ARIA The PETRICHOR   作:neo venetiatti

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Episodio 20 花冷え

 

オレンジぷらねっとのプリマ・ウンディーネ、アリス・キャロルは、朝早くから営業に駆り出されていた。

 

前日、仕事終わりにアメリア統括部長から呼び出されたときから、何か急な用事ができたのだろうと予想はしていたが、その内容も急すぎることだったので驚きを隠せないでいた。

 

「アリスさん?悪いのだけど明日の朝仕事に出てもらえないかしら?」

「明日の朝・・・ですか」

 

少し疲れがたまっていたアリスは、その問いかけに少しためらっていた。

 

「実は会社として長らくお世話になっているお得意様からのご依頼なの。アリスさんもご存知の方かと思うけど」

 

その名前にはアリスにも心当たりがあった。

だが、まだアリス自身が観光案内をしたことはなかった。

しかも、よりによって朝早くからの依頼。

アリスの心に不安がよぎっていた。

 

「疲れているとは思うのだけど、どうかしら?引き受けてもらえる?」

 

アリスの答えは決まっていた。

 

「もちろん引き受けさせていただきます」

 

アメリア統括部長は、アリスのその言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろしていた。

 

「でもなんで私・・・」

 

アリスはそう言いかけて、その続きを言うのをやめた。

アメリア部長の表情を見ていると、それを聞くのはやめた方がいいと思った。

そんな疑問を口にする立場ではなくなっていると、自分なりに理解してるつもりだからだった。

だが、一抹の不安が心の中に残っているのも事実だった。

 

「でもやっぱり、なんで私なんだろう・・・」

 

部屋を出たアリスは、ひとり廊下でポツリとつぶやいていた。

 

 

 

きらめく水面に目を細めて、アリスはしっかりとオールを握りしめていた。

観光案内をするには、まだ早い時間。

船着き場で荷捌きをしている作業員たちが忙しくしていた。

すれ違うボートには、観光客ではなく、どこかへ運ぶ荷が積まれている。

少しずつだが、気忙しい時間が訪れようとしていた。

 

ネオ・ヴェネツィアにもいよいよ春が訪れようとしていた、そんな時期だったが、この時間はまだ肌寒い空気が流れていた。

そのためか、そして周りの雰囲気もあってなのか、少し身の引き締まるような思いだった。

 

「ウンディーネさん、ごめんなさいね?朝早くからお願いしちゃって」

 

座席に座っている年配の婦人は、アリスに気を使うように話かけてきた。

 

「お気遣い頂き、ありがとうございます」

「こんな時間に変だと思ったでしょ?」

「あっ、いえ、そんなことは・・・」

「いいのよ。誰だってそう思うはずだわ」

 

アリスはためらいながらも、その婦人の背中に話しかけた。

 

「もしよろしければ、で結構なんですけど・・・」

「理由ってこと?」

 

婦人は、少しの沈黙のあと、話始めた。

 

「この時間が好きだから」

「この時間?朝のこの時間ということでしょうか?」

「そうよ。この時間。ネオ・ヴェネツィアが目覚める時間。人々が動き出す、始まりの時間。そんな雰囲気がとても好きなの」

 

そう言いながら、婦人は運河の岸辺で働く人たちを眩しそうに眺めていた。

 

「あなたもそう思わない?」

「そうですね。清々しい気分です。こちらにもやる気が出てくるような感じですね」

「やる気。そうよね。活気が伝わってくるわね」

 

アリスは、そんな婦人とのやり取りに、少し抱えていた不安が解消されていくようだった。

 

「少しは気分を持ち直した?」

 

婦人の問いかけに、アリスの手が止まった。

 

「気分・・・と申しますと?」

 

婦人はアリスの返答に微笑んでいた。

もちろん、アリスには見えてなかったが・・・

 

「なんでこんな朝早くから、しかも私が・・・って思ったでしょ?」

「えっ?」

 

図星だった。

仕事だと割りきろうとしていたが、やはりそこはそう思うのも事実だった。

でも、そうだとすると、そんな顔をしていたということなる・・・

 

「決してそのようなこと・・・」

「仕方のないことだわね。やはりそこは仕事だものね。そういうこともあるある」

 

婦人は納得したように、ウンウンとうなずいた。

 

「まぁ、そういうこともあるでしょうか・・・ハッ!」

 

アリスは思わず婦人につられるように答えてしまっていた。

 

