ARIA The PETRICHOR 作:neo venetiatti
「アリア社長!朝食の用意ができましたよー!」
灯里はいつものようにキッチンからテーブルの方に呼び掛けた。
だが、いつも待ちきれずに椅子を前後にゆらしているアリア社長の姿は、そこにはなかった。
「あれ?またいない」
灯里はあたりを見回してみた。
「どこかお散歩でもいってるのかなぁ。でも食いしん坊のアリア社長が朝ごはんも食べずに出かけるなんてこと、ないと思うけど・・・」
アリア社長は、アイラと初めて出会った運河のほとりを、行ったり来たりしていた。
アイラと一緒にアイラを捜す。
そんな理由から、ふたりしてあちこち出掛けたあの日から、数日が経っていた。
アリア社長は、アイラのことが気がかりで仕方がなかったが、運河で出会い、運河で別れていたこともあって、運河のほとりを歩くしかなかった。
そんな気持ちが通じたのか、運河沿いの通りの向こうから走ってくるアイラの姿が見えてきた。
「ぷっ、ぷいにゅい?」
本当なのかと目をこするアリア社長。
キュッキュッキュッキュッ
近づいてくるにつれて、その姿がアリア社長にもハッキリとしてきた。
「おもちちゃーん!」
「ばいにゅーいっ!」
しばらく会えてなかったことが、アリア社長の喜びを倍増させていた。
手を振りながら走ってくるアイラの姿が輝いて見えた。
だが次の瞬間、アイラの表情が一変する。
「お嬢様!アイラお嬢様!」
その声に射たれたように、アイラは立ち止まった。
アリア社長は何が起こったのか理解できず、驚いてその場に立ち尽くしていた。
アイラはその場でゆっくりと振り返った。
そこには、ひとりの女性が立っていた。
その女性の顔からは、驚きと焦燥感が顔から滲み出ていた。
「いったい今までどこにいらしてたのですか?」
ゆっくりとアイラに近づいてきたその女性は、まだ信じられないような顔でアイラを上から下まで眺めた。
「えっと・・・」
アイラは明らかに戸惑っていた。
アイラの中では判然としないその女性は、アイラとは対照的にアイラのことをよく知っている様子だからだった。
「さあ、こんなところに長居は無用です。早速帰りましょう、お嬢様!」
「帰るって、どこに?」
「何を言ってるのですか?お父様とお母様のところではありませんか!」
「お父様とお母様・・・」
「さあ!」
その女性はアイラの身体を抱えるようにして、無理矢理引っ張っていこうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください!私まだ、大事な話をしてないんです!」
「何をおっしゃってるんですか?行きますよ!」
「おもちちゃーん!」
アイラは身体をねじるようにして、アリア社長の方に振り返った。
そのアイラの必死の様子に、アリア社長は通り過ぎてゆく通行人に必死に助けを求めた。
「ぷぁぷぁぷぁい!ぷぁ、ぷぁ、ぷぁい!」
あまりに突然でどうしていいかわからなくなっていたアリア社長は、そばを通る人たちに気づいてほしくて必死に呼び掛けたが、言葉にならなかった。
あたふたと焦っている間に、アイラはその女性と共に、人混みの中へと消えていった。
アリア社長は、その場に茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
すると、涙が頬をつたって流れ落ちていった。
「あのさあ、灯里?」
「なに、藍華ちゃん?」
二人は、ARIAカンパニーのカウンターを挟んで向かい合うように立っていた。
「最近、アリア社長って、どんな感じなの?」
「どんな感じって、どういうこと?」
「そうねぇ、例えばお腹を壊してるとか?」
「う~ん。そう言えば、最近、朝ごはん抜きで出かけることがある」
「ええー!あのアリア社長がごはん抜きって、そんなことあるの?」
「私も気にはなってたんだよねぇ」
「やっぱりそうか!」
「えっ、何が?どういうこと?」
「最近さぁ、アリア社長の様子が、なんだかおかしいって思ってたのよ!」
「藍華ちゃん!何か知ってるの?」
「てゆうか灯里?あんたほんとに知らないの?」
「だって、夕方にはちゃんと帰ってくるし、夜はごはんもちゃんと食べてるよ」
「じゃあ、あの地蔵みたいな姿を見たことないの?」
「地蔵って、お地蔵さんのこと?」
「他にどんな地蔵があるって言うの!」
呆れてため息をついた藍華の前で、灯里はキョトンと藍華の顔を眺めていた。
昨夜から雨になっていたネオ・ヴェネツィアだったが、アリア社長は、今日もあの運河のほとりにたたずんでいた。
最初は覚悟を決めたような表情だったが、時間がたつにつれ、後悔と情けなさで、惨めで見てられない顔になっていた。
それでも、アリア社長はそこを動こうとしなかった。
そんなアリア社長の上に傘がさしかけられた。
アリア社長はゆっくりと顔を横に向けた。
灯里だった。
灯里は傘を手に、アリア社長のそばに寄り添うようにしゃがんでいた。
「アリア社長?どうしたんですか?こんなに濡れて。かぜ引きますよ」
