ターフの上に立つウマ娘たちは皆、1着を目指す。その動機は様々で、ウマ娘の数だけある。レースに出る以上は各々が1着――すなわち勝利を手にしたいと願い、叶えようとひた走る。
そんな夢見るウマ娘たちの中でマルゼンスキーは
叶えたい願いは特にない。トレセン学園に来たのも、地元の後輩たちの期待に応えたかっただけ。GⅠレースで栄光を勝ち取りたいなんて気持ちは、元々持ち合わせていなかった。だからこそ夢を持っているウマ娘たちを見ると、疎外感を覚えることもあった。
しかし最初に抱いていたその気持ちは、マルゼンスキーをスカウトしたチーム・アンタレスのトレーナーや他のウマ娘たちとの交流の中で少しずつ変わっていった。
引退すると決めたその日まで走り続けられたのはきっと、何もないと思っていた自分に彼らが夢を見てくれたからだろうとマルゼンスキーは思う。
だからこそダービーに出られなかったのは悔しかったけれど、今の彼女には目標があった。
“気持ちよく走りたい”という思いと同じくらい、“勝ちたい”と魂に熱を宿してくれる
一度は足のこともあってターフを去ると決めた。
――けれど“もし”が許されるのなら、またターフに戻って走りたい。
かつての自分では、見ることの出来なかった景色を見るために。
初詣から一ヶ月と少しが過ぎたある日の日曜日、武たちチーム・アルデバランは東京レース場の控室に立っていた。
今日はGⅢの一つである東京新聞杯が開催される日であり――マルゼンスキーが同レースに復帰戦として出場する日でもあった。
「いよいよだね、マルゼンスキー」
白のトップスと赤いボトムスに着替え、枠順を示す「2」が大きく書かれたゼッケンを付けたマルゼンスキーに武は声をかけた。
「ええ。久しぶりにまたターフに立てるって思うと、今すぐ走りたくてうずうずしちゃうわ」
マルゼンスキーはいつもの余裕のあるお姉さんといった雰囲気を纏っているが、どこか浮足立っているようにも武からは見えた。
「緊張してる?」
「そうね。また走れるっていう嬉しい気持ちはあるんだけどね。皆が戻ってきた私を受け入れてくれるのかな、とか最後まで走り切れるかしらとかつい考えちゃうわ。初めてだわ、こんなに緊張するの」
胸元に手を当てて困ったように笑いながら、マルゼンスキーは頷く。
「君は必ず勝つと断言するよ、マルゼンスキー。君はあらゆる不安を全て打ち払えるだけの実力を持ったウマ娘だと、信じているよ」
武の隣でルドルフが告げる。マルゼンスキーを見つめる瞳には、彼女の走りへの絶大な信頼が伺えた。
「ふふ。ありがとね、ルドルフ。トレーナー君はどうかしら?」
「マルゼンスキーが先頭に立ってレース展開を自分のペースに持ち込めれば、勝つのはそう難しくない。全盛期と遜色ないレベルで走れるように仕上げたつもりだし、何より君自身の二年間の経験がある。マルゼンスキーなら必ず勝てるよ」
「そこまで言われちゃったら、負けるわけにはいかないわね」
武の言葉に、マルゼンスキーはくすぐったそうに笑った。
マルゼンスキーが得意とする逃げの戦法はペース配分を誤ればあっという間に沈んでしまうし、先頭を走る分脚にかかる負担も大きい。
それでもマルゼンスキーは二年間で走った8戦全てを逃げで勝利しているし、それを実現出来るだけの体作りもしっかりとしている。
「ただ、一つだけいいかな」
「何かしら?」
「
「ええ、分かってるわ。要するに全力以上の力を出さなければいいってことよね」
「難しいことを要求してるのは分かってるんだけどね。でも俺は、また怪我をして君が笑えなくなるのが怖いから」
「ふふ、大丈夫よ。トレーナー君が心配してくれる気持ちは伝わってるわ。ありがとね。怪我をしない範囲で、しっかり勝ってくるわ!」
武の不安をかき消すように、マルゼンスキーは胸元に手を当てて力強い笑みを浮かべた。既に二年間レースを走っているだけあって、その貫禄は“無敗のウマ娘”に相応しい頼もしさだった。
