ARIA The PETRICHOR 作:neo venetiatti
老舗水先案内店に新設されたカンナレージョ支店の若き支店長、藍華・S・グランチェスタは、いつものように積極的に営業に出ていた。
「暑いのに大変だねぇ」
「お気遣いありがとうございます!お客様こそ、お身体大丈夫ですか?」
年配の女性客の声に、藍華はいつもの明るい調子で言葉を返した。
「ウンディーネさんのような人がいるなら、姫屋の将来も安泰だねぇ」
「そうですかぁ?ありがとうございます!」
藍華は喜びをあらわにして、細く続く運河の先を見つめていた。
「ん?」
だが、藍華の表情が少し怪訝なものへと変わっていった。
藍華の少し先を行くゴンドラの動きが、どうもおかしい。
その時だった。
「ゴンドラ通りまーす!」
先の方で交差している運河から、ゴンドラの舳先が見え始めた。
「あっ、危な・・・」
藍華は、思わず声を上げそうになった。
だが、藍華の前を行くゴンドラは、なんの迷いもなさそうに、合流しようとしたそのゴンドラをスルッと避けた。
その反対に、ぶつかりそうになったゴンドラのウンディーネは驚愕の表情になっていた。
すり抜けていったゴンドラのウンディーネは、その長い黒髪を風になびかせて、振り返ることもなく行ってしまった。
「なっ、あれ、なに?」
藍華は、そのウンディーネのゴンドラの動きに驚いていたが、そのウンディーネの姿にも驚きを隠せずにいた。
グローブを両手にはめたウンディーネ。
そして、白地に赤色が印象的なユニフォーム姿。
「いったいぜんたい、誰?」
ぶつかりそうになっていたゴンドラのウンディーネはシングル。
だがそのゴンドラを、全く無駄のない動きで完璧にすり抜けていったのはペアのウンディーネ。
藍華は、その小さくなってゆく後ろ姿に釘付けになっていた。
「研究生?」
藍華は、晃に事情を聞こうと、本店にやって来ていた。
「もしかして、会ったのか?」
晃はちょっと自慢げな表情をしていた。
「会ったも何も、あんな新人どうしたんですか?」
「そんなに凄かったのか?」
「ええ、まあ、ちょっと信じられないくらいの・・・」
晃は両手を腰において、目を閉じた。
だが口元はしっかりと笑みがこぼれていた。
「新人かって聞いたけど、まだ正式に入社したわけではないんだ」
「どういうことですか?」
「さっき言ったとおり、あくまでも研究生だ」
「こないだ導入した研究生制度のことですよね」
「アリアーナっていうんだが、まだミドルスクールの学生だ」
「学生?現役の?」
「そうだ。しかも、アリスが卒業したミドルスクールに在籍していて、その上、アリスが活躍していたボート部の現在の主将だ」
「そ、そうなんですか?」
「お前が驚くのも無理はないな」
「でもそれならオレンジぷらねっとへ行くのが筋って思いますが、なんでうちなんですか?」
「これは本人の意思なんだが、アリスがオレンジぷらねっとにいるから、だから姫屋にしたそうだ」
「なんですか、それ?」
「ガッツがあるだろう?先輩がいるから、そこにするっていうのが普通だ。そこをあえて避ける。なかなか手応えのありそうなヤツだ!」
「はぁ。そんなもんですかねぇ」
藍華は、嬉しそうにしている晃を、少し呆れた顔で見ていた。
「姐さん!藍華姐さん!」
「はぁ?」
藍華はどこからか、そう声をかけられてキョロキョロ辺りを見回していた。
「私に妹なんていなかったはずだけど・・・」
「藍華姐さん!」
藍華の目の前に現れたのは、まぎれもなく、あの研究生だった。
「お初にお目にかかります。今、姫屋に研究生としてお世話になっていますアリアーナと申します。よろしゅうお願いします」
藍華のゴンドラとすれ違うように、自らのゴンドラを藍華の横につけたアリアーナは、深々と頭を下げた。
「よ、よろしゅう・・・なのね」
「はい!」
「返事はすごくいいわね」
「はい!そこはもう後輩たちにも、挨拶だけはちゃんとやっとくんやで!って教育してますから。言うてる本人がいい加減なこと、できません!」
「そうなのね」
藍華は完全にアリアーナの勢いに押されていた。
「ボート部の主将だって?」
「はい!そうです!」
「しかも後輩ちゃんと同じミドルスクールなんでしょ?」
「後輩ちゃん・・・と申しますと?」
「ゴホン!あ、あれよ。オレンジぷらねっとのアリス・キャロルよ!」
