「……キャロル行ってきます」
イザークは娘が用意してくれた食事を食べたのち、小さな声で娘に朝の挨拶をして外に出た。
朝日が昇り始めた時間だった。当然一人娘のキャロルは眠っている。起こさない為に小さな声でひっそりとした挨拶。
今日も今日とて彼は忙しかった。
当然だが感染症に具体的な効果を示した薬の発明者である彼には、その薬を求める声や作り方をぜひ知りたいと言ってくる人が山ほどいた。
ハナから独占する気など一切ない彼は快く全ての要求に応えようとしている。
それだけにとどまらず、ありとあらゆる薬草やそれまでに多くの人を触診した経験から患者の診断方法やそのノウハウの講習も行っている。
彼のスケジュールには休みが殆ど挟まれておらず、分刻みでびっちりと埋まっているのだ。
唯一彼の譲れなかったものは娘と食事を一緒に取る時間だ。
家に帰らずに街の宿を拠点にした方がありとあらゆる効率が良く、彼の移動時間も減らせて休める時間は確保できる。
だが僅かであっても家族との時間、それだけは何が何でもこだわった。
「…………はあ」
つい溜息が出てしまう。
移動時間が億劫だとか、日に日に蓄積している疲労だけではない。
これは脳内の大半を占める。そんな彼の心残りは愛娘との時間が一切取れなくなってしまった事だ。
娘はそんな彼の心情を察して「大丈夫」だといつも答えるが、それが額面通りの意味では無く、娘が自分に気を遣って寂しさを堪えて口にする強がりである事に気が付けないほど愚かではない。
父がまとめた感染症に関するレポートを読むのが楽しいと娘は返したが、十代の子供が感じる楽しみじゃ無いだろう。
忘れそうになるが友達を失って気落ちしているはずなのだ。
それでも父が多くの人に必要とされているのをしっかりと理解して、迷惑を掛けまいと必死に頑張っている。
残酷なことだが本来であればもっと親に甘えて、そして迷惑をかけているはずの子供が世界や周りの多くの事を察して行動できるようになってしまったのは、父のせいだけでなく母がいないからこそ自分が自立しなければいけないと思わせてしまったからだ。
一方で彼は自分がいま奮闘すれば多くの人が助かる事は理解できている。
だからこそ頑張らなければいけない。そうでなければ錬金術師を名乗ってきた意味が無い。何よりキャロルの必死の強がりに報いえないではないか。
イザークに今出来るのは多くの人を救って、当たり前の日常を取り戻す。そしてまた娘との穏やかな日常に少しでも早く戻る事だ。
「…………よし頑張ろうか」
そこまで考えたのち気を取り直して決意を固める。
決して両方をおざなりになどしないと、どっちも満たしてこそ願いであり守りたいものなのだ。
それくらい我儘であってもバチなど当たるまい。
朝街に着くとすぐさま彼はいつもの触診からスタートする。
診療所やいくつもある急ごしらえでセッティングされた集会所のベッドの上には多くの患者が寝ていた。
重症化した者から、軽い風邪の様な軽症の患者まで、様々な人がベットや布団で横になっていた。そしてその周りをその親族や薬師や医師もどきの人達が忙しなく早歩きをしていた。
そんな自分達の事で手一杯で夜通しの作業でギリギリな人達もイザークが入って来ると一様に手を止めて意識を彼に向ける。
「イザークさん!」「先生!」「おはようございます」「待ってました!」
口にする具体的な内容こそ違いはあれど、多くの人が彼の凱旋を待ち望んでいたのだ。
最初の頃はこの先生呼びや尊敬される立場になるというのは慣れなかった。そもそも尊敬されたい呼ばれたいとも思って居なかったのだが。
彼の求める極地はそこでは無い。
「では今すぐに診断とやり方や手解きを始めようか」
ここ数日の経験からすっかり板のついた対応をする。
穏やかな雰囲気に風貌、丁寧な口調、まさに先生という呼称も納得といった感じだ。
彼にとってはもう既に日常、またはルーティーンになっている一日が始まろうとしていた。
「―ここはこうして」
「なるほど……そう言う事なんですね!」
朝日が昇り始めてから午前の指導や診断をスタートさせること既に数時間が経っており、太陽もあと少しで南中するであろう時刻に差し掛かっていた。
