところだ。いくら夜食のお供として名高いといえど、大の高校生の男女二人が夢中になって有り余るほどのボリュームはない。残念ながらこれはBIGな方ではないのだ。
俺は名残惜しさに浸るのを避けられずに、けれど未練がましいマネはせずに一気に残りを流し込んだ。謎肉の切れ端や玉子の破片、そして大量のスパイスが食道を駆け抜けていく。今ならカッ、と喉から火を吹けるんじゃないかと思うくらいの熱と辛み。そして旨味が神経細胞を駆け抜けていく。
それらをまとめて飲み下し、腹に入れる。続いて溢れ出てきた唾液が口腔内に籠もった熱気を冷ましていった。ふう、と安堵の息が溢れる。舌の上にはまだ独特のシビれが残っていて、食後の余韻が脳内に多幸感を齎した。
喰った。ああ、喰った。きれいに平らげた。
「満足・・・・・・」
発泡スチロールに似た手触りを離し、両手を合わせてごちそうさま、と唱える。笹川も俺にならって恭しくパッケージを拝んでいた。食物への恩は軽んじないのが我が家の流儀であり、俺の流儀だ。これといって取り柄のない俺だけど、自分の皿に乗ったものはすべからく平らげるという一点に関しては自信を持っている。
それが現世で頂く最後の食べ物だというのだから、なおさらである。普段とは格別の感謝を込めて合掌し、俺は生存の儀式を締めくくった。おいしかったです。
「ああー、やっぱジャンクフードは中毒性があるな! 定期的に食べたくなる!」
「そうですね・・・・・・」
しみじみといったふうに頷く笹川。頬に滲んだ汗でその美貌はツヤツヤと照っていて、あらためて美少女だなぁと思わされる。美人は汗をかくとより美人になるとは俺の持論だが、理論は間違っていなかったと現実でも証明されたようだ。
無意識にじっと見つめていてしまっていたようで、気恥しそうに顔を背けられる。俺もしまった、と前を向いて、それきりしばし俺たちの間には言葉が交わされなかった。首筋に感じる風が生温い。黙って耳を澄ませていれば、世界が壊れる音が鮮明に聞こえてきた。そうか、俺たちもう死ぬんだな。ラーメンの熱にかき消されていた寂しさが胸に込み上げてくる。
「どうする?」俺は聞いた。
「どうって・・・・・・」
「ん、俺はやりたいことやり終えたからさ。笹川さんはそういうの、なんかある?」
「私は・・・・・・」
笹川は須臾の間考え込み、さっきよりも悲痛な面持ちになって無理に笑った。
「別に・・・・・・特にはないですね。思い残すようなことは・・・・・・」
「ホントに?」
俺は思わず聞き返してしまった。満腹になって気が緩んでしまったからだろうか。今更あまり詮索すべきではないと思いながらも、少しだけでも重くなった心の中身を掻き出してやりたいと、分不相応にもそう念じてしまった。資格も実力も持たない他人が踏み込んだって彼女を傷つけるだけだって分かりつつも、ここまで付き合ってもらった恩を返したかった。なにかの形にして。つまるところ、死を前にして歯止めが効かなくなったただのエゴだ。
「や、ゴメン」
謝ると彼女は困ったように笑った。もうどうしようもなくなってしまった、そういう類の乾いた笑みだった。砂塵混じりの風が吹き付けて、哀しい匂いが胸の焦燥を煽り立てる。既に崩壊はそう遠くない場所まで迫っている。はっきりとそう肌で感じると、受け入れた気でいた恐怖がじわじわと這い上がってくるのが分かった。
「そうですね──────実は私、死のうと思ってたんです」
満を持して耳に飛び込んできた声は、予想外の内容を孕んでいた。あっさりと。なんでもないふうに言う彼女に、俺は唖然とする外なかった。
「そう、なんだ」
「はい」