「アリスさんをご存知なんですか?」
「ええ、まあ、一応ね」
「アリス先輩のお知り合いだったとは、失礼しました」
「そんなたいそうなことじゃないんだけどね」
藍華は、自分のペースを崩されて、戸惑いを露にしていた。
「でもなんでオレンジぷらねっとじゃなくて姫屋なの?同じボート部の後輩なんでしょ?」
「そこは違うんです、姐さん」
「ちょっと、その姐さんてのは・・・」
「私はアリス先輩に憧れてボート部に入ったんですが、卒業されてからの先輩の活躍ぶりがあまりにもスゴすぎて。このまんまアリス先輩の後ろを追いかけていていいのか!ってなったわけなんです」
「それで、うちなの?」
「目指すは、飛び飛び級昇格なんです!」
「なんですか、それ?」
アリアーナの噂は、瞬く間に姫屋中のウンディーネに知れ渡っていた。
あのアリスの後輩にして、すでにアリスをしのぐ逸材、だと。
本人の云うところの「飛び飛び級昇格」とはなんなのか未だよくわかってないが、なぜか納得できてしまうくらいの凄腕であることは、誰もが理解できた。
「あのウンディーネさんなら、いいんじゃない?」
運河を通りかかった女性二人組の観光客が、アリアーナの身のこなしを見てそう言った。
「すみませーん!ウンディーネさーん!お願いできるかしらー!」
アリアーナは、淀みのないオールさばきで、ゴンドラを反転させた。
そして、声をかけてきた観光客のそばまでスッとゴンドラを近づけると、その場にピタッと止めた。
「お客様、申し訳ございません。私まだ、ペアでございます」
アリアーナはそう言うと、グローブをつけた両手の甲をその観光客に向けて見せた。
「えっ、そうなの?てっきりプリマ・ウンディーネだと思ったのに」
アリアーナは、その場で頭を下げると、何事もなかったようにゴンドラをするりと反転させ、まるで水の上を滑るように行ってしまった。
「あれで充分じゃないの?」
「何がどうなってるの?」
「おーい!嬢ちゃーん!精が出るねぇ!」
「はい!よろしくお願いしますぅ!」
アリアーナは、本日三度目の水上エレベーターだった。
「そんなに頑張って大丈夫なのかい?」
水上エレベーターのおじさんは、心配そうにアリアーナの様子を気にしていた。
「はい、問題ありません!」
「でもなんでそんなに必死なんだい?」
「うち、研究生なんで、期間限定なんです」
「へえー、そうなのかい?それじゃあ頑張らないといけないなぁ」
「はい!」
ガタンと大きな音を立てて、ゲートが開いた。
中から出てきたゴンドラには、どこかでお客をおろしてきたのか、プリマ・ウンディーネがひとり乗っていた。
そのウンディーネは、アリアーナの姿を見て、不思議そうに首をかしげた。
「あれ?さっきもすれ違ったような・・・」
アリアーナは、そのウンディーネに一礼すると、エレベーターの中に消えていった。
「お客様、一列にお並びくださーい!」
アトラは、トラゲットの船着き場で、ゴンドラの到着を待つ客たちに声をかけていた。
「あのー、すみませーん。そちらの方も・・・ん?」
ウンディーネ姿の少女が少し離れたところから、こちらの様子をじっと見つめていた。
「あの、あなた、そこで何してるの?」
「あっ、気にせんといてください、うちのことは」
「気に、せん、とい、て?」
「はい。そのままお仕事に専念してください」
「そんなこと言われても・・・」
アトラは困惑した様子で、やりにくそうにしていた。
「おーい、アトラー!間もなく到着だぞー!」
船着き場に近づいてきたゴンドラの、その先端に立っているあゆみが大きな声で呼び掛けてきた。
「間もなく到着しまーす!」
アトラは客たちに声をかけながら、少し離れて立っているウンディーネをチラッと見た。
その瞬間、そのウンディーネとバッチリ目が合った。
「おーい!アトラー!」
「は、はい!」
そのウンディーネに気をとられていたアトラは、あゆみの声で急いで到着した客への対応に追われていた。
「さぁ、おばちゃん、気をつけておりてな!」
あゆみは大きな荷物を持った婦人を手伝って岸に上がってきた。
そこで、じっとこちらを見ていたウンディーネが、その荷物を運ぶのを手伝いにやってきた。
「おお、ありがとな。助かるよ・・・あれ?」
その婦人が荷物を肩に担ぐのを後ろから手伝っていたそのウンディーネは、あゆみと目が合うと頭を下げた。