「ハハハハ!」

「す、すみません」

「いいのいいの!正直でいいわ!」

 

アリスは顔を真っ赤にしていた。

 

「申し訳ありません」

「いいのよ。気にしないで」

 

婦人は、ふぅ~と息を吐いた。

そして、眩しそうにしながら微笑んだ。

 

「こんな気分のいい日は久しぶりだわ。やはりこの時間に頼んで正解だった」

 

アリスは、ゴンドラに身を委ねるようにしている婦人の姿が、なぜか気になっていた。

それは、以前に何処かで会っていたような、そんな不思議な気分だった。

 

「よくこの時間にご利用されていた、ということでしょうか?」

「そうね。時々ね。でもどちらかというと、利用していたというより、乗っていたと言った方が正解かも」

「乗っていた?」

「この時間が唯一のひとりの時間だったの」

 

アリスの頭にひとつの疑問がわいてきた。そしてそれは聞くことへ期待と不安が入り交じった不思議な思いにもなっていた。

 

「私ね?仕事で憧れていた先輩がいたの。その先輩はいつも忙しくしていて、ゆっくりしているところなんて見たことがなかった。だから、そういうものだと単純に思っていた。でもある日、先輩がポツリと言ったの。こんなの、本当は私には向いてないって」

「向いてない・・・」

 

なぜ婦人は急にこんな話をはじめたんだろうか。

アリスは変に思いながら、運河をゆっくりと進んだ。

 

「そうなの。そんなこと言うなんて思いもしなかったから驚いたわ。会社からは期待もされていたし、事実いろんな役割も任されるようになっていた。だから、先輩も喜んでやっているもんだと思ってた」

「違っていたんですか?」

「仕事が嫌いとかそういうことじゃなかったのね。なんていうか、そういうタイプじゃないと考えていた、ということだったみたい。もっと自由にしていたい、といった感じだったわ」

 

アリスは、なんとなくわかるような気分だった。

会社から求められることと、自分が描いていたこととの違い。

 

「だから、チーフ・ウンディーネに抜擢されたときは、どうしようか悩んだみたいだった」

 

アリスは言葉を失っていた。

それは聞きなれた言葉ではあったが、婦人から聞くことになるとは思っても見なかったからだった。

 

「ウンディーネをされていた、ということですか?」

「そうよ」

「ということは・・・」

「元同業者、ということね」

「そ、そうだったんですか!失礼しました!ご挨拶が遅れてしまって!」

 

婦人はアリスの反応にまたもや笑い声を上げた。

 

「昔のはなしだから。そんなに気を使わなくていいのよ」

「ですが・・・」

「それより、続きを話してもいいかしら?」

「そ、それは是非とも!」

 

アリスは前方をしっかりと見据えて、オールを握り直した。

 

「結局引き受けた。チーフ・ウンディーネを。もちろん先輩は、やるとなったらしっかりとこなしていたわ。責任感のある人だったから。でも、どちらかといえば、後輩たちを背中から押してあげるような、そんな役割になっていったようだった」

 

アリスの頭の中では、自然とアリシアや晃、そしてアテナのことが浮かんでいた。

 

「だから、あの時ポツリとつぶやいた、自分は向いていないといった先輩のセリフは、どういったことだったんだろうと、不思議に思っていた。でもね、ある時、見かけたの」

「はぁ・・・見かけた?」

「そう。それは見かけたといった方が合ってるかもしれない。それまでの先輩の印象とは違う顔をしていたから」

「顔・・・」

「お客様を乗せて観光案内をしていた。それはウンディーネとしては当たり前のことだけど、先輩の顔がいつにも増して生き生きとしていた。こんなにも観光案内をすることが楽しくて、そしてうれしくて仕方がないっていう感じだった」

「それって」

 

アリスはそう言って言葉を続けるのをためらった。

その婦人の背中は、まるで昨日のことのように思い返しているように見えた。

そんな背中に簡単には話かけられないように感じたからだった。

 

「その時わかったような気がした。先輩は、純粋にウンディーネでいたかった。それだけで良かったんじゃないかって」

 

婦人はそう言うと、少しの間、静かに水面を見つめていた。

 

「ごめんなさいね、ウンディーネさん?こちらばかり話してしまって」

 

だがアリスは思わず自然と口をついて言葉が出ていた。

 

