ARIA The PETRICHOR 作:neo venetiatti
春はまだなのかと待ちきれない。
時々顔を出す暖かなお日様が、春を恋しくさせる。
その日、ゴンドラに乗せた客は、あちこちきょろきょろ見回していた。
そして、不思議なことを話し始めるのだった。
「それでは出発します。お気をつけ下さい」
灯里は、その最初のひとかきにグイッと力を入れた。
座席に座っている客は、少し背もたれに寄りかかるように身体を傾けた。
だがその後、ゴンドラはスムーズに水面を進んで行く。
そこで灯里は、改めて客に声をかけた。
「お客様?先程のお話で本当によろしいのですか?」
「うん、いいですよ」
その客は、あっさりと答えた。
予定の時刻丁度にARIAカンパニーにやって来たその青年は、キャップのつばを上にあげ、前髪を目線ギリギリのところで揃え、そこにあるくるりとした瞳で、灯里を見上げていた。
背丈は灯里よりだいぶんと低く、少し年下に見える印象だった。
「おひとりですか?」
思わず回りをキョロキョロと見回した灯里。
「そう言ったはずですけど?」
その青年は、少し怪訝な表情でそう言った。
「す、すみません」
灯里はその青年の反応に、申し訳なさそうに応えた。
そして、店内で改めて話をしてみて、また驚かされた。
「ウンディーネさんが思うネオ・ヴェネツィアのいいところに連れてって」
「ネオ・ヴェネツィアのいいところ、ですか?」
「うん、そう」
その青年の明るく弾んだ笑顔に、灯里は真剣な表情で答えた。
「あのー、お客様?今日一日で全部を見て回るのは、少々難しいことかと・・・」
「えっ、何言ってるの、ウンディーネさん?」
「だって、ネオ・ヴェネツィアのいいところっておっしゃったので、そうすると全部になってしまいます。いかかがなさいますか?」
「あ、あのねぇ・・・」
結局のところ、ネオ・ヴェネツィアの誰もが思い描くであろう印象的な場所、そこならどこでもいいということになった。
ゴンドラは、ゆっくりとした速度でカナル・グランデを北上してゆく。
リアルト橋をくぐり、そのまま逆S字のコースをたどってゆく。
行き交うボートやゴンドラに慎重に進めながら、要所要所で観光案内を挟んでいった。
だが、その途中で灯里はあることに気づいた。
灯里がせっかく観光案内をしても、その青年は違う方向を向いている。
というか、そんなこととは関係なく、あちらこちらとキョロキョロ見回している状態だった。
「はひっ!」
「なに?なんか言った?」
「あ、いえ、その~~、なんて言ったらいいか・・・」
灯里は残念そうにうつむいていた。
「どうしたの?」
青年は心配そうに後ろを振り返って、灯里の顔を見上げた。
「そんなにつまらないですか?」
「えっ、何が?」
「私の観光案内、そんなに退屈だったのでしょうか?」
「観光案内?そんなことないよ?ちゃんとしゃべってたよ?」
「それはそうなんですけど・・・」
青年は、その大きな運河を見渡していたかと思うと、何かに気づいた顔になった。
「ごめん、ウンディーネさん。ボク、またやっちゃったんだね」
灯里は、すまなさそうに話す青年の言葉を理解できない様子だった。
「ウンディーネさんは、何も悪くないんだ。観光案内をちゃんと聞いてなかったボクが悪い」
「あっ、いえ、そんなぁ・・・」
灯里はどうしようかと困惑してしまっていた。
「何か理由があるのでしょうか?」
「理由。理由かぁ。そりゃそうだよね。理由もなしに何やってんだって話だよね」
「こんなこと、お客様に言うのもどうかと思うのですが、せっかくネオ・ヴェネツィアに来られたわけですから、出来る限り満喫してほしいんです」
「ウンディーネさんの言うこと、正しいと思う。でも、実のところ、ボクにも事情というものがあって・・・」
灯里は、その青年の話す事情を聞いて、一瞬あっけにとられてしまった。
「す、すみません。それはどういう意味なんでしょうか?」
「意味も何もないよ。その言葉のとおり、春の妖精を捜しに来たんだ」
「はぁ」
灯里のため息にも似た反応に、思わず振り返ってその顔を見上げた。
そして、プッと吹き出して笑いだした。
「ハハハハ!」
「お客様、そんなに笑わなくても・・・」