「あゆみ姐さん、お初にお目にかかります。研究生のアリアーナといいます」
「ああ、そうか!君、今噂の研究生くんだね?」
「はい!」
そのふたりのそばで不思議そうに、アトラと杏はその様子を見ていた。
「あゆみちゃん、研究生ってなに?」
「姫屋はそんなのやってるの?」
「まだ知らなかった?彼女、すごいんだから!」
そんな会話をしているそばで、アリアーナは船着き場の様子を見ていた。
「みなさん、降りられたようですけど」
入り口となっているところで、客たちがアトラたちの方を見ていた。
「まだ、乗らせてもらえないのかい?」
「す、すみません!」
次の漕ぎ手の順番である、アトラと杏が急いでゴンドラのところまで行き、客たちを迎え入れた。
岸ではあゆみが、順番に乗り込むようにと客たちに声をかけている。
「ふむふむ。なるほど。交代でローテーションて訳なんや・・・」
アリアーナは三人の様子を見て、ひとり納得していた。
「もしかして、興味あるの?」
アリアーナの様子に、あゆみは聞いてみた。
「いえ、あんまり」
ガクっ
あゆみはずっこけそうになっていた。
「だってさっきから、すごく熱心に見てるじゃない?」
「それは、せめて知識ぐらいは持っておかないと、と思っているからです」
「なにそれ?」
「うちの目標は、飛び飛び級昇格ですので」
「はぁ?」
そうこうしているうちに、ゴンドラは無事出発した。
あゆみとアリアーナは、並んでその様子を見送っていた。
「やれやれだな」
「あゆみ姐さんは長いのですか?この仕事」
「まあそうだね。それなりに」
「プリマは目指されないとか。なんでなんですか?」
「うちはこれが性にあってるから。それだけだよ」
「そうなんや」
「そう言えば、さっきの〈飛び飛び級昇格〉ってなに?」
「うち、やるからには、伝説を作ろうと思ってます」
「伝説?なんなの、それ?」
「姐さんには悪いと思いますが、うち、シングルは考えてません。もちろんペアも」
「考えてないって言ったって、順序ってもんがあるんじゃないの?いきなりプリマ?」
「それは理解してるつもりです。ですので、今の間に充分研究をしておこうと思ってるわけです」
「それで、ここでこうしているわけだ」
「まあ、そんなとこです」
「でも待てよ。シングルを考えてないんなら、トラゲットはやんないんじゃないの?」
「正直なところ、わかりません」
「ふーん」
離れてゆくゴンドラを見つめているアリアーナを、あゆみは不思議そうにその横顔を眺めていた。
「うーん、そうねぇ」
アリシアは、唐突な話に困った顔になっていた。
ゴンドラ協会の会合が終了したところで、晃はアリシアを呼び止め、こう切り出した。
「アリアーナに昇格試験を受けさそうと思ってる」
アリシアの困惑ぶりは当然といえた。
まだ現役の学生で、研究生の身分。
アリアーナは、あくまでも異例中の異例という扱いで、ゴンドラ協会も承諾はしていた。
それは一時的なもので、今後もそうなるとは決まっていない。
それ故にアリアーナの結果次第では、この先も研究生制度が続くとは限らなかった。
「アリアーナさんがとても優秀なのは、わかってるつもりよ。でもね、晃ちゃん?やはりここは、ちゃんと正式にウンディーネになってからじゃないかしら」
「それは私も充分わかってるつもりなんだが。だから、せめて評価らしいことが下せればいいかと思ったんだ」
「そうなのね」
晃は、珍しくアリシアの前で神妙な表情になっていた。
「なにか理由があるの?」
「アリシア、お前も知ってるとおり、姫屋はどちらかといえば、伝統を重んじる会社だ。オレンジぷらねっとのようなところと違って、新しいことに取り組むことに、少々遅れをとっていることも、否めないのが事実だ」
「だから、藍華ちゃんがプリマに昇格してすぐ、支店を任せるという取り組みを行ったわけよね?」
「それもそうなんだが。それはどちらかといえば、藍華のためであり、姫屋の将来のための話だ。それとは別に、何か新しい取り組みが、姫屋にも必要なんじゃないかと思ってるんだ」
「そうねぇ。晃ちゃんの考えてることは、とても理解できるのだけど。アリアーナさんが、日々ネオ・ヴェネツィアでウンディーネをやっていること自体、異例なことでしょ?」
「確かにそれはそうなんだが・・・」
晃はアリシアのいうことに当然理解できるところはあった。