「ああ。勝ってこい、マルゼンスキー」
マルゼンスキーの様子を見て大丈夫だろうと判断した武は、激励の言葉を贈った。
その隣でルドルフもまた、マルゼンスキーに声をかける。
「私も一人のウマ娘として、マルゼンスキーが再び大舞台に立てる日が来たことを心から嬉しいと思う。君の逃げ足は正に、電光石火と呼ぶに相応しいものだ。その脚で再び栄光を掴むことを期待しているよ」
「ええ。ここまで来るのに、皆に背中を押してもらったり助けてもらったりしたわ。皆の期待に応えるために、何よりいつか一緒に走るルドルフに勝つためにまずはここでバシッと決めてくるわ!」
『晴天に恵まれた東京レース場、パドックには大勢の人が詰めかけています! 本日の東京新聞杯はGⅡですが、GⅠレースに勝るとも劣らない人出です!』
『今日は皆が待ち望んだ日ですからね』
『では早速、お披露目の時間となります! まずは1番――』
ルドルフと共にパドックにやって来ると、観客席はほとんどが人で埋め尽くされているような盛況ぶりだった。今日のレースで実況と解説を担当する二人のアナウンスも聞こえるが、観客たちと同様どこか興奮が隠しきれていない。
どうにか人だかりを潜り抜けて最前列に辿り着くと、最初に紹介されたウマ娘が緊張の混じった笑顔を浮かべ観客席に向かって手を振っていた。重賞に出ているだけあってファンもついているのか、あちこちから声援が飛んでいる。
「分かってはいたが物凄い人だかりだな、トレーナー君」
「確か速報だと10万人を超えたみたいだよ」
「――ふむ。GⅠでも特に規模の大きいクラシック三冠や春と秋の天皇賞、ジャパンカップや有馬記念と同等或いはそれ以上……ということだな。重賞でこれだけの人出があるというのは、驚愕させられるな」
「それだけ皆、待ってたってことだもんな」
マルゼンスキーがアルデバランに移籍した直後は、どんな路線で進んでいくのかはぼかしていた。脚の状態の兼ね合いでどのレースに出走するのか様子見をしたかったからだ。
ただその影響か、世間では現役復帰説だけでなくトレーナー志望説や地方レース出走説など色々取り沙汰されていたようだ。
それでもマルゼンスキーが復帰する可能性を期待する声は多く、半月ほど前正式に東京新聞杯での復帰を宣言した際には大騒ぎだった。
「ああ、それは間違いないだろうな。ただ、懸念の声が少なからずあるも事実だ」
「それは……、そうだろうね」
僅かに眉を顰めながら話すルドルフに同意した直後、歓声が上がった。
最初にお披露目を終えたウマ娘と交代するように、ステージのカーテン奥からマルゼンスキーが歩いてくる。
『さあ、ここで1番人気に推されました2番マルゼンスキーの登場です! 復帰レースということもあり、会場はGⅠレースさながらの盛り上がりを見せています!』
『今回も彼女の圧倒的な逃げが炸裂するのか、楽しみなところです』
マルゼンスキーが、紹介されるのと前後して右手で投げキッスのようなポーズを観客席に向けてすると、更に大きな歓声が上がる。
ルドルフと共に後ろを振り返れば、観客たちは懸命に手を振ったり大声でマルゼンスキーの名を叫んだりしている光景が目に映る。それだけ、彼女の復帰を待ち望んでいた人が多い証だった。
復帰戦で勝てるかどうか分からないにも関わらず1番人気に推されているのも、ファンたちの気持ちがより強く表れた結果だろう。
「マルゼンスキー、大丈夫か?」
「確か故障で引退したって言ってたよな。トレーナーは何考えてるんだ」
ふと、近くにいた二人組の男性客の会話が耳に入る。それはまさに、先ほどルドルフが口にしていた懸念の声そのものだった。
「彼らの懸念はもっともだ。故障したウマ娘が中央で復帰した前例は、ほとんど無いからな。故にその不安を払拭するには――」
「マルゼンスキーが無事に走り切る。まずはそれが最低条件だね」
ルドルフの言葉を引き継いで、武は今のトレーナーとしての自分とマルゼンスキーに求められていることを口にする。