「ゴメンゴメン!そんなつもりじゃなかったんだけど、ウンディーネさんの顔を見てたらさぁ・・・」
青年はまた笑い出しそうになったいた。
「いくらお客様でも、そんな冗談・・・」
「違うよ。冗談じゃないよ。本当の話だから。春の妖精を捜しにきたのは」
青年は冗談のような雰囲気から一転、その横顔は真剣そのものだった。
「毎年のことだからね。今年はちょっと余裕をもって来てみたんだ。実際妖精が現れたら、もうバカなこと言ってられないくらい、クソ忙しくなるからね」
「はぁ」
灯里はまた気のない返事になっていた。
「あー、ウンディーネさん?信用してないでしょ?これだから最近の人はダメなんだよ」
「あの、忙しいに、クソって・・・」
「そっち?」
青年はまた大きな声で笑いだした。
「実際、妖精が姿を見せ始めたら、ホントに忙しくなるんだよ。だから、少しでも見かけたらすぐにでも準備に取りかからなきゃならないんだ。だから、早めに来てみたんだけど・・・」
2月の半ばにさしかかろうといしている時期のネオ・ヴェネツィアは、まだまだ寒さの残るオフシーズンといえた。
通りを行く観光客もまばらで、サン・マルコ広場では、子供たちが走り回るたびに、鳩が一斉に舞い上がる様子が繰り返されていた。
「あのー、準備って何をされるんですか?何か春に関係するご職業とか?」
「春に関係する職業ねぇ・・・い、いや、その前に大事な部分をあっさりとスルーされてるんだけど」
「妖精さんですか?」
「そんなお友達みたいな言い方して・・・」
灯里は、ネオ・ヴェネツィアの観光地らしいと思える場所を中心にゴンドラを進めた。
途中、ネオ・ムラーノ島まで足を伸ばした。
青年の顔は、あまり満足のゆくものではなかった。
だが、途中ところどころで微笑んで見せる表情を、灯里は見逃がさずにいた。
結局、予定していたところとは全く違う場所で、青年はゴンドラを降りた。
「この分だと、もう一度来ることになるかもしれないけど、その時はウンディーネさんにお願いするとしよう」
そう言うと青年は、灯里が見送ろうとゴンドラを降りた時には、すでに姿を消していた。
「なんだったんだろう・・・」
灯里は、ぼんやりと石畳の通りの先を眺めていた。
ある日、灯里は時間のできた午後に買い物に出掛けていた。
久し振りに晴れた気持ちのいい天気だったが、灯里の進むその通りは、丁度影になっていた。
だが、ふと目を向けた狭い路地の先に、一輪の花が咲いているのが見えた。
そこだけ、陽射しが差し込んでいた。
まるでその花のためだけに、太陽が光を降り注いでいるように見えた。
その時、あの時の青年の言葉が頭の中に甦ってきた。
〈春の妖精を捜しに・・・〉
そうだった。
それはまるで、この街に住む人たちですら気づいていないところで、春の到来を知らせているように見えた。
「でも妖精って言ってたけど・・・」
灯里は、そんな光景が他にも見つかるんじゃないかと気になりはじめていた。
そして、そこからしばらくの間、街のあちこちに目を向けて歩き続けた。
小さい広場の、噴水のそば。
子供たちが駆け回り、お年寄りがうたた寝をしている。
風に揺れる店先のタンブラーの花。
少しすると、雲が流れていった。
運河沿いのカフェのテーブルに座っているカップル。
子供が、どこからか拾ってきたガラス片をキラキラさせて、そのふたりは目を細めていた。
灯里は、いつからか笑顔のままで歩いていた。
まだ肌寒さが残るネオ・ヴェネツィアを歩きながら、時折見せるそんな光景が、灯里の心を温かくしていた。
それからしばらくして、あの青年が灯里の前にまた現れた。
今度は、客を降ろしたあと、狭い運河を進んでいるときだった。
青年は軽く手を振って、ゴンドラの上の灯里に合図を送っていた。
まるでそこを通るのをわかっていたかのように・・・
「お久し振りです、ウンディーネさん。いいですか?」
灯里は、その屈託のない笑顔に、自然とゴンドラを止めていた。
「久し振りですね。また捜しにきたの?」
「ウンディーネさんは、理解してもらってるので助かるよ」
青年は、灯里の助けなしに、身軽にゴンドラへ乗り込んできた。
「それで、どうだった?」
「何が?」
