LastStand 作:カニほっち
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ちゃりん、という乾いた金属音の後に、アイツの声が聞こえてきた。
「……はい。ですから、彼女を今日だけ全体練習ではなくこちらで預からせてください」
「そういうことは前日に話を通すべきではないの?」
「申し訳ありません。ですが、急用でして」
「……埋め合わせはきっちりしてもらうからね」
「お手柔らかに、お願いします」
校舎に残っている人も少ないから、スマホで通話している向こう側の声も、かすかに聞こえた。
別に、欠席にしてくれなくたっていいのに。
すぐに戻れる、ってわけじゃないけど、ちょっと休めばなんとかなる。
それにアタシは、こんなところでグズグズしてるヒマなんかないっていうのに。
「何がいい?」
「……なんでもいい」
そう言ってやると、アイツは少し考えてから、自販機のボタンを押した。
足音が近づいてきて、目の前にスポーツドリンクが渡される。
キャップを開けて口をつけると、ひりついた喉が少しだけ落ち着いた気がした。
「調子はどうだ?」
「……もう、大丈夫」
「そうか」
短く答えると、アイツは缶の蓋を開けて、隣に座ってきた。
珈琲の苦い香り。微かに漂う煙草の匂いと合わせて、嫌になってくる。
でも、今だけはそれがとても安心できる、優しいものに感じられた。
「たまにはサボるのも悪くないな」
「……これ、誰かに見られたらヤバいんじゃないの」
「お前もだろう」
否定はできない。きっとこれ以上違反を重ねたら、この学校にいられない。
そんなことまでコイツには、見透かされているようだった。
「模擬レースをやると聞いた」
「誰に」
「生徒会長から通達があった。先週あたりから予定は立っていたらしい」
「でも、アタシたちは聴いてないけど」
「おそらく明日には生徒にも通達がある」
……ああ、そうか。
ルドルフが私に伝えたのは、そういうことか。
「随分と期待されてるな」
「でも……」
「不安なのか?」
「……アタシが勝てるわけないよ」
頷くと、ひとりでに言葉が漏れた。
勝てると思って走っていた。いつか一着を取れると、そう思い続けていた。
でも、本当は違う。心のどこかで、諦めがついていたんだ。
負けるのは仕方ない。体が小さいから。他の連中が化け物だから。
それでも走ることができたのは、夢を見るのが楽しかったからだと思う。
いつか一位になって、他の連中にざまあみろ、って言ってやって。
そんな夢を見ているのが楽しかったから、走り続けられた。
でも、それが夢だって、叶うはずのない妄想だって、分かったから。
走り続けることに、もう意味なんてなかった。
「ほら」
ハンカチを渡されて、おもむろに首を傾げてしまう。
そこで初めて、視界が潤んで、アイツの顔がぐにゃぐにゃに歪んでいることに気がついた。
「……誰にも言わないでよね」
「ああ」
涙を拭う。目の周りがひりひり痛んで、喉の奥がまた熱くなってきた。
「昨日も確か、伝えたと思うが」
始まった話にハンカチへ視界を埋めながら、耳を傾ける。
「君は勝てる。それこそ、他の連中なんて簡単にねじ伏せられる」
「……けど、アタシはいつも負けてるよ?」
「走り方が君の脚質に合っていないだけだ。それさえ改善すれば勝てる」
「脚質?」
「つまるところ、だな」
そうやって言葉を続けようとしたところで、急にアイツが口を閉じて、
「……いや、やめておこう」
「何さ、急に」
「俺はお前のトレーナーではないからだ」
そんなこと。
「アンタがアタシのトレーナーになってくれればいいじゃん」
そのセリフを口にしてからすぐ、失敗した、と思った。
恥ずかしいからだとか、自信満々すぎるだとか、そういうこともあるけど。
何よりもアイツがすごく悲しそうな、残念そうな表情になったから。
「……ごめん。変なこと言った」
「いや……いいんだ」
会話が一度、そこで終わる。
できることなら、今すぐにでも逃げ出したかった。
何って、自分がされて一番嫌なことを、他人にしているのが分かったから。
誰にだって踏み入ってほしくない領域はある。
それをアタシは、自分勝手な気持ちで軽く踏み込んだんだ。
沈黙が流れてから、しばらく。
珈琲を一気に煽ってから、アイツがまた話し始めた。
「こんな話をするのも、情けないが」
「……うん」
「俺も、自信がないんだ」
ぽつぽつと続けられる言葉に、耳を傾ける。
「確かにお前には才能がある。その脚があれば、どれだけでも金が稼げるだろう」
「それなら……」
「だからこそ、俺がその才能を潰してしまわないか、怖くて仕方がない」
悪いけど、それを聞いて少しだけ安心した。
不安なのはアタシだけじゃないんだって、それだけで落ち着けた。
深く息を一つ。既に空になった珈琲の缶を見つめながら、アイツが口を開く。
「俺のような不出来な人間についてきても、時間の無駄だ」
「そんなことない」
「きっと俺を軽蔑する。どうしてこんな奴に、と後悔するだろう」
「いいよ。それでも」
「……他のトレーナーについてもらった方が、いいだろう」
「それだけは、嫌だ」
だって。
「アタシはもう、アンタしか信じない」
上っ面の言葉しか吐かない他のトレーナーなんて、いらない。
今のアタシには、アンタが必要なんだ。
「不安なのはアタシも同じ。このレースに勝てなかったら、そこで終わりだから」
「ああ……」
「けれど、もしアンタの言う通りにして、アタシが一位になれれば」
「……俺の言っていることは正しい、と言いたいのか?」
「そういうこと」
これが今のアタシにできる、精いっぱいの説得だった。
アタシはコイツの言うことを聞いて、一位を獲る。
コイツは一位になったアタシを見て、トレーナーになる。
そりゃ、そんな簡単に話が進むとは思ってないけど。
でもこれ以外の方法なんて、なかったから。
「これが、アタシの最後の抵抗なんだ。だから、少しくらい付き合ってよ」
それから、どれくらいの時間が流れたかは、曖昧だった。
ほんの数分だったかもしれないし、十数分の長い時間だったかもしれない。
ただ、アイツの答えを聞くのが怖くて、いてもたってもいられなかった。
やがて。
「……そう、か」
短く吐き捨てると、アイツは立ち上がって、空になった缶をゴミ箱へ捨てる。
「もしかすると、俺はそのために生かされているのかもしれないな」
「……何その言い方。仰々しすぎるっての」
「かもな」
短いその答えが、とても重たいものに聞こえたのはどうしてだろう。
差し出された手のひらは、アタシの目の前で硬く握られて。
「勝つぞ」
「……うん」
こつん、と。
アタシの小さな拳が、アイツの大きな拳とぶつかった。
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Laststand
「背水の陣」「最後の砦」、転じて「最後の抵抗」