とある休日のこと、主人公は布団の中で昔のことを突然思い出す。
彼は小学四年生の頃、将来の夢を聞かれた際に、「蟹になりたい」と答えていたのだ。
何故「蟹になろう」とするのか。答えを追い求めていくうち、彼は予想もしていなかった事実を知ることになる。

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小説・蟹になろう

 子供の頃、将来の夢を口にしたのを、ふと思い出した。

 

 あの時は確か、宿題の作文を書けなかった代わりに、口頭で内容を説明したのだ。

 最後の作文発表だったから、小学四年生に違いない。

 五・六年生の時は、文集に載っただけだから。

 

 名前を呼ばれた俺が「作文を書いてない」と言うと、先生は「では、この場で言ってみて」と命じてきた。その対応が厳しいのか優しいのか、今でも判断に困る。

 

 席を立った俺は教師を見据え、胸を張って、教室で堂々と叫んだ。

 

「蟹です」

 

 大人になった現在の俺は、布団から飛び起きた。

 そして、ゆっくりと首を傾げる。

 

「……蟹?」

 

 当時十歳だった自分の考えが、さっぱり分からなかった。

 大方の人にとって同じだろうが、思想や思考は成長と共に変じていく。

 昔何かの本でかじった話によれば、大人と子供の脳を比べると、生理学的には「別生物」というぐらいに隔たっているそうだ。

 

 それにしても、何故蟹なのか。

 俺は休日だったこともあり、布団の上に座って、じっくりと考えてみた。

 

 おそらく、「貝になりたい」という有名過ぎる台詞に、影響を受けたのだろう。当時はやたらと戦争映画にハマっていたし、あり得ることだ。

 映画の内容や台詞の文脈からして、大人の倫理観では不謹慎にも思える。しかし、子供にそこまで求めるのも酷だろう。(自分のことだけれど)

 

 だとすると、「貝になりたい」と言い損ねて、「蟹」としてしまったのか。

 あるいは、貝だとそのままになるから、蟹に置き換えたのか。

 

 だが、記憶の中の自分は何故か堂々としている。

 台詞を文字って茶化している風には、とても見えない。

 

 ではあの時、俺は本気で蟹になりたかったのか。 

 

 俺は小学校時代の友人で、連絡の取れそうな奴にメールをしてみた。

 彼から来た返事は、意味不明なものだった。

 

『何それ、レスリングネタ?』

 

 俺は唸ってしまう。レスリングと蟹が、まったく結びつかなかったからだ。さらにそれらを自分に結びつけられるとは、到底思えない。

 真意を問うために再度メールを送ると、今度は身も蓋もないものが返ってきた。

 

『ググれ』

 

 言われたとおりに、俺はググった。

 俺はしばらくネットサーフィンをして、一時間を浪費する。貴重な休みの朝を無駄にした気分だったが、それなりの結果は得られた。

 

 うん、関係ない。レスリング関係ない、いろんな意味で。

 第一、当時は動画サイトなど存在していなかった。……時代が流れるのは速いものだ。が、今は感傷に浸るつもりもない。

 

 「ネタ」でさえないとすると、四年生の俺は冗談抜きに、蟹になりたかったのかもしれない。

 

 五・六年生で文集に同じ話題を載せた時には、確かサッカー選手だったはずだ。

 別にサッカーに興味はなかったけれど、皆がスポーツ選手を目指していたから、それにした。

 博士やパイロットよりは、現実味がある様な気もしていた。俺は両親も爺さんも博士だったから、そっちはあながち「遠い夢」ではなかったかもしれないが。

 

 何にしても、大人になってから考えてみると、こうした子供達の夢は微笑ましいというか、身の程知らずというか。

 もっとも、身の程知らずでなければ挑戦できないのだから、口にする権利ぐらいは誰にでもあるのだろう。

 

 三年生の時はどうだろう。

 この辺りになると、今はもう憶えてすらいない。無関係なイベントがポツポツと思い出されるぐらいで、特にヒントになりそうなものはなかった。

 

 角度を変えて、考え直そう。

 蟹になりたかったのが事実とすると、蟹になりたかった理由があるはずだ。

 