「やだなぁ、ウンディーネさん。気になって、捜してくれたんでしょ?」
「なんでそんなこと、わかるの?」
「見ればわかるんだよ、それくらいは。特にお姉さんはね、特別だから」
「私って特別なの?」
灯里はそう言って、嬉しそうに笑った。
そして、この数日で見かけた、春の到来を感じる光景を話して聞かせた。
青年は座席に座って前を向いたまま、うんうん頷いて、灯里の話を聞いていた。
「ウンディーネさん、ありがとう。そこまで話が聞けるなんて思わなかった」
すると、青年はくるりと振り返り、灯里の顔を見上げた。
「お礼に、ウンディーネさんには、どこよりもいち早く届けるようにするよ」
「届けるって、何を?」
「聞きたい?」
「それはやっぱり聞きたいというか、なんというか・・・」
「どうしよっかなぁー?」
「ああ~、それはお気になさらずに~~・・・スミマセン」
「ハハハハ!」
灯里の照れた苦笑いの前で、青年は笑顔いっぱいになって笑った。
2月もいよいよ終わりを告げようとした頃、いつもの元気いっぱいの声が、ARIAカンパニーの上空から聞こえてきた。
「ARIAカンパニーにお届けものなのだぁー!」
「おはようございまーす!ウッディーさーん!ご苦労様でーす!」
「灯里ちゃーん、おはよーなのだぁー!」
ウッディーは、灯里の目線までエアロバイクを下ろしてきた。
そして、灯里に小包をひとつ渡した。
「それ、なんか、春の匂いがするのだぁー」
「春の匂い?」
「変なこと言って、ゴメンなのだぁ。気にしないでほしいのだぁ」
ウッディーは、ちょっと気まずそうな顔で上空へ飛んでいった。
灯里は一階のテーブルのところで、その小包を開けた。
中には小さな瓶が二つ、可愛らしく並んで入っていた。
そしてそこには、一枚の手紙が添えられていた。
昨年、ネオ・ヴェネツィアへ旅行に来た際の、感謝の気持ちが記されていた。
「このお客様、アリシアさんのお得意様の方だ。まだ覚えていてくださったんだ」
灯里は驚きとともに、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「冬みかんのマーマレード」
いいみかんが手に入ったので、マーマレード・ジャムを作ってみたということだった。
灯里は、少し前から始めていたSNSに乗せることに決めた。
ARIAカンパニーの四季を感じてもらおうと始めたものだったので、ちょうどいい話題だと思った。
そして、お客様に感謝の気持ちが伝わればいいなぁと考えていた。
次の日、早速SNS に対する反応の電話がかかってきた。
「ちょっと、灯里ぃー?あれ、どうしたの?」
藍華の声がいつもより大きいボリュームで聞こえてきた。
「あれって?」
「あんた、それって、ひとりで食べようって魂胆なのね?」
「なんのこと~~?」
しばらくして、ゴンドラで直接やって来た人も出てきた。
「せんぱーい!灯里せんぱーい!」
「アリスちゃん、どうしたのぉー?」
「この時間なら、きっといると思いまして、来てみたんです!」
「そうなの?でもどうしたの?なんかあった?」
「なんかじゃないですよ!早く手を打っておかないとなくなるかもしれないと思ったんです!」
「なくなる?」
それは遠く離れたマンホームからも届いた。
〈灯里さん
お久し振りです。お元気ですか?
私の最近のブームは、パンです。
パンに合うジャムを捜して歩くことが、楽しみになっている今日この頃。
灯里さんは、何か最近身の回りに変化はありませんでしたか?〉
灯里はメールを読みながら、苦笑いになっていた。
「アイちゃん、ちょっとご期待には添えないかも・・・」
結局のところ、二、三日後、ARIAカンパニーに寄れるひとは立ち寄ることになった。
もちのろん、藍華、アリスは当然として、藍華にくっついてきたあゆみ、そしてアリスにくっついてきたアテナまで加わって、ちょっとした女子会が開催されることとなった。
その主役は、あの冬みかんのマーマレード。
「マーマレードが主役って、どうなの?」
「藍華先輩、いらないのなら別にいいんですよ。無理しなくても」
「べ、別に無理なんかしてないわよ!」
それぞれが持ち寄ったお気に入りのパンやクッキーを並べて、いよいよお茶会のスタート!