「それで」

「えっ?」

「それで、どうなったんですか?」

「どうなったって、もちろん立派にやり遂げたわよ、ウンディーネを」

「つまり、それって、いったい、どういうことなんでしょうか?」

 

アリスの真剣な言葉に、婦人は思わず振り返った。

そして、前方を見つめるアリスの眼差しを見て、また前に向き直った。

 

「ウンディーネさん?」

「はい」

「あなたは、何を知りたいの?」

「何をって、それはその先輩さんが結局どうなったのかということ・・・でしょうか」

「だから今言ったとおり、立派に勤め上げた」

「それはそうなんだと思います。お話を聞いていると、きっとそうなんだと。ただ・・・」

 

それ以上聞くことを躊躇した。

お客様の身の上話に、そこまで立ち入るなんて。何をそこまで・・・

 

「先輩ってね、仕事から離れると、とっても気さくな人柄で、ほんとに優しい人だった。というか、とっても自然体の人だった。ウンディーネをやってるときは、みんなが憧れるほどのキリッとした、格好いい人なのに。なんていうか、そうね、いわゆる天然?」

「て、て、天然?」

「食べてたアイスを落としたり、おしゃべりをしながらお茶を入れたりするもんだから、そのままテーブルにこぼしたり・・・」

「はぁ?」

 

アリスは婦人の話に自分の耳を疑った。

それはアリスにとって、誰かしか思い浮かばないエピソードばかりだった。

 

「だから、そのギャップが面白かった。そして、素敵だった」

 

婦人は感慨深く水面をみつめていた。

 

「いい先輩だったんですね。お客様にとって」

「そうね。それはその通りね。あんな風になれないかなって思ったときもあったけど、そう簡単にはいかなかったわ」

「はぁ」

 

そこからしばらく沈黙が続いた。

そして、婦人は突然こう切り出した。

 

「なんでウンディーネさんにこんな話をしたと思う?」

「なんでって、思い出をお話していただいたと」

「実はね?私からお願いしたの。今一番人気があって、一番忙しくしているウンディーネをお願いできますかって。アメリアに直接ね?」

「アメリアに・・・直接・・・えっ!えええ~~~!」

「どうしたの?」

「だって、つまり、ということは、アメリア部長とお知り合いということですか?」

「言ってなかったの?」

「聞いてません!」

「あの子、相変わらずね」

「あの子?」

「だって、私の後輩ちゃんだもの」

「なんと・・・」

 

あまりにもいろんな話が出てきて、アリスの頭はコンガラガッていた。

 

「あの~ということは、私にとってお客様は先輩ということかと・・・」

「そういうことね」

「失礼しましたぁ~~~!」

「だからいいんだって」

 

婦人は嬉しそうに笑い声を上げた。

そんな婦人の背中に、アリスはちょっと不満げな顔をを向けていた。

 

「でもなんでそんな意地悪なこと・・・」

「意地悪なんかじゃないわ。これからのオレンジぷらねっとを、どんな人が引っ張って行くのか見てみたかったからよ」

「引っ張ってっていうほどではありません。わたしなんて。まだまだです」

 

アリスはそう言って、少しうつむいた。

 

「なるほどね」

 

婦人は静かにつぶやいた。

 

「いままで話した先輩なんだけど、その後、会社から管理職の打診があったの」

「そうなんですか?」

「でも断っちゃったの。自分の柄じゃないって。しばらくチーフ・ウンディーネを続けたあと、引退した。会社は結構引き留めたんだけどね」

「何か嫌なことでもあった、とか」

「何もなかったわよ?」

「じゃあどうしてですか?」

「さあ~」

「えっ?」

「本当のところ、わからないの」

 

アリスはオールを漕ぐ手を止めて、唖然としていた。

 

「でも、はっきりと言えることがひとつ、あるの」

「それはなんですか?」

 

婦人はゆっくりと言葉を続けた。

 

「それは、人は人に生かされて生きてるってこと」

「生かされて生きる・・・」

 

アリスはその婦人の言葉を繰り返していた。

 

「先輩は、決して自分からそれを望んだりしなかった。プリマになって誰よりも人気者になろうとか、チーフ・ウンディーネになって会社に自分を認めさせようとか。それどころか、自分はそんな柄じゃないっていつも困惑してた。なのにいつのまにか、その立場になっている。その役割を担うことになってた。結局人って、そういうことなんだと思った」

「そういうことって・・・」

 

アリスはその答えを知りたくて、すぐに聞き返していた。

 

