ARIA The PETRICHOR 作:neo venetiatti
満月の夜にまた会いしましょう・・・
灯里はひとり夜の運河へと舵を切る。
なぜかはわからない。
でも、オールを持つ手が自然と動いている。
それは、自分でも不思議なくらいだった。
流れ行く風が涼やかになり、秋の到来を感じさせる季節になっていた。
晴れやかな空は、いつもより高く見えて、空気は澄みきっていた。
マルコ・ポーロ国際宇宙港の周辺は、サン・マルコ広場に近いことも手伝って、多くの人で賑わっていた。
宇宙港に到着すると、ホテルへ向かう観光客の多くは、ホテルが用意したボートに乗ってお目当ての宿へ向かう。
混雑する島の中を避け、外周を大きく回ってゆく経路をたどることも多い。
もうその時点で、ちょっとした観光を楽しんだような気分になる。
一旦腰を落ち着けたら、その後はゆっくり島内の観光にくりだす。
ゴンドラでの遊覧は、ネオ・ヴェネツィアを運河から眺める、最高の観光といえた。
ARIAカンパニーのウンディーネとしてひとり奮闘中の水無灯里は、マルコ・ポーロ国際宇宙港を横目にゆったりと、ゴンドラを進めているところだった。
その時だった。
近くをボートが勢いよく通過していった。
「はひっ!」
波を立てて進んでいったボートのせいで、ゴンドラが大きく揺らいだ。
「あわわわわわ~~」
灯里はぐっと腰をおろして、ゴンドラを安定させようと、必死にオールを動かした。
「ゴメン!悪い!」
ボートの男は、その一言を残してそのまま去っていった。
「お客様?お怪我はないですか?」
客たちに影響はないようだった。
「どういうこと?」
灯里は不満な顔で、小さくなってゆくそのボートを目で追い続けた。
灯里は、夕方近くになって、午前中に見たボートを見つけた。
「あのボート、確かにあれだ」
そのボートは、おしゃれなホテルで有名なアマン・カナルグランデ・ネオ・ヴェネツィアの前に停泊していた。
「このボートに間違いない・・・」
灯里は確かめるように、ゆっくりとボートの前を通過していった。
「あれ?もしかして、あの時の人?」
ボートの影から男が灯里に気がついて声をかけてきた。
「ああ~!やっぱりあの時の人!」
灯里は思わず男に向かって指を指していた。
「あの時はゴメン。急いでいたもので、ついあんなことになってしまって。本当に申し訳なかった」
男は深々と頭を下げた。
「まあ、そうですねぇ。特にお客様に怪我をされた方もいなかったわけですけど」
「そうだっったんだ。よかった」
「ああ~!良くはないです!」
「確かにそうだね。反省してる」
「本当ですか?」
「うん、本当」
「そうですか・・・ああ~違いますぅ~!納得している場合じゃないんです!」
「えっ?」
「えって、なんですか?」
「いや、ぷっ・・・」
「ちょっと!笑うってどういうことですか?」
「ゴメン」
「もしお客様に何かあったらどうするつもりだったんですか?」
「それはそうだ。本当に申し訳なかった。謝ります」
男は改めて頭を下げた。
「ウンディーネさん?君に迷惑をかけた分、謝りたい。何か僕に出来ることはないかなぁ?」
「出来ることと言われても・・・」
「そうだ。お腹空いてない?」
「えっ、お腹?」
「ちょっと、こっちに来れる?」
灯里は言われるがままに船着き場にゴンドラを停めた。
ボートのそばには、先程まで手入れをしていたのか、掃除やメンテナンスのための道具が置いてあった。
灯里が船着き場に降り立った時、男がボートの中からひょっこり顔を出した。
「これ食べない?」
男の手には、赤い包装紙に包まれた小さな箱があった。
「甘いもの好きですか、ウンディーネさん?」
「これは?」
「ウェルカムチョコレート」
「はぁ」
灯里はなんとなくその箱を見つめた。
「違うよ!」
「えっ、何がですか?」
「だから、客室からくすねたわけじゃないからね!」
「別にそんなこと思ってません」