とそんなタイミングで、みんな憧れの人が登場することに。
「あらあら、奇遇ねぇ。今日はお茶会なの?」
「アリシアさーーん!」
「アリシアさん、どちらかと言えば、女子会といった方がいいかもです」
「アリシアちゃん、お邪魔してます♡」
「あらあら、アテナちゃんがそうなら、私もよ♡灯里ちゃん、お邪魔してもいい?」
「アリシアさん!どうぞどうぞ!」
「アリシアさんもSNSやるんだ。意外ですね」
アリスは何気なくポツリと呟いた。
「私、マーマレードのことなんて知らなかったのよ、アリスちゃん?」
「あ~、そうなんですね~、わかりましたぁー!」
「でも、アリシアさんは、参加されて当然なんです!」
「どういうこと、灯里ちゃん?」
「このマーマレードは、アリシアさんのお得意様から届いたものなんです。だから、アリシアさんのおかげなんです」
藍華は、そのマーマレードの入った瓶を手にとって眺めた。
「そうだったのね。なんか、私うかれちゃって、はずかしい」
「私も先輩と同じ気持ちです。すみません」
アリシアは、ニッコリ微笑んだ。
「謝ることではないと思うわ。こういうことは、みんなと分かち合ってこそだと思うの。だから、みんなで楽しくいただきましょう?ね?」
「そうね。アリシアちゃんの言う通りだわ。たくさんの人と喜びを分かち合うって、すばらしいことよね」
アテナはアリシアに微笑んで返した。
「じゃあお言葉に甘えて、そろそろいいっすか?どうすか、お嬢?」
「あんたねぇ、一体どこの店の人?」
「姫屋の藍華支店っすぅ」
「ちょ、ちょっと!そんな支店、どこにあんのよ!」
ワイワイ騒ぎが戻ってくるなか、アリシアは灯里を手招きして、少しみんなから離れたところに呼んだ。
アリシアの手には、マーマレードの瓶と一緒に入っていた手紙があった。
「灯里ちゃん、この手紙、読んだ?」
「はい、読ませていただきました」
「ホントに?」
「はい・・・」
灯里は困惑していた。
アリシアは、なんでそんなことを聞いてくるのか。
「じゃあもう一度読んでみてくれる?」
そんな二人の様子に、ほかのみんなも静かになっていた。
灯里は手紙を受けとると、冒頭のところに目を向けた。
「ARIAカンパニー 水無灯里様 昨年はネオ・ヴェネツィアへ行った際に・・・」
「ね?」
アリシアの反応に、灯里はわからないまま、その表情を見つめ返していた。
「そうねぇ。アリシアちゃんの言う通りよね。これは灯里ちゃんに届けられたマーマレードよね」
「アテナ先輩、それって・・・」
灯里は振り返って、みんなの顔を見た。
灯里を見つめる優しい眼差しが、そこにあった。
「灯里ちゃんが、私のお得意様って言ったときに、手紙を読んでみたの。そうしたら、ちゃーんと書いてあった。水無灯里様って」
「アリシアさん・・・」
「灯里ちゃん、あなたへの感謝の贈り物なの。このマーマレードは♡」
灯里は、アリシアの言葉に目をウルウルさせていた。
「それでどうする?灯里?」
藍華の言葉に、灯里は満面の笑みを浮かべて言った。
「もちろん、みんなでいただきましょー!」
ARIAカンパニーは、いつもの灯里ひとりの様子とはガラリと変わって、賑やかで華やいだ雰囲気に包まれていた。
「でも、冬みかんで作ったマーマレードって、なんだか春の便りを届けに来てくれたみたいよねぇ」
「アテナさん!恥ずかしいセリフ禁止ーー!!」
「ええ~~わたしなのぉ~~?アリスちゃ~~ん!」
「なんでそこで、わたしの名前がでてくるんですか?」
「だってぇ~~」
「あらあら、うふふ」
それはまるで、灯里のところに明るい陽の光が差し込んできたような、暖かい春のような光景だった。
Episodio 16 オレンジの日々 おわり