ARIA The PETRICHOR 作:neo venetiatti
ARIAカンパニーの船着き場では、いつもの明るい笑顔が先ほどまでゴンドラの上にいたお客様に感謝の言葉を伝えていた。
「本日はARIAカンパニーをご利用いただき、まことにありがとうございました!またのご利用をお待ちしております!」
プリマ・ウンディーネとしての忙しい日々にもようやく自分のペースであれやこれやと対処できるようになってきたと自負していた水無灯里は、これからもネオ・ヴェネツィアの素敵なところをどうやって伝えていこうかと頭を巡らせていた。
「あれは確か、こうでああで・・・」
仕事の合間でも研究を怠らないようにと、メモとペンはいつも制服のポケットに用意していた。そしてお客様からの話にも貴重な情報としてメモを取ることにしていた。
「そういえばウンディーネさん?」
「はい、なんでしょうか?」
海に面したその印象的なカウンターの前で、女性客が振り返り灯里に訪ねてきた。
「そういえばあのパン屋さん、どこだったかしら?」
「どのようなパン屋さんですか?」
「確かくるみがたくさん入っていたわ。そんなに大きくないんだけど、とても芳ばしくておいしかったの」
「くるみパンのお店ですね?それなら確か・・・」
灯里は芳ばしい香りのくるみパンで話題になっていたパン屋の、その場所を客に伝えた。
「それなら私も知ってるの。でもそのお店ってもうないでしょ?」
「えっ?そうだったんですか?」
「確かそのはずよ」
「そうですか・・・」
狭い店内がいつも客で賑わっていた。それくらいの人気店だった。
灯里はその店の前を通る度に、また今度にしようと諦めることが多いくらいだった。
「あのお店、どこかに移転したのかしら?」
灯里は仕事が忙しいこともあって、最近はそのお店の前を通る機会が少なくなっていた。
「そうだった。最近、あの辺は通ってなかった」
そうポツリと呟いた途端、お腹がぐぅ~と鳴った。
とっさにその女性客の顔を見た。
その女性は何か思案するような表情で店内に顔を向けていた。
お腹の音は灯里が心配するほど大きくはなかったようだった。
午後からのお客様を無事目的の船着き場におろした灯里は、急なキャンセルがあったことで、このあとは多少時間ができることがわかっていた。
そのため久しぶりにゴンドラを降りて、歩いて街に出かけようと決めていた。
何処へ行くとも決めず、短くてもその気ままな時間を満喫しようと考えていた。
久しぶりにゆっくりと通りを歩いていると、流れる生暖かい風が夏の到来を知らせていることを感じていた。
しばらく建物の影になっていたところを歩いていたが、そこを抜けた途端、陽の光がしっかりと差すところに出てきた。
灯里は思わず目を細めると、そこに続く通りの先を眺めていた。そこで何かに気づいたようだった。
「ここって確か、あのお客様が言ってたパン屋さんの・・・」
灯里は記憶を確かめるようにその通りを進んだ。
そこは以前何度も通ったことのあるところ。
街並みを眺めているとその時の記憶とその時感じた感覚がよみがえってくるようだった。
「何も変わっていないよう。あのときのまま・・・」
そう思った灯里だったが、ふと足が止まった。
その通りのちょうど曲がり角にあったはずの、あのくるみパンで有名なお店はすでに閉じられていた。
「やっぱり、もうやってないんだ・・・」
あの賑やかな光景はもうどこにもなかった。
灯里は少し感傷に浸りながら、暗くなった窓越しにお店の様子を眺めていた。
自分の知らない間に無くなっていたお店。
灯里は自分の記憶をたどるように、あのときの光景と何もない窓の風景を重ね、お店の前をゆっくりと歩いた。
そしてその曲がり角をそのまま通過しようとした時だった。
上げた片足をそのまま下ろさずにピタッと動きを止めた。
「あれ?」
角を曲がった先で、ひとりの男性がその建物をじっと眺めていた。
灯里はその様子を見ながら、ピコンと上げていた足をゆっくりと下ろした。
「あの人、何してるんだろう・・・」
