状況説明という名の第二話
至高の四十一人の帰還。それは、本来であれば何よりも喜ばしい事態だ。
「━━━ペストーニャ、容態は?」
しかし、モモンガことアインズ・ウール・ゴウンは素直に喜色を見せられなかった。
「身体面では目立った外傷もなく、病や毒、栄養失調の形跡もありませんでした」
長い間、踏み込むことすらなかった一室。彼に知識があれば、部屋の家具や絵画がアールヌーヴォー系で統一されていているのが一眼で分かっただろう。置かれているキャビネットの一つが酒類でいっぱいなことを除けば、かなり上品な部屋だと言える。
「にも関わらず、カベルネ様は衰弱しています。身体に異常が見られない以上、精神的に弱っているとしか考えられません。精神攻撃を受けた可能性も考えて念入りに調べましたが、そちらに関しても何ら痕跡は残されていませんでした…わん」
「そう、か」
一向に顔色が改善しないままベッドに横たわるこの部屋の主、カベルネ・ソーヴィニオン。それを誰よりも早く発見したデミウルゴスの表情は暗い。
「アインズ様、カベルネ様の状態に何か心当たりはございますか?」
落ち着いているのは同じく部屋にいるアルベドのみだ。その冷静さが少し癇に障ったものの、冷静な人が一人もいないのもそれはそれで困るのでアインズはそれを飲み込んだ。
「…ない、とは言い切れんな」
「と言いますと?」
「カベルネさんは、結婚を理由にここを去った」
一瞬、部屋の空気が冷えたのをナザリックの支配者は確かに感じた。
「………相手は、ご存知ですか?」
もちろん、隣の悪魔が怒りを押し殺して発言しているのもしっかり感じ取れた。
「いや……プライベートな話題だったのでな、あまり踏み込まないようにしていた。ただ、今思えば去る直前の態度も少し違和感があった…望んだ婚姻ではない可能性はある。言葉の節々から育ちが良さそうではあったな」
「なるほど…」
ここまで怒りを隠さないデミウルゴスを今まで見たことがないアインズは少しばかり困惑していたが、同時に彼の若干過保護な一面をすでに体感した身として納得もしていた。
「ん…」
この状況をどうしたものかと頭を悩ませていた時、患者の眉間に皺が寄った。部屋全体に緊張が走り、身じろぎするサテュロスを静かに見守る。
やんわり開いた目蓋の向こうには、葡萄を彷彿される暗い赤紫の眼があった。
「あ…れ……?」
「カベルネ様、私がわかりますか?…わん」
真っ先にペストーニャが声をかければ、横長の瞳がそちらを向く。
「………ぺ…すとーにゃ…?」
「はい、ペストーニャにございます。ここがどこかわかりますか?…わん」
その言葉を聞いてゆるりと彼女の視線が辺りを彷徨い、少し離れたところで待機していた三人に目が止まる。
「も…ももんが、さん?……でみうるごす、に、あるべど、も…」
「カベルネ様…!」
張り詰めていた糸が緩んだのか、デミウルゴスから漏れた声は安堵に満ちていた。アインズはゆっくりとベッドに近づくと、そっと彼女の手を握った。
「カベルネさん、ここはナザリック大墳墓の、貴方の部屋です。夢でもなんでもない、本物の、貴方の部屋なんです」
これは現実なのだと、親指で彼女の手を擦りながら言葉を並べる。ずっと意識がはっきりしていた自分ですら最初は困惑していたのだから、彼女は余計に頭が追いつかないだろうと。
「わたしの、へや…?」
ふらつきながらも起き上がろうとするカベルネをアインズが支え、ペストーニャが枕の位置を調整する。枕に背を預けて水をいっぱい飲み干した頃には、サテュロスの頭もだいぶ霧が晴れていた。
「……モモンガさん、ここって、本当に━━━?」
「はい。おかえりなさい、カベルネさん」
彼の優しい歓迎を聞いて、ようやく彼女の顔に笑みが浮かんだ。
