ARIA The PETRICHOR 作:neo venetiatti
丁度お昼を過ぎた頃、水無灯里は、照りつける日射しに向かって手をかざし、その隙間から太陽をのぞいていた。
「今日も暑くなりそうですねぇ」
朝のうちは少し涼しい風が吹いていたものの、時間の経過とともに生暖かい風が流れるようになり、今や暑さ全開といった様子だった。
「ふぅ~」
額の汗をぬぐいながら、灯里はARIAカンパニーへと舵を切った。
岸ではこの暑さの中でも観光客が多く行き交っていたが、さすがに誰もがこの暑さに顔を歪めていた。
そんな一団のなかに、ちらほらと学生服に身を包んだ姿があった。
「社会見学・・・かなぁ」
灯里はそうつぶやきながら、マンホームのアイのことを思い浮かべていた。
「このネオ・ヴェネツィアに、何を見つけに来たんだろう・・・」
まだ幼さが残る顔たちは、まるでこの暑さを謳歌しているかように、灯里には見えた。
午後を境に少し客の流れが落ち着きをみせ始めた頃、灯里がマルコ・ポーロ国際宇宙港近くの船着き場で客を下ろし、再びゴンドラに乗り込もうとした時だった。
「あのー、ちょっと聞いてもいいですか?」
灯里が振り返えると、そこには学生服姿の少女が立っていた。
髪を肩まで伸ばし、その切り揃えた前髪の下の瞳は、灯里を真っ直ぐに見つめていた。
「どうかされましたか?」
灯里は優しい笑顔でその少女に応えた。
「なんでネオ・ヴェネツィアって、こんなに人が多いのですか?」
「へっ?」
こんな質問をされるなんて、思ってもみなかった。
「なんでって、それはね、えーと、多分、いや当然というか、やっぱり有名な観光地だからだと思うんだけど・・・エヘヘヘ」
灯里は不意を突かれたような質問に、とっさにうまく答えられなかった。
それゆえ、苦笑いで返すことしかしかできなかった。
「はぁ~」
「どうしたんですか?」
「なんか急に自信が・・・」
「お姉さんて、いわゆるプリマっていう人ですよね?」
「そ、そうだよ~。なんでわかったの?」
その少女は、灯里の手を見た。
「グローブを着けてないから」
「うん、そうだね」
「だから聞きたいんだけど」
「その、さっきの質問のこと?」
「はい」
灯里は、少し考える素振りををみせたが、すぐに微笑んでみせた。
「それはね、やっぱり、このネオ・ヴェネツィアが素敵なところだからだよ!」
「へぇー」
灯里はいつもの笑顔でいたが、目の前の少女は表情ひとつ変えずにいた。
気まずい空気が流れた。
「あ、あの~」
「はい?」
「通じたのかなぁ」
「ええ」
「そうなんだぁ」
「ところで」
「は、はい!」
「その素敵って、なんなんですか?」
「えーと、素敵・・・」
「街が素敵って、どういうことですか?」
「はひっ!」
少女から真っ直ぐな瞳を向けられて、灯里はどう答えていいか悩んでしまった。
「例えば・・・」
「例えば?」
「ほら、見て!」
灯里は振り返って、大鐘楼を見上げた。
丁度いいタイミングで鐘の音が鳴り響いた。
「サン・マルコ広場を象徴する大鐘楼だよ。すごいでしょ~」
「はぁ。なるほど」
今度はその広場に向けて手を広げた。
「そしてここが、かの有名なサン・マルコ広場。あのナポレオンが、世界一素晴らしい広場だと称賛したことで知られている広場だよ」
「へえー」
クルッポ クルッポ
灯里の足下には、数羽の鳩がのんびりと歩いていた。
「マンホームでの話だけど・・・」
「そうなんですかぁ」
少女の反応がどうしても薄い。
「ほら!あそこ見て!」
今度は反対に海の方を指差した。
「あれがサン・ジョルジョ・マッジョーレ島。あの島全体が教会なんだよ。まるで海の上に浮かんでるみたいでしょ?」
「言われてみれば」
「でしょ!」
灯里は満足げな表情になっていた。
「こんな感じですか?」
