ARIA The PETRICHOR   作:neo venetiatti

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Episodio 17 バルカローレ

アテナ・グローリィは、間もなくやってくるコンサートのリハーサルのため、本番を行うステージ、サラ・コンチェルト・セシリアに来ていた。

 

ネオ・ヴェネツィアに出来た本格的なコンサートホールだけあって、音響効果も含め、素晴らしい造りとなっていた。

 

その楽屋で休憩をとっていたアテナは、ふらっとステージの袖までやってきた。

 

ステージの上の方には、沢山の照明機材が吊り下げられている。

 

客席では舞台監督がスタッフたちに指示を出し、その周辺ではスタッフたちが本番に向け、慌ただしく動き回っていた。

 

だがよく見ると、そのスタッフたちから離れた客席の端の方で、ふたりのスタッフが何やら話をしている様子が見えた。

 

男性スタッフが真剣な顔で何か話している前で、かなり若い女性スタッフが、何度も頭を下げていた。

 

「なんだろう・・・」

 

アテナは、なぜか気になって、その様子をぼんやりと眺めていた。

 

「アテナさん、衣装の最終打ち合わせです!」

 

スタッフのアテナを呼ぶ声が聞こえた。

 

「はーい!」

 

アテナは返事をして、楽屋に戻ろうと歩き出した。

 

チラッと横目でもう一度、先程の方向に目を向けると、その女性スタッフがうなだれたようにポツンとひとり、その場に立ちつくしていた。

 

 

 

アテナは打ち合わせを終え、帰ろうと通路を歩いていたその時、休憩しているスタッフの一団とは少し離れたところで、ひとり座っている先程の女性スタッフが目に止まった。

 

重ねた資材の上に腰かけ、小さなペットボトルをひとつ、両手で持っていた。

 

その様子を見たアテナは、そのまま楽屋へ引き返したかと思うと、またすぐにその場に戻ってきた。

 

そして、その女性スタッフのすぐ前まで近づいて立ち止まった。

 

「よかったらどうぞ」

 

その屈託のない声に顔を上げたその女性スタッフは、すぐ目の前にいる人物の姿に驚いて、目を見開いていた。

 

「アテナさん!」

 

「疲れている時は、これが一番なんですよ」

 

そう言って前に出した手には、バナナが一本握られていた。

 

「消化に良くて、吸収も早いんです。知ってました?」

 

「そうなんですか・・・」

 

「でもごめんね。一本しかなかったの」

 

アテナはすまなさそうな顔をしていた。

 

「そんな!とんでもないです!いただきますっ!」

 

その女性スタッフは勢いよく立ち上がると、そのバナナを受け取った。

 

するとアテナは、嬉しそうに微笑んでみせた。

 

「ねえ、いいかしら?」

 

「はい?」

 

「そこ」

 

アテナはその女性が腰かけていた資材の横を指さした。

 

「えっ、ここですか?」

 

「そう。いいわよね?」

 

「でもこんなところ・・・」

 

「いいからいいから」

 

アテナはあっけらかんとした顔で、そこに腰かけた。

 

「さあ、あなたも」

 

トントンと、すぐ横を手で軽く叩いた。

 

「じゃあ、失礼します」

 

「どうぞ」

 

その女性は、少し戸惑いながらもアテナの横に腰かけた。

 

「あっ、そうだ!」

 

「はい!なんでしょうか?」

 

「自己紹介まだだったわね?」

 

「えっ?」

 

「アテナ・グローリィと申します」

 

アテナは、冗談なのか本気なのか、にっこり微笑んで頭を下げた。

 

「それは当然、知ってますけど・・・」

 

「あなたは?」

 

「私はアイーダ。アイーダ・ルシェッロ」

 

「アイーダさんね」

 

アイーダは、どう接していいかわからず、ドギマギしていた。

 

それを察したアテナは、少しほほえんでアイーダの横顔に話しかけた。

 

「大変でしょ?」

 

「えっ、まぁ・・・」

 

「そうよねぇー。どんな仕事もやってみると大変だと思うのよね」

 

「そうですね」

 

「ねぇー。でもやりがいもあるんじゃない?」

 

「まあ」

 

「ないの?」

 

「そんなことはないですけど」

 

「そうかぁー」

 

アテナは手を後ろにつくと、バックヤードの殺風景な天井を見上げた。

 

「音楽、好き?」

 

「はい、一応」

 

「一応ってナニ?」

 

アテナはアイーダの言葉を聞いて、クスッと笑った。

 

「一応この仕事をやっているわけですから、嫌いってことないとおもいますけど」

 