トレーナーである武は再び怪我をさせないように調整する必要があるし、マルゼンスキーも己の脚で無事に走れることを証明しないといけない。
最低条件とは言うが、何が起こるか分からないのがウマ娘のレースである上に今後もその状態を維持が必要で、難しいことには違いなかった。
「ああ。そのために私もトレーナー君も、ここまで力を尽くしてきた。あとは彼女がゴール板を駆け抜けられるよう、見守るとしよう」
『今日も一段と冷え込む東京レース場、天気は晴れ、バ場状態は良の発表となりました。16人のウマ娘たちがゲート前で出走の時を今か今かと待っています』
『フルゲートにはなりませんでしたが、各ウマ娘の好走に期待したいですね』
『注目はやはりこの子、1番人気マルゼンスキー。観客席からは、彼女への声援が数多く聞こえます』
パドックでのお披露目を終え、レース場に移動したマルゼンスキーは向こう正面手前に設置されたゲート付近から観客席を見つめる。
1600mと距離が比較的短いためスタート位置は観客席から遠いが、それでもここまで聞こえてくる自分を応援する声を、マルゼンスキーは目を閉じて噛みしめていた。
皆が皆、復帰することに肯定的でないことは分かっている。それでもほとんどの人は不安があれど、マルゼンスキーが戻ってくることを歓迎してくれた。
武もルドルフも、ターフの上に戻れるよう背中を押してくれた。
そんな彼らが、遠くに見える観客席から見守ってくれている。
皆が期待してくれているという事実があるだけで、マルゼンスキーはもう一度走れる気がした。
「――ううん。気がするじゃなくて、ちゃんと証明しないとね!」
気つけとばかりに自分の頬をぺちぺちと両手で叩き、マルゼンスキーはゲートに視線を移す。既に何人かのウマ娘はゲート入りして、出走の時を待っていた。
マルゼンスキーも続いてゲートに入ると、遠くの観客席から歓声が沸き起こる。普通の人よりも優れた聴覚を持つウマ耳が、「頑張れ!」や「マルゼンスキー!」といった自分を応援する声を捉えた。
マルゼンスキーは小さく口角を上げ、ゲートの向こうのターフを見て出走の合図を待つ。
両隣に今年からシニア級になったウマ娘たちがゲート入りしながら警戒するような視線を向けているが、それすらも彼女の気持ちを高揚させていた。
『各ウマ娘、ゲートイン完了しました――』
レース場に響く実況の声を聞いて、スターティングポーズを取る。
束の間の沈黙の後ガタンと音が鳴ると同時にゲートが開き、マルゼンスキーは軽快なスタートダッシュを決めた。
『各ウマ娘、綺麗なスタートをしました! 先頭は1番人気マルゼンスキー、後続に1バ身の差を空けてハナを進みます。怪我を乗り越えターフに舞い戻ったスーパーカー、得意の逃げでレースを展開する模様です』
最初の100mを駆けながら、マルゼンスキーは風を切って進んでいく。
久しぶりのレース場の芝を踏みしめる感覚、風と共にやってくる芝の香り、後ろを走るウマ娘たちの息遣い、ホームストレッチ側の観客席から聞こえてくる歓声――。
一年以上も遠ざかっていたレース特有の雰囲気に万感の思いを抱くのはほんの一瞬のことだった。
何もレースを走るためだけに帰って来たのではない。勝つためにターフの上へ舞い戻ったのだ。
「脚はちゃんと動いてくれてる。うん、アガってきたわ!」
いつまた故障するかもしれない脚は、力強く身体を前へと押し出してくれる。風を切っていく感覚は何度体験しても飽きることはなく、先へ先へと走る潤滑油になる。
マルゼンスキーの口角は自然と上がっていた。
それでもまだ、200mを超え3コーナー手前の短い上り坂とその後の3コーナーまで続く緩い下り坂が待っている。
ジュニア級やクラシック級の頃ならもっと飛ばしていただろうが、武からの忠告もある。それに加えて、3コーナーからホームストレッチにかけて心臓破りの坂が続くのをマルゼンスキーは何度か身をもって経験していた。
