季節は冬が過ぎ去り、春の足音が聞こえてくる三月初旬。その週末、中山レース場には多くの観客が詰め寄せ、その日のメインレースの時間を今か今かと待ちわびていた。皐月賞トライアル、弥生賞である。
今年の弥生賞は、例年に増して注目度が高い。それは三人の有力ウマ娘の集結によるものだ。その一角に、私はいる。午前中の集計では、場内のモニターの出走表の『セイウンスカイ』の名前の隣には、三番人気の表記が映っていた。二番人気には、スペシャルウィークの名前が挙がっている。ここまで三戦二勝、前走のきさらぎ賞を勝って重賞ウマ娘の仲間入りを果たしたばかり。
そのスぺちゃんを凌いで一番人気を受けたのは、キングヘイロー。キングも去年に早々と重賞タイトルを手にしているし、年末のジュニア級GI、ホープフルステークスでは二着に入着してその実力を示した。
「トレーナーさん、私おなか減ったなぁ~。どうでしょう、ここは一つ、美味しいお昼ご飯を買ってきて、セイちゃんのやる気向上に努めてみては~?」
「そうだね、時間もいい頃合いだし。・・・今日はリラックスしてるね。スぺちゃんとキングとの対決、緊張しないかい?」
「ん~、そうだね。なんか、不思議と今日はいい感じに力が抜けてるんだよね~」
トレーナーさんに初めて二人との対決を聞かされた時には、不安から複雑な心境を抱いた時もあったが、先週のウララとの珍道中もあってか、レースを前にして、私の心中は落ち着いていた。
「そっか。じゃあ何か買ってくるよ」
「お願いね~」
トレーナーさんに買出しをお願いして見送ると、近くの芝が広がる広場のベンチに腰を下ろす。そのまま空を見上げると、青い空に白い雲が流れていく。天気は良く、またバ場も良い。最終直線での上りもかなり速くなりそうだ。
二人と戦うのに、あまり上り三ハロンのタイムが速くなりそうなバ場は嬉しくない。二人とも、切れる末脚を武器にするウマ娘であり、対する私は前目につけての長く使える脚で戦うタイプ。そうなれば、後ろから上がってくるのに時間がかかるようなバ場の方が嬉しいのは本音のところ。だがいつでも自分が有利になる条件が来るなんてあり得ないので、現状の手札と状況を組み合わせて、最善手を打たなければならない。さあ、どうするか。
まあ、どうするもこうするも、選ぶ戦術は逃げの一手。メイクデビューの時のように、中途半端に先行策を取って押し切れるような相手ではない。最終直線でできる限りリードを作って、中山の短い直線を凌ぎきる。これで行くしかない。
「お待たせ、買ってきたよ」
しばらく考えに耽っていると、トレーナーさんがご飯を買ってきてくれた。お礼を言って、受け取ったのはベーシックな出店の焼きそば。タッパーに輪ゴムで留めてあった割りばしを取って、パチンと割ると同時に、トレーナーさんが持っているものに気が付く。
「あれ、新聞なんて買ってきたの?」
「うん、ジュニアCの時に取材されたでしょ?何か書いてあるかな~と思ってついでに買ってきたんだよ、ウマ娘エイト」
小さくたたまれた新聞を広げ、記事を流し見ていくトレーナーさんが、弥生賞特集のページを開いてこちらに見せてくれた。その見出しには、『三強衝突』と書かれている。
「『今年の弥生賞は三強対決の様相を呈している。キングヘイロー、スペシャルウィーク、セイウンスカイの三人だ』。うへー、私が三強の一角って、持ち上げすぎじゃない?」
「いやいや、実際人気投票の票数は上位三人とそれ以下で大きく差が開いてるからね。皆三強だって思ってるってことさ」
「『──両ウマ娘の前走以前の走りからもわかるように、キングヘイローとスペシャルウィークの末脚は特筆すべきところである。しかし、筆者が本命に押したいのは七枠十番に入ったセイウンスカイだ』・・・って、私が本命?プレッシャーだなぁ~」