 俺はパソコンに再び向かった。

 かつての俺が蟹に憧れたのであれば、蟹がどんな生物かを知らなくてはいけない。動物番組で目にしたすごい能力に、感激していた可能性だってある。

 とはいえ、生物学的な意味での蟹を知っていたとは思えないので、分類などの基本情報は度外視していいだろう。

 

 ネットで調べようとして、俺はふと、指が止まってしまう。

 

 そもそも、何の蟹だろう。俺は一体、何の蟹に、なりたかったのか。

 

 タラバか、ズワイか。ケガニ、ワタリガニなんてのもビールに合う。

 暑い夏は仕事帰りに、スーパーの総菜コーナーでワタリガニの揚げ物を買って、家で冷やしてある高めの瓶ビールと一緒に……。

 

 俺は妄想を追い出してから、再び種類について熟考する。

 

 そういえば、「スベスベマンジュウガニ」なんてのもいた。確かこれは、毒蟹だった。

 面白い名前と特徴だったので、強く印象に残っている。将来なりたいものについて聞かれて、「蟹」なんて答えるひねたガキだ。ただの蟹じゃない可能性は大いにある。

 

 検索をしてすぐに、今度はスベスベケブカガニというのを発見してしまった。聴いたことはないはずだが、一応周辺も調べておく。

 調べれば調べるほど、妙な名前の蟹が続出してくる。キモガニ、タダタダタダヨウガニ、オオホモラ……。

 

 埒が明かない。とりあえず対象は、スベスベマンジュウガニに絞ろう。

 ざっと見たところ、この蟹は南関東から沖縄まで、太平洋沿いの海岸に広く棲息しているらしい。

 

 なんだ、結構普通にいるじゃないか。

 毒がある蟹とかいうから、希少生物だったりするのかと考えていたのに、案外ありふれた存在でがっかりしてしまう。

 

 裏を返せば、どこで見かけてもおかしくないということだ。

 幸い、中毒事例は食べてしまったケースばかりだったから、浜辺にいる蟹を無造作に食べでもしなければ、問題はないだろう。

 

 しかし、謎は深まるばかりだ。

 スベスベマンジュウガニは、強力な神経毒「テトロドトキシン」を有することもある。とはいえ、自分から毒を噴射することは確認されていない。敵に食べられなければほぼ無意味で、自切と関連付けられた説にしても、完全に受け身前提の能力だ。

 

 「動物の隠れた能力」といった話は昔から大好物だが、小さい頃の俺は、もっとガツンとした感じが好きだった。「虎とライオン、戦えばどちらが強い」とか、そんな話題にしか興味を示していなかったはず。

 ドクフキコブラとは言わないまでも、もう少し能動的な毒の使い方でなければ、面白がらなかっただろう。どうやら、スベスベマンジュウガニに憧れた可能性は低い。

 

 最大とされる蟹、タカアシガニについても調べてみた。近年の番組で目にしたからだが、ひょろひょろした外見は、「強さ」とは程遠そうだ。

 さらに実質的な「最強の蟹」候補である、タスマニアン・ジャイアントクラブを続けて調べたが……。こちらはこれまで、聴いたこともなかった。

 

 俺はパソコンを閉じた。

 例えばこの後図書館へ行って、蟹に関する専門書を読めば、何か新しい情報は手に入るだろう。それでも、かつての自分の心情に近づけるとは思わない。

 

 俺は近くの海岸まで、車を飛ばした。

 

 なんとか昼前に、目的地に着く。

 季節外れになりつつあるのか、それともそもそも人気がないのか、灰色の浜辺には誰もいなかった。

 俺が子供の頃、よく遊びに来た砂浜だ。どちらかというと俺は内気で根暗だったものの、行動力がないわけではなかった。突然遠出して、家族を困らせていたぐらいだ。

 

 図鑑よりも、こういった場所にこそ、ヒントがあるのかもしれない。

 近くにあった個人経営の駐車場に車を停め、俺はさっそく海岸へ向かう。

 