脚部の不安と一年以上のブランクのことも考えると、序盤から全力で行くにはリスクがあった。
故に、後続に抜かされないぎりぎりの範囲でしっかり逃げつつ、脚を溜めることをマルゼンスキーは選ぶ。
『各ウマ娘は3コーナーに突入し2番マルゼンスキーが先頭、1バ身離れて3番――』
ウマ娘たちが走る位置を知らせる実況が響く観客席では、観客たちが息を呑むようにしながらレースの推移を見守っていた。
武もルドルフと共に、3コーナーを駆けるマルゼンスキーに視線を送る。
「――ふむ。無敗の名は伊達ではない、ということだな。気付いているか、トレーナー君」
腕を組みマルゼンスキーのレース運びを注視していたルドルフが、視線はそのままに武へ声を投げかける。
「ああ。さっきから一度も
「やはり君の目にもそう映るか。先頭を走りながら脚を溜めるところまでは常套手段と言えるが、同時に後続に抜かれないようつかず離れずの位置取りをしている。言葉にすれば簡単かもしれないが――」
「普通、中々出来ることじゃないよね」
スピードを落として後続との距離が詰まることはなく、逆に後続を2バ身以上離すこともなく1バ身程度を維持して、マルゼンスキーは逃げ続けていた。
必然、マルゼンスキーは緩急をつけて走ることになるが、それによって他のウマ娘たちはどこか走り辛そうにしているのが伺える。完全にマルゼンスキーがペースを握っていた。
「私の知る限り、マルゼンスキーは駆け引きなどせず圧倒的な逃げで他の追随を許さなかったが、今回の走りはそれとは逆だ。トレーナー君の指示があったとはいえ、これほどのレース展開をするとは」
「……今まではそんなことをする必要すらないほど逃げてただけで、あの子にはそれだけの実力があるってことか」
遠目から分かるほど楽しそうに走るマルゼンスキーの様子を見るに、頭で色々計算してというよりは天性の勘と前任トレーナーの下での経験による合わせ技によるものなのだろう。
「――私が超えるべき壁は、高いな」
武の言葉に、ルドルフはそれだけ呟くと再びレースに意識を向ける。
レースはいよいよ、4コーナーからホームストレッチに突入しようかという頃合いだった。
「さあっ、振り切るわよ!!」
4コーナーを抜けゴールまでの道筋が見えた瞬間、マルゼンスキーは加速した。
さながらギアを一息にトップまで上げアクセルを踏み込むかのように、抑えていたスピードを解き放つ。
『各ウマ娘4コーナーを超え最後の直線に入ってきた! 先頭を進むのはマルゼンスキー、後続との差をぐんぐん広げていきます! 後ろの子たちは届くのか!?』
実況の興奮したような声がスタンドのスピーカー越しに響くと共に、観客たちの歓声が沸き起こる。
レースが始まった直後とは真逆の、ゴールが迫るにつれて会場のボルテージが高まっていくのをマルゼンスキーも肌で感じる。
胸の内に湧き上がってきたのは懐かしさよりも高揚感だった。
後ろのウマ娘たちの絶対に追いつこうと必死になっている息遣いを聞くと、ここまで来たからには負けたくないと気合いが入る。
誰かが観客席から自分の名前を呼ぶ声が聞こえると、最後の険しい坂を上り切ろうという気力が湧いてくる。
『後続との距離は2バ身、3バ身――まだ広がる!? マルゼンスキー、衰えを感じさせない走りだ! 無敗記録更新なるか!?』
残り200m、マルゼンスキーにはもう実況の声も観客たちの声も等しく同じ物としてしか聞こえていなかった。
最後の最後で負けないために、後ろの気配を耳で探りながらしかし脚はトップスピードを維持する。
坂を上るのも辛いが、登り切った後に更に平地を走らなければならないのも辛いところだ。
それでも脚は問題なく動いてくれた。
まるでブランクなど無かったかのように、マルゼンスキーに最後の一押しをさせてくれる。
『マルゼンスキーまだ伸びる! 復帰戦とは思えない走り! 無敗のスーパーカーがターフに帰ってきた!! マルゼンスキー! マルゼンスキー、今一着でゴーールッッッ!!!』