「それならいいんだけど」
「どこから・・・」
「だから違うって!」
男は本気で憤慨していた。
「ここのオーナーが時々従業員に配るんだよ。お疲れさん、いつもありがとうって言ってね」
「そうなんですか。いいオーナーさんですね」
「うん、いい人なんだ」
灯里は男が差し出した、蓋のあいた箱を覗きこんだ。
「かわいい」
小さなチョコレートがいくつも寄り添うように並んでいた。
「女性客も多いからね。評判がいいみたい。味の方もだよ」
灯里はひとつつまんで食べた。
「おいしいー!」
「でしょ?」
ほほえんだ、優しそうな笑顔だった。
だから、余計に不思議に思えた。
「でもどうして、あんなことしたんですか?」
「あれはね、実はどうしても急がなければいけない事情があって」
男はチョコレートの箱を灯里に手渡すと、夕日にきらめく水面に視線を移した。
「プロポーズだったんだ。アクアを離れる最後の思い出に、その女性がが選んだ場所がこのホテル、アマンだった。その最後の日に、彼がやって来た。プロポーズをするためにね」
「そんなことがあったんですか」
「うん。でもボートでネオ・ヴェネツィア国際宇宙港に迎えに行った時は、彼女が出発する時間ギリギリだったんだ。僕はそんなこと知らないから、いつものように混雑を避けて、ゆっくりと島の外周を回ろうとした。でも、その彼の表情が明らかに普通じゃなかったから、話を聞いてみたんだ。そうしたら、そんな事情があったというわけ」
「だから、あんなに急いでたんですね」
「本当はボートを停めて、安全を最優先にしなければいけないことぐらい、僕だってわかっていた。それに、僕のしたことでアマンの名を汚すことになっていたかもしれない」
「でもその彼氏さんのために急いで行ったんですね」
「そう。僕はあれで良かったと思ってる」
「それで、どうなったのですか?」
「聞きたい?」
「それはもちろん聞きたいです」
男はにっこりと微笑んで振り返った。
「間に合った。彼女がちょうどこの船着き場にいたんだ。まるでタイミングを計ったようにね」
「ええー!」
「彼女もすごく驚いていたなぁ。僕はなんだかヒーローになったみたいな気分だった!」
「はひっ」
「感動的だった」
男は本当に嬉しそうな表情だった。
灯里は、夕日に眩しそうに微笑んでいる男の横顔を見つめていた。
すると不意に男と灯里の目が合った。
お互いそのまま見つめ合った。
一瞬の出来事だったはずなのに、時間が止まったように思えた。
「あの、ウンディーネさん?」
「は、はい。なんでしょうか?」
「今度改めて会ってくれませんか?」
「えっ?」
「ちゃんとしたかたちで、謝らせてください」
「あ、でも、これで十分というか・・・」
灯里はウェルカムチョコレートの箱を両手の手のひらに乗せていた。
「それはそれです」
灯里はARIAカンパニーに戻ると、片付けを済ませ、シャッターをおろした。
ふと振り返ると、テーブルの上のウェルカムチョコレートの箱が目に入った。
その箱を持って二階に上がると、ガラス戸を開け、テラスの手すりに寄り添うように立って、暗い夜の海をぼんやりと眺めた。
天上には、まあるい月が浮かんでいる。
「明日は満月かなぁ」
月明かりが、灯里のぼんやりとした顔を照らしていた。
灯里は、虚ろな表情のまま、チョコレートを一粒口に入れた。
忙しい時間の中、灯里は、頭の隅ではその夜のことを巡らせていた。
〈満月の夜に会いましょう〉
そのボートの男、アロンツォは、ARIAカンパニーに手紙を送ってきた。
灯里はどうしようか迷っていた。
仕事が立て込んでいた。
夕日に照らされたリヤルト橋をくぐると、親子四人の客とゴンドラの上で記念写真を撮った。
「カンパニーレ!」
するとそばをボートが一艘通りすぎて行った。
安全に考慮したゆっくりとした速度だった。
客を下ろすと、すでに遠ざかったボートの姿を捜していた。