首肯する彼女の表情を伺ってみても、冗談を吹かしている気配は微塵たりともない。沈んだ声音はひたすら真実を紡ぎ出すだけの廉直さを帯びていた。俺は驚きに揺れる態度をひた隠しにして、せっつかずに続きを待った。たとえ中身を知ったところで俺にはどうすることもできない話だと理解したからだ。
はっ、と息を吐いて、笹川は目許から感情を消して語り始めた。誰かに話すって言うより、自分に言い聞かせるみたいに、抱えた膝を強く抱きしめて。
掠れた声だった。
「なんて、いうかな。うちは、俗に言う母子家庭っていうもので」
「父は会計士だったんですけど、私が小学生だったときに死んでしまって」
「動脈硬化で、脳卒中だったみたいです。それ以来、母は郵便局に勤めて。働き詰めで、家のことは兄と私でやっていました」
「生活は、喘ぐほど苦しくはありませんでした。食べ物に困ったり、暮らしが立ちいかなくなるようなことは全然なくて。何も変わってるところはないと思ってました。服とか靴とか、周りの友達よりは少なかったかもしれませんけど、プレゼントなんかにしてもらって」
「楽しくはなかった。自分たち子供だけで生活するのは自由な感じがして、嫌いじゃなかったですけど」
「けど、それだけで。母と過ごすことはなかった。だんだん家に帰ってこないことが多くなっていったんです。私は兄と生きてました」
「それが突然帰ってきたときには、変な僧衣みたいなのを着てて。よく分からない宗教に入信してたんですね」
「入信って言っても、関わり自体は父の葬式のあたりからあったみたいでした。お金をつぎ込んだりとかはなかったですけど、その宗教の人を家に招いたりするようになって。私たちは住む場所がなくなったみたいに思ってました。家事とか全部やってたのは私たちなのに、見知らぬ人たちに居場所を浸食されていくような感じで」
「その頃から兄は、母のことを信用しなくなっていました。ただ食わせてもらっているから、保護者だからっていう理由だけで、辛うじて留まっているようなもので。中学を卒業したら、さっさと稼ぎに出て出ていくつもりだって。母に説得されて高校に通うになってからは、ちょっと考えを変えたみたいでしたけど」
「それでも何かが好転するわけじゃなくて。兄はひっきりなしにアルバイトを続けていました。その頃になると、私たちも巻き込もうとして、集会に誘われたりして。母との折り合いはどんどん悪くなっていってましたね」
「・・・・・・きっと、誰も誰かを傷つけたかったわけじゃないんです。とにかく必死に生きようとしていたから、どこかで歩みを合わせるのをやめてしまった。前に居なきゃと思ってしまったんでしょうね」
「だから、壊れちゃった」
感情が、器から零れ落ちる。
「高校を卒業してから、兄は別人みたいになりました」
「伸ばしていた髪を切って、色も黒に染めて。身だしなみの手入れもほとんどしなくなって」
「どこで、どういうふうに働いていたのかは知りません。兄は絶対に教えようとしなかったし、家に帰ってくることも少なくなって」
「たまに帰ってきて、母が兄を怒鳴りつけるんです。どこに行ってたんだ、この親不孝者って。でも兄は、まるで最初から母の存在が見えないみたいに無視をして」
「もしかすると、本当に見えてなかったのかもしれないですね」
「それくらい、あの人ははっきりとボロボロだったんです。立って、息をして、歩いているのが不思議なくらいに」
「大雨警報が出て、高校が休みになった日でした。兄は突然家にやってきて、黙って私を見つめていました。びしょびしょになって、玄関にタオルを持って迎えに出た私を」