マルゼンスキーがゴール板を駆け抜けるのと会場から爆発したような大歓声が沸き上がるのは、ほぼ同時だった。
脚に負担がかからないように減速し、ゴールから100mほど離れたところでマルゼンスキーはようやく止まる。
息はすっかり上がり心臓も早鐘を打っていて、全身から次々と汗が溢れ出してくる。
胸の内にあるのは無事に1600mを走りきれたという安堵と、1着でゴール出来たという喜び。
けれど、それ以上にもっと大切なものがあった。
『マルゼンスキー、長いブランクを乗り越え奇跡の復活を果たしました!!』
実況の興奮冷めやらぬ声に同調するように、観客たちが一斉に湧き上がる様子がマルゼンスキーの目に飛び込んできた。
正面スタンドを埋め尽くす人たちが、思い思いにマルゼンスキーの勝利を祝福していた。
拍手をする者、大声でマルゼンスキーを祝う者、隣の人と喜びを分かち合う者、涙を流す者――沢山の喜びの感情がそこには溢れていた。
「皆、ありがとうっ!!」
その光景を見ていると居ても立っても居られなくなり、マルゼンスキーは観客たちに手を振る。
マルゼンスキーはジュニア級とクラシック級を通して、“夢”という名前の沢山の想いを受け取ってきた。
かつて“楽しいから”と走っていた自分に、皆は夢を見てくれた。それは、ターフに帰ってきた今も変わってはいなかった。
自分がここにいてもいいんだと肯定されているようで、たまらなく嬉しくなる。
『着順確定しました! 1着2番マルゼンスキー、6バ身差で2着4番――――』
実況が着順を読み上げるのと同時、電光掲示板にも着順を示す番号と着差、そしてタイムが表示され――会場にどよめきが起こった。
『1着マルゼンスキー、タイムは1分31秒6――コースレコードを達成しました!!』
「マルゼンスキー!」
ルドルフと共に地下バ道に降りた武は、ターフから戻ってきたマルゼンスキーに真っ先に声をかけた。
一度引退する前と遜色ない圧倒的な走りに興奮が抑えきれず、彼女に駆け寄る。
武はかつて一度だけマルゼンスキーの走りを現地で見たことがあったが、まさか再び目にすることが出来て、レコード更新というおまけまでついてくるとは思わなかった。
この瞬間ばかりはトレーナーとしてではなく、一人のファンとしての顔を覗かせていた武だった。
「……あ。トレーナー君……? それにルドルフも……」
そんな武に対してマルゼンスキーはどこか気の抜けたような表情で、声をかけられて初めて二人の存在に気が付いた様子だった。
「マルゼンスキー、どうかした? 大丈夫か?」
武が茫然自失といった調子のマルゼンスキーに声をかけると、彼女はゆるゆると首を振った。
「うん。ありがと、トレーナー君。ただ、夢を見てるんじゃないかって思っちゃって……」
「夢じゃないよ。ちゃんと現実だ。1着おめでとう、マルゼンスキー。まさかレコードまで出すなんて思わなかったけど」
「ああ。まさに驚天動地の活躍だったよ、マルゼンスキー」
ゆっくりと歩を進め武の右隣りに立ちながら、ルドルフもマルゼンスキーに賞賛の言葉を投げかける。
「夢じゃないのね……?」
「そうだよ。手、握ってもいい?」
「え、ええ……」
マルゼンスキーが頷くのを見て、武は彼女の手を取る。
両手で包むように握った手は、つい先刻力強い走りをしていたとは思えないほど指が細く、それでいて暖かかった。
「トレーナー君の手、冷たいわね」
「そりゃあ、まだまだ冬だからね」
今はまだ2月の上旬で、春に向かっているとはいえ東京もまだまだ寒さが続く時期だ。手袋をしていなければ必然、指先から冷たくなっていく。
「そっか。夢じゃ、ないのね」
ようやく状況を飲み込めてきたのか、マルゼンスキーがふと小さく微笑んだ。そして――。
「マルゼンスキー!?」
次の瞬間、マルゼンスキーの目元からぽろぽろと涙が零れだしていく。
突然のことに武は驚くことしか出来なかった。
「……あたし、帰ってきたんだ」