「えっ?」
「それくらいなら、ここへ来る前に予備知識として習いました」
「習った・・・の?」
「はい」
「そうなんだぁ」
灯里は残念そうに苦笑いの表情を浮かべた。
「でも実際に目の前で見ると、また違った印象でしょ?」
「うーん」
「でしょ?」
「そうでもない」
ガクッ
「ビジュアル体験の授業だと、仮想空間で再現できちゃうし」
「そうなんだぁ・・・」
灯里は誰が見てもわかるくらい、肩をガックリと落とした。
「あのぉー、プリマのお姉さん?」
「なに?」
「余計なこと、聞いちゃいました?」
「そんなことないよ~」
「そうですか?」
「もちろんだよぉ~。せっかくネオ・ヴェネツィアまで来たんだから、なんでも聞いてくれていいよ」
そう言って灯里は、ふと海の方に目を向けた。
そして、空へと視線を移した。
「来そう」
灯里の呟いた一言に、その少女は不思議そうに、その横顔を見つめた。
「えっ、なんですか?」
灯里は、すうっーと鼻から息を吸い込んだ。
「うん、もうすぐだね」
「はい?」
その少女は、灯里が見ていた方向に目を向けた。
ネオ・ヴェネツィアの空に、少し雲がかかり始めていた。
そしていつの間にか、少女の横にいたはずの灯里の姿がいなくなっていた。
驚いて振り向くと、その先に灯里はいた。
振り向いた灯里は、その少女に手招きをしている。
「こっちこっち」
少女は不思議に思いながらも、灯里の後をついていった。
少し歩いた先に、大きな屋根のあるお店にたどり着いた。
「このお店が何か・・・」
その少女がそう言って、そのお店を見上げていた時だった。
急激に空が暗くなり始めたかと思うと、ポツリポツリと大粒の雨が降りだした。
「ねえ、早くこっちこっち」
灯里に言われるがままに、その大きな屋根のひさしの下に入った。
その瞬間、これまでの天気がうそのように、凄い勢いで雨が降り始めた。
「タイミング良かったね」
「そうですね・・・」
少し遅れていたら、間違いなくずぶ濡れになっていた。
「お姉さん、なんでそんなタイミングばっちりにわかったんですか?」
「匂い」
「匂いって?」
「わからなかった?雨の匂い」
「雨の匂いですか?」
「雨が近づいて来ると、湿ったような、なんか独特の匂いが風に乗ってやってくるでしょ?」
少女はそんな灯里の言葉を聞きながら、街中に降り注ぐ雨の風景を眺めていた。
突然の雨に通りを駆け抜けてゆく人たち。
上着を頭から被っているビジネスマン。
カフェの小さな軒の下で雨宿りする女性。
花屋の店先で、買った花束を抱えながら空を見上げている若い男性。
急いで店先に並べていた商品を片付ける商店のおじさん。
街中が大雨から逃れようと、大慌てになっていた。
そして、遠くから雷鳴が響き始めていた。
灯里の横の少女は、その雷鳴の音に不安な表情を浮かべていた。
「大丈夫。じきに止むから」
灯里は、微笑んだ表情で雨の空を見上げていた。
「灯里ちゃん、中に入ったらどう?」
灯里たちが立っていた後ろのドアが開いて、中からその店の女性が声をかけてきた。
「すみません。雨宿りさせていただいてます」
「それは全然構わないよ。それにしてもすごい降り方だねぇ」
「はい。でも通り雨だと思います。じきに止むと思うんです」
「そうかい?よかったら中でゆっくりしていきなよ」
気さくな店主の心遣いだったが、灯里は丁重に断った。
すると、雨足が少しやわらいできた。
「ペトリコール」
少女がその言葉を呟いた。
「ペトリコール?それなに?」
「さっきお姉さんが言ってた、雨の匂いのこと」
「へぇー、そんな言葉があるんだ」
「以前、授業で雨の研究をしてる人がいるって話を聞いたことがあって、それを思い出したの」
「雨が降ったあと、地面から立ち上る匂い。それって、微生物か何かが関係してるって言ってたような気がする」
