鋭利な牙。
それは満月の光を受けて、付着した唾液と共にぎらりと照り輝く。反射光が表すのは欲望であり、同時に憎悪で、何より殺意だ。目の前の存在を喰い殺してやろうという確かな殺意が、牙に憑依し漲っている。空中に撒き散らされた唾液の飛沫が、次々に月光を受けて数フレームだけ光る。
「はぁ……はあっ」
私は肩で息をしながら、並び立つ木々の間を走る。
呼吸のたびに肺を出入りする冷気。踏みつけた小枝がぱきりと折れる音。眼前で幕を張る闇に次ぐ闇。
そういう仮想の感覚たちが、ヘッドギアの中で微睡む脳に「あなたは息を切らしている」と囁くから――私は鼓動を早くする。必死で両足を交互に踏み出す。「早く走り終わらないだろうか」と考え始める。
背後から咆哮が聞こえる。
――早く走り終わらないだろうか。
数本の木が折り倒される音。
――早く走り終わらないだろうか。
空を切った攻撃エフェクトが、闇へと希釈されていく音。
――早く――
「今だっ!」
暗殺者さんが躍り出る。
私が上げた合図の声が、鬱蒼と続く森の中で反響し終えるより早く――彼女の細い右腕は、月夜の中でぶんと振られる。刹那、斬撃を表す効果音が聞こえて――直後には、私の目の前をダメージエフェクトが埋め尽くす。視界というキャンバスにある「黒色」を探し出して、そっくりそのまま「緋色」に置換したような感じだ。
ついさっきまで私を猛追していた巨大な狼が、ポリゴンになって風に乗り散る。
暗殺者さんの持っているスキルや装備は、自分を認識していない相手への攻撃……要は、不意打ちにおいて絶大な効果を発揮するものばかりだ。囮役の私が誘導した敵を、持ち場に隠れている暗殺者さんが不意打ちして倒す……このやり方は効率が良くて、レベル的に格上の相手でも楽に倒せる。
『モンスター
私の呼吸音に被さって、いくつかのアナウンスが聞こえ始める。
『討伐対象:
『エクゾーディナリーモンスターが撃破されました』
『称号【盲目の虎威】を獲得しました』
『
「はぁ、はぁ……」
息を整えながら呟く。
「……やっぱりレアなモンスターだったんだ」
実際、そんな気はしていた。私たちはよくこの辺りのエリアで狩りをするけど、狼型のモンスターに出くわしたのは今日が初めてだ。樹冠から漏れ出た月明かりを頼りに、狼の残したドロップアイテムに目を凝らしてみる。毛玉、角、骨……あんまり「狼」って感じのラインナップじゃない。アナウンスでもちらっと言っていたけど、たぶん狼に擬態していただけで、本来の姿は別の何かだったんだろう。
まあ、それについては一旦置いておこう。
それより――と私は暗殺者さんの方を向いて、
「乙です!」
親指を立て、そう言った。
私は、シャンフロの中では普段より明るく振る舞うよう努めている。その方が何かと面倒が少ないからだ。「乙です」の後ろにビックリマークを付けるのも、シャンフロを遊んでいる間だけだ。そんな私の渾身の元気に、暗殺者さんは――。
「…………」
何か言葉を発する代わりに、右手の人差し指と、親指と、薬指とを複雑に絡ませて、よく分からないサインのようなものを作り、こちらに見せてきた。晦冥が視界をぼやかそうと、そのサインの意味不明さは一目瞭然だった。
夜風がさっと通りすぎ、樹葉たちを軽く揺らしていった。ゲームエンジンによって描画された無数の卵型のシルエットが、どこか絵本の挿絵のように見えた。
暗殺者さんがはっとした様子で、慌てて右手を背中に隠した。マフラーで隠された口元を見ずとも、鋭く光る瞳の動きを見れば、「またやってしまった」みたいなことを考えているのはわかった。
ふたつの出来事が同時に起きたのは、きっと偶然なのだろう。
◆
暗殺者さんはちょっと謎めいている。
まず、クランマスターの話によると、彼女は私より一か月ほど早くうちのクランに加入したという。
うちのクランは別に「初心者お断り」というわけではないんだけど、活動の中心がイレベンタルなので、最低でもそこにたどり着かないと加入できない。イレベンタルはフォスフォシエルートにおける六番目の街だ。そしてシャンフロを普通に攻略するなら、
そして、私がこのクランに加入してから一か月。