 砂浜で蟹を探すと、すぐに一匹、発見できた。

 頭部が広がった形をした蟹……オウギガニだ。赤みがかった甲羅は、お世辞にも綺麗とは言えない、まだら模様となっている。

 例のスベスベマンジュウガニも、同じグループに属していた。とはいえ、オウギガニは毒性がある蟹ではなく、きちんと食用に適している。

 

 オウギガニは上から覗き込んできた俺に驚いたのか、急ぎ足で去ってしまう。

 目で行方を追ってはいたものの、それだけでは間に合わなくなり、俺は歩いて蟹を追っていった。

 オウギガニはさらに慌てて、速度を上げてしまう。

 

 ついに俺は、追うのを諦めた。

 本気で捕まえようかとも思ったけれど、来る前に調べた情報によると、こいつらは意外と挟む力が強いそうだ。

 何も、思い付きで怪我をすることはない。

 

 俺は浜辺に腰を下ろして、自分の行動を顧みた。

 今のはどう考えても、蟹を追う者、天敵の視点だった。怪我することを忌避することさえ、蟹を食う鳥か、もしくは獣の目線だ。

 

 蟹に憧れた当時の俺を知るためには、むしろ蟹そのものにならなくてはいけない。

 何かになりたい奴を理解するために、目指すべきものになり切る。本末転倒のようだが、もはやそれしかないようだ。

 

 俺はしゃがみこんだ姿勢で、腰を丸める。

 両拳を横に出し、人差し指と中指だけを立て……いや、これは間違いだ。蟹には五本の指などない。蟹の「指」は二つと見る方が、まだマシだ。「使っていない指」など、あってはならない。

俺は一度拳を開くと、親指以外の四本をくっつけて強張らせ、親指だけ分けて鋏にする。

 これでいい。

 

 足をどうするかは問題だったが、これは気持ちでカバーしよう。普通の蟹は、鋏を含めて十本脚だ。なので、六本分の動きを想像する。

 

 俺は蟹の真似をして、ゆっくりと横移動を開始した。

 最初は動きづらかっただけだったが、段々と慣れてくる。空想上の足と連動して、俺の後肢も動いていく。

 

 一歩進むごとに、俺は他の生物になり切るということを理解し、他の生物の視点を得たような気がしてきた。この状態で背中から来られるのは、かなり恐ろしいことだ。

 

 数十歩ほど歩いてから、俺は立ち上がった。曲げられた腰を元に戻すようにストレッチ運動をして、大きく深呼吸を繰り返す。

 

 それから俺は、ぽつりと呟いた。

 

「何やってんだろう、俺……」

 

 

 

 何の収穫もないのも癪だ。この辺は駐車料金も()()()()()()やがるから、せめて元は取りたい。

 

 海岸近くに実家があったので、とりあえず顔を見せることにした。

 昼食がまだだったので、タダで食わせてもらえないか、という下衆な魂胆もあった。

 

 久しぶりに目にした我が家の様子は、それほど変わっていなかった。お袋が配置を変えた家具はあったけれど、驚くほどでもなく。

 強いて言えば、親父が死んでから独り暮らししているお袋が、やけに寂しそうに見えたぐらいだ。その所為だろうか。突然訪ねたこっちが引いてしまうほど、お袋は俺を歓迎してくれた。

 

 居間のソファに座って、俺とお袋は他愛の無い話をした。あまりに中身が無かったので、進行形で内容が薄れていく。

 近況は折に触れて電話で連絡していたし、社会人としては特に冒険しない俺の性格ゆえ、取り立てて報告するような大問題もなかったためだ。

 

 しばらくしてから、俺はついにお袋に切り出した。

 

「お袋さ、昔のことなんだけど」

「なあに、突然キリッとしちゃって」

「俺、昔さ、蟹になりたいとか言ってなかった?」

 

 それまで和やかに笑っていた母親が、急に真顔になる。顔面から血の気が引いていく様は、見ているこっちまでつられてしまいそうなほどだ。

 

「それ、どこで聴いたの」

「聴いたんじゃなくて、思い出したんだよ。三年生の頃だったっけ」

 