***
アインズがカベルネに状況を説明している間、ペストーニャは静かにカベルネを観察していた。しっかり覚醒したとはいえ、彼女はまだ病み上がり。何かの拍子に急に体調が悪化するかもしれない。
「━━━で、今はこの世界に関する情報を集めているんですね?」
「はい。ナザリックの隠蔽作業も完了したので、これから本格的に動き始めるところです」
説明は概要のみだったが、今それ以上の説明をしたら間違いなくキャパオーバーしていただろうことは容易に想像がついた。サテュロスという種族そのものが感情に振り回されやすく、まだ安定しきっていないであろうカベルネに過剰な情報供給は精神衛生上よろしくない。
「とりあえずざっくり状況はわかりました……で、次は私ですよね」
「あ、えっと…その、本調子じゃないでしょうし、後日でも良いですよ?」
即座に退いた主の気持ちを、ペストーニャは十分すぎるくらい理解した。精神的に大きなダメージを負うような目に遭ったとしか思えない状況であれこれ聞き出すなど、優しい彼がするはずがないと確信していた。
「…ありがとう、モモンガさん」
そしてカベルネもまた優しいことを、ペストーニャは覚えていた。
「でも、いきなり現れて皆びっくりしてるのに説明なしなのは、ね?…事細かに、とはいかないけど、ちゃんと説明します」
水をもう一杯飲み干してから、サテュロスは語り出した。
「結婚を機に辞めるって言ったのは覚えてますか?」
「はい」
「あの時、皆祝福してくれたから言えなかったんですけど…所謂、政略結婚だったんです」
困ったような、寂しそうな目をして彼女は言葉を紡ぐ。
「別に、それは良かったんです。家の都合でかなり前からそんな流れになるだろうなって分かってましたし、私の周りだと当たり前のことだったので…ユグドラシルにいられなくなるのは流石に寂しかったですけど」
「カベルネさん…」
「いつでも帰ってきてくださいって言われた時、無理そうだけど可能ならってちょっと期待してたんです。それくらい嬉しかった…だから、だから頑張ろうと気合入れたんですけど…」
すっと、紫の瞳に影がかかる。
「まあ、相手方の家族に完全に見下されてしまいまして…夫も平然と愛人何人も囲ってて…こうなったら愛情は子供に全部注ぐしかないなって、妻として、未来の母親として、できることはなんでもやりました。そしたら、かなり早い段階で子供ができて」
喜ばしいことを話しているはずのその顔は、自嘲しているようにしか見えない。ペストーニャが何度瞬きしても、それは変わらなかった。
「お腹の子が女の子だって知った時、男じゃないってだけで文句言われるだろうなとは思ったんですけど、まだ一人目だからそれくらいいいかと思って…部屋の家具とか産着とか、考えるのが楽しくて……本当に、本当に楽しくてっ…」
声の震えを聞き取った瞬間、ペストーニャは最悪を想定した。
「か…階段を、降りてたんです……ゆっくり、ちゃんと手すりを掴んで…気を、つけて……そ、そし、たら…急に、押されてっ…」
カベルネ以外の全員が身構えるのを、メイド長は肌で感じた。
「気づいたら病院でっ……つ、次は男を孕めって…!」
ぶるぶると震える体、零れ落ちる大粒の涙。この時点で、語りを止めるべきだったのだろう。
「私っ…わ、たし…!」
「名前すら!つけてあげられなかった!!」
突如、津波のように襲いかかる『狂気』。かろうじて初撃を防いだものの、ペストーニャは自分の身を守るので精一杯だった。柔らかい紫は血のような真紅に染まって止めどなく塩水を垂れ流し、それに呼応するように大量の精神系デバフが放出されている。
*