そういいつつ、出走表で二人のメイクデビューから前走までを確認する。二人がこれまでに経験しているレース場は、東京、阪神、そして京都。なるほど、と一人得心して頷く。
「今日は君の方が、二人より有利だって思うでしょ?」
「・・・ほほ~う。トレーナーさん、その心は?」
「キングとスぺちゃんがここまで勝ってきてる東京レース場の直線距離は約525m、阪神は470強、京都の外回りが400。対して君がここまで二戦二勝してきた中山の直線は?」
「310m。この四大レース場の中で最も、短い」
今日のレース、初めての重賞という舞台で勝算がないのかと言われれば、そんなことはない。私に有利に働く条件、その最たるところが、この弥生賞が中山レース場で行われるという点。中山は最終直線が310mと、短い。それはどういう意味かと言えば、ラストスパートをかけてくる差し、追い込みの脚質のウマ娘がトップスピードに至ってからゴールまでが短いということだ。つまり、私が前で粘れば粘るほど、キングやスぺちゃんにとって苦しいレースになるということ。
「この有利な条件で、二人とどれだけ戦えるかだねぇ~」
「ああ、二人の走りをしっかりと感じてきて。必ず、本番でそれが効いてくるから」
任せて、と言ってお預けになっていた焼きそばに手を付ける。あと数時間で弥生賞、スぺちゃんとは選抜レース以来の対決。ただがむしゃらに走るだけでは勝てないことは、あの時に思い知った。頭を使わなくては、天賦の才には勝てない。スぺちゃんとも、キングとも違う、私だけの走りを。
『厳しい寒さが過ぎ去り、今日は暖かな日差しがレース場の芝を照らしています。中山レース場本日のメインレース、弥生賞発走の時間が近付いてまいりました。今年は十三人のウマ娘が、皐月賞へのチケットを掴むべく揃いました。中でも上位三人、キングヘイロー、スペシャルウィーク、セイウンスカイが、まさに皐月賞の予行演習と言わんばかりに集結したことに、ファンが大きく沸いております!』
実況が伝えるように、観客たちの声援が大きく聞こえてくる。スタートがスタンド前ということもあるだろうが、それ以前に、これまでの二戦と、この弥生賞の重みが随分と違うことが一番の要因であることは違いがない。何といえども、今年のクラシック三冠に向かう重要な一戦だ。否が応でも盛り上がる。その感性の中から、自分の名前が出てくるのは未だ慣れないが。
「セイちゃん、一緒に走るのは久しぶりだね!」
「スぺちゃん。選抜レース以来だね」
あれから随分と期間がたって、彼女もまた、一回りも二回りも強くなったのを感じる。そしてそれは、もう一人の彼女も同じことで。
「本番を前にして、弥生賞で一堂に会するとはね。ここは、幸先よく私が勝たせていただくわ!なんたって、私が今日の一番人気なのだから!おーっほっほっほ!」
高らかに笑うキング。彼女の言うようにこの弥生賞は、前哨戦の位置づけにして、既に本番と言っても差し支えない状況となった。なぜなら、彼女たちと並んで有力とされていた二人、エルコンドルパサーとグラスワンダーのクラシック不出走が表明されているから。
エルの場合は、以前から口にしていた目標、クラシック級でのジャパンカップ制覇を達成するべく、敢えて裏街道を通って秋までじっくりと力をつけていこうという目論見らしい。対してグラスちゃんの方は、故障だ。幸いと言っていいのか、足の骨に軽いひびが見つかり、後の競争人生に影響を及ぼすほどのものではなかった。しかし、治療のために春は棒に振ることになってしまった。
「人気はキングちゃんに負けちゃったけど、レースは負けないからね!」
「ええ、望むところだわ!」
「二人ともやる気だね~。もっとのほほんと行こうよ~」
「そういう割には、貴女、これまでで一番やる気が溢れてるように見えるのは私だけかしら?」