灯里はその男性が気なって、ついその様子を眺めていた。するとそれに気づいた男性が灯里の方に視線を向けた。その瞬間、灯里は驚いて目を大きく見開いた。
「はひっ」
その男性はかけていた眼鏡の縁を少し上げると、灯里の様子をじっと見つめた。
「あの・・・」
「は、はい!」
「えっと」
「はい?」
灯里とその男性はお互い見つめ合ったまま動きを止めていた。
「あのお~なにかぁ~」
「もしかしてウンディーネさん?」
「はい、そのウンディーネですけど・・・」
「ウンディーネさんに陸のこと聞いていいのかわからないけど」
「陸のこと?」
灯里はその男性の不思議な問いかけに不思議そうな顔になっていた。
「ここの物件なんだけど、これ、空いてるよね?」
その男性はパン屋だったところからその建物の上へと視線を向けていった。
「空き店舗かどうかということですか?」
「そうそう。確かここって以前なんかのお店だったはずだけど」
「パン屋さんでした」
「そうだ、それだ。パン屋だった」
「ええ」
「上はアパートメントか」
男性はそれがわかると、少し微笑んでみせた。穏やかで優しそうな表情が印象的だった。
「今はやってないところを見ると、空いてるよね、ここ?」
「そうだと思いますけど」
その入口のドアが見えていた灯里は、そのドアや窓ガラスに目を向けた。だが、よくある空き店舗を示すような貼り紙はなかった。
「ふーん、そうなんだ。それはよかった」
灯里な満足げな顔をしている男性にたずねてみた。
「なにかお店でもされているのですか?」
「ボク?」
「はい。それで空いているところをお探しなのかと」
男性はニコッと笑った。
「そう見える?」
「えっ?」
「なるほど。そう見えるのかぁ」
「違うんですか?」
「そうだねぇ。違うねぇ」
そう言った男性は、少し眩しそうな表情で辺りを見回していた。
「それしても、ここいいねぇー」
「そうですね。確かにお店を開くのでしたら立地条件のいいところかと」
「うん。確かに」
「はい」
「よし!」
「はぁ」
「決めた!」
「はい?」
「ウンディーネさん、ここにするよ!」
「わたし?」
「うん!」
「わ、わたし、大家さんでも不動産屋さんでも何でもないですけどぉ~~」
男性はとても晴れやかな表情で通りを歩き出していた。そして振り返ると、灯里に向かって大きく手を振った。
「ありがとー!ウンディーネさーん!」
灯里は思わず胸の前で小さく手を振り返していた。
「あのぉ、わたし、何かできるような立場でもなんでもないはずですけど・・・」
「灯里ぃー!いるぅー?」
海に面したその店カウンターの外から、いつもの明るい声が響いていた。
キッチンからひょっこりと顔を出した灯里は驚いた表情でいたが、その声の主を見て思わず笑顔になっていた。
「藍華ちゃん!どうしたのぉー?」
藍華はカウンターに手をついて少し前屈みになって話始めた。
「あんたさぁ、最近街をブラつくことってある?」
「街をブラつく?お散歩するってこと?」
「まあ、お散歩でもなんでもいいんだけど」
「そうだねぇ・・・」
灯里は少し考えるような仕草で外に目を向けた。
「灯里も忙しい身でしょうから、そういう機会も減っちゃったかもしれないけど。それでもあんたのことだから、たまにはそんなこともあるのかなぁと思ったんだけど」
「なんかあるの?」
「実は、ちょっと気になることを小耳に挟んだのよねぇー」
「小耳?」
藍華は辺りを警戒するようにキョロキョロ見回した。そしてもう少し前に身体を傾け、灯里の方に近づいた。
「あんたなんか聞いてない?あのパン屋さんのこと」
「パン屋さん?どこのパン屋さんのこと?」
「ほら、あんたも言ってたでしょ?美味しいパン屋さんを見つけたって。だけどいつも混んでて、入るかどうしようか考えちゃうって」
「もしかして、あのくるみパンのお店のこと?」
「それそれ!そのお店!」
「あのパン屋さんがどうかしたの?もうお店なくなったでしょ?」
藍華はちょっと真剣な顔になって灯里を見つめた。
「怪しいの」
「怪しい?なにそれ?」
「なんかね、怪しいことになってるみたい」
