フロンティアへの幾星霜(短編集)   作:Z-LAEGA

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侵入者たち

 初めて兄の部屋に勝手に入ったのはいつだっただろう。

 脳裏にふと浮かんだそんな疑問について考えながら、陽務瑠美は後ろ手でドアハンドルを少し押した。力を加えられたドアはゆっくりと回転していき、蝶番がキイと軋む音とともに、兄の――陽務楽郎の個人部屋の内装を、陽務家の廊下から隠蔽していく。ハンドルに加えた力はドアを閉め切るほど強いものではなくて、銀色のラッチはドア枠に引っかかり、()()()の状態を維持する。

 わざとだ。理由は一つ、逃げたいときにすぐ逃げるため。

 瑠美は()()()()を意識しながら、ゆっくりと室内を進んでいく。ふと、壁に掛けられた()()に目が留まる。

 

『GAMING ADDICT』

 

「……ほんとにダサいなあのTシャツ……」

 

 冷房の風が静かに流れ、呆れ声で呟く彼女のサイドテールを微かに揺らす。

 瑠美はこんな風に兄の部屋をじろじろ見まわしながらも、ちゃっちゃと用事を済ませてしまおうと足を進める。瑠美にとってしてみれば、この部屋の壁に飾られたポスターだのTシャツだのが漂わせる美的センスは、まったく許しがたいものだ。しかしそれらに目を瞑るなら、ここはいたって普通の片付いた部屋だ。左右のルームソックスを交互に出して、障害物の無い床をどんどん進んでいく。兄にバレては困るからと忍び歩きをしたりはしない。それは兄が不在だからではなくて、兄にバレても困らないからというわけでもない。単に――

 

「……よし、()()()

 

 バレないからだ。

 瑠美が覗き込むシングルベッドの上で、ヘッドギアを被った兄が静止している。静止というのは……つまるところ、静止だ。動いていない。兄の口は閉じられっぱなしで何も言わないし、両の手はそれぞれ、五指を解放した状態でびくともしない。当然、足が組み変わったりもしない。要するに、兄は静止している。

 当たり前だ――彼は今、没入(フルダイブ)の真っ最中なのだから。

 

「どこかな~っと……」

 

 瑠美は探し物を求めてベッドの周辺をうろつきながら、定期的に兄のヘッドギアをちらりと見る。緑色(プレイ中)のランプが灯っているうちは大丈夫、ただし点滅(水分補給サイン)を始めたら少し注意、橙色(ログアウト処理中)になったらすぐ逃げる。消灯(ログアウト済み)は……見た時点で手遅れだ、諦めよう。

 今回の場合、ステータスランプは緑色で点滅していた。だからセオリーに従うなら、瑠美は「少し注意」しておく必要があることになる。実際のところ、楽郎はVRシステムが発したこの手のサインを厳密に守るタイプではない。だからこのサインが出たところで、彼のログアウト状況が大きく左右されるわけではないのだが……経験則に従って行動している瑠美からすれば、そんなのは知ったことじゃない。用事が済んだらすぐ逃げる、それがやるべきことだ。

 

「ここかな?」

 

 瑠美は探す。無い。

 ちらりとランプを見る。点滅。

 

「……じゃあここ」

 

 瑠美は探す。無い。

 ちらりとランプを見る。点滅。

 

「こことか……」

 

 瑠美は探す。無い。

 ちらりとランプを見る。点滅。

 

「……」

 

 瑠美はだんだん焦り始める。実際のところ彼女が置かれているのはそこまで危険な状況でもないのだが、ランプの点滅が目障りだ。点いたり消えたりを繰り返されると、何かを急かされているような気分になってくる。瑠美の肌をささやかな汗雫が伝って、そういえば、と彼女は思う。