 俺はわざと、時期をぼかした。お袋を不安にさせないためだ。

 

「四年生よ」

 

 俺の台詞を訂正してから、初老の母親は目を瞑った。

 何回か深い呼吸を繰り返してから、彼女は口を開く。

 

「蟹になりたかった、理由が知りたいのね?」

「なんだよ。何か、知ってるのか」

「いいえ、知らないわ」

 

 拍子抜けして苦笑する俺だったが、相手は至極真剣そうだった。

 

「知らないというか、無いのよ、理由なんて」

「理由が、無い?」

 

 お袋が、ええ、と首を縦に振る。

 

「四年生の時。作文の宿題に困ったアンタが、昔なりたかったものを思い出したのよ」

「昔って、四年生より前、幼稚園とかか?」

「そうよ。それが蟹だった」

 

 俺は眉をひそめた。

 

「いくらなんでも、そんな小さい頃から『蟹になりたい』と思うような、ひねたガキじゃなかったと思うんだけどな。ライオンとか虎ならともかく。何かのキャラクターに憧れたとか?」

 

 昔やらされた通信教育のキャラクターに、蟹とタヌキが居たことを思い出す。それほど好きだったはずもなく、時期が微妙にズレている気がするのだが。

 お袋は首を横に振った。

 

「いいえ。アンタが小さい頃、蟹になりたかった理由は。……お父さんにあるの」

「親父に?」

「小さい頃のアンタに、お父さんが『蟹になりたかった話』をしたのよ」

 

 俺は目を瞬かせ、お袋の顔を覗き込む。茶化している風にも、ボケている風にも見えない。

 可笑しな話というか、ここまで来ると奇妙な話になってくる。

 

「じゃあ、何か? 親父も昔、蟹になりたくて……それに俺も、憧れて?」

「多分、少し違うわ」

「違うのかよ」

「憧れてなんかいなかった。アンタは、父さんがどうして蟹になりたかったのか、頭を悩ませていた。あの人は一切、説明しなかったからね。それで幼稚園の帰りに、突然海岸へ行って、蟹の真似をし始めたりした。蟹になりたい気持ちを、自分で感じるためにね」

 

 息を呑んでしまったが、お袋にその意味は分からないはずだ。

 理由を知りたくて、敢えて結果から先取しようという態度は、今も昔も変わっていないらしい。

 

「四年生の時に思い出した時も、同じことをしてた。なんで蟹になりたいのか分からず、蟹の気持ちになろうと真似したりしてた」

「三つ子の魂百までも、ってわけか。自分でも嫌になるね」

 

 茶化すように俺は口を挟んだが、母親にとっては地雷だったらしい。彼女は俯いて、鼻をすすり始めた。

 

「アンタは、大丈夫だと思ったんだけどね。……ああ、悔しい。これじゃあ、何のために普通の会社に入れさせたんだか」

「な、なんだよ、泣くなよ。よく分かんないけど、悪かったよ、軽口叩いたりして……」

「お父さんの遺言、見たわよね」

 

 唐突に話題が変わり、俺は困惑する。だが、答えられないほどではなかった。

 

「遺言って、あれ、お袋にほとんどって奴だろ? 俺は兄弟いねえし、別に今はそれで納得して……」

「遺産の話は、いいのよ。あっちは、遺言の大事な部分として、生前に専門家ときちんと決めておいた奴だからね。争う相手はいないけど、きちんとアンタにつなげられるように、アタシのも作ってあるよ」

 

 相変わらず、用意周到な父親だった。その親父が、ふらりと出向いた海岸で、高波に飲まれて死んでしまったのだから、人生は分からない。

 

「問題は、アンタに見せなかった方……父さんの、隠れた研究の方なの」

 

 俺は首を傾げてみせた。

 親父は生物学でも、遺伝子の研究を主な領域としていた。社会学や心理学など、色々と他分野にまで首を突っ込んだ好事家だったそうだが、わざわざ隠すような研究などあったのだろうか。

 

「お父さんは」

 

 軽く嗚咽しつつ、お袋は続けた。

 