「怪しいを二回も繰り返すって、相当怪しそうだね」
「あのね、楽しい話をしようって言うんじゃなの」
「怪しいんだよね?」
「そう。怪しいの」
「なんか出るの?」
「そう。出るの」
「ええー!」
「ああ!もう声が大きい!」
「は、はひ・・・」
藍華は仕切り直すように「ふぅ~」と息をついた。
そんな藍華に灯里は恐る恐る尋ねた。
「お化け?」
「そう、なんか怪しげな男が夜な夜な・・・って、違う!」
「違うの?」
「あんたはまたそんな風にオカルトな世界に持って行こうとする!」
「なんだ」
「なんかね、人がいるのはわかってるの。だけど何をしてるのかわからないんだって」
「お店とかじゃないの?」
「そうじゃないみたい」
「じゃあ何屋さん?」
「そうねぇ、そうなると・・・だから違うの!」
「ええー!なにそれ?」
「中でゴソゴソやってるんだって。眼鏡をかけた男性がひとりいるんだけど」
「眼鏡?」
「そう。その眼鏡の男性がひとりで黙々となんかやってるらしいの」
「モクモク」
「でも中が暗いからよくわからないって」
「それは確かに怪しいね」
「でしょ?あんたなんか知らない?」
「そうだねぇ。眼鏡の男性なら、この前そのお店の前で会ったけど」
「そうなんだぁ。会ったんだ・・・ぬな?」
灯里は伸ばした人差し指の先をアゴに当てて、ちょっと遠くに視線を移した。
「なんか熱心に見てた。そして、ここの物件て空いてますか?って聞かれた」
「聞かれたの?」
「うん。何かお店をされているんですか?それでどこか探されているんしょうか?って聞いたんだけど」
「で?」
「違うって言ってた」
「なるほど。そういうことね」
藍華は呆れたように大きなため息をついた。
「どうしたの?大丈夫?」
「お店じゃないけど、どこか空いてるところを探していたと」
「そうだと思う」
「で、他には?」
「うーん。なんか優しそうな人だった」
「優しそうなのね?」
「たぶん空いてるんじゃないですか?ってお答えしたんだけど」
「答えたの?」
「うん」
「なんで?」
「だって空いてたし」
「あ、あんたねぇ、そんな適当な・・・」
「わたし不動産屋さんでもなんでもないですからぁって、一応お伝えしておいたから間違わないと思うけど」
「そりゃあ間違わないわよ!」
灯里は藍華の反応に不思議そうな顔になっていた。
「わたしウンディーネだって言っといたから。ちゃんと・・・」
「誰がウンディーネを見つけて内見を頼んだりするのよ!」
「はひっ!」
灯里は食料の買い出しに出掛けたついでに、再びあの店に訪れようと思っていた。
藍華から聞いた話が気になっていたからだった。
あの時の眼鏡の男性が、藍華がいうところの怪しい人物なら、何をしているのかを知りたい思いでもいた。
大きな紙袋を胸のところに抱えた灯里は、その暗い窓からそっと中の様子を覗いてみた。
カーテンもブラインドも何もない窓から見える室内には、なにやら雑然と多くの物が置かれていた。だが、少し様子を伺っていてわかったのだが、そこには絵を描くために使う大きなキャンバスがいくつも置かれていた。そしてそのそばのテーブルには筆や絵の具が雑然と広げられていた。
「絵を描いてるの?」
灯里は窓越しに中の様子をじっと眺めていた。その時、不意に背後から声をかけられた。
「何か用ですか?」
「はひ!」
灯里は抱えていた紙袋を思わず落としそうになった。
「あわわわわっ!」
「大丈夫ですか?」
ピタッと動きを止めると、灯里は紙袋の様子を確かめた。すると安堵の表情へと変わっていった。
「はぁ~よかったぁ~」
「驚かしてしまったようだね。悪かった」
「い、いえ、わたしの方こそこんなところで・・・ああ~~こんなところって言いましたけど、変な意味じゃないんですぅ~~」
「あれ?もしかして?」
「はい?」
灯里に声をかけた男性は眼鏡の縁を持ってしっかりと、目の前にいる灯里を見つめ直した。
「あの時のウンディーネさんだよね?」
「おそらくその時のウンディーネだと思いますけど」
「やっぱりそうだ!」
その男性は嬉しそうに笑った。
