LastStand   作:カニほっち

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■

 

 ちゃりん、という乾いた金属音の後に、アイツの声が聞こえてきた。

 

「……はい。ですから、彼女を今日だけ全体練習ではなくこちらで預からせてください」

「そういうことは前日に話を通すべきではないの?」

「申し訳ありません。ですが、急用でして」

「……埋め合わせはきっちりしてもらうからね」

「お手柔らかに、お願いします」

 

 校舎に残っている人も少ないから、スマホで通話している向こう側の声も、かすかに聞こえた。

 別に、欠席にしてくれなくたっていいのに。

 すぐに戻れる、ってわけじゃないけど、ちょっと休めばなんとかなる。

 それにアタシは、こんなところでグズグズしてるヒマなんかないっていうのに。

 

「何がいい?」

「……なんでもいい」

 

 そう言ってやると、アイツは少し考えてから、自販機のボタンを押した。

 足音が近づいてきて、目の前にスポーツドリンクが渡される。

 キャップを開けて口をつけると、ひりついた喉が少しだけ落ち着いた気がした。

 

「調子はどうだ?」

「……もう、大丈夫」

「そうか」

 

 短く答えると、アイツは缶の蓋を開けて、隣に座ってきた。

 珈琲の苦い香り。微かに漂う煙草の匂いと合わせて、嫌になってくる。

 でも、今だけはそれがとても安心できる、優しいものに感じられた。

 

「たまにはサボるのも悪くないな」

「……これ、誰かに見られたらヤバいんじゃないの」

「お前もだろう」

 

 否定はできない。きっとこれ以上違反を重ねたら、この学校にいられない。

 そんなことまでコイツには、見透かされているようだった。

 

「模擬レースをやると聞いた」

「誰に」

「生徒会長から通達があった。先週あたりから予定は立っていたらしい」

「でも、アタシたちは聴いてないけど」

「おそらく明日には生徒にも通達がある」

 

 ……ああ、そうか。

 ルドルフが私に伝えたのは、そういうことか。

 

「随分と期待されてるな」

「でも……」

「不安なのか?」

「……アタシが勝てるわけないよ」

 

 頷くと、ひとりでに言葉が漏れた。

 勝てると思って走っていた。いつか一着を取れると、そう思い続けていた。

 でも、本当は違う。心のどこかで、諦めがついていたんだ。

 負けるのは仕方ない。体が小さいから。他の連中が化け物だから。

 それでも走ることができたのは、夢を見るのが楽しかったからだと思う。

 いつか一位になって、他の連中にざまあみろ、って言ってやって。

 そんな夢を見ているのが楽しかったから、走り続けられた。

 でも、それが夢だって、叶うはずのない妄想だって、分かったから。

 走り続けることに、もう意味なんてなかった。

 

「ほら」

 

 ハンカチを渡されて、おもむろに首を傾げてしまう。

 そこで初めて、視界が潤んで、アイツの顔がぐにゃぐにゃに歪んでいることに気がついた。

 

「……誰にも言わないでよね」

「ああ」

 

 涙を拭う。目の周りがひりひり痛んで、喉の奥がまた熱くなってきた。

 

「昨日も確か、伝えたと思うが」

 

 始まった話にハンカチへ視界を埋めながら、耳を傾ける。

 

「君は勝てる。それこそ、他の連中なんて簡単にねじ伏せられる」

「……けど、アタシはいつも負けてるよ?」

「走り方が君の脚質に合っていないだけだ。それさえ改善すれば勝てる」

「脚質?」

「つまるところ、だな」

 

 そうやって言葉を続けようとしたところで、急にアイツが口を閉じて、

 

「……いや、やめておこう」

「何さ、急に」

「俺はお前のトレーナーではないからだ」

 

 そんなこと。

 

「アンタがアタシのトレーナーになってくれればいいじゃん」

 

 そのセリフを口にしてからすぐ、失敗した、と思った。

 恥ずかしいからだとか、自信満々すぎるだとか、そういうこともあるけど。

 何よりもアイツがすごく悲しそうな、残念そうな表情になったから。

 

「……ごめん。変なこと言った」

「いや……いいんだ」

 

 会話が一度、そこで終わる。

 できることなら、今すぐにでも逃げ出したかった。

 何って、自分がされて一番嫌なことを、他人にしているのが分かったから。

 誰にだって踏み入ってほしくない領域はある。

 それをアタシは、自分勝手な気持ちで軽く踏み込んだんだ。

 

 沈黙が流れてから、しばらく。

 珈琲を一気に煽ってから、アイツがまた話し始めた。

 

「こんな話をするのも、情けないが」

「……うん」

「俺も、自信がないんだ」

 

 ぽつぽつと続けられる言葉に、耳を傾ける。

 

「確かにお前には才能がある。その脚があれば、どれだけでも金が稼げるだろう」

「それなら……」

「だからこそ、俺がその才能を潰してしまわないか、怖くて仕方がない」

 

 悪いけど、それを聞いて少しだけ安心した。

 不安なのはアタシだけじゃないんだって、それだけで落ち着けた。

 深く息を一つ。既に空になった珈琲の缶を見つめながら、アイツが口を開く。

 

「俺のような不出来な人間についてきても、時間の無駄だ」

「そんなことない」

「きっと俺を軽蔑する。どうしてこんな奴に、と後悔するだろう」

「いいよ。それでも」

「……他のトレーナーについてもらった方が、いいだろう」

「それだけは、嫌だ」

 

 だって。

 

「アタシはもう、アンタしか信じない」

 

 上っ面の言葉しか吐かない他のトレーナーなんて、いらない。

 今のアタシには、アンタが必要なんだ。

 

「不安なのはアタシも同じ。このレースに勝てなかったら、そこで終わりだから」

「ああ……」

「けれど、もしアンタの言う通りにして、アタシが一位になれれば」

「……俺の言っていることは正しい、と言いたいのか?」

「そういうこと」

 

 これが今のアタシにできる、精いっぱいの説得だった。

 アタシはコイツの言うことを聞いて、一位を獲る。

 コイツは一位になったアタシを見て、トレーナーになる。

 そりゃ、そんな簡単に話が進むとは思ってないけど。

 でもこれ以外の方法なんて、なかったから。

 

「これが、アタシの最後の抵抗なんだ。だから、少しくらい付き合ってよ」

 

 それから、どれくらいの時間が流れたかは、曖昧だった。

 ほんの数分だったかもしれないし、十数分の長い時間だったかもしれない。

 ただ、アイツの答えを聞くのが怖くて、いてもたってもいられなかった。

 やがて。

 

「……そう、か」

 

 短く吐き捨てると、アイツは立ち上がって、空になった缶をゴミ箱へ捨てる。

 

「もしかすると、俺はそのために生かされているのかもしれないな」

「……何その言い方。仰々しすぎるっての」

「かもな」

 

 短いその答えが、とても重たいものに聞こえたのはどうしてだろう。

 差し出された手のひらは、アタシの目の前で硬く握られて。

 

「勝つぞ」

「……うん」

 

 こつん、と。

 アタシの小さな拳が、アイツの大きな拳とぶつかった。

 

■

 




Laststand

「背水の陣」「最後の砦」、転じて「最後の抵抗」 
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