一か月と一か月半と一か月を合わせると三か月半になるから、暗殺者さんがシャンフロを始めたのは、少なくとも三か月半くらい前だということになる。彼女は
でも、わかるのはそれだけだ。
「少なくとも三か月半」という言葉が指定する範囲は広い。ちょうど三か月半かもしれないけど、半年かもしれないし、なんなら一年と数か月前――このゲームのサービスが始まった日という可能性もないわけじゃない。暗殺者さんのレベルは88……一昔前なら「レベルが
そういうわけで、暗殺者さんの経歴は謎だ。
彼女を取り巻く謎めいた要素は他にもある。
暗殺者さんの頭上に浮かぶプレイヤーネームは、よくわからない記号の羅列だ。スラッシュとかプラスとか
目を瞑ってバーチャルキーパッドを連打したり、泥酔状態で無理やり思考入力をしたりするとこういう感じになると思うけど、暗殺者さん自身が実際にそうしたのかは分からない。確実なのは、彼女の名前をどう読めばいいかわからないこと。私が「暗殺者さん」という呼び方をするのはそれが理由だ。
そういうわけで、暗殺者さんの名前も謎だ。
こんな風に、暗殺者さんの持つ謎を挙げ始めるとキリがない。ただ……どの謎も、一番大きな謎には負ける。経歴を隠してるプレイヤーなんて盗賊系統職にはよくいるし、変な名前を付けることで相手を威嚇しようとするPKerなんてのもいる。最大の謎は、そういう小手先の理由付けではねじ伏せられないものを持っている。
つまるところ。
暗殺者さんは、言葉を喋らないのだ。
◆
狩りが終わったあとは、喫茶店で反省会をすることになっている。
「……「
半透明のシステムメニューの向こうで、暗殺者さんが謎のハンドサインを出すのが見える。さっき森の中で見たのとはまた別の、やっぱり謎めいているサインだ。一拍おいて、彼女は例の「またやってしまった」の表情をする。そして右手をテーブルの下に隠すと、俯く。
暗殺者さんのハンドサインもやっぱり謎だ。まず、意味が謎。手話の一種かと思ったけど、検索エンジンで調べてもヒットしない。あと、意図が謎。毎度見せる「またやってしまった」の仕草を考えると、本人としてはハンドサインを出そうと思って出しているわけではないらしい。体に染みついてしまっていて、無意識のうちに出してしまう……とか、そういう感じなのだろうか? 疑問は尽きない。
「えっと……自分の持っている武器の外見を、視認している別の武器のものに差し替えるスキル、らしいです! 武器の性能はそのままだけど、変形に伴う当たり判定の変化はあり得る……なるほど。それでリキャストは……いや長っ!」
とはいえサインについて本人に聞くのもなんだし、というか聞いたところでどうせ答えてはくれないので、私は自分の考えを隠し、いつも通りの元気な口調で、目の前に連なるテキストを淡々と読んでいく。
「まあなんていうか……対人戦ではいろいろできそうですけど、私たちのモンスター狩りにはそんなに使えなさそうな気がしますね! 暗殺者さんは何か思いつきますか?」
と一応聞くんだけど、暗殺者さんが何も答えないのは分かり切っている。そして私が予期した通り、暗殺者さんは、
「…………」
沈黙のままに左手で謎のハンドサインを描き、一拍おいてやはり仕舞った。
暗殺者さんは言葉を喋らない。理由は謎だ。最初は本人に聞いてみたりしたけど、喋らないので当然答えもわからない。それに理由について質問すると、彼女はそっぽを向いてしまう。それを見ると、まるで自分が嫌われているような気がして――実は本当に嫌われている可能性にすら思い当たって。その感覚が嫌で、自然と質問することはなくなった。
ロールプレイでやっているのかな、なんて考えもするけど、それだとハンドサインの説明がつかない。「言葉を発さない」なんてロールプレイの中でも特に難しい部類なわけで、それを成し遂げるほどの演技力を持つ人が、無意識のうちにハンドサインを出してしまうようなミスをするかは疑問だ。仮に演技として、結局ハンドサインの招待は何なんだという話になる。
まあ、全部――わからない。性格、意図、他者への感情。機嫌については薄い表情から多少読めとれるけど、それだけだ。暗殺者さんのステータスは、ほとんどすべてが謎なのだ。
「…………」