灯里が以前会ったときの印象そのままの笑顔だった。
「そうだよねぇー」
「そうですね~」
「で?」
「はい?」
「何してんの?」
「あぁ~別に怪しいものじゃないんですぅ~~」
「ふーん」
「本当なんですぅ~!ここのお店が怪しいことになってるっていう人がいたので、気になってちょっと・・・」
「それで怪しい人が怪しんで覗いてると」
「ええ、まあ、そうとも言うでしょうか・・・ああ~~違うんですぅ~~」
「ハハハハ!」
「どうぞ」
カランコロンとドアの上の方についたベルが心地いい音を奏でていた。
男性のあとについて中へと入っていった灯里は、思わずそのベルを見上げた。
表通りの熱を帯びた空気とは違い、中は意外にもひんやりとしていた。
まだ灯りが取り付けられておらず、外の明るさとの差がより涼しく感じさせていた。
だがそんな印象と違って、中は外から見た時よりも一層雑談としてる印象だった。
ところ狭しとキャンバスや画材道具が並べられていて、その周りにはまだ梱包されたままのダンボールが床にいくつも置かれていた。
「すみません、ウンディーネさん。まだこんな状態で。なかなか片付けが進まなくて」
すまなさそうにしている男性の方に灯里はクルッと向きをかえた。
「私、ARIAカンパニーの水無灯里と申します」
「ボクはアルジャーノ・コンタリーニ。アルでいいよ」
アルはテーブルの上の画材道具を急いで片付けると、そのそばの椅子を灯里に勧めた。
灯里は辺りの様子を見回しながら、そっと椅子に腰かけた。
「すぐになんか用意するよ」
「あっ、お構いなく」
「そんな訳にはいかなよ。折角ウンディーネさん・・・灯里さんに来ていただいた訳だし」
アルは部屋の奥にあるキッチンへと向かった。
水を注ぐ音とコンロの音が聞こえてきた。
「あのー、ほんとにお構いなくぅ~」
灯里はキッチンの方にそう声をかけながらも、周りのキャンバスに目を奪われていた。
それは色鮮やかな風景。生き生きと再現された街並み。木々の緑が風に揺れる様がまるでそこにいるかのように感じられた。
そしてひときわ鮮やかな海。
「これって・・・」
灯里は思わず呟いていた。
その海の風景の中に浮かぶ島は、間違いなくあのいつもの見慣れた島だった。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島。
いつも見慣れていた光景が鮮やかに描かれているのを見て、くぎずけになっていた。
「それ、ここへ来てすぐに描いた絵なんだ」
アルがいつの間にかキッチンから灯里の様子を眺めていた。
「結構気に入ってるんだ」
「素晴らしいです」
「そう?ありがとう。自分でも上手く描けたと思ってる」
「はい」
アルはそう言いながら少し笑って見せた。
「自画自賛だよね」
だが灯里は他の絵にももう一度目を向けて、あることに気がついた。
「アルさん、これってみんな・・・」
「気がついた?」
アルは灯里の後ろから嬉しそうに自ら描いた絵を見つめた。
「ネオ・ヴェネツィア」
灯里はポツリと呟いた。
「ご名答。さすがだね、ウンディーネさん」
「だっていつも見慣れた風景ばかりですから」
「そうだね。確かに灯里さんには見慣れた風景だね」
「でも・・・」
「ん?なに?」
灯里はその数々のネオ・ヴェネツィアの風景から離れられずにいた。
「でも、最初気づかなかったんです。どうしてなのか・・・」
「へぇ、そうなんだ。なんでだろうね。実物とは大分と違うからかなぁ」
「いいえ、そんなことないです。そういうことと違うんです」
「ウンディーネの灯里さんから見て変じゃなければいいんだけど」
アルはコーヒーの注がれたカップを2つ持ってその部屋に戻ってきた。
そして灯里の前にそのひとつを置いた。
「ありがとうございます」
微笑んで見せたアルは、もうひとつを自分の口に運んだ。
「確かに、絵って描く人によって印象が違うっていうよね。ある人にはこう見えてるけど、別の人にはまた違って見えてるって」
「はぁ」
「結果同じものを描いてるのにまるで違うものが出来上がる。不思議だよね」