「明らかに様子がおかしかったです。目つきがなんか変で。優しかった目尻がつり上がって、数珠玉みたいになんにも映さない瞳で私のことを睨みつけていて。私は、ゾッとしました。長い間いっしょに過ごしてきたはずの兄に対して」
「そしたら兄はふらふらと私に近づいてきて」
「キス、されました」
「私は驚いて、慌てて跳ね除けて。でも兄はきつく私を抱きしめて離さなかった。やめてって抗っても大きな声を上げるばかりで」
「今思うと、泣いてたのかもしれません。一人にされて怖くなった赤ちゃんと一緒で」
「そのまま壁に押し付けられて。無理やり服を脱がされました。何回もやめて、離してって言いました。私には、それしかできなかったから」
「気がついたら、
俺は息を呑んだ。なるべく静かに、精一杯平静を装って唾液を呑み込んだ。ぞわぞわとうなじの裏側が慄いている。目の奥が痒くなってくる。喉奥の上顎のほうがカラカラに乾いてきた。笹川を見ることができない。俺は辛うじて、徐々に視界を埋め尽くしていく真っ赤な光の柱を脳裏に焼き付けて耐えていた。
ここに来てようやく、俺は自分が取り返しのつかないことをしてしまったんだと気がついた。軽い気持ちでしょうもないエゴを押し付けた数分前の自分を縊り殺してやりたい。いや、数十分前か? もう正しい時間感覚さえ取り戻せなくなってきている。ともかく俺は歯を食いしばる外なかった。それが俺の責任だった。
他方、喉を震わせる笹川は、まだどす黒い微笑みをたたえていた。
「私、犯されちゃったんですね。実の兄に」
笹川──────
彼女が音を立てて壊れていく様が
「それでふと、気がついちゃったんです。何もかもが苦しいんだって」
「ことわっておくと、別に兄とのことがあったから死ぬというわけじゃないんです」
「もう耐えられないな、疲れたなって思うラインを超えたのがそれがあったからというだけでして。私は自分のことを恵まれているとも思いませんけど、不幸だったとも思ってません。単純に、弱かっただけ」
「弱いから、死ぬんです。変ですけど」
笹川は本気で自分が変だというみたいに眉を八の字に顰めた。
言いましたよね、人生の終わりにしかやらないことをしないのか、って。笹川の赤くなった鼻先が視界の端をチラつく。俺は笹川が並べ立てたテンプレートたちを思い出した。家族へのラブコール。好きな人への告白。それから、好きな人と、の。
「あれ全部、私がやろうと思ってたことです。どこかの屋上から飛び降りる前に」
「そういうわけで、心残り、あるといえばありますけど。今から果たすほどでもないっていうか」
凄惨───漢字二文字が思考回路を埋め尽くした。
あまりにも、空虚すぎる。彼女の笑顔が俺に向く。いや、それは表層に貼り付けられているだけで、下層に続くレイヤーは至極あけすけだった。それを笑顔と呼ぶのさえおこがましい。言うなればあちこちで捻じ曲げられてしまった笹川の心がそのまま具現化したようだった。
だが同時に、俺はその表情を形容するに相応しい言葉を持たなかった。
悔しいけど、笹川が教えてくれた俺の無知は、ショックを受けるに十分なものだった。これでも十八年近くは生きてきた身だ。それだけの間社会の上澄みに浸かってきて、人の感情の機微には人並みに敏いつもりだった。だけど今分かった。俺の知る日本語のほとんどに実感は伴っていなくて、本来そこにある痛々しさや生々しさというものを、俺はこれまで知ろうとしてこなかったんだ。
弊害はいうまでもなく、この沈黙を破る術を持たないことだった。
俺は目の前のくたびれ果てた少女に何を言っていいのか皆目見当だってつかない。
原因は単純だ。
違いすぎるのだ、俺たちは。