「ふーん、そうなんだぁー」

 

「何か変ですか?」

 

「ううん、別におかしくはないわ。ただ・・・」

 

アテナは身体を起こすと、アイーダの顔に視線を向けた。

 

「この業界って、好きでやってる人が多いでしょ?みんなそれぞれ、こだわりがあるというか」

 

アイーダは、まだ真新しいが、そこかしこにキズがついた床に視線を落とした。

そして、少し間をおくと、ゆっくりと話始めた。

 

「わたし、音楽好きです。子供の頃から好きで、いろんな歌を聞いてました」

 

「そうなんだぁ」

 

「はい」

 

アイーダの目に輝きが戻ってくるのが、その横顔を見ているアテナにはわかった。

 

「だから音楽の仕事に携わることが夢だったんです。そうしたら、運よくアテナさんのコンサートスタッフの募集があって。これはチャンスだと思ったんです!」

 

「そ、そうなのね・・・」

 

「まさか、まさかのオンパレードで、なんと受かっちゃったんですよ!信じられます?」

 

「だって、だからここにいるわけでしょ?」

 

「ええ、まあ・・・す、すみません!」

 

「なに?どうしたの?」

 

「だって、ひとりでベラベラしゃべっちゃって」

 

「いいのいいの。気にしないで」

 

アイーダの頬を赤く染めた横顔は、その時の興奮を思い返してるようだった。

 

「それなら、ぜったい成功させないとね!」

 

「えっ?」

 

「がんばりましょう!コンサート!」

 

「ハイッ!」

 

他のスタッフから声をかけられたアイーダは、アテナに一礼して、その場を走り出した。

 

「ちゃんと食べるのよぉ~~身体に悪いからぁ~~」

 

アイーダはそう声をかけられるとその場に立ち止まった。

 

そして、何かゴソゴソしていたかと思うと、パッと振り返った。

 

両のほっぺをいっぱいに膨らませた顔で、必死に口をモグモグ動かしていた。

 

「大丈夫なのぉ~~?」

 

アイーダはまた一礼すると、振り返りダッシュで走り出した。

 

笑ったように見えた瞳に、アテナはうれしそうにほほえんで、その駆けてゆく後ろ姿を見送った。

 

 

 

 

 

アテナは、コンサートの本番を数日後に控えたある夜、プリマ時代から応援してくれていた実業家夫婦と一緒にゴンドラの上にいた。

 

「アテナさん、ありがとう。わがままいって悪かったねぇ」

 

「いいえ、気になさらないでください。いつも応援していただいているわけですから」

 

「アテナさんがネオ・ヴェネツィアで行うコンサートだけに、ちゃんと会ってお祝いを言いたくてね。しかも、あのサラ・コンチェルト・セシリアだ」

 

サラ・コンチェルト・セシリアは、そのこけら落としの公演をアテナが行ったことで、一気にその名が知れ渡ったホールだった。

しかも、あまりの評判だったことから、この度、初演からそう時間が経っていないにも関わらず、再演となった。

 

「アテナさんのコンサートを、あのホールで観ることができるのは感無量と言えます」

 

「あのホールの建築に関わってらしたとお聞きしましたが?」

 

「そうなんです。あのホールには少し思い入れがありましてね」

 

「どのような思い入れか、お聞きしてもいいですか?」

 

「ええ、構いませんよ。あそこは、特に名前にこだわりました」

 

「あのサラ・コンチェルト・セシリアという名前?」

 

「はい。私が無理を言って、そうさせていただきました」

 

アテナはその名称に関して、ちゃんと聞くのは初めてのことだった。

 

「実は、あの名前は、ある音楽家に由来したものなんです」

 

ランプの灯りに見えるその紳士の顔は感慨深い表情をしていた。

 

「その昔、マンホームで活躍していたその音楽家は、多くの人たちから慕われ、愛されていました。だが、志半ばでこの世を去ることになってしまったのです。そのことに悲しんだ者たちが教会を建てた。そして、その音楽家の洗礼名から、名前を聖セシリア教会としたわけです」

 

「そんなことが・・・」

 

「実はそこに私の曾祖父が関わっていました。私の父が幼い頃、このアクアに移住するときに、そのことを伝え聞いていたようで、それが私にも受け継がれた」

 

その実業家の男性は、その時のことを思い出すように、感慨深げに水面を見つめた。

 

「だが、月日は流れ、いつしかあまり語られることもなくなってしまった。そしてアテナさんもご存じの通り、ヴェネツィアは水没してしまった」

 

「それって、マンホームのヴェネツィアの話だったんですか?」

 