(ここもひと段落かな)
自分の仕事がひと段落したためそんな事を考える。
とは言ってもここが終われば、また次の現場なりセミナーが待っているため、彼に一切ひと段落などありはしないのだが。
そこで診療所の中が騒がしくなる。
ざわついている場所にイザークは視線を向けると、そこにはガラの悪そうな男たちと街の自警団の服を着ている男が入ってきていた。
「…………ッ」
彼は嫌な予感をしていた。
これまで目を背けてきた、都合の悪い事から視線を逸らしてきた。だが今は逸らす事が出来ない。自分の中にある直感がそれらを許さないのだ。
リーダー核とみられる自警団の男はキョロキョロとあたりを見渡す。そしてしっかりとイザークと目を合わせる。そしてニヤリとした口元を作った後、白々しく言った。
「イザーク・マールス・ディーンハイムはいるか?」
相手のまるでここに彼がいるのを知らないかのような言い方。
先ほどいるのはしっかりと確認したというのにわざとらしく言った。まるで相手を追い詰めるゲームをするかのような白々しいやり口。自分の圧倒的優位を見せつける卑しい態度。
先ほどまでの明るい雰囲気、未来への希望に満ち溢れた空気は一瞬で沈黙、そして凍り付いた。
これから何が起きるのか、それは皆が分かっている。
そしてこの場にいる人はどうする?と口にしたり露骨に視線を宙や地面に固定をしてひたすら無関係を装おうとしている。
それは傍から見れば非情かもしれないが、たとえ恩人だとしても自分が運命共同体になるのはそれはそれで嫌なのだ。
それを見たイザークは最初、余りの対応に怒りと悲しみといった複数の感情を感じる。そして自分のあまりにも都合のいい考えを恥じた。
自分の行ってきた英雄的行為に対して見返りを求めたつもりは無かったし、それを強要するなど以ての外だ。
そして何より自分は……
『…………』
「!」
そのようなことを考えていると周りの人達の視線がイザークの元へと集中していた。それに気が付いて驚いた息を漏らしてしまう。
直接的に言われたわけでは無かったが、この場で統一された意志は自分から名乗り出ろよという事か。
彼が名乗り出る前に自然と自警団だと思わしき男性の周りから人達がスーッと消えていき、イザークまでとの間の空間がまるでモーゼが海を割ったかのように一本の道が出来る。
あくまでも恩人である彼を直接的に売る様な行為は流石に気が引けたのかもしれないが、間接的にかつ大人数で一緒にやれば怖くないという事だ。
相手は売られた相手から人がいなくなったのを見てますます愉快そうな表情を作る。人の不幸は蜜の味というわけだ。
彼は今の状況に少しだけ目を瞑り何かを考える。そして目を開けて口を開く。
「ああ…イザークは…私だ……」
◎
連れていかれたイザークの身に起こったのは誰もが想定できる内容だった。
一室に連れていかれて椅子に座らされる。その部屋ではイザークは複数人に取り囲まれていた。
「つまりこれは―」
イザークを検挙した自警団の男は相手に対して机越しに向かい合って座っている。
そして机の上には感染症に有効的だといくつもの臨床ケースから実証されている、アルニムの薬効を解析、応用した末に生まれた彼の開発した薬だ。それが置かれている。
相手の男が語るであろう内容は誰もが予想できるものだった。
「聞いた話だと神の奇跡を騙ったものだと聞いたが?」
「そんなはずはない!それはキチンとした理論とこれまで多くの薬師や錬金術師の方たちの経験をもと裏打ちされた結晶だ!」
薬によって多くの人が助かったのは神の奇跡と断じられそうになったイザークは、いつもよりも強い口調で強く上から否定した。
それは決して自分の手柄を守りたいのではなく、錬金術師がこれまで脈々と受け継いぎ培ってきた世界と向き合うための技術であり、それを神様のおかげだと一蹴されそうになったのだ。穏やかな彼でも強く否定したくもなる。
それを聞いた相手はニヤニヤしながら、
「ああ、なんとおぞましい男ッ!まさか神という神聖な存在を騙り多くの民から富をむしり取ろうなどとは!」
「な……」
腕を抱いて体をくねらせながら、先ほどまでの相手の発言をすべて無視した言動を繰り広げる。