この十八年に詰め込んだ数え切れないくらいの記憶。その一粒一粒の味が、まったくもって別物ばかりで。俺がここまで漠然と抱いてきた、どんな人間の価値観でもだいたいは一緒なんだろうっていう思い込みは、やはり思い込みでしかなかった。
誰かに整えられた環境に、誰かが誂えたレール。その上をただ何も考えずに歩き、箱庭の中で感情を知ってきた自分と、外側の厳しさにさらされてきた笹川。両者の感情の純度に差が出るのは当然の真理だ。俺の居た温室には、濾過された意識しか届かなかった。悪意も善意も怒りも喜びも悲しみも幸福も、すべては巧妙に薄められた作り物ばかり。たとえそれらを処理していた人々の、俺の両親を筆頭とした大人たちが俺に向けてくれた愛情や慈しみが本物だったとして、俺にその見分けがつくはずもない。
故に俺は笹川の発露する想いを理解できなかった。ただただ、俺たちの間に隠れていた深い深い溝に圧倒されるばかりだった。
俺では彼女を楽にすることはできない。俺では彼女を分かってやることはできない。
俺には、笹川は救えない。
だけど、だ。それでも。これだけ離れているのに、俺たちは隣にいるというのもまた、この世の真実ではあった。
「しないのか?」
「ええ?」
「心残り、もう果たそうとは思えないのか」
俺は自分でも的はずれなことを言っているとは分かっていた。愛に家族、好きな人。全部今からじゃあ遅すぎるものばかりだ。
「えへへへっ、変なこと言うんですね。電波が届かないって言ったのは、あなたなのに」
「だよなぁ」
今度はちょっとだけ人らしく笑った笹川につられて、俺も笑った。そうすると胸のあたりにのしかかっていた重みが軽くなって、なんだか気が楽になってきて、俺たちはくすくすと笑いあった。心の底から可笑しかった。何もかもといえばそうだけど、そんな投げやりなもんではなく、死のうとしていたはずが世界が消えるほうが早かった笹川と、カップヌードルが食べたかっただけの俺が同じ学校の屋上で最期の時を過ごしているという状況がもう、ふしぎで仕方がなかった。
「ありがとう、笹川」
「なにがです?」
「色々聞かせてくれてさ。なんもできない俺に、こうやって話してくれて」
「そう・・・・・・ですね。でも、逆もあります」
「逆?」
「こんなこと聞いたってしょうがないだけなのに、黙って聞いてくれて。ありがとうを言うのは私の方です」
潤んだ瞳が俺を射抜いて、それから優しく緩んだ。俺は一瞬胸が詰まって息を止めた。ほんとにかわいいやつだな。悲劇のヒロインらしいといえば、そのとおりとも言えるだろうが。笹川には、創作じみた胡散臭さを感じなかった。俺の贔屓目と言われればそれまでだ。
視線を前に戻した笹川はだらんと足を投げ出して、楽な格好になった。すーっと深呼吸する鼻息が聞こえてくる。瓦礫と砂煙の匂いを肺いっぱいに詰め込んで、過去に囚われるのはやめようというのか。肩の荷物を降ろしたみたいだった。
「話せば楽になるっていうの、そう感じたことはなかったんですけど、あながち嘘でもないですね。なんかスッキリした気がします」
「プラシーボ効果?」
「もう、捻くれたこと言わないでくださいよ」
「ゴメン」
「でも、いいんです」
「なぁ笹川」
「なんですか?」
俺は右手を上げた。よくよく見るとそれは小刻みに震えている。
「恥ずかしいんだけどさ。手、握ってくれないかな」
今、自分がうまく笑い続けていられているのか分からない。笹川は俺の顔と手のひらを交互に見た後、何も言わずにそれを取って重ねてくれた。笹川の指先は思ったよりも冷たかった。それでも二つの手のひらの間には確かな暖かさがあって、俺は鼓動が力強くなるのを感じた。
「怖いですね」
「怖いな」