「そうなんです。まだなんとかゴンドリエーレが存在していた時代です」

 

「そんな時代・・・」

 

アテナは、はるか昔の話に、驚きと同時に不思議な気分になっていた。

 

「アテナさん?」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「アテナさんがウンディーネとしてよく歌われていた歌、あの歌のことを一度お聞きしたかったのですが」

 

「どの歌でしょうか?」

 

「ええと、あれは確か・・・」

 

その時だった。

 

どこからか歌声が聞こえてきた。

 

遠くからでもよく聴こえる、澄んだきれいな歌声。

なんの淀みもなく、どこまでも清らかで、何にも汚されていない純粋無垢な響き。

 

ゴンドラの上の三人は、その瞬間、黙り込んでしまった。

そして、その声に聞き入っていた。

 

「とてもきれいだ」

 

「はい。とてもいい歌声です」

 

「それに、先程私がアテナさんに聞きたかった歌、実はこの歌のことなんです」

 

アテナはそれを聞いて、少し驚きと戸惑いを感じていた。

 

アテナには、その曲がなんなのかは、わかり過ぎるくらいわかるほど、聴こえてきた瞬間にわかっていたからだった。

 

それは、いつも自分が口ずさんでいた歌。

 

「バルカローレといいます」

 

「バルカローレ?」

 

「舟謳です。ウンディーネがゴンドラを漕ぎながら歌う、いわゆるカンツォーネです」

 

「そうか。舟謳か・・・」

 

「この歌が何か?」

 

「この歌の由来を、アテナさんはご存じですか?」

 

「いいえ、申し訳ありません。そこまでは存じておりません。ただ、かなり古くから伝わっていた曲だと聞いたことはあります」

 

「そうですか」

 

ゴンドラは、歌声の主のところに近づきつつあった。

 

そしてそれは、アテナがコンサートを行うサラ・コンチェルト・セシリアが、少しずつ、その姿が見えてくる場所でもあった。

 

「先程の音楽家のことなのですが、舟謳を作っていたと記録に残っていました」

 

「それって、まさか・・・」

 

「いえいえ、今となっては、どんな歌を作っていたかは、もうわかる術はありません。ただ、アテナさんの歌をいつも聴いていて、なんともいえない郷愁を感じてしまうのは、なぜなんだろうと。そんなことを思っていたものですから」

 

「もしかしたら、あのバルカローレが、その音楽家の方の曲かもしれないと思われたと?」

 

「もしそうだったら、という私の願望です。時を越えて、歌い継がれる。そんなロマンチックな夢を見たくなったんです。それもこれもアテナさん、あなたのおかげです」

 

「わたしなんですか?」

 

「はい。アテナさんの歌を聴いていると、きっとそうに違いないと思いたくなったんです」

 

アテナは、そんな時を越えた夢物語に、もし自分が関わっていたとしたらと、胸が熱くなる想いだった。

 

ゴンドラがゆっくりと静かに、歌の主の姿が、街路灯の灯りに浮かんで見えるところまで近づいていた。

 

街路灯に浮かび上がったその横顔は、先日近くで会った人物の顔に違いなかった。

 

だが、その表情は、同じ人物には思えないほど美しく純粋で、歌うことに喜びがあふれていた。

 

アテナは、もう一度その歌声の主に、驚かされることになった。

 

そして、その向こうには、ライトアップされたサラ・コンチェルト・セシリアの、その美しい外観が、夜のネオ・ヴェネツィアに浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 

本番のステージの前日、ゲネプロが行われているサラ・コンチェルト・セシリアは、緊張感に包まれていた。

 

スタートから最後まで、本番と同じ内容をすべて通して行う。

 

よほどのことがない限り、途中でストップすることはない。

 

アテナは、曲順や衣装チェンジのタイミングなど、打ち合わせの内容をしっかりと確認していた。

 

特に凝ったステージにするのではなく、あくまでもアテナの歌を聞いてもらうことに重点を置いた内容になってはいたが、それでもリハーサル通りにいかないのが本番というもの。

 

ステージ袖の緊張感は、半端ない状態になっていた。

 

「アテナさん、打ち合わせ通り合図を出しますので、そうしたらこれを持ってステージに出て下さい」

 

それは、金色に輝く、オールを想像させるような形の杖だった。

 

アテナはネオ・アドリア海に現れた海の女神、という設定の演出だった。

 

プリマ・ウンディーネの頃を知っている者からすると、セイレーンという通り名に相応しいと、誰もが思うに違いない姿をしていた。

 