「・・・さて、何のことやら」
二人とゲートイン直前まで話していると、係員さんから、奇数番のウマ娘のゲートインを促される。キングは三枠三番、スぺちゃんは大外の八枠十三番だ。二人にジェスチャーでお先にどうぞ、と促すと、二人は頷いてゲートに入っていく。
奇数番の子たちのゲートインがスムーズに進み、すぐに偶数番の私たちの番になる。少し息を整えて、自分もゲートイン。
『今、全員ゲートインが完了しました。皐月賞に向けて最初に勝名乗りを上げるウマ娘は果たして誰なのか!体勢揃って・・・スタートしました!』
ゲートが開くと同時に飛び出して、周りを確認。ややばらついたスタート。私はまずまずの出で、そのまま位置を上げていく。予想通りスぺちゃんは控えるレースを選ぶようで後方待機。キングは好スタートから前目についたが、無理にはポジションを下げずに流れに乗る様子。それぞれが自分の走りに徹する形になったわけだ。
『さあ好スタートを決めた──が先頭を行きます。それから外からじわっとセイウンスカイが上がってまいります。その後ろにキングヘイロー、並んで──、外から──も行きます先行争いです』
先頭を行くウマ娘に並びかけるくらいに自分の位置をとり、追走する後続に気を配りながら最初の200mを駆けていく。観客からは大きな歓声が飛んでくる。これまでに感じたことのない人の圧を感じるが、あくまで平静に。皐月賞はこの比ではないのだから。
『各ウマ娘が最初のコーナーに向かっていきます。少し先行各バの位置が上がって、一番人気のキングヘイロー、中段の内と言ったポジション。後続は──、スペシャルウィークは外につけて後方から四番手、その後ろに──、最後方──と──と言った体制であります』
第一コーナーに入って、隣に並ぶ子の様子を横目で見る。あまり前に出る気負いがないのを確認して、それならばと速度を上げてハナを奪いに行く。競りかけられることもなく前に行かせてくれるので、遠慮なく一人逃げに持ち込ませてもらう。
『──ここでセイウンスカイ、果敢にハナを奪いに行きました!リードを二バ身から二バ身半ほど作って、交わされた──は二番手の位置に控えます。それをさらに交わそうと外から──が二番手を狙って加速。第二コーナーを回って中段では五枠の両ウマ娘、──と──が上がっていく様子。キングヘイローは内で抑えています』
第二コーナーを回り終わるころには、先ほどまでの二バ身半のリードが一バ身ほどまで詰めてこられる。だが慌てない。私の体内時計が正しければ、ペースは決して速くない。むしろ後ろに控えるキングとスぺちゃんをマークする皆のおかげで、スローペースに落ちているくらいだろう。向こう正面に入ってもうすぐ残り半分のハロンボードが見える。大体タイムは、57、58、59・・・。
『──スタートしてからの1000mを、今通過!前半1000mのタイムは61秒、弱と言った感じでしょうか。若干のスローペースで流れております。スペシャルウィーク、外目をついてじわりじわりと位置を上げていきます、残りは800m。第三コーナーに向かって各バの動きがどうなるか!』
第三コーナーに入った時点で、一度後方を確認する。二人は中段で終盤に向かって仕掛けどころを狙っているように見える。二人の近くにポジションをとるウマ娘たちは、二人の行くタイミングをうかがっているようで、ちらちらと様子を見ている。消極的なものだ。それでは勝てない。
『──第三コーナーを回ってきまして、逃げますセイウンスカイ、淡々としたペースで逃げ続けています。リードは変わらず一バ身。二番手追走は──で、600標識を過ぎました。その後ろが三バ身開いて──。第四コーナーに入ってスペシャルウィークも上がってきました!バ群の内を抜けてキングヘイローも前を狙います!』