それに対してイザークは呆然といった感じになる。
何をされるのかある程度は分かってはいたが、実際に目の前で起こると自分が思っていた以上に喉に空気が上手く通らないのだ。
誰もがこうなる事は想定できるのだ。
起きた事実に間違いはないのか。そして間違いが起きて後になってそれが分かり、取り返しがつかない事になるのを未然に防ぐための取り調べではあるのだ。
だがもう事実が合っているのか間違っているのかなど関係ない。
彼らが望んで起こそうとしている事など一つしかなかった。
イザークはそれらの事を考え、そして脳内でまとめ、結論を口にする。
「…………出来レース」
彼の口にした単語、結局のところそれなのだ。相手がこれからしようとしている事などバカでも分かりきっている。
「あ、は~ん?」
その一言を男は聞こえなかったわけでは無かったが、わざとらしく耳に手を当てて聞き返す。
その相手のふざけた態度にイザークは机の下で膝の上に置いていた手をギュッと握って、溢れそうになる怒りを何とか押し殺していた。
それから起こったのは苛立ちすら通り越して、感情が無になる様な無意味な時間だった。
相手の指摘に対して理路整然とした反論をするのだが、それらすべてを相手は真面目に相手にしようとはしない。
全ての都合の悪い内容の反論を無視して、自分たちにとって都合のいい意見だけを通そうとするの繰り返し。
しかし尋問こそ苛烈なものだったが、肉体には一切合切手を付けては来なかった。
決して良心が痛むのではない。いつどこで手を出してくるのか、そればかりを意識させて精神的に追い詰めようという意図だ。
肉体を追い詰めるのは最後の魔女狩り本番に取っておこうという事か。
そんな無力ばかりを募らせるほかないイザークが考えていたのは、
(キャロル……)
己の娘の事だった。もう二度と会えない可能性が高い、自分と先立った妻の生きていた証である尊き命。
例え年齢以上の聡く、生活力があるとしても―
これから先親が居なくて大丈夫なのか?
錬金術師、叉は薬師として一定以上の知識や、これまでに彼が残してきた書物があるとはいえ子ども一人で何とかなるのか?
そもそも魔女狩りによって排斥された人間の子供はどうなるのか?
彼は人の親、そればかりを考えてしまうのだ。
不安への答えが出せないまま無情にも時間だけが過ぎていった。
◎
尋問部屋から出された時には日が既に傾きかけていた。
出されたと言っても無罪放免であるというわけでは決してない。これから始まるのだ。お祭りは、そう魔女狩りのメインディッシュが。
斬り捨て御免のサムライ魂が蔓延する東洋の島国では、個人が規定する無礼や勝手な裁量でその日のうちに裁く事など普通にある。
ヨーロッパ圏でも絶対君主や領主の類が独自の裁量を持つことは普通にあるのだが、今回は権力者の一強による行動ではなく部下や多くの人間が分担して作業をしている。なのに一切乱れなく話が進んでいく。
そもそもここまでしっかりと事前に相手の生活ルーティーンを把握して、難癖や理由を作り、裁判を終えて処刑、もしくは見せしめ行おうとしている。
これは最初から彼に恨みや目の上のたんこぶと思った人間の、何かしらの思惑や力が働いているとしか思えなかった。
手に縄を掛けられて街の真ん中に連れていかれる。
そこは魔女狩りの処刑が行われる際に使われる頻度の高い場所だった。
そして父であるイザークは娘のキャロルにはそれを見せないように細心の注意を払ってきた。
いずれは世界の真実の裏側に対して向き合うとしても、それは幼いうちに受け止めて心を占めてはいいものではないと判断したのだ。
彼は恨まれる理由に対して正直心当たりはなかった。
人が生きていく中で不和によって生まれる予期せぬ軋轢や悲劇など山ほどある。錬金術師として不和に対して向き合ってきた。だからバラルの呪詛による呪いを知っている、彼はその事を知っている。
だがそれでも彼は困っている人がいれば可能な限り手を差し伸べてきたし、同じように心を痛め、そして理解しようとしてきたのだ。
だからこそこの結果はとても悲しい。
―手を差し伸べてきた?