その上、歌を歌っている時のアテナは、その場にいるみんなが聞き惚れてしまうほどの素晴らしさだった。

 

だが、歌の場面では、ほぼすべて完璧にこなしたアテナだったが、ただひとつ、金色の杖をステージに忘れて戻ってきてしまうミスをやらかしていた。

 

「なんで忘れるのぉ~~?どうしてぇ~~~!」

 

それともうひとつ、アテナがずっと気がかりだったこと。

 

会場内やバックヤードのどこにも、アイーダの姿がなかった。

 

 

 

 

 

 

アテナは着替えを終えると、いつも行動を共にしているスタッフたちと離れ、会場の周辺を歩いていた。

 

大きなトラックが出入りするような、大きな搬入口の、その閉じられた大きなシャッターの前で、アイーダは、ひとりで懸命に何かを洗っていた。

 

水がホースから勢いよく流れる音が辺りに響いている。

 

そのそばには、アイーダが洗ったものなのか、水に濡れた資材のようなものが、いくつも重ねられていた。

 

アテナは、ゆっくりとアイーダのところに近づいていった。

 

「ご苦労様」

 

「アテナさん!」

 

「ごめんね。驚かしちゃって」

 

「いいえ。そんなことより、どうしたんですか?」

 

「だって今日、ゲネプロだったでしょ?なのにアイーダさん、どこにも見当たらなかったから、どうしたのかと思って・・・」

 

「そういうことですか・・・」

 

アイーダは少し沈んだ表情で、ホースから出る水の流れに目を向けた。

 

「すみません。アテナさんに心配かけてしまって」

 

「ううん、そんなことはいいの。それより、何かあったの?」

 

「見ての通りです。業者に返す備品を洗ってたんです」

 

「返すの?業者に?」

 

「はい」

 

「そうだったの?ごめんなさいね。お仕事の邪魔しちゃって。急ぎの用だったのね」

 

「いいえ、そんなには急いでません」

 

「どういうこと?」

 

「要らなくなっただけなんです。返すことになって、それで洗ってるだけなんです。大して汚れてもいないんですけどね」

 

「アイーダさん」

 

アイーダは、水道の蛇口をひねって、ホースを片付け始めた。

 

「それに、これで終わりなんで」

 

「終わりって?」

 

「私のここでの最後の仕事なんです」

 

「最後ってどういうこと?やめちゃうの?明日は本番でしょ?」

 

「もちろん、明日はちゃんと来ます。そこまでの契約ですから。でも明日はここに来ても、ほとんどやることありません」

 

「いったいどういうことなの?ちゃんと話してもらえないかしら?」

 

アイーダは黙って片付けの続きを始めた。

 

「ごめんなさい。何も知らない人間が、こんなこと言ったりして・・・」

 

「アテナさんが謝るなんて、おかしいですよ」

 

「だって・・・」

 

アイーダは片付けの手を止めると、大きなため息をついて、近くの植え込みの端に腰を下ろした。

 

「もう明日以降の仕事はないんです」

 

「どうして?」

 

「やる気がないのかって怒られました。そんなつもりは全然なかったのですが、確かに失敗が続いたのは事実でした。だからこんな状態なんです。いても仕方がないわけです」

 

「それってやめるってこと?」

 

「潮時なのかも」

 

「歌は?歌はどうするの?」

 

「歌ですか?確かに、歌は好きだとはいいましたけど」

 

「違うの。本当は歌うことが大好きなんでしょ?」

 

「それはどういう意味で・・・」

 

アテナはアイーダの座っているところに近づいていった。

 

そして、何も言わずにその横に座った。

 

「聴いたの、あなたの歌」

 

「聴いたって、どういうことですか?」

 

「先日、この先の運河のほとりで、夜にひとりで歌ってたでしょ?」

 

アイーダは驚いてアテナの顔を見た。

 

「バルカローレ」

 

アテナが言ったその言葉に、アイーダは言葉を失っていた。

 

「あの時、ゴンドラに乗っていたの。長年お世話になっている方々と一緒だったのだけど、みんな感動していたわ。とてもいい歌声だって」

 

アイーダは、アテナからそんな言葉が聞けるとは思ってもみなかったので、どう反応していいかわからず、顔を紅くしてうつむいていた。

 

「お世辞じゃないから。本当にそこにいたみんなが、そう言ってたの」

 

「わ、わかりました。もう、そのへんで勘弁してください!」

 

アイーダは目をぎゅっと閉じて肩をすくめていた。

 

「アテナさんに聴かれてたなんて、考えたら、もう、どうしていいか・・・」

 