カベルネが戦闘に向かない最大の理由、それは最も得意とする精神系デバフの扱いにくさだった。彼女が全力を出せば、『完全なる狂騒』等でしか精神系魔法を有効化させられないアンデッドですら餌食になるほどの強力なデバフをばら撒ける。しかし同時に彼女も『デバフをばら撒く』以外のスキルが封印された上で狂乱状態に陥るので、味方無しのソロプレイだとむしろ弱い部類になってしまう。もちろん使いどころがないわけではないし、狂乱状態に陥ることで発生するメリットもあるので一概に無力とは言えない。だが当人も味方も扱いに苦労してしまうので、活用方法の研究があまりなされなかった不人気キャラビルドの一つになっていた。
*
ここに至るまでの悲劇を鮮明に思い出したカベルネは狂乱状態に陥り、ただ泣き叫ぶだけの存在になっていた。幸い暴れ回ってはいないものの、アインズがいくら彼女を宥めようとしても落ち着く様子はない。どうすればとペストーニャが焦り出すと同時に、耳障りの良い声が部屋に響いた。
「《鎮り給え》」
ピクリと反応したかと思うと、カベルネの狂気の波がみるみる勢いを落としていく。涙は小さな水滴になり、瞳に青が戻り始める。ぱちりぱちりと彼女が数回瞬きすれば、わずかな不安の漣だけがそこに残った。
「ご無礼をお許しください!」
彼女が正気に戻ったと同時に、悪魔が跪く。そこでようやくペストーニャは何が起きたのか理解した。
「…今のは、『支配の呪言』か?」
「はっ!狂乱状態になると精神系魔法にかかりやすくなる性質を利用しました…如何なる罰も謹んでお受けいたします!」
アインズの質問に間髪入れずに答えるデミウルゴスの顔はさっき以上に歪んでいた。至高の四十一人たるカベルネへの精神系魔法の故意的な使用、それもよりにもよって『支配の呪言』。通常であれば恐れ多いどころではなく、死を以って償うべき重罪と言っても過言ではない。
「……デミウルゴス」
「はっ!」
「止めてくれて、ありがとう」
しかし、今回はどう考えても例外だろう。カベルネ自身が誰よりもこのことを理解していた。
「私の方こそごめんなさい…自分の力のこと、完全に忘れてしまって」
「いえ!カベルネ様は何も━━━!」
確かに、他に無礼にならない方法はある。しかし誰もが彼女の狂気に当てられていて冷静になれない状況の中、彼は的確にそれを止めてみせた。この場にいる者達が今回のことを黙っているだけで丸く収まるようなことであれば、尚更彼を責める必要はないだろう。デミウルゴスであれば次回に備えてもっと良い方法を事前に準備するようになることも容易に想像がつく。要するに、何もしなくても本人が勝手に反省して対策するから問題ないのだ。
しばらく許す許さないの問答が続いたものの、アインズが「今回は無罪、次回から気を付ける」と結論を出したことで話の路線は元の位置へと戻った。
「で、えっと、その後……その…」
「カベルネさん、言いづらいならいいんですよ」
「いやその、言いづらいというか……自殺、しようとしまして…」
「自殺!?」
落ち着いたはずの室内の空気がまた荒れ出す。
「どういうことですか!?」
「ちょ、ちょっと耐えきれなくなっちゃって、こう、橋からアイキャンフラーイって…水面が結構近いところで意識飛んで、気づいたらここに…」
アインズがパニックになったことで逆に落ち着いてしまったのか、カベルネは重さのかけらもない言葉で事情説明を締めくくった。
「リアルで落ちてる時にこっちに来て、そのまま落ち続けたと……なる、ほど?」
「モモンガさんも知らないうちに移動してたんですよね?流れが違うけど、原理はあんまり変わらないんじゃないかと」
「…この辺は考えてもはっきりとした答えはでなさそうですね」
そこから今後の話へと流れていき、それ以上空気が重くなることはなかった。
しかし、ペストーニャは確かに見た。
わずかに、しかし確かに、血が滲むほどきつく握られたデミウルゴスの拳を。
強制賢者モードのモモンガさんと、感度爆上げのカベルネ(風評被害)