後方からの圧を感じて、一瞬振り返る。内をついてはキング、外からはスぺちゃんが徐々に位置を上げて先頭に狙いをつけてやってきている。前に視線を戻せば、すぐに400のハロンボードを通過する。このコーナーを曲がり切れば、残りは短い直線と、中山の急坂。さあ、ここからが勝負だ。
『──セイウンスカイ、さらに加速をつけたまま最終直線に向きました!二番手を突き放して四バ身のリードと開いた!二番手に離されまいと粘る──。それを交わして早くもスペシャルウィークが三番手から二番手に上がろうとしている!キングヘイローは思ったように伸びてこないか三番手争い!残り200!』
来たね、スぺちゃん。ペースはスロー気味で直線も短い。君にとって条件は良くはなかったはずだ。それでも飛んでくるんだね。高低差2.2mの坂を残った力の限り全力で駆けのぼる。後ろから足音が近付いてくるのは、自分が減速しているのか、彼女が凄まじいパワーで上がってきているのか。最早振り返る余裕もないままに坂を登り続ける。残りは100mを切った。
『逃げるセイウンスカイ!追い込んでくるスペシャルウィーク!スペシャルウィークが迫る!』
坂を登りきって残り50m。あとたったの50mなのに、その距離はどうしようもなく遠い。疾風のように、迫ってくる彼女が、やってくる。もう、横目を向けることもできずにゴールを目指す。
『スペシャルウィーク迫る!三バ身二バ身一バ身、体半分!』
残りはわずかに20m。ああ、もう。また完璧に走った私を超えてくるんだもんなぁ。
『並んだッ!変わったッ!スペシャルウィークゴールインッ!セイウンスカイ二番手、その後離れてキングヘイローです!素晴らしい末脚を見せましたスペシャルウィークと内でよく食い下がりましたセイウンスカイ。勝ちタイムは2分1秒8です!』
「いやー参った!スぺちゃん、強いね~」
「ありがとう!でもセイちゃんもすっごく強かったよ!あのまま逃げ切られちゃうかと思ったもん!」
「にゃはは~。ま、本番でもお手柔らかにね~」
スぺちゃんに声をかけてから、トレーナーさんの待つ待機室の方に戻る。周りの誰も、私を見ていないことを確認してから、下唇を噛み締める。ああ、悔しい。今回はかなり完璧に近い走りをしたのに、交わされた。だが、今度は俯かない。泣いている暇などない。
「やあ、お疲れ様」
「トレーナーさん・・・」
待っていたトレーナーさんは、私にスポーツドリンクを渡してくれた。受け取ったドリンクを一口飲み、小さくため息をついてから火照った体を休ませる。
「ごめん。負けちゃった」
「ああ、でも次はどう?」
「ええ~?負けて傷心中のセイちゃんにすぐそんなこと言います~?」
冗談で返した返答に、お互い少しだけ笑って、すぐに真剣な態度に戻る。
「いや、本当に参ったね。レースの運びも悪くなかったし、最後はセーフティリードを作ったつもりだったのに、差し切られた。皐月賞でもこの末脚を使われるとしたら、いろいろと運が回ってこないとまた負けるかもね」
「うん、今回の内容自体は本当に悪くなかった。むしろ非常にいい。それに、いいところも見えてきたね」
「・・・まず、私の逃げが大一番でも通用することがわかった。それに、今回は半バ身差で負けた。展開次第でどうにかならない差じゃない」
この弥生賞は、自らのベストを尽くしたうえで、ねじ伏せられた。だが、勝負は水物だ。毎回ベストパフォーマンスとはいかない。ならば、うまくかみ合えば、逆転することだってできる。それを成すための、戦略だ。
「皐月賞は、絶対にとってみせるよ」
待ってなよ、スぺちゃん。次は、必ず勝つから。
ようやく弥生賞まで来れましたね。
この時のスぺちゃんの末脚は本当にえげつないので、見たことがない人はぜひ調べてみてください。