アテナは、そんなアイーダの仕草に優しくほほえむと、夜空を見上げた。

 

上空を、マンホームと繋ぐ宇宙船がゆっくりと飛んでいた。

 

「ねえ、バルカローレ、どこで覚えたの?」

 

「どこでって、それは当然、運河や水路の岸辺といいますか、アテナさんが通りすぎる時に」

 

「えっ、どういうこと?」

 

「わたし、観光客と同じようにゴンドラに乗れるだけのお金を持ってなかったので、もっぱら岸辺で聴いてました」

 

「それだけ?」

 

「はい、それだけです」

 

「それであそこまで歌えるなんて・・・」

 

アテナは大きく目を見開いて、アイーダの横顔を思わず見つめていた。

 

「わたし、やっぱり何か変ですか?」

 

「やっぱり?」

 

「だって、人前で歌ったことないですから」

 

「ホントに?」

 

「はい」

 

アテナは、照れ臭そうに笑ったアイーダの顔を見て、何か決心したように言った。

 

「アイーダさん、明日必ず来て」

 

「来るって」

 

「当然ここよ。このサラ・コンチェルト・セシリアよ!」

 

アテナは、何かスッキリとした顔で夜空を見上げた。

 

アイーダは、そんなアテナの横顔を、訳がわからないといった顔で見つめていた。

 

 

 

 

 

コンサートの当日を迎えていたサラ・コンチェルト・セシリアは、慌ただしさと緊張感に包まれていた。

 

スタッフたちが走り回る裏方の風景と、客席に入場を始めた観客たちのざわめき。

 

表と裏が交錯するこの時間が、緊張感をよりいっそう強くさせる。

 

アイーダは、アテナから言われた通り、会場にやって来た。

 

本当は、適当に理由を言って帰ろうと考えていた。

 

でも昨晩、アテナに直接来るように言われたため、断るわけにもいかず、会場に来ることになったわけだった。

 

アテナの楽屋がある通路を進んでいくと、慌ただしくスタッフたちがそのそばを走り抜けて行く。

 

だが、アイーダを気にかける者はいない。

 

居心地の悪さを感じながらしばらく進むと、お目当ての場所にたどりついた。

 

アテナ・グローリィ様。

 

その楽屋のドアには、今日のコンサートの主役の名前が貼り出されていた。

 

アイーダは、ノックするべきかどうか迷った。

 

今になって、ここに自分がいることに違和感を感じ始めていた。

 

昨日までスタッフとして働いていた場所に、それまでとは違う理由でいる。

 

アテナの真意を図れないまま来てしまったことに、少しの後悔が心に湧いてくるのだった。

 

「アイーダ?お前何してんだ?」

 

アイーダの先輩の男性スタッフが、彼女に気がついて声をかけてきた。

 

「えーと、その、なんて言ったらいいか・・・」

 

アイーダは返答に困ってしまった。

 

「今日のお前の仕事、なんだっけ?」

 

「今日は、臨時というか、何かの時のための待機というか・・・」

 

「そうか。ヘマばっかで、はずされたんだったなぁ」

 

「まあ、そうとも言いますでしょうか・・・」

 

「だからと言って、こんなとこでブラブラしていて、いいわけないぞ?特にこの辺りは、関係者以外立入禁止だ」

 

「すみません」

 

アイーダはうつ向くと、そのまま今来た通路を戻ろうと歩き始めた。

 

「アイーダさんは関係者よ!」

 

その声にふり返ったアイーダは、驚いて立ち止まった。

 

アテナが、通路の先に立っていた。

 

「アテナさん!いったいどういうことなんですか?」

 

男性スタッフは、驚きを隠せないまま、アテナに聞き返した。

 

「アイーダさんには、今日一日私の身の回りのお世話を頼んだの。舞台監督さんにも、ちゃんと了解を得ているのよ」

 

そう説明している通路の先で、アテナの声が耳に入った舞台監督が、立ち止まってこちらに目を向けていた。

 

頭の上には、はてなマークが浮かんでいた。

 

「アイーダさん、今日は一日よろしくね」

 

アテナは、アイーダに向かってウィンクした。

 

アイーダは、どう反応していいかわからず、どぎまぎしていた。

 

「アイーダ、頑張れよ!失礼のないようになっ!」

 

その男性スタッフは、アイーダの肩をポンと軽く叩いて走り去った。

 

 

 

 

「適当にかけて」

 

アテナはアイーダに部屋の中央にあるテーブルのところに座るよう声をかけた。

 

「あのー、アテナさん?」

 