もう時間が大分と過ぎていた。
灯里は、ARIAカンパニーへ戻る途中、ゴンドラを反対方向へと向けた。
すっかり暗くなった海を、岸辺の街灯と、舳先のランプを便りに進んでゆく。
アマン・カナルグランデ・ネオ・ヴェネツィアの船着き場には、灯りを灯したボートがあった。
もうすでに宿泊客の送迎は終わっている時間。
灯里がゆっくりとゴンドラを近づけてゆくと、それに気づいたアロンツォが顔を出した。
桟橋の反対側にゴンドラを着けると、降り立ったところに、アロンツォが立っていた。
「ありがとう、灯里さん。来てくれてうれしいよ。来ないんじゃないかと思ってたから」
「あっ、いえ、別に」
アロンツォはボートに灯里を招き入れた。
「灯里さんは飲める方?」
「いえ、まだ、そんなには」
アロンツォは、冷えたグラスに透き通ったミネラルウォーターを注いだ。
「今夜はお客様として、ゆっくりとくつろいでほしい」
灯里はそのミネラルウォーターを少しだけ口に注いだ。
「おいしいです」
「そう?よかった」
ふとボートから外に目を向けた。
今ようやく気づいた。
まんまるの月が、煌々と輝いていた。
灯里のその様子を、アロンツォは優しい眼差しで見つめていた。
月明かりに照らされた灯里の横顔は、どこまでも澄んだ水のように、そして、どこまでも優しく輝いていた。
「そうだ」
「どうしたんですか?」
「あのチョコレート、おいしかったです。ありがとうございました」
「それはよかった。いつでも言ってください。用意します」
「でもオーナーさんの計らいなんですよね?」
「大丈夫。オーナーは僕の親友です。いつでもオーケーなんです」
アロンツォは、ちょっとオーバーに言ってみせた。
「本当、なんですか?」
「あっ、灯里さん?信用してませんね?」
「そういうわけではないですが・・・」
二人は顔を見合せ、思わず笑っていた。
「実は今日のこと、料理長に話したら料理を用意してくれるって言って・・・」
「月」
灯里がポツリと呟いた。
「月がどうかしたんですか?」
「月って、なんだかとても引き寄せられますよね。いつまでもずっと見てられます。うれしいようで、でもなぜか切なくもさせるんです。不思議です」
「灯里さん」
アロンツォは、料理にかぶぜていたクロスをそのままにした。
そして、灯里に気づかれないように、そっと自分の身体で隠した。
「灯里さん?今夜はゆっくりできるのですか?」
「それが明日も朝から予約が入っていて、そんなにゆっくりはできないんです」
「そうなんですか」
「すみません。ご招待いただいたのに」
「そんなこと、気にしないで下さい」
「本当はお断りしようと思ってました」
「そうだったのですか?」
「ですので・・・」
「えっ?もしかして、わざわざ断るために来たとういうことですか?」
「スミマセン」
アロンツォは大きく目を見開いたかと思うと、笑い出した。
「ハハハハ!」
「そんなに笑わなくても、いいと思いますが・・・」
「灯里さん、あなたって人は、ほんとにやさしいんですね」
「そんなことはないかと~~」
灯里は、アマン・カナルグランデ・ネオ・ヴェネツィアの船着き場で、アロンツォと別れた。
アロンツォは、その姿が小さく見えなくなるまで、灯里を見送っていた。
ARIAカンパニーへの帰路の途中、灯里は、身体に力が入らなくてガックリきていた。
「ああ~お腹減った」
グゥーと鳴るお腹を押さえながら、ため息をついた。
「今夜はお客様としてなんて言ってたのに、ウェルカムドリンクがミネラルウォーターって、どうなんだろう?」
灯里は、すっかり夜となったカナルグランデを、静かに、そしてゆっくりと下っていった。
ふと空に輝く満月をぼんやりと見上げる。
〈あのままあそこにいたら、どうなってたんだろう・・・〉
そんな考えが、一瞬頭の中をよぎる灯里だった。
「ああ~おだんご食べたい」
Episodio 12 満月のドルチェ おわり