(いや…違うか……)
そこで気が付いた。
(今まで見て見ぬふりをしていた……)
気が付いてしまった。
(……魔女狩りによって理不尽に苦しむ人たちから目を覆っていた……)
錬金術師としての矜持。
不和で苦しむ人たちがいる事を知っていなだがどこかで目の前にいる排斥される人を見ていながらも自分にとって都合が開くどこかで目の前にいる排斥される人を見ていながらも自分にとって都合が開くかったり、己の身を切らなくてはいけないという状況であると尻ごんでしまったのだ。
だが誰もその判断を責める事など出来ようもない。
何故なら彼の双肩には家族の命が乗っかているのだ。自分の勝手な行動で家族を路頭に迷わせるなどあってはいけない。残酷だが面識のない人間と血を分けた家族、どちらを優先するかなど問うまでもないだろう。
そうしているうちにいつの間にか街の中央広場に連れていかれる。そこには既にいつでも火がつけられるように、空気の通りがしっかりとしている形で木材が組み立てられている。その中央には磔にする用のしっかりとした太い棒がある。
そこには自警団の関係者だけでなく、司教と思われる中年の男性もそこにいた。
「…………」
イザークはその様相をまるで遠くから俯瞰してみているようなぼんやりとした思考の中で見ていた。これから殺されるというのにどこか落ち着いた感じがしていた、恐怖はあるがそれ以上に自分の無力さによって頭が麻痺している。
そんな彼を司教や自警団の人間はニヤニヤと笑っている。
それだけではない、処刑の匂いを感じ取った街の人達が辺りにたむろしていた。だがその目は同情や恐怖ではなく狂気でギラついている。これから起こる殺戮ショーにどこか高揚しているようだ。
中世ヨーロッパでは娯楽が少なかった。そのため魔女狩り関連の処刑は世界に対して不満を感じる民への一種のストレス発散、そして興奮するスプラッターショーとして扱われていた。
(これが…自分の守ろうとした世界……)
この状況に対して人に失望をする、してしまう。
彼の心に呼応するかのように日が落ち始めて辺りが薄暗くなっていく。
そして木の棒に括りつけられて高い所につるされてしまう。辺り一帯にはそんな公開処刑を今か今かとうずうずしている人たちがいた。
(この景色はきっと自分が見逃していた人達も同じ……)
自分に集まる狂気の視線を真正面から受け止める。
理不尽な処刑を受けた人達もまた彼の見ている景色を見ているはずで、この場で何を思ったのだろうかと。
これは世界の人々の不和をどうにかしたという信念だけは打ち出すのだが、目の前で理不尽な仕打ちを受けている人たちを仕方ない事だと見逃してしまった自分への罰なのかと。
「イザーク・マールス・ディーンハイムは我々が神の子である事を忘れ、その恩を踏み倒すかのように神の名を騙った大罪人!その身を灰として償うがいい!」
『うおおおお!!!!』
狂騒と熱狂、そして木に火が付けられる。
木材は人が思っている以上に一瞬で火の手が回るわけでは無い。
木もまた生物で水を多く含んでいる、含みやすい物質でかつ家の材料に使われるほどの丈夫な材料なためじわじわと燃え広がっていく。そういう性質でなければ多くの古今東西の木造建築物が今の今まで残っているはずがない。
しかしここではその性質が仇となって、より時間をかけた見せしめの演出に一役買ってしまっている。
木が燃える際に発する熱とそれを見るオブザーバーたちの狂気が合わさって異様な熱気が中央広場を覆っていく。
(ごめんキャロル…………)
全ての理不尽を受け入れ、そして察した彼は娘の事だけを思っていた。
もっと一緒に居たかった。妻に似てもっと可愛く、そして奇麗になっていく姿を見たかった。なにより恋をして、子供を産んで人並の幸せを感じて欲しかった。
何よりもあの天賦の才の行き着く先をもっと見たかった。
決して親の夢や理想、そして欲望を後追いさせる気など毛ほども無い。
だがもし仮に自分と同じ方向を見てくれるのであれば、人と人とが繋がる事の出来る世界を求める求道者の一人に、そしてそれを後世に伝えて言って欲しい。