アテナは、何かを探すようにメイク台のところにいた。

 

「ナニ?」

 

「先程の話なんですが、今日呼ばれた理由はそれなんですか?」

 

「理由?ああ、それね。もちろん違うわよ」

 

「違うんですか?」

 

「あの時は、ああ言っておいた方がいいかなぁーと思ったから」

 

「じゃあ、どういう理由で呼ばれたんでしょうか?」

 

「そうねぇ」

 

そう言ったアテナは、表情がパッと明るくなった。

 

「あったぁー!こんなところに」

 

アテナはメイク道具や台本が散らかっているところから、一本の鍵を持ち上げた。

 

不思議そうに見ているアイーダに、アテナはくるりと振り返った。

 

「じゃあ、行きましょうか?」

 

「行くって、どこへですか?」

 

「アイーダさんが、違うアイーダさんになるための場所」

 

「えっ?」

 

 

 

「ねえ、どれがいい?」

 

アイーダはアテナの言葉に唖然としていた。

 

「どれがいいと言われても・・・」

 

二人は、今回のコンサートに使うために用意された衣装部屋に来ていた。

 

アテナは、コントに使う鼻メガネを持ち上げた。

 

「これなんか、どうかしら?」

 

「どうと言われても、それだけは違うということは、私にもわかります」

 

「そうなのぉ?結構いい感じだと思ったのだけど・・・」

 

アテナは残念そうにその鼻メガネをテーブルに置いた。

 

そのテーブルの上には、シャツや帽子、スカートがたくさん広げられていた。

 

「じゃあどれがいいの?」

 

「ですので、これはなんなのかを教えていただけませんか?」

 

「だから、さっき言ったとおり、普段とは違ったアイーダさんになってもらおうと思って」

 

「だから、なんのためにですか?」

 

「だって、そのままいつも通りの格好で客席にいたら、おかしいでしょ?」

 

「客席に?私がですか?」

 

「そうよ」

 

「なんで私が客席にいるんですか?」

 

「アイーダさんには、今日のステージを客席からバッチリ観てもらおうと思ったからなの」

 

「私が、客席から・・・」

 

アイーダはアテナがなんでそんなことを言っているのか見当がつかず、困惑していた。

 

「すみません、アテナさん。なぜそんなことを・・・」

 

「アイーダさん、ホンとは歌が好きなんでしょ?」

 

「それはそうですけど」

 

「だから、その気持ちを思い出して欲しくて」

 

「アテナさん、そんなことのために?」

 

「アイーダさん、失敗ばっかりして上手くいかないって言ってたでしょ?でも私には、アイーダさんて、そんな人には思えなかったの」

 

アイーダは真剣なアテナの顔を見つめた。

 

「こんなこと、よく知りもしないで言うのは、よくないってわかってるけど、でも気持ちはわかるの。私もそうだったから」

 

「アテナさんも?」

 

「うまくいかないときって、誰にでもあると思うの。でもアイーダさんは、歌いたいという気持ちがいつも頭のどこかにあって、それが原因でそんな風になってたんじゃないかと思って」

 

「歌いたい気持ち」

 

アイーダはアテナの言葉をポツリと繰り返した。

 

「ごめんないさい。また、でしゃばったこと言ってしまって」

 

「いいえ。でも、私は本当にただ歌が好きというだけで、歌手になりたいとか、そんなのは子供の頃の話で。第一、何も準備だとかしていたわけじゃないし・・・」

 

「ごめんなさい、アイーダさん。もう時間がないわ」

 

アテナは、壁にかかっている時計に目を向けた。

 

「話はまた後でしましょう。勝手なことばかり言って、申し訳ないのだけど」

 

アイーダは時間が迫っていることに、ようやく気がついた。

 

「とにかく、今日はコンサートを楽しんで。いい?アイーダさん?」

 

「はい、わかりました。でも、それはちょっと・・・」

 

アイーダの目は、アテナの手にぎゅっと握りしめられている鼻メガネに向けられていた。

 

「ああ~!これは違うのぉ!気にしないでぇ~~!」

 

 

 

 

アイーダは関係者席から少し離れたところに座っていた。

 

それもこれもアテナの配慮以外になかった。

 

鼻はついてなかったが、黒縁のメガネをかけ、普段着のカジュアルな装いとは違い、少し落ち着いた服装に変わっていた。

 

回りをキョロキョロ見回していたアイーダは、見覚えのあるような、緑色の髪の少女に目が止まった。

 

「見たことあるような気がするんだけど・・・」

 

すると、開演を知らせるベルが鳴り響いた。

 