吹きすさぶ風が瓦礫を巻き上げている。遠くにあったはずの光はもう手が届きそうなところまでやって来ていた。ついこの前まで街があった場所には赤の奔流だけがあって、一面が眩い光で染められていく。語りを遮る地鳴りは激しさを増し、俺たちの足元からも軋みが聞こえてきた。
一巻の終わりは、すぐそこだ。
家。いつもの公園。最寄りのコンビニ。馴染みの商店街。ショッピングモール。駅。神社。バス停。自販機。郵便局。看板。道路標識。
日々の思い出を残して、俺たちの街が消えていく。春も夏も秋も冬ももう来ない。忌々しいことも待ち遠しいこともあった明日も来ない。次の瞬間もない。俺たちが消えれば、ささやかな思い出だってこの世からは消滅する。やがて誰も居なくなって、俺たちが生きていたことを証明する存在はいっぺんたりとも残らずに地球が消える。
何もない。これより先は、虚無のみがすべてを満たす。そう確信したとき、破裂しそうな心を平静に保っていたネジの一つが飛んだ。
「笹川」
「はい」
「俺、正直に言うよ」
「俺さ。お前のこと嫌いだった」
「バカみてぇだけどさ。スクールカーストってやつ」
「喚き散らしてるやつらに囲まれて、自分は馬鹿じゃないって顔してるのが気に入らなかった」
「ずっと嫌いだった。ああ言う連中が我が物顔で世界を闊歩してると想像すると虫唾が走った」
「その真ん中に、お前が居たよ」
笹川は何も言わない。
「美人でさ。優しげな微笑みをたたえて、いつも落ち着いてて」
「俺とはまるで違う次元を生きているんだ、って突きつけられているみたいに思った」
「イライラしたよ。お前を視界に入れるたびに」
「お前には価値が見えてた。明確な価値がいくつもあった。その美貌も、性格も、成績も、肩書も、可能性も持ってた」
「俺にはなかった。なんにもな。俺は無価値だった」
「分かってたよ。笹川は何も悪くないし、周りに居た連中だって悪いことはしてない。俺の、理不尽な八つ当たりの矛先がお前に向かってるってのは、俺だってよく分かってた」
「十代特有の葛藤とか、苦悩とかさ。その程度のことで片付いちまうショボい話なんだよな。それなのにこんなに憎らしく感じてる自分が気持ち悪くて」
もしかすれば、笹川自身もそんな気分に陥ることがあるのかもしれない───そんな考えすら、頭の隅に浮かんだ。だからこそ余計に。
「平気な顔してる笹川がさ、どうしても気に入らなかった」
「頑張ってますって顔をせずに居られるお前が羨ましかった」
「嫌いなふりをして自分を保ってた」
「ほんとどうしようもないバカだって思うよ」
「だけどさ」
「俺とお前は──────」
刹那。ふっと疑念が降りてきた。
俺は空いている方の手で足元に置いていたカップを取った。フチからスープの滴が尾を引いて跡になっているそれの、シワシワした感覚を今一度入念に確かめた。光にかざして、赤と白の見慣れたパッケージを瞼の裏に焼き付けた。あっちに行っても、この美味さを忘れてしまわないために。
「教えてくれ笹川。俺たちは、この一杯のカップヌードルを、同じように味わえていたのかな。お前はこのフォークで啜ったカップヌードルを、俺と同じふうに、美味いと思ったのか?」
俺は膝の間に眼を落とした。疑問を口にした途端に怖くなったのだ。最後の方は、自分も驚くくらい弱々しく掠れていた。
最初から確証なんてものはなかった。どうして笹川が俺に付き合って屋上まで上がってきてくれたのか。どうして職員用の給湯室まで連れて行ってくれたのか。それは俺と同じものが見えているからだと決めつけていた。絶望や、諦観や、あるいは賽を投げ出せる安心感。彼女が俺の隣にいるのは、共感し、最期を過ごす人間足り得ると認めてくれているからだと思っていた。