私はふと次に出す言葉を見失い、これまた黙って窓の外を見る。さっきは「光を発している」程度にしか認識していなかった月が、今は模様まではっきり見えた。
◆
暗殺者さんの謎が解かれる兆しを見せないまま、私たちの日々は過ぎていく。
いくつかのイベントが始まっては終わり、ワールドストーリーだのグランドクエストだのが、私たちの見ていないところで進行していく。基本的に私たちはずっと狩りをして、戦争イベントやベヒーモスの攻略に時間を割かれている時期も、少し短縮して狩り続けた。森で、丘で、洞窟で――その場所は何度となく変更されていき、それに伴って二人のレベルも上がっていった。
レベル99になったところで、私はひとつ決断をした。
◆
ログインし、手始めにシステムメニューを開く。
最初に確認するのは時間だ――現在時刻は午前7時27分、今28分になった。移動時間を加味しても、出航まではまだまだ余裕がある。
次にインベントリを見る。愛用の武器、食糧、照明器具、その他諸々。必要なものはすべて揃っていて、逆に不必要なものは何もない。きょう出航する新大陸調査船に乗ることを決めてから、しばらく断捨離を行った結果だ。不必要なものはすべて売り払い、高額な乗船券の購入にあてた。
最後に――これはついでだけど、運営からのメッセージを確認する。おそろしく細かいアップデート内容の箇条書きを高速スクロールで読み飛ばし、イベントとかを告知するスペースを確認する。戦争イベント後初となる新大陸調査船の出航は本日……知ってる。バベルシステムの正式導入……ニュースで見た。ゲーム内掲示板における通報行為への注意喚起……関係ない。うん。
「こんなところかな」
と呟いてメニューを閉じたところで、暗殺者さんが目の前に佇んでいることに気付いた。
私と暗殺者さんがいるのはフィフティシアにある宿屋の一室だ。なぜ暗殺者さんが私の宿にいるのか? 第一に、逆だ。暗殺者さんが私の宿にいるのではなく、私が暗殺者さんの宿にいる。そしてその上で理由を言うなら、私が乗船券の確保に精力を入れすぎて、前日に泊まる宿の予約を忘れていたことだ。偶然暗殺者さんが用事のために宿をとっていなかったら、路上でログインとログアウトをしなければならなかっただろう。
私は暗殺者さんをちらりと見る。
彼女とは今日でお別れになる。私は新大陸に行き、暗殺者さんは旧大陸に留まるからだ。一応フレンドにはなっているけど、彼女は
私が予想していたのと違い、暗殺者さんとの別れを前にしても、あまり寂しさみたいなものは湧いてこなかった。新大陸の攻略にわくわくする気持ちが強かったからかもしれない。
「部屋、貸してくれてありがとうございました!」
なので私はいつも通り、元気に聞こえるよう意識して、暗殺者さんに感謝の言葉を伝えた。
「……」
暗殺者さんの口元がマフラーの向こうで緩んだ気がして――直後、彼女の右手が少し上げられた。私は「また例のハンドサインが出るな」と思って、何の気なしに彼女の右手を見て、そして――。
潮風を感じている気がした。
◆
潮風を感じている気がした。
暗殺者さんを中心にして、私たちの周りに砂浜が広がっている気がした。その向こうにある大海原を眺めている気がした。右方から細波の音が聞こえている気がして、左方から銃声が聞こえている気がした。もちろん私の足は宿屋の床板に着いているし、視界は壁に阻まれていて、聞こえる音も窓越しに飛び込んでくる通行人の話し声がほとんどだ。でも――そういう孤島か何かの風景を、私は確かに感じている気がした。
いや、ここはVRだから――「気がする」だけで作られた世界だから。感じている気がするものは、たぶん、実際に感じていた。
私ははっとして暗殺者さんを見た。より厳密にはその手を見た。右手にはいつも通り、多分「またやってしまった」結果出された謎のハンドサインがあって、しかし驚いたことに、謎のハンドサインは謎ではなかった。
『今までありがとう。新大陸でも頑張ってね!』
読めたのだ。
その指はいつも通り複雑に折れ曲がっていて、小指なんかゲームじゃなきゃ怖くてできないような曲がり方だった。当然、私がその意味を知るはずはなくて――でも、読めた。どうして?