会場のライトが落とされ、緞帳が静かに上がり始めた。

 

それと共に、会場に拍手が鳴り響く。

 

フルオーケストラの編成の楽団がステージを埋め尽くすように座っている。

 

その前に指揮者が登場し一段と拍手が大きくなる。

 

そしていよいよ、アテナの登場となった。

 

ピンスポットに照らし出されたアテナは、優雅なロングドレスに身を包んでいた。

 

褐色の肌が、その淡い水色のドレスとのコントラストを際立たせていた。

 

そして、一斉に上がった大きな拍手と声援が、しばらく鳴り止まなかった。

 

 

 

 

運河沿いに建てられたサラ・コンチェルト・セシリアは、その美しい姿を夜のネオ・ヴェネツィアの浮かび上がらせていた。

 

まだ熱気が冷めやらぬ会場周辺には、コンサートの終演を惜しむかのように、その余韻に浸っている人々があちこちに残っていた。

 

アイーダは、そんな人々の姿がなくなるまで、水辺の柵のところにひとり立っていた。

 

辺りに静けさが再び戻ってきた頃、アイーダはそろそろ帰ろうと歩き出した。

 

「待って!アイーダさん!」

 

アイーダを遠くから呼び止める声が聞こえた。

 

振り返ったアイーダの前に、衣装から私服に着替えたアテナが、駆け寄ってくる姿が目に入った。

 

「アテナさん!」

 

「ちょ、ちょっと待ってぇ~!」

 

「どうされたんですか?」

 

アテナは、息を弾ませ、アイーダの前までやって来た。

 

「だって、話が途中になっちゃたでしょ?呼びつけておいて、このまま返すわけにいかないと思ったの」

 

「そんなこと、気になさらなくてもよかったのに」

 

アテナは息を整えると、改めて顔を上げ、アイーダに話しかけた。

 

「まだ時間いいかしら?」

 

そう言うと、アイーダを誘って、アテナは運河沿いを歩き始めた。

 

「どうだった?」

 

「素晴らしかったです。最高でした。しかもあんないい席で見せていただいて。本当にありがとうございました」

 

「よかったわ。喜んでいただけて、私もうれしい」

 

「でも、二幕目の最後に、金色の杖のような物をステージの中央に置いていかれたのは、演出ですか?」

 

「アイーダさ~ん!そこは聞かないで~~」

 

アテナの今にも泣き出しそうな表情をみて、アイーダはクスッと笑った。

 

「わかりました。聞かないでおきます」

 

「そうしてくれると助かるわ。グスン」

 

アイーダの差し出したハンカチを受け取ったアテナは、思いっきりそれで鼻をかんだ。

 

「ちゃんと洗って返すから」

 

「あっ、その辺はお気になさらず」

 

「いいの?」

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう。やさしいのね」

 

するとアテナは、そこから少し歩いた場所で、確かめるように、その場に立ち止まった。

 

「ここよね、アイーダさん?」

 

「ここ・・・」

 

そう言われたアイーダは、何を言われたのかを気づいたようだった。

 

「この前、あなたが歌っていた場所」

 

アイーダは柵の欄干に手をついた。

 

そして、暗くなった運河の水面に目を向けた。

 

「そうです。ここです。まさか、あの時アテナさんがいたなんて・・・」

 

「アイーダさん?私ね、例え偶然だったとしても、出会いを大切にしてるの。アイーダさんとこのサラ・コンチェルト・セシリアで出会って、そして、今度は運河を介してアイーダさんの歌と出会った。しかもそのとき、アイーダさんが歌っていたのがバルカローレだった」

 

アテナはアイーダの横に立って、同じように欄干に寄りかかって手をついた。

 

「むかーし、むかーし、マンホームのヴェネツィアでね、みんなから親しまれていた音楽家がいたのね。でも、その音楽家は、志し半ばで亡くなった。それを悲しんだ人たちがその音楽家の死を悼んで教会を建てたの。その名前が、聖セシリア教会だった」

 

「それって、つまり、このホールの名前の由来ということですか?」

 

「そういうこと」

 

アイーダは感心した表情でその話を聞いていた。

 

「そして、その音楽家は舟謳を作っていたらしいの」

 

「そうなんですか・・・えっ、ちょっと待って下さい。もしかして、バルカローレと何か関係があるんですか?」

 

「そう・・・だったら、どうだったんだろうってね?」

 

「どういうことですか?」

 