しかし彼女の独白を聞いて信じられなくなった。一度はやり込めたはずの疑心が再び首をもたげた。死に目にして弱気になってしまったせいだ。だって、やっぱり俺と彼女は違う。まったく共通点もなければ、同じ目線に立てるだけの気概もない。なまじ卑屈が故に、今の俺はそこまで傲慢にはなれなかった。
だから、辛抱たまらず俺は笹川に聞いた。聞いてしまった。なんの意味も持たない問を投げかけてしまった。
返答は、言葉ではなかった。
ぎゅっと。重ね合わせた手を握る力が増して、彼女の脈拍が俺の鼓動と混じり合う。
「意外と怖がりやさんなんですね、あなたは」
「・・・・・・ああ、臆病なんだ」
「私もですよ」
柔らかい感触が肩に触れる。笹川が寄りかかってきているのだと気がついたその時から、心のざわめきが苛烈なものに変わる。わずかにウェーブした艷やかな黒髪が頬をくすぐっている。汗ばんだ肌触り。生温い体温。嗅いだことのない甘い匂いが脳髄に直撃する。
「いっしょです。あなたも私も。他人で、別人で、普段は話すこともなかったかもしれませんが」
ちゃんと見てください───私はここに居ますから。
そうして初めて、俺は彼女に屈託なく向き合うことができた。彼女の顔を見た。観るのではなく、きちんと、ただ一人、生身の人間として。俺は彼女の瞳につながった。
琥珀色の虹彩が潤んで揺れる。滲んだ涙の向こうに俺が居た。間抜け面をぐしゃぐしゃに歪めて、今にも泣き出しそうな面持ちの自分が写っていた。面映さがうなじを撫で回す。しかし顔を背けようとはしなかった。できなかった。俺は笹川の瞳に魅入られていた。
「あなたは、確かに価値なんてないのかもしれない。世界に必要とされていないのかもしれない」
「だけど、私もそうなんです。だれだってそうですよ。最初から恵まれている人はいない。最初から不幸な人も居ない。善人も悪人もいない。有意義な人も無価値な人も居ない」
「世界は平等じゃありません。不公平で、不条理で、そしてそれだけはみんな平等なんです。私たちは孤独なんです」
「だからこそ、あなたを消さないで」
ふわっと風が笹川の髪をさらいあげた。
「あなたはここに居ていいんです。私の隣に座っているべきです」
「・・・・・・お前がそれを言うのかよ」
「はい。今だから言います。言えます」
「あまりにもあなたが幸せそうに食べるから、あのカップヌードルは、今まで食べたことがない味がした」
あ。嗚呼。
視界が白いヴェールで包まれる。心が舞い上がっていく錯覚に陥る。身体という枷から解き放たれて、大空をハート型のロケットが突き進む。俺は天に昇る、昇ることができるような気がする。俺はこの一瞬だけ、現世のありとあらゆるしがらみと罪から解放された。重力に囚われた魂をアポロ11号の足元まで打ち上げることができたのだ。
救われた。その一言で十分だった。
「ひどすぎますよ。あれは。拷問にも等しいです。あれでお腹が空くのを我慢しろだなんて」
「っ、くくく、ははははっ! ははははははっ!」
こらえきれずに笑う。腹を抱えて笑った。これ以上ないくらいの快感に染められて、俺はついぞ定められた形を失った。みっともなくすべてを白日のもとにさらけ出していく。人目も憚らずに崩壊していく。俺はこれまで塗り固めてきた嘘と伊達と保身の鎧をかなぐり捨てて、実に十八年ぶりにただの人間に戻った。ただ喰って、寝て、セックスするだけの生き物に成り下がった。
それでいい。俺は人間だ。それ以外の何者にもなれやしない。最後の最期の数瞬まで、俺は愚かで何ら特別ではない人間という生命体の一個体で有り続ける。それの何が悪い。何が哀しい。それ以上のどんな意味がこのちっぽけな人生にあるっていうんだ。
