残り五分。
ナイフが取り出される。
並び立つ木々の葉身たちが、女の頭上で天空を遮り、ちょっとしたカーテンを作っている。そこに生まれたわずかな隙間から、冷たい月光が漏れ出して、ナイフの鋭利な穂先に降り注ぎ、淡い銀色の輝きを生む。女がナイフを左手に持ち替えると、輝きはべつの輝きに変化した。
そして、勢いよく。
刃の切っ先が勢いよく、暗闇の中を弧を描くように駆ける。出発地点は虚空、終着地点も虚空。しかし、その中間には
結果として発生する切り口は、あまりに
女の指の傷口が、紅の雫を滴らせ、暗い地面がそれを吸い込む。指はそのままゆっくり進み、目の前の木の幹に到達し―――その表面を、
血液が幹のテクスチャに干渉する。要するに女は、その指先で
「―――っ」
刹那。
がさりと聞こえた物音に、女は手を動かしながらそっと振り向いた。長きにわたり隠れ続けていれば、物音の種類を聞き分ける技能くらいは自然と身につく。今回の場合は―――落ち葉を、誰かの靴が踏んだ音。さらに響き加減から、靴は靴でも少し濡れた靴だということも分かる。
それは何を意味するか? 直近の二十分間では叫び声や銃声は聞こえていない。つまり、靴を濡らしているのは血液ではない。モンスターの涎というわけもないだろう。もっと簡単な答えがある。
残り五分というところになって、新しくかくれんぼへの挑戦者が現れたのだった。
女が振り向いた先には、先ほどのものとはまた別の、茶色な木の幹が聳えている。そして―――それが隔てるさらに先から、また一つ、落ち葉がつぶれる音が聞こえる。
「……」
女が何かを考えるより先に、周囲の木々が微かに揺れる。恐らく、辺りに潜伏していた
また、落ち葉の音。
悠長にしているわけにもいかないだろう。
女はゆっくりと姿勢を変える。腰を低くして、地面で踊る薄影を眺めながら、その全身を幹の、血文字の裏側へと隠していく。落ち葉の音が続けて聞こえようと、彼女の動きは変わらない。速くも、遅くもなりはせず、ただゆっくりと―――かくれんぼを、遂行していく。
そして、暗闇は女を飲んだ。
彼女は後頭部を木の幹にあてると、口を両手で塞ぎ、極力呼吸音を消そうとする。VRゲームは目を開けたまま夢を見る行為で、でも、夢の中でも心臓は脈を打つ。現実とまったく同じ緊張をもとに、まったく同じ鼓動を刻む。
反対側から声が聞こえる。
「……はぁ」
悲しげで寂しげで儚げな、男の声。
「……結局、見つけられねえのかよ」
上陸者がχ鯖に乗り込むのは、どうも初めてではないらしい。つまり、彼はこのサーバーに
女は息を必死に殺す。男の足音が数歩続く。
「……こいつは」
女には、彼が何を目にしたかわかる。暗闇の中でもあざやかな材質を隠さず、その紅をほんのわずかに、月光の元曝け出す―――血文字。ついさっき、彼女が描いたものだ。
『誰も見つけられなかったね』
そう。誰も見つけられなかった。
数々の訪問者たちは、誰も誰かを見つけられなかった。
χサーバーの住人たちは、誰も誰かに見つけられなかった。
「……また、それか」
男は溜息と共に呟いた。前回の上陸時も、同じ文字列を読んだのだろう。
それは女にしてみれば、誰かに見せるつもりもなく、ただ何となく描いたものだった。いつも描いていたから今日も描いた、ただそれだけ。誰かに見つかることは想定しておらず、しかし見つかってしまった。見つかったせいで文字列に意味が生まれてしまった。
『でも、逆に言うなら』
女は思う。
『見つからなかったら、意味なんて生まれなかったのかな』
彼女はそこで唐突に、ひどく大きな願望を覚えた。物音を思いっきり立てまくって、無駄しかないような
誰も見つけられなかったχサーバー民を、誰かに見せて。そして―――かくれんぼを、終わらせたくなったのだ。
「……クソ」
でも、駄目だった。
男が小さく呟いた後も、女の息は殺され続け、χサーバーに潜伏する、そのほか百二十四人のプレイヤーについても同じだった。誰もがかくれんぼを終わらせたがっていて、しかし、かくれんぼはわざと終わらせてはならないものだった。そういうルールだからだ。
サバイバル・ガンマンのサービスが終わっていく。
それによって何かが変わることはない。
誰もが否定者を待っていて、それが現れることはなく。
分解され始めた月光の下で、男がもう一度、大きく叫ぶ。
「……クソッ!」
サバイバル・ガンマンのサービスが終わる。
彼らの潜伏は続くというのに。