「お父さんは、自分が蟹になりたかった理由を、ひそかに探し続けていた。その内、恐ろしいことに気が付いてしまったの」

「恐ろしいこと、だって?」

「お父さんは、定期的に、思い出すように、蟹になりたい理由を求めていたけれど。お父さんにも、その理由はなかったの」

 

 何故だろう。背筋が、少しだけ寒くなる。

 

「お父さんの蟹になりたかった理由は、お義父さん、アンタのお爺さんがそう話したからだった。お爺さんも、昔、蟹になりたがってたらしいのよ」

 

 予感はあったが、内容が現実になると急に居心地が悪くなってくる。

 久方ぶりの我が家が、蟲の巣窟にでもなっていた気分だ。

 

「それだけじゃない。アンタのお父さんは、家族史の研究をしてね。家系図、日記や手紙も含めて、先祖の個人情報を徹底的に調べ上げた。その結果、どの世代も、一度は絶対に『蟹になろう』としていた。その理由も、ないままにね」

「……それが、なんだよ」

 

 俺は必要もなく、攻撃的に返していた。お袋を追い詰めたくはなかったが、そうしないと俺自身を守れない気がしてしまう。

 

「まさか、遺伝だとでも言うのか。『蟹になろう』遺伝だって?」

「お父さんは、そう考えたみたい」

 

 俺は鼻を鳴らした。古いB級ホラーのようだ。古典的で、おぞましさに関してはまずまずだが、どうにも陳腐過ぎる。

 

「そんな限定的な願望、どうやって遺伝するんだよ。ヒトゲノムにでも書いてあるのか? こいつは『蟹になろう』とするって?」

「高波に飲まれたっていうの、嘘なのよ」

「……何だって?」

 

 お袋の言葉は、聞き流せないものがあった。

 

「親父のことか? でも、死因は溺死だっただろう? それはいくら何でも、嘘吐いたりは……」

「お父さんは、死ぬ前にね。浜辺で、蟹の真似をしそうになってたの」

 

 俺は黙らされてしまった。死後の解剖では、親父に認知症の気は無かったはずだ。

 なお、親父は茶目っ気からはほど遠い、厳めしい人柄だった。

 

 俺が沈黙している分、お袋が話を進めていく。

 

「昔から、思い出すように繰り返していたことだったらしいだけど。

 その日はそんな気分でもなかったのに、突然、蟹になる仕草を始めたらしいの。

 すぐに立ち上がったけど、すごくショックだったんだって。それはお義父さんも、その前の世代も、教えられずに続けてきた習慣だったから。

 知っていても、避けられなかった。分かっていても、やってしまった」

 

 知らずに同じことを繰り返していた俺は、まだ救いがあった。知っていても避けられなかったとなると、確かに親父は絶望的な気分になっただろう。

 

「お父さんの研究成果、門外漢のアタシには難しかったけど。噛み砕いておくと、つまりこういうことなのよ。アンタの遺伝子で、父系に代々継がれていたのは、正確には『ミラーニューロンの異常を引き起こす』情報らしいの」

 

 ミラーニューロン。

 ギリギリその言葉を知っていた俺は、持っていた適当な知識で、口を挟んだ。

 

「ミラーニューロンって、他者の行動から学習する時に使うんだっけか? 物真似を自分の行動にするとか、どうとか……」

「そうらしい、わね。どっちかというと教育学寄りで『現場主義』だったアタシは、言語習得とか生成文法関連でちらっと耳にした程度だけど」

 

 元言語学者とはいえ、お袋も専門外のことはそれほど詳しくないのかもしれない。

 

「これ以上は怪しいのだけれど、要はこのニューロンが極端に『発達』していて、特定の情報を引き継ぎ過ぎてしまう。……妙な真似の仕方をする、ってことかしらね」

「見たこともない、先祖の願望を? ミラーニューロンは『見て学ぶ』もんだろ?」

「その繋がり方が異状だとかどうだとか。……見せた方が、早いのかもしれない」

 

 お袋は一度居間を出て、数分後に戻ってきた。手には、数枚の紙の束を持っている。

 