私は視線を落とす。床を、あるいは浜辺を見つめると、記憶を漁って理由を探す。少しして、行き付く。
「……バベルシステム」
言葉は、波音にかき消された。
そうだ――確かバベルシステムは、話し手のイメージを聞き手の脳に送り込む技術。つまりハンドサインのような音声を使わない言語でも、イメージさえあれば意味が相手に届く。ついでに言えば――私の感受性は、少々高すぎる。暗殺者さんのハンドサインに強い「孤島」のニュアンスがあるなら、イメージの共有で孤島の風景が見え始めてもおかしくない。
波音、波音、波音。
銃声、銃声、銃声。
とめどなくやってくるそれらに圧倒されながら、私はもう一度視線を上げて、暗殺者さんの手元を見る。
『今までありがとう。新大陸でも頑張ってね!』
バベルシステムによって翻訳できる以上、ハンドサインには意味がある。それは今暗殺者さんが出してるやつだけじゃなくて、たぶん、これまで彼女が出した全てのサインに意味があったんだろう。更に言うなら、サインはすべて無意識のうちに出されるから――その内容が取り繕ったものである可能性は考えづらい。サインの内容は、暗殺者さんの本心だ。口から言葉を出さないのは……もしかして、単に話すのが苦手だからだったりするんじゃないか。
つまり、こうだ。
暗殺者さんはずっと、ハンドサイン越しに彼女自身の素を出していて。
ただ、私がそれを読み取れていないだけだった。
「……?」
私の視線に気づいたのか、暗殺者さんは首を傾げる。首を傾げたついでに「またやってしまった」ことに気付いて、右手を隠す。それと同時に、私の五感からは砂浜が消え、大海原が消え、細波が消え、銃声が消え、孤島が消える。
言いたいことはいくらでもあった。
ハンドサインの意味が分かることを伝えれば、暗殺者さんと会話をすることが可能になる。つまり彼女の謎を解くことができるということだ。
あと、彼女に謝らなきゃいけないこともある。例えば、自分が嫌われているんじゃないかと疑ったこと。気難しい性格だと勝手に断定していたのもある。いくらでも謝る事項はあるはずだ。
でも――口が開かない。
『どうしたの?』
と暗殺者さんが無意識のハンドサインを送って、再び孤島は眼前に現出する。絶え間なく聞こえる銃声がさっきより大きい気がして、そこで自分が怖がっていることに気付いた。
暗殺者さんの過去に触れるのが怖い。
私は感受性が高すぎるから――自分で作った元気な外面を噛ませないと、他者と話せもしないから。この銃声に近づいて、その先で何かを見るのが怖いのだ。
逃げよう、そう思った。
「……余裕を持って行動したいので、そろそろ行きますね! ありがとうございました!」
私は逃げた。
暗殺者さんの手から目を背けるように、くるりと踵をめぐらした。視界からハンドサインが消えた瞬間、孤島はもう一度溶け消える。思考は混乱しているけれど、その根底には安堵がある。あとは廊下に続く扉を開いて立ち去れば、もう暗殺者さんと関わることはない。暗殺者さんは声を出さないから――あるいは出せないから、私を言葉で引き止めることもできない。淡々と歩き、淡々とドアノブをひねり、そのまま振り向かず部屋を去る。それだけでいい。私は心臓の鼓動を自覚しながら、早歩きをして進んでいく。
背後からは何も聞こえない。
――早く歩き終わらないだろうか。
背後からは何も聞こえない。
――早く歩き終わらないだろうか。
背後からは何も聞こえない。
――早く――
「さ……っ、さよ、なら!」
絞り出したような、掠れた声だった。
私は振り向いた。振り向かずにはいられなかった。そこには孤島は現れず、暗殺者さんがひとり立っていた。口元は黒色のマフラーに隠されていて、でも声の出どころがあるとすればそこしかなかった。
暗殺者さんが私の眼を見る。
私が暗殺者さんの眼を見る。
ふたつの出来事が同時に起きたのは、きっと偶然なのだろう。
舞台はシャンフロだけど話の筋的に鯖癌なのでこっちの短編集にしました