灯里はアリア社長を気遣うように、やさしく話しかけた。
アリア社長は、黙ったまま、また正面を向いた。
「わかりました、アリア社長。それならお付き合いします」
灯里は、身体半分濡れながら、アリア社長のそばにいることにした。
アリア社長は、そんな灯里の様子に思わず言葉を漏らした。
「ぷいにゅい?」
「いいですよ、アリア社長。気にしないで下さい。アリア社長が納得するまで、ちゃんとお付き合いしますから」
その言葉を聞いて、アリア社長は一層情けない顔になっていた。
しばらくそのまま、二人は雨の中にいた。
運河の先を見つめるアリア社長。
そのそばで、アリア社長の目線の先を見つめる灯里。
すると、アリア社長がのっそりと歩き出した。
「アリア社長?」
雨の中歩き出したアリア社長は、立ち止まって灯里の方に振り返った。
「わかりました。じゃあ、帰りましょうか」
灯里はニッコリ微笑むと、アリア社長のあとを歩きだした。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島を望むあのベンチのそばで再会したとき、アリア社長は、すぐにはそれがアイラだと気づかなかった。
ウンディーネ姿ではなかったからだろうか、まるで別人に見えたからだった。
「おもちちゃん、久し振りだね。私のこと、覚えてる?」
アリア社長はどう返事していいかわからなくて、そのままサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の方を向いていた。
「座って、いい?」
そう言ってアイラは、アリア社長の横に座った。
「やっとおもちちゃんと話すことができるね」
「ぷぁい?」
「あの時、話せなかったでしょ?」
「ぷいにゅ」
「それが心残りだったから」
「実はね、あの時、おもちちゃんと一緒に、本当のアイラちゃんを捜そうといって、いろんなところへいったでしょ?あの時ね、はっきりとわかったの。本当のアイラちゃんの気持ちが」
「ぷいにゅい?」
「アイラちゃんは、本当はウンディーネじゃなかったの。ウンディーネになりたかった人だったの」
「ぷ、ぷいにゅ?」
アリア社長は困惑していた。
「おもちちゃんが混乱するのも無理もないと思う。私も最初はどう受け止めていいかわからなかったもの。でもね、大運河を眺めたり、サン・マルコ広場の大鐘楼に上ったりしているうちに、ああ、本当のアイラちゃんは、これに憧れていたんだってわかったの」
アリア社長はアイラの無邪気な笑顔を見つめていた。
「おもちちゃん?そのことをあなたに伝えたかったの!」
「ばいちゃ?」
「そう!だって、あなたがあんなにも親切に私に付き合ってくれてなかったら、本当のアイラちゃんの気持ちに気づいてたかどうかわからなかったと思うの!」
アリア社長は、ちょっと複雑な顔をしていた。
「あの時、それを伝えたかったのに・・・」
アイラは少し寂しげな表情をしていた。
「私ね、今、アイラちゃんのおうちで、アイラちゃんのご両親と過ごしてるの。そこでアイラちゃんの記憶をたどりながら、アイラちゃんてどんな人だったのかを考えてるところなんだ」
「私ね、アイラちゃんの夢、絶対叶えてあげようと思ってるの。私が、この世界、このネオ・ヴェネツィアで生きる意味を、アイラちゃんに与えてもらったような気がするから」
アイラは輝いた眼差しをアリア社長に向けて語った。
そして、今度は目の前に広がるネオ・アドリア海と、そこに浮かぶサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に目を向けた。
アリア社長は、その晴れやかなアイラの表情の、その愛らしい横顔に見とれていた。
「ぷいにゅい~・・・ぷ、ぷいにゅ?ぷいにゅい?」
〈よかったねぇ~アイラちゃん・・・でも、ちょっと待って。さっき親切って言いましたよね?アイラちゃん?それだけ?それだけなの?〉
アリア社長は、久し振りに灯里のゴンドラに一緒に乗って、営業に出ていた。
「アリア社長?一緒にお客様をお迎えにいくのって、久し振りですよねぇー」
「ばいにゅーい!」
夏の明るい日差しが、その行く手を照らしている。
「あれ?」
「ぷいにゅ?」
「あの娘、新人さんかなぁ。初めて見る顔かも」
「ぷいにゅ・・・」
その、まだあどけない表情のウンディーネは、灯里のゴンドラとすれ違うとき、何かに気づいた顔をしていた。
すると次の瞬間、そのウンディーネはアリア社長にウィンクをした。
口をあんぐりと開けたまま、倒れこんだアリア社長。
ドテッ
ポコン
スルスル~
「あわわわ~大丈夫ですかぁ~アリア社長~~!」
アリア社長は大の字になって、青空を見上げていた。
「誰なんですぅ~?アリア社長を惑わせるなんて~~」
アリア社長を惑わすウンディーネは、チラッと灯里の顔を見た。
それが誰なのか、一瞬だが、わかったような表情をしていた。
だが、すぐに前を向いた。
その晴れやかな表情は、満足感に満ちているようだった。
「誰なんですかぁ~?」
Episodio 06 恋とはどんなもの? 完