 手渡された俺は、それをざっと読んでみた。

 学者の家に生まれておきながら、俺にはその手の才能は無かった。死ぬ気で目指せばできたかもしれないが、お袋はやんわりと拒絶していたし、親父も応援はしてくれなかった。

 

 その代わりと言っては何だが、おおよそのことを掴むのは得意だ。

 親父の残した専門用語のオンパレードも、噛み砕くことはそれなりに可能だった。

 これは下手をすると、母よりも得意だったかもしれない。

 

 読み終えてから、俺は自分が貧乏ゆすりをしていたことに気が付いた。

 

「要約すると、こうだ。

 親父は初め、ミラーニューロンと自閉症の関連について、遺伝子学方面から研究をしていた。

 その時、自身も自閉症スペクトラムの範囲で考え、『特定の行動を繰り返す』という部分に着目し、一種の当事者研究的に進めていった」

 

 自閉症スペクトラムは、スペクトラム、つまりは連続体として自閉症を捉える考え方だ。

 誤解を恐れずに言い切れば、「自閉症者」と「健常者」の間には超えられない「壁」があるのではなく、「距離」や「程度」の差があるだけということ。人間は誰もが皆、その範疇に入っているという考えだ。

 

 親父の世代では革新的すぎる発想だったはずだが、半ばディレッタントだった彼のことだ、すぐに飛びついたのだろう。

 

「この最初の研究は、本人でさえ、ほぼトンデモだったと認めている。

 『ミラーニューロン障害と自閉症の関係が薄い』という近年の動向をまったく無視して進んでいたこと、当事者研究としても稚拙だったことから、各方面から非難轟々だったわけだ。

 唯一褒められたのは、自閉症スペクトラムの考え方を早くに取り入れたことぐらい。

 ……が、副産物として、親父は自身の受け継いできた異常性に気が付いた」

 

 それがさっき、お袋の説明した部分だ。

 『蟹になりたい』という願望を、理由も知らず、世代を超えて続けてしまう。

 

「特徴は三つ。

 先行する世代が持つ特定の願望を、『告げてしまうこと』と『受け取ってしまうこと』。そして、『受け取ったことを忘れたり、無意識に追いやってしまうこと』。

 ……それゆえ、ミラーニューロンだけの異常とは言えないが、親父が推定できたのはミラーニューロンの部分だけだった。

 この願望の中身は、『どこかの世代で突然発生しただけ』だ。別に何でもよかったが、俺たちの場合は『蟹になろう』だった。それがこの不可解な神経システムにマッチしてしまった」

 

 どの世代か知らないが、俺は無性に恨めしくなる。まさかそんなものを受け継ぐことになろうとは、本人も考えていなかったのだろうが。

 

「発生し、受領の始まった願望は、世代を超えて強化されてゆく。初めの内は『蟹になろう』って冗談程度だったのが、徐々に海に近づいていき……。俺の爺さんの親父……つまり、ひい爺さんの時、ついに浜辺で蟹の観察を始める段階に至った。彼は動物になんか、興味もなかったのに」

 

 別に、蟹の観察をするぐらいは普通のはずだ。ふらりと出向いて、浜辺の蟹を眺めることが、悪いとは思えない。

 問題になるのは、この事実を知ってなお、親父は一連の流れに抵抗できなかったらしいことか。

 

「そして、爺さんも親父も、海で死んでいる。……つまり」

 

 ここで俺は、言葉を区切った。

 

「アンタ、大丈夫なんだろうね? 突然浜辺に出て、蟹の真似なんかしなかっただろうね?」

 

 目を赤く腫らし、心配そうな顔をしている初老の母へ、俺は肩を竦めて言ってやる。

 

「心配すんなって、お袋。こんなもの、親父の妄言だよ」

「妄言?」

 

 驚いた顔をした彼女に、俺は力強く頷いた。

 

「ミラーニューロンによる学習の詳しい仕組みは、よく分かってないって書いてある。

 それにこの研究だって、ほとんどが妄想だ。実証的な話は、専門だった染色体異常の部分だけだからな。遺伝子からミラーニューロンを形成する部分だって、はっきりとしたことは書いていない。