「アリシア、無理言って悪かったなぁ。これは私個人のわがままだ。忘れてくれ」
晃は、アリシアに向かって晴れやかな表情でそう言った。
「晃ちゃん?少し時間をもらえないかしら?何か別の方法はないか、考えてみるわ」
アリシアは、その美貌でもって、にっこりと微笑んでみせた。
藍華は、今日も朝から営業に励んでいた。
夏の日差しが眩しく照りつける中、ハツラツとした顔はいつもと変わらない。
だが、最近はそこに少し自慢げな気持ちも加わっていた。
「姫屋の新人さん、スゴいねえ!」
「いつから乗せてもらえるの?」
「通り名は決まってるの?」
アリアーナの存在は、今や水先案内業界に知れわたり、常連客からも質問が相次いでくる状態だった。
「うちもやるときはやるってことよ!」
藍華が運河の途中でお客を下ろそうとしていた時、長い黒髪が視界の隅に入った。
「アリアーナ!ちょっと待って!」
その声に気がついたアリアーナが、藍華のそばまでゴンドラを近づけてその横に止めた。
「お疲れ様!どう、調子は?」
「お陰様で、ボチボチやらせてもらってます」
「それは良かったわ」
「それで姐さん?」
「いや、だから、わたし、妹はいないんだけど」
「お伝えしておくことがありまして」
「なに?どうしたの?」
アリアーナは急にあらたまった態度になった。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「はぁ?なにそれ?どういうこと?」
「本日をもって、研究生終了となります」
「ええー?そんなの聞いてないわよ!」
「ご存知なかったんですか?」
「はぁ~」
藍華はゴンドラの上で天を仰いでいた。
「それでどうすんの?やめるの?」
「やめるも何も、まだ正式に就職していたわけではありませんでしたし」
「それじゃあ」
「学校に戻ります」
「ああそうか。まだミドルスクールに通ってんだったわね。忘れてた」
藍華はアリアーナがすでに姫屋の新しい顔になってる気分でいた。
「それでどうだったの、ウンディーネになった気分は?」
「ウンディーネと言われても、人を乗せてはいませんから。正直実感はありません」
「まあ確かにそうね」
「でもネオ・ヴェネツィアの運河や水路は全部把握できました」
「あ、あんた、それ、ホントなの?」
「リヤルト橋が幅43メートルで、アーチひとつで出来上がっているとは、いい情報でした。周辺の街も酒場や住居が混在していて、ネオ・ヴェネツィアのまた違った風情であるとか。それにため息橋の由来も・・・」
「ああ、わかったわかった!あんたの優秀さはわかったから。もうその辺にしておいて!」
「ただ、心残りなことがひとつ」
「そんなことあるんだ。なに?」
「トラゲットです」
「トラゲット?なんでまた、トラゲットなの?」
「他のお店の方々との共同作業ですので、なかなか経験できることではないですから」
「なるほど。あんたみたいな優秀な人でも、そんなふうに思うんだね」
「もう行くことありませんから」
「えっ、どういうこと?」
「ですから、〈飛び飛び級昇格〉を目指しているうちにとって、必要ありませんので」
「ああ~そういうことなのねぇ~~」
アリアーナが姫屋を去ってから後、ゴンドラ協会の定例会合において、研究生制度の大々的な導入の案が提案された。
これは、水先案内業界の改革を推し進めるアリシアの、強い意思の現れと、関係者には受け止められていた。
時間が流れ、少しずつ、アリアーナのことを話題にする人も減りつつあった。
アリアーナが研究生として、姫屋のユニフォーム姿でネオ・ヴェネツィアを闊歩していたときは、藍華の周りでも、その話題で持ちきりだった。
ミドルスクールに戻った直後も、見かけなくなったことへの質問が相次いだ。
だが、時間が経つにつれ、徐々にその話題もされなくなっていた。
時々、風に揺れる長い黒髪の少女を見かけると、ふと振り返ってしまう。
藍華はそんな自分に気づいて、ふと笑みがこぼれてしまうのだった。
研究生として最後の日。
姫屋からアリアーナに対して、その頑張りに対する評価と期待をこめて、姫屋オリジナルの真っ赤な特製グローブが贈られた。
だが、アリアーナはそれを受け取ろうとしなかった。
「うちには必要ないんです、それ。だって次来るときは、飛び飛び級昇格してるわけですから」
Episodio 03 夏の妖精 おわり