灯里はアルの言葉を聞きながら改めて彼が描いた絵を見つめた。
「だから面白い。そう思わない?」
灯里はアルの言葉を聞きながら、何か他のことに気を取られているような表情だった。
「ん?灯里さん?」
アルは灯里の視線の先を追った。灯里の横顔は先程までと違い、気持ちが別のところへといってしまったような、そんな表情だった。
「この絵・・・この絵って、もしかしてあれですよね?」
「ああ、それ?」
アルは灯里が見つめる絵を見ながら少し気まずそうに微笑んだ。
「それはまだ書きかけなんだけど」
「そうなんですか・・・でも」
「まだ人に見せられるものではないんだけど・・・」
アルは灯里の驚いた表情が気になっていた。
「どうしたの?なんかあるの?」
「だってこの絵・・・」
そこには街中に人が溢れ、賑やかにパレードが繰り広げられている様子が描かれていた。様々な衣装を身につけた人たちが印象的な仮面をつけていた。ネオ・ヴェネツィアのことを知っている人ならすぐに想像できる光景だった。
「そうだね。ネオ・ヴェネツィアの年頭に行われる恒例行事の仮想パレードだね。まだまだ細かいところが描けてなくて、これからなんだけどね。それがどうかしたの?」
灯里はその人々に囲まれるように描かれた、一際大きな存在に目を奪われていた。
「これって、もしかして、ケットシー・・・」
「えっ?なに?灯里さん知ってるの?」
「だってどう見たって・・・」
思わず灯里は振り返ってアルの顔を見た。
「灯里さんがケットシーを知ってるなんて、なんか嬉しいなぁ」
「どういうことですか?」
「だってあれって、空想の存在でしょ?」
「空想?」
アルはカップをテーブルに置くと、近くの椅子を引き寄せて、そこにまたがるように腰かけた。
そしてまるで昔を懐かしむようにその絵を見つめた。
「そう。空想の存在。本当は存在しない別世界の登場人物。でも人じゃなかったね」
アルはそう言って笑ったが、少し表情に陰りが見えた。
「でもボクは想像で適当に描いたわけじゃないんだ」
「それって、どういう・・・」
「誰も信じてくれなかったけど。まだ子供の頃だけど見たんだ。間違いなく」
灯里は真剣な表情に変わったアルを見つめた。灯里もまた驚きを隠せない顔になっていた。
「この絵はその時のことを思い出して描いたんだ。だから記憶は曖昧なんだけどね。確かにこんな感じだった」
沢山の人たちに囲まれるように進むパレードの中心に歩く姿は、灯里が見た時のように大きな仮面をつけていた。だがそれがケットシーであることが、なぜかわかる姿だった。
「あれ?ちょっと待って。なんでこれがケットシーだってわかるの?灯里さん?」
「えっ?あっ、いや、そのぉ~何て言ったらいいか・・・」
「もしかして、灯里さんも見たの?」
「ああ~いやぁ~そのぉ~」
あたふたしている灯里の横で、アルは力なく微笑んだ。
「ケットシーの話って、昔から諸説いろいろあるからね。別に珍しい話というわけでもないしね」
灯里はほっとしたように苦笑していた。
「はへぇ~」
「でも灯里さん?」
「は、はい!」
「ケットシーって、こんな感じでいいのかなぁ?」
「えっ?ケットシーですか?」
「うん。灯里さんの意見を聞かせてくれる?」
「わ、わたしの意見と言われましても・・・」
アルは立ち上がると、部屋の隅にあるダンボールから一枚のスケッチブックを出してきた。
広げたページを見せられて、灯里は思わず息を飲んだ。
「今さらなんだけど、後悔してるんだよね」
すべてを描ききれないカタチで、まぎれもなくケットシーだとわかる姿がそこにはあった。
ぼんやりとだが、表情も描かれていた。
「ここまでだった。どうしてもここまでしか無理だった」
「でもどうしてここまで描けたんですか?」
「話してしまったんだよ。信じてほしくて。いろんな人に話して回ったんだ。そうしたら記憶が曖昧になってきて、あるときから思い出せなくなった」
「そんなことが・・・」
アルは苦い想い出に、後悔の念をその表情ににじませていた。
灯里はそのおぼろげなスケッチを見て、何か言おうとした。でもなにも言わずに口を閉じた。