こんな理不尽がまかり通る世界を変える一助となって欲しい。
だからこそ今だけは自分の親が理不尽な形で殺されるというこの瞬間だけは見ないで欲しい。いつかは知る事になったとしてもだ。
そして知った時に思って欲しい。だが怒りに身を任すのではなく許して欲しいのだ。誰かが辛くてもこの理不尽のサイクルを受け止めて行かなくてはいけない。
脈々と受け継がれてしまっている負の歴史は、きっと誰かが全てを知ったうえで克服しなくてはいけない。
そうでなければ今文字や本によって記録が残されて歴史という学問が存在している意味が無いではないか。
「……キャロル…幸せに……」
それがイザークにとってこの世に残す最後の言葉となるはずだった。
だがここで彼にとって予想もしていない光景が目に飛び込んでくる。
「ぱ…パパ…っ……!」
「キャロル……?」
娘の突然の登場に呆然とするほかなかった。
◎
「な、なんでっ…!…ぱ…パパーッ!!」
幼い彼女には何がどうなって自分の父親が殺されようとしているのか理解が出来てはいなかった。
ただ分かるのはここで指をくわえてみていたら自分の親が死んでしまうという事だけ。だからこそ父が磔になっている場所に向かって走り出そうとする、するのだが。
「あっ!?」
キャロルの体が周りにいた大人たちによって取り押さえられてしまう。
子供にとっては大人の力はまるで万力かのようで体が一切前に進まなくなってしまう。
「何をっ!…!?」
彼女はそこで気が付いた。自分を取り押さえていたのはミリィの父親だという事に。
その事実に一瞬だけ頭の中に空白が生まれてしまう。分からない、理解出来ない、何故自分の父親を見殺しにしようとしているのか。
「な、なんで…?…パパと友達なんでしょ…?…どうして……」
「……………………」
キャロルの問いかけに相手は冷たい無機質な瞳で黙り込んでいる。
そうしている間にも魔女狩りという儀式は順調に進んでいく。
「それが神の奇跡でないのなら…人の身に過ぎた悪魔の知恵だ!」
「裁きよ!浄財の炎でイザークの穢れを清めよ!」
「不治の病を癒す薬を騙るなど……神をも恐れぬ愚鈍なる奇跡の代行者が!!」
その場にいた死刑執行人や司教、そして自警団の人間たちは口々に芝居がかった整理不を吐きながら火あぶり刑を続行していく。
キャロルにとって何が言いたいのか、何を意味しているのか理解が及ばなかったが、一つだけ引っかかる事があった。
「奇跡……?」
奇跡、それは普通であれば起こりえない人間が起こしえない超常的な出来事を指している。
だがキャロルが知っている限りイザークは過去に人が残してきた知恵をまとめ上げたうえで、今あるものを活かしただけの必然が起こした出来事のはずなのだ。
それを奇跡などという曖昧なものでまとめられるのは一切合切納得出来ようはずがない。
「違う!パパは穢れてない!あの薬は奇跡なんかじゃないもん!」
彼女のその叫びは誰の耳にも届きはしなかった。
無力だった。この場で何も出来ない自分が。
そんな事をしている間も炎の勢いは増していくばかりだった。それを見て無駄だとは分かっていても叫ぶしか出来ない。
「パパ!パパ!パパーっ!」
彼女は涙を滲ませながらも声を張り上げるが、だからと言って何かが変わる事などは無く世界は相変わらず残酷な事実だけを演出し続けていた。
そんなかでイザークは穏やかな笑みすらたたえていた。
「キャロル……生きてもっと世界を識るんだ……」
それは死に行く人間が伝えようとする命をかけた言葉。
父親が最愛の愛娘に伝えようとする魂の奥底から出てくる命をかけたメッセージ。
「世界を……?」
「それがキャロルの…―」
イザークは何かを言っていたが、人々の狂騒や叫び、そして業火の音によって掻き消されてキャロルの耳には上手く届かなかった。
それ以前に混乱のさなかにあった彼女には相手の言葉を上手く聞き取る事など出来なかったのだが。
そして彼の体が炎に包まれて見えなくなっていった。
キャロルはただ見ている事しか出来なかった。