「自分がそう思ってなくても、望まれて生きていた。先輩は本当にそんな人だった」

 

婦人の言葉のあと、しばらくそのあとに続く言葉が、婦人にもアリスにも見つかりそうになかった。

 

少しして、アリスは輝く水面に目を細めると、ポツリとつぶやいた。

 

「そんな方が、いらっしゃったんですね」

 

婦人はアリスの言葉に静かにほほえんだ。

 

「もう長い間、会ってないけどね」

「そうなんですか?」

「ええ、そうね。最後に会ったのは、その先輩が引退する少し前だった。先輩を見習って、仕事に励んでたんだけど、頑張りすぎて忙しくなりすぎて、どうしたもんかと焦っていたの」

「はぁ」

「もうちょっと仕事減らしてください!って、会社に頼みに行こうかと思ってたのね?」

「はぁ」

 

アリスは、先ほどまでの感動的な話と違ってきたと、返事に困っていた。

 

「その時に先輩のことを思い出したの。先輩って、こういう時どうしてたんだろうって」

 

それはアリスにも納得できる話だった。

 

「そうしたら、この運河に行くように言われたの。ちょうどこの時間に」

「ここにですか?それもこんな早い時間に?」

「私も最初はどういうことなんだろうと思ったわ。でも、実は先輩自身がここにこうして時々来てたって知った。なんでだと思う?」

 

アリスはその問いかけに少し考えてみた。

 

「正直申し上げて、わかりません」

「そうよね。別に何かあるわけじゃないし、何か特別なことでも起こるわけでない」

「じゃあどうして・・・」

「ひとりになるためよ」

 

婦人は淡々とした口調で答えた。

 

「今だからなんとなくわかる気がする。先輩には、ひとりになる時間が必要だったんだと思う。それは、いろんなことに追われていた先輩にとって、今一度ネオ・ヴェネツィアのことに想いを巡らす大事な時間だったのかも」

「ネオ・ヴェネツィアに想いを巡らす、ですか」

 

アリスは改めて、忙しく動き始めたネオ・ヴェネツィアの風景に目を向けた。

 

「もしかしたら、単なる気分転換だったのかもしれない。でもこんな時間にひとりで来てみて、そう感じられた。あの時の自分には」

 

 

 

 

あらかじめ聞いていた船着き場に到着した。

婦人の手を取り、無事にゴンドラから降りたアリスは、深々と頭を下げた。

その様子を見ていた婦人は、穏やかに微笑んでいた。

 

「ウンディーネさん?朝早くから私の想い出話に付き合ってくれてありがとう」

「いえ、こちらこそいいお話を聞かせて頂いてありがとうございます」

「それはよかったわ。でも本当は眠たかったわよねぇー?」

「まあそれは・・・はっ!」

「ハハハハ!」

 

アリスは顔を真っ赤にしてうつむいた。

 

「こんな時間にウンディーネなんていないでしょ?」

「ええ、まあ、そうですね」

「こんなこと話したのは、あなたが初めてなのよ?」

「いったいそれって、どういうことなんでしょうか?」

 

婦人は運河の方に振り返って言った。

 

「あなたが来たくなった時は、いつでも来てみたらいいのよ」

 

微笑んだ婦人の横顔を、アリスは眩しそうに見つめていた。

 

「そうだ!ウンディーネさん!」

「はい?」

「私ね?今は観光協会の仕事に関わってるの」

「そうなんですか」

「だから未来のオレンジぷらねっとを背負って立つウンディーネさんに、じゃんじゃん仕事を回すわね?」

「な、なんでそんな、いきなり」

「アメリアにも話しておくわ」

「あっ、いえ、そんなお手数をおかけするようなこと・・・」

「そう言えば、まだお名前聞いてなかったわね?」

「わ、わたしは・・・そう!そうです!私の名前は藍華・S・グラン」

「そんな感じだったかしら・・・」

「い、いえ!実は、水無・・・」

「実はって、なに?

「これには事情が・・・」

「どんな事情があるの?アリスさん?」

 

アリスは目を大きく見開いて、口をポカンと開けていた。

 

「やっぱり意地悪ですぅ~~~」

 

婦人はアリスの様子に笑いが止まらなかった。

 

「期待されるって、ツラいわねぇ~」

「またそんなぁ~~」

「アテナさんにもよろしく言っといてね♡」

「しばらくお休みください~~~!」

 

 

Episodio 20 花冷え 終わり


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