「そんな研究をしてる人がいるんだぁ」
「うん。でも、そんなこと、実際のことと関係ないって思ってた。お姉さんが匂いの話しなかったら、思い出してなかったかもしれない」
灯里は、神妙な面持ちで話す少女の横顔を、微笑んで眺めていた。
そんな会話をしている間に、雨は止み始めていた。
「ほんとですね」
「当たったね」
少女は灯里と目が合うと、先程まで淡々としていた顔に、はにかんだ笑みを浮かべた。
灯里たちは、雨宿りをさせてもらった店主の女性にお礼を言うと、雨の上がった通りを歩き出した。
すると、雲間から日射しが降り注いできた。
どこからか駆け出してきた子供たちが、大きな水溜まりで跳び跳ねている。
その水しぶきが二人のところまで飛んできた。
二人のそばを、花束を持った男性が笑顔で通り過ぎてゆく。
店先にまた商品を並べ始める店主のおじさん。
カフェの軒で雨宿りしていた女性は、持っていたポーチを肩にかけ直し、通りを歩き始めた。
雨に濡れた街の風景が、陽の光によって輝き始めた。
突然の通り雨が、ネオ・ヴェネツィアに澄んだ空気をもたらし、一層輝きを増しているようだった。
「ネオ・ヴェネツィアって、不思議なところですね」
「どういうこと?」
「さっきまで人ばっかりで埃っぽくて。正直いって、あまり好きじゃなかった」
「そうだったんだ」
「でも、雨が通り過ぎたあとのネオ・ヴェネツィアは、まるで違う街みたい」
「そうだねぇ。雨がすっかりきれいにしてくれたよう。まるで、街も、そして私たちも、新しく生まれかわったみたいだねぇ~」
少女は、灯里の満足げな表情をキョトンとした顔で眺めていたが、クスッと小さく笑った。
「今度もし来るときがあったら、もう少し、よ~く眺めてみようと思います」
「何を?」
「お姉さんの顔」
「えっ?」
「うそです。このネオ・ヴェネツィアですよ!」
少女は嬉しそうに笑った。
「わかった。じゃあその時は、このお姉さんに任せておいて!すみからすみまで、ネオ・ヴェネツィアを案内してあげる!」
少し離れたところにいた、同じ制服の集団から声をかけられた少女は、灯里に手を振って駆け出していった。
数週間後、ARIAカンパニーのドアをノックする音で表に出た灯里は、その目の前の光景に驚くことになった。
「いらっしゃいませ!ARIAカンパニーへようこそ!」
そこには黄色いワンピース姿の、ひとりの少女が立っていた。
「こんにちは!」
「こんにちは・・・えっと、あの」
「お姉さん、来ちゃいました!」
「来ちゃいましたって・・・えっ、ええー!」
そこに立っていたのは、あの通り雨のときに出会った少女だった。
「印象が全然違うから、わからなかった!」
「そうですか?結構女子してるでしょ?」
「ほんと、女の子らしくて、かわいい!」
少女は灯里の言葉に顔をピンクに染めていた。
「でも、そんな姿で今頃・・・そうか!夏休みだ!」
「そういうことです!」
はにかんだ笑顔がまぶしいくらいに輝いていた。
「そうだったね。また来るって言ってたもんね」
「はい!」
「でも、ごめんね。今日はこのあと、予約が入っていて、アシャンテっていうお客様が・・・」
「アシャンテ・モンテローザです。よろしくお願いします!」
「えっ?どういうこと?」
「だからぁ、私がそのアシャンテなの!」
「そうだったのぉー!」
「今日は時間がたっぷりあるので、約束通り、ネオ・ヴェネツィアの案内、すみからすみまでお願いします!」
「わかったぁー!」
「それに・・・」
そう言いかけたアシャンテは、肩にかけたバッグからごそごそと何かを取り出した。
「それに、これも用意してますから!」
アシャンテは、取り出した折り畳み傘を、その笑顔とともに灯里に向かって見せた。
Episodio 07 通り雨がやんだら おわり