「このホールの建築に携わっていた方のおじいさんの、そのまたおじいさんが、その教会に関わっていたということで、記録が残ってたの。でも、どんな舟謳を作っていたかまでは、もうわからないって。でもその方は、もし繋がっていたら、そしてそれがあのバルカローレだったら。そんな夢を見たくなったって、おっしゃったの」

 

「そんなエピソードがあったんですか」

 

「でも、あなたと無関係の話じゃないのよ?」

 

「どういうことですか?」

 

「その話をしているときに、あなたが歌うバルカローレが聞こえてきた」

 

「わたし・・・」

 

「その音楽家と舟謳、バルカローレを歌うアイーダさん、そしてそこには、教会の名前が由来のコンサートホールがあった」

 

アイーダは、ハッとしてアテナの顔を見た。

 

「偶然にしては、すごいと思わない?しかも、それがもし本当だとしたら、それは長い時を経て歌い継がれてきたということになるわ」

 

「でも私がそんなことに、関わっていたって・・・」

 

アテナは欄干に肘を置いて、少し身を乗り出すような格好で、運河の水面を見つめた。

 

「アイーダさん?今日のコンサートを素晴らしいといってくれたでしょ?聞いていて、思わず一緒に歌いたくなったりしなかった?」

 

「正直いうと、アテナさんの歌を聞いてると、あの時の、運河のほとりでアテナさんの歌を聞いていた時のことを思い出して、つい歌ってしまいました」

 

アイーダは、その事を思い出して無邪気に微笑んでいた。

 

「あの時、あの夜のアイーダさんの歌は、まさにそんな無邪気で、純粋で、とても気持ちに正直な歌。歌いたいって気持ちそのままで、心から淀みなく声にしていた」

 

アテナは、アイーダに優しく微笑みかけた。

 

「だからアイーダさん?お節介だと承知で言うのだけど、歌を歌ってみたらどう?」

 

「私がですか?」

 

アイーダはそう言われて、少し考えるようにうつ向いた。

 

「考えなかったわけではありません。そんな気持ちも事実ありました。でも、結局好きというだけで、いつ、そのスタートラインに立つべきなのか、どんなタイミングで立ったらいいのか、決心がつかなかったんです」

 

アイーダの話を聞いたアテナは、きっぱりと言いはなった。

 

「それは違うの」

 

アイーダは驚いてアテナの顔を見た。

 

「そういう話、これまでにもよく聞いたことがある。でもね、みんな勘違いしてるの」

 

「勘違い?」

 

「そう思った時、すでにスタートを切っているのよ?」

 

「スタートを切ってる?」

 

「そうなの。いつスタートラインに立つべきかなんて、そんなふうに考えてる時はね、もう走り出してるの。気づかなかった?」

 

「気づくなんて、そんなのわからないです」

 

「みんな、そんな気持ちになるものよ。でもね、実際はここからがスタートラインだなんて、そんなものどこにもないの。心に思うこと。それがその人にとってのスタートラインなの」

 

アテナは欄干に手をついて、ぐっと背筋を伸ばした。

 

「アイーダさんは、もう走りだしてるの!どうするかなんて、ホントはそんな悠長なことを言ってる暇はないのよ!」

 

「アテナさん」

 

アテナの力強い言葉に、アイーダは心を揺り動かされるようだった。

 

「ごめんなさい。また私ひとり、突っ走ってしまって・・・」

 

アテナは少し我にかえって、恥ずかしそうに、顔を赤らめた。

 

アテナとアイーダは、そこからしばらく黙って歩いた。

 

すると、アイーダがポツリと話し始めた。

 

「わたし、もう少し正直になってみようと思います。これまで、せっかくアテナさんのコンサートスタッフになれたのに、ドジばっかやってたのは、やっぱりそれがあったからだとわかった。だから・・・」

 

アイーダは立ち止まると、運河に向かって深呼吸した。

 

そして、少し沈黙の後、その澄んだ、伸びやかな声で歌い始めた。

 

「アイーダさん・・・」

 

アテナは、あの時聞いたアイーダの歌声を間近で聞いて、身震いした。

 

こんなにも美しくて、こんなにも純粋で。

 

アテナは、その歌声に寄り添うように、声を重ねた。

 

今まで誰も聞いたことのないハーモニー。

 

きっと、この時を待っていたのかもしれない。

 

長い時を経て、また新たな息吹が芽生え始める。

 

いつかは、命絶える時がやって来ても、歌は歌い継がれてゆく。

 

遠い昔のヴェネツィアで撒かれた種は、確かにこのネオ・ヴェネツィアで花を咲かせていた。

 

そんな夢を見たような、ある夜の出来事だった。

 

 

Episodio 17 バルカローレ  おわり

 

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