灯里は心のどこかでケットシーとの再会を思い描いていた。アルの苦い想い出は、そんな灯里の心にブレーキをかけていた。
〈ちゃんと描けています〉
ほんとはそう伝えたかった。
「なんか引き止めて悪かったね」
アルは清々しい表情に戻っていた。
「これからもここで描き続けるのですか?」
「もちろんそのつもり」
「そうなんですね」
灯里は改めて部屋中を眺めていた。
「いずれはここで個展を開くつもりにしてる。それまではまだ時間がかかりそうだけどね」
アルは冗談っぽくウィンクして見せた。
「あっ、そうなんですね・・・」
そんな灯里の反応を見てアルは笑っていた。
「そうだ!灯里さん!」
「はっ、はいっ!」
「これからネオ・ヴェネツィアのあちこちを描いてゆくつもりなんだけど、なんかおすすめのところってありますか?」
「おすすめですか?」
「ウンディーネさんだからこそ知っている穴場といいますか・・・」
灯里はいろんな場所を想像してみた。もし絵で描いてもらうなら、どんなところがいいだろうかと。
だが、アルの一言でそれは思い描くことができた。
「灯里さんの思うネオ・ヴェネツィアの風景」
灯里はニッコリ微笑むと、アルに向かってこう言った。
「アルさん?もっとネオ・ヴェネツィアを歩いてみてください。すると今までとは違った何かが見えてくるかもしれません」
「街中をってこと?そうすれば何か見えるの?」
「はい!だってアルさんはこのネオ・ヴェネツィアの奇跡に出会ったことのある人なんですから!」
灯里の心からの笑顔にアルは見とれてしまっていた。
「またいつでも寄ってください。灯里さんなら大歓迎です!」
ドアを開けて外に出ようとした灯里は、軽やかに響くベルを見上げた。
「この音が聞けて嬉しいです。残して下さったんですね?」
「なんだか癒されるなぁと思ってね」
灯里はドアを閉じながら軽く会釈をした。
そしてまたベルの音が響いた。
ドアが閉まりきる寸前、アルが灯里に声をかけた。
「ケットシーのこと、いつか聞かせてください」
灯里はそれには気づかずにドアをそっと閉じた。
それからしばらくの時間が流れた。
ARIAカンパニーの店先には、いつもの騒がしい声が響いていた。
「ちょっとぉー!灯里ぃ~!いるぅ~?いるんでしょ~~?!どういうことか説明しなさいよ~~!」
エプロン姿の灯里がひょっこりとキッチンから顔を出した。
「どうしたのぉー?なんかあったのぉ~?」
「あんたねぇ、どうしたもこうぃたもないでしょ?あれはいったいどういうことよ?」
「あれ?なぁに?あれって」
「あの眼鏡男のことよ!」
「それだれのこと?」
「だからぁ~あの怪しい、ひとりゴソゴソなんかやらかしてる」
「アルさんのこと?」
「ア、アルさんて、そんないつの魔に名前まで知ってる仲なの?」
「こないだ、絵を見せてもらったんだよ」
「だよって、あいも変わらず、あんたって人は・・・」
藍華は呆れたようにため息をついた。
「どうしたの?」
「そんな感じだと、あんたはまだ知らないってことね?」
「はぁ」
「今度時間あるとき行ってみるといいわ」
「どこ?」
「あのゴソゴソ男のところよ!」
「はひっ」
あの通りの角の店は、すっかりアトリエらしい佇まいとなっていた。
相変わらず窓にはカーテンのひとつもなかったが、窓から見える部屋の中は、以前灯里がやって来た時よりも作品の数が増えていた。
そしてその絵の見える風景が噂となって、通りを歩く人たちが覗いて歩く様子が日常となっていた。
表通りからよく見える位置には、一枚の絵が飾られていた。そこを通る人たちの中には、なぜか笑顔になる人たちがいた。
外観はまさにその店の様子そのものだったが、中は賑やかそうに笑顔で溢れたパン屋の姿がそこにあった。
そして店の外の角には、笑顔で歩くウンディーネ姿の女性が描かれていた。胸のところで紙袋を抱えた、ピンク色の髪のウンディーネからは、とにかく嬉しくて仕方がないと、心が弾んでいるのが伝わってくるようだった。
Episodio 22 ネオ・ヴェネツィアの水彩画 おわり