 兄も、まるっきり静止しているわけではない。

 少なくとも――汗は掻いている。

 彼がまとった異常にダサいジャージや異常にダサいシャツを直視しないよう注意しながら、瑠美は兄の頭部を確認する。フルダイブVRは脳の入出力系統を仮想の肉体(アバター)と繋ぎ変えることで実現するが、一部の生理現象に関連する系統は現実に繋がれたままになる。その一つが――汗だ。高揚や緊張を感じているのはゲームの中だというのに、それらの感情が結実して汗となるのは現実世界――それは少々滑稽な構造だったが、実際、健康上の理由で仕方なかった。

 

「……どうしようかな」

 

 瑠美は今後の方策を練る。

 兄が汗を掻くということは、つまりゲーム内で文字通り手に汗握る場面を迎えたということだ。その場面が具体的に何なのかはわからないが、とにかく……手に汗握る場面というのは、一般的に()()()ものだ。つまりもうしばらくの間、瑠美はランプが赤色に変わる心配をしないで済むことになる。この場に留まっていれば、心置きなく探し物をできるだろう。

 

「……でも」

 

 一度退いた方が、という気もする。

 そもそも彼女が兄の部屋に足を踏み入れたのは、()()()()()()()()()をするためだったはずだ。瑠美はある程度の時間を費やしたが、探し物はまだ見つかっていない。これは何を意味するかというと、ちょっとした探し物は、実際はちょっとしていなかったということだ。誤算があったとなると考え方を変える必要がある。別に急ぎの用事でもないし、兄がゲームを遊び終えるまでまってから、探すのに協力してもらうやり方でもいいかもしれない。

 

「うーん……」

 

 瑠美は腕組み考える。天井に備わった照明器具の光が彼女の肌に降り注ぎ、複雑な形状の影を描き出す。考える。考える。考え……

 

「え?」

 

 陽務楽郎が笑っていた。

 笑っていた。目元はヘッドギアに覆われて見えなかったが、少なくとも口では表情筋を歪ませ、口角を上げて喜びを表現していた。そう強い笑みではなく――一般的な基準でいう、()()()()程度のものだった。しかしステータスランプが未だ緑の点滅を続けていることを考えれば、そうだとしても中々無い事だった。

 だって――ログインしたまま笑っている。

 

「ヤバい」

 

 瑠美は気付いていた。フルダイブ中の脳信号はその100パーセントがゲーム内に送られるわけではなく、多少現実の肉体にそのまま()()()ものがある。とは言えごく微小なものでしかないから、逆にいうと、ごく微小な信号の集まりで笑顔を作れるというのは、相当強い喜びが無ければできないことだ。……という理屈を抜きに、彼女は経験的な面で気付いていた。()()()()()()()()()()()

 クソゲーをクリアすることによる高揚感――それより強い喜びなど、彼女の兄にとってはない。

 瑠美は慌てて姿勢を直すと、ヘッドギアのランプを確認したい衝動を抑えながら、出口(ドア)へと向けて一直線に走る。探し物は放棄する。

 いま重要なのは。

 間に合うか?

 

「よっしゃあぁ!!」

 

 どうやらログアウトしてきたらしい兄の咆哮を背中に、瑠美はただ走る。

 

「遂に『フェアクソ』クリアしたぞぉお!!」

 

 どうやら兄はまだヘッドギアを取っていないらしい。視界が塞がれているうちに逃げきれれば何とかなるだろう。瑠美は開けっぱなしにしておいたドアをくぐる。「音で気付かれるかも」という考えが一瞬胸をよぎるが、些細なことを案じている場合ではない。構わずドアをバタンと閉める。

 

「……あ」

 

 閉める瞬間、思い出す。

 「始めて兄の部屋に勝手に入ったのはいつだっただろう」――答えは、3年前だ。当時小学生だった瑠美は、だいたい今と同じような流れで兄の部屋に無断で入った。そして見た。ベッドに寝転ぶ彼の顔面が浮かべていた、その笑顔を見た。理屈を言えば脳信号の入出力規制値が関係しているが、妹にはやはり関係ない。

 

「恨みは晴らさせてもらったぁぜ!!!」

 

 ドアが完全に閉じられる刹那。その狭間から覗いた喜び狂うその姿こそが、彼女が思う陽務楽郎なのだから。

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