幸せだったかなんてどうでもいい。誰かを救えたかなんてどうでもいい。
カップヌードルが美味かった。それだけで満ち足りているんだ。
◇
「そうか、そうだよな。そりゃキレるよな。横でもろに見せつけられたら」
「食べ物の恨みは、怖いんですよ?」
「まぁまぁ、喰ったんだから、勘弁してくれよ」
「ええ。久しぶりに食べられましたから」
「カップ麺とかはあんまり食べない?」
「いえ、結構食べます。しょうゆ味を食べたのが久しぶりだったんです」
「そうか、じゃあ笹川は、カップ麺だと何が一番好きなんだ?」
「えぇ、そうですね・・・・・・。一番よく食べたのは、どん兵衛のかき揚げうどんですかねえ」
「うおっ、意外なとこ突いてくるんだな」
俺はもう、何かに対してうろたえることはなかった。頭を過るたくさんの思いは静かに息を潜め、消えることはないが、悪戯に感情を煽られることはなかった。俺は至極落ち着いていた。肌に感じる空気がいよいよ熱くなってきたって、俺たちは気のおけない友達同士のように会話を続けた。
「こう見えて中々通な方だと思うんですよね。ほら、母が居なくて兄と二人のときだと、どうしても十全に料理していられないこともあって。だから割とジャンクに育ってきてるんですよ」
「ほほーう」
「コンビニおにぎりとの食べ合わせはすごく研究しましたよ。どのカップ麺とどの具が一番合うかなぁって」
「あーっ、それ俺もやったことある。シーフード同士、辛いもの同士とかやって高菜と担々麺で地獄見たりしたことあるわ」
「あー、高菜いいですよね。しょっぱい味付けにちょうどいいんですよ」
乾いた砂塵が汗でベタついた皮膚に張り付き、粉々になったアスファルトの欠片が肩を打つ。カウントダウンはもう残り一分を残しているかどうかといったところだった。それなのに無垢な子供の如く次々に好きなジャンクフードを並べていく笹川のおかげで、口の端から涎が垂れそうで仕方がなかった。
人間の欲はとどまるところを知らないというが、まさにそのとおりだと思う。死の味ってどんなのだろうって、そんなことまで考えついた。さて、それはどんな味がするのだろう。苦痛の苦味? 醜怪な酸味? 果たして、死は甘美なものとも聞く。俺は緊張すると同時にワクワクしてきた。あの世行きの特急列車でしか味わえない一度きりの味覚。
轟音が聴覚を埋め尽くしていく。閃光が視覚を掌握していく。俺たちは慌てず騒がず、従容として死に赴く。独りぼっちではないからこそそうしていられる。
ああ、気が遠くなってきた。
「───さん!」
「なに」
先に薄れかけた俺の意識を笹川の呼び声が引き戻した。周りがうるさすぎて声がはっきりと聞こえない。それでも懸命に声を張り上げる笹川の叫びが、渦巻の中で確かに俺の耳に向かって駆けてくる。いや、近づいてくる。人のぬくもりを伴って傍に現れる。
「おやすみなさい、───さん」
耳元に産み落とされた、甘いささやき声───そうか、これが死の味か。俺は思い知る。俺は納得する。笹川が隣にいることの意味。運命論なんてバカバカしいと思っていた俺なのに、鮮烈な衝動と共に確信する。
笹川、お前が俺の告死天使だったんだな。
甘い甘い、まろやかな死が俺を地獄へと誘う。俺はその清い流れに身を委ねた。ゾクゾクと肌を疾走する快感に残った精気を捧げて、俺は眼を閉じる。
もう、眠る時間だ。
絡まった指を深々ととらえて離さずに、俺もまた消え入るようにささやいた。たったひとつの易しい別れの言葉を。
「おやすみ、笹川」
ぷつり。
◇
心残り。
ないっていったけど、あれは嘘だ。
俺、実はシーフード民なんだよね。
うん。
それだけ。