キングヘイロー怪文書 夢の有馬に涙一つ 作:龍河神音
中山の緑のターフに風がそよぐ。少し強い風。けれどもレースに影響するほどではない。有馬記念、芝、2500m。トレーナーと歩んできた三年の集大成、有終の美を飾らねばならない。
キングたるもの泰然自若として挑むべきとは、高松宮記念の時のトレーナーの言葉だ。あの時は始めての短距離ということもあって、僅かに浮き足立ってしまっていたのを、的確に見抜かれてしまった。あの時以上に落ち着かないだろう、落ち着くなど出来ないだろうと思っていたこの有馬記念、しかし想像以上に心は凪いでいた。これもきっと三年間の成長の証なのだろう。そう自分に言い聞かせるも、きっと違うだろうなとも自覚していた。凪いでいるはずなんてない、落ち着いてなどいられない。だからきっとこれは――。
「キングちゃん……」
「あら、スペシャルウィークさん。せっかくの年末の大舞台なのよ。そんな顔してないでしゃきっとなさい」
ゲート前のターフにて、陰鬱げな表情を浮かべるスペシャルウィークにいつものように声をかける。見れば少し離れたところにはグラスワンダー、セイウンスカイ、エルコンドルパサーも、同じようにこちらを心配するように見つめていた。
「まったく、貴女たちに何かあったわけでもないだろうに、そんなしょぼくれた顔をして……。これじゃあせっかくの有馬も台無しね」
呆れたように、挑発するように。
最初に反応したのはグラスワンダー。一瞬怒りに眉を顰め、すぐに得心がいったとばかりに表情を緩める。いつもの柔らかい表情、しかしその裏には食い千切らんばかりの獰猛さを隠し持っていた。
「私たちでは役者不足と言いたいのですか?」
「今の貴女たちならね。いえ、今の貴女なら大丈夫そうだけれど」
「それが貴女の覚悟なのですね。ならば私から言うことはありません。全霊をもって差し切ってみせましょう」
それ以上の言葉はいらない。グラスワンダーは静かにゲートに向かっていく。
次に動いたのはセイウンスカイ。いつもののんびりした調子を崩さずに、ふぅんと呟く。
「そんなふうに侮っていると、ちょこちょこーって誰かがかっ攫っていっちゃうかもよー」
「あら、心配いらないわ、スカイさん。このキングが慢心するはずないもの」
「そーお? それならいいけどー。まあお互い
セイウンスカイはゲートに向かいながら軽く手を振る。のんびりしていて摑み所のない彼女だけれど、今日この瞬間ははっきりと分かった。全力で逃げる。だから安心して全力で差してこい。キングヘイローは瞳を閉じて小さく彼女に感謝を呟いた。
これで半分。改めてため息をつく。予想通りだった。
これまで三年間、一緒に戦ってきた。皐月賞はセイウンスカイに敗れた。日本ダービーはスペシャルウィークに敗れた。クラシックのジャパンカップはエルコンドルパサーに敗れた。去年の有馬記念はグラスワンダーに敗れた。それだけではない。普段のトレセンでの日々、共に切磋琢磨し互いをライバルと意識し合っていた。ずっとずっと一緒にいた。
だからこそ分かっていた。エルコンドルパサーもスペシャルウィークも優しすぎる。私が走る、それだけで二人の心には
「まったく……二人とも、しっかりしなさい!」
並ぶ二人の頬に手を当てる。蒼と紫、二つの瞳を覗き込む。
「貴女たちは本当に優しいのね。ええ、そうね、私が貴女たちだったら、きっと同じようになってしまうもの。きっと一緒に哀しんで、どうしようもなく不安になって、気に掛けて気に病んで、どうにも出来なかったに違いないわ」
でもそれでは駄目なのだ。
「よく聞いて。私は大丈夫よ。トレーナーも、きっと、うん、たぶん、おそらく大丈夫。貴女たちが心配しなくてもいいの。それに後で彼がこの有馬を見るときに、貴女たちの調子を崩した走りを見せてみなさい。あの人は悔やむわよ。この一流のウマ娘の勝利にケチをつけてしまった、なんて」
「でも、キングは、その……」
「言わなくていいわ、エルコンドルパサーさん。確かに無理してるのかもしれないわ。だって当たり前じゃない? 今だってこのレースをすっぽかして彼のいる部屋に行きたいわよ。でも、でもね、それはできないの。それはやってはいけないの。応援してくれる皆に失礼だし、一緒に走ってくれる貴女たちに失礼だし、何よりもあの人に失礼なの。たとえどんなことがあっても、リングの上ではマスクを着けなくてはいけないのよ。それが一流ってことよ」
「キングちゃん……」
「だって、そうじゃない。そう思わないと、私だって、私だって……」
お願い、分かって。これ以上言わせないで。そうしないと押さえつけていたものが飛び出してきてしまうから。
懇願するような目で、精いっぱいに顔をしかめて二人に語りかける。そうでもしないとせっかくのやせ我慢が崩れてしまうから。
きっと二人は分かっていたのだ。グラスワンダーとセイウンスカイ。二人はなんだかんだいって察しがいい。私の様子を見て、私の言葉を聞いて、私の真意を慮って。だからこそすぐにゲートに行ってくれたのだろう。こんな表情を見られたくないだろうと、そこまで察してくれて。
エルコンドルパサーも、スペシャルウィークも、表情を改めて頷いてみせる。分かった、大丈夫、受け取ったよ。心配かけてごめんね。だから安心して走って。私たちも全力で走るから。二人の瞳は力強かった。精いっぱいのキングヘイローの思いは、しっかりと二人に伝わった。
二人がゲートに入り、キングヘイローが最後に自らに割り当てられた枠に向かう。
これでいい。こうでなくてはいけない。だってそうでしょう、トレーナー。一流のライバルたちが全力で戦う舞台、そこで一位を取って一流であることの証明とする。それが、貴方と交わした約束なのだから。
「だから、いつまでも眠ってないで、早く起きなさい……」
ゲートに入る直前、思わず漏れた言葉は誰に聞かれることもなく、中山の空へと消えていった。
トレーナーは目覚めない。
二日前のクリスマス会のあと、交通事故にあってしまった。未だに病院で昏睡状態に陥ったままだった。
キングは過去を振り返らない主義よ。
だから、早く起きなさい。
一緒に今を歩くんでしょう。一緒に未来へ走るんでしょう。
お願いだから、貴方との日々を過去のものにしないで。