 つまりこれ、『砂上の楼閣』どころか『砂のお城』レベルの話なんだよ」

 

 逐一、親父の遺言を否定していく。

 死人を悪く言ってはいけないとは思うものの、残された家族を不安にさせるようなことを書くとは、少し親父を見損なった。

 

 お袋は、けれど、暗い顔のままで呟く。

 

「お義父さんもお父さんも、蟹になろうとして、最後は海辺で死んでいるのに?」

「……偶然だよ、偶然」

 

 俺は明るく笑って見せた。

 老いたお袋は、力なく微笑み返した。

 

 

 実家を出て、俺は駐車場に向かう。

 既定の時間までは、あと十分程度あった。早めに切り上げても料金は変わらないので、ギリギリまで時間を使ってやる。

 

 駐車場脇に立ち止まって、俺は海岸を遠巻きに見つめる。

 それまで気にしていなかった磯の香りが、鼻腔をくすぐってきた。

 これまでも潮風を気持ちいいと思ったことはなかったけれど、今日は特にベタベタと肌に絡んでくる気がする。

 

 俺は親父の遺言のことを考える。

 信じたくはないし、理性は拒んでいるのだが。

 直感のところで、どうやら俺は納得してしまっているらしい。

 

 親父の話は、仮説としてもぶっ飛び過ぎている。もはや悪い意味での「宗教」や「思想」の領域だ。

 だが、この「思想」の終着点は、無視できないものがあった。親父はこの異常を一般的に説明するため、自身の理論を他の人類にも、可能な限り適応しようとしたのだ。

 

 親父は一連の染色体異常によって受け継いでしまった遺伝子情報を、Narrow遺伝子と呼んでいた。

 さっき見た通り、これは中身は何でもいいのだが、適合した願望を無意識に先祖代々繰り返すものだ。

 

 俺たちは、「蟹になろう」だった。

 頭を抱えたくなるほど、滑稽で惨めな願望だ。だからこそ、分かりやすく、浮き彫りになってしまう。

 

 しかし。

 これがもっと、まともな奴だったとしたら、どうだろう。

 

 政治家になろう、金持ちになろう、芸術家になろう、小説家に……。

 こんな真っ当な願望だったら、彼らの世代を超えたリピートは周囲から異常に映らないはずだ。それどころか、上手く行った連中は血筋だなんて、もてはやされるのではないか。

 

 「人間が遺伝子の奴隷であるということ」の一端を、親父はその極端な「思想」で示そうとした。その正否に関しては、もしかすると永遠に分からないのかもしれない。

 

 例えば将来、「人類から政治家が無くなるような天変地異」が起きて。

 それでもなお、存在しない「政治家になろう」とする異常な個体が出てくることで、ようやく証明ができるようになる。

 言うまでもなく、そんな証明は不可能だ。多分、政治は消えない。芸術や小説なら、少しはあり得るかもしれないが。

 

 さらに父の「理論」によれば、この繰り返しの行為的特徴の一つは「理由を求める」ことらしい。何故自分がそうしたいのかを無暗に問い続け、いつの間にか本当になりたいのかも分からない物へと、なってしまう。

 

 そんな人間は数多くいる。ほとんどの人類が、その「理由の病」に罹っている。数多くいる彼らの原因が、Narrow遺伝子なのかもしれない。

 それは人生が上手く行っている限りは、どうでもいいことだ。そうであってもなくても、認知する必要が無ければ、病理ではない。

 

 俺たちのように、「蟹になろう」としていく異常な願望でなければ。

 当然、「蟹になろう」とする試みは失敗して、死にさえ至るわけだが。ひょっとして将来、世代を重ねていくうちに、体まで蟹に近づけてしまうのかもしれない。

 

 いわば、タイプミスした程度のズレで、俺たちは奇妙な一族となってしまった。代入すべき項目を間違えただけで、このザマだ。

 願わくば、こんな悲惨な連中が、今後出てこないことを祈るばかりだ。「蚊になろう」だとか、「塚になろう」だとか。

 

 俺はいつしか、海に向かって歩き始めていた。

 

〈了〉

 


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