そう呟くや否やマルゼンスキーは武の手を引き寄せて抱きつき、傍にいたルドルフも抱き寄せる。
そのまま顔を俯けてしまったマルゼンスキーは肩を震わせ、すすり泣くような声を漏らしていた。
「そうだ、マルゼンスキー。皆が君の帰還を待ち望んでいた。奇跡は起こせると、その脚で証明したんだ」
マルゼンスキーの左肩に右手を乗せながら、ルドルフが柔らかい笑みを浮かべて声をかける。武も初めて聞く、慈愛に満ちた声色だった。
マルゼンスキーが突然泣いてしまったことに慌てていた武だったが、ルドルフの声を聞いて平静さを取り戻す。
GⅢとはいえ長い空白期間を挟んでいきなりの重賞を勝ち、会場に詰め掛けた人たちの言葉を貰い、コースレコードまで更新してみせた。一度に色んなことが起きて、マルゼンスキー自身色々な想いを抱えていたのだろう。
それ故の涙であるのなら、無理に泣き止ませようというのは野暮だった。
考えを改めた武はルドルフに倣ってマルゼンスキーの右肩に左手を乗せて、待つことにしたのだった。
「――ふうっ。トレーナー君、ルドルフ、ごめんね。待たせちゃって」
ひとしきり泣いた後涙を拭いたマルゼンスキーは、すっきりしたような笑みを浮かべつつ謝った。
「大丈夫だよ。どうしても泣きたいときっていうのはあると思うし」
「ああ。私も君の涙を見て少し、もらい泣きしてしまったよ」
武の後に続いたルドルフの言葉に、武は彼女の横顔を見る。確かにルドルフの目元には、泣きはらしたような跡が残っていた。
「あたし、トレーナーちゃんの前以外で泣いたことなかったんだけどね。まだまだ走れるんだって分かったら、泣けてきちゃったわ」
「私も人前で涙するのは初めてだったよ。不可能と言われたことを覆すウマ娘はこれまでもいたが――君の起こした奇跡は本当に素晴らしいものだった。ありがとう、マルゼンスキー」
穏やかな笑みを浮かべるルドルフに、マルゼンスキーは苦笑交じりに微笑む。
「私だけの力じゃないわ。ここまでサポートしてくれたトレーナーちゃん、トレーナー君、ルドルフ……皆のおかげよ。だからこれは、皆で起こした奇跡なのよ」
マルゼンスキーが挙げた名前には武とルドルフだけでなく、前任のトレーナーも含まれていた。
それもそのはず、マルゼンスキーの育成を引き継ぐに当たってこれまでのトレーニング資料を武に渡してくれていた。それだけでなく、アルデバランの練習に定期的に顔を出して様子を見てくれていたのだ。
マルゼンスキーだけでなく、大学生の身分であるため学園内に居場所があまりない武にとっても数少ない頼れる先輩だった。
「そうだな。先輩には感謝してもしきれないからな。今日は遅くなるだろうから、明日皆で挨拶しに行こうか」
「ええ、それがいいわね!」
武の申し出にマルゼンスキーが喜色満面の笑みを浮かべ、ルドルフも同調するように頷いた。
「――さて。記者の方々を待たせているだろうし、ウイニングライブも控えている。そろそろ行こう、二人とも」
「あら、そうね。記者会見の方は時間が無いから、このままで行くけどいいかしら?」
ルドルフの言うとおり時間はあまりない。数分とはいえここに留まっている間に、記者会見の準備はとっくにととのっていることだろう。今頃、担当者がマルゼンスキーが来るのを待っているのは容易に想像がついた。
「マルゼンスキーがそれで良いなら問題ないよ。体操着のままインタビュー受けてる子はいままでもいたし。――けど、その前に」
武は言葉を区切って紺色のハンカチをスーツの上着ポケットから取り出した。
「トレーナー君、どうしたの?」
「ちょっとじっとしてて、マルゼンスキー」
問いには答えず、武はハンカチでマルゼンスキーの目元を拭った。
「ルドルフも」
「ト、トレーナー君?」
ハンカチを畳直して濡れていない部分で、今度はルドルフの目元も拭う。
流石に涙の跡が残ったまま記者たちの前に出すわけにはいかないと思っての行動だった。
「まだちょっと赤いけど――うん、大丈夫だな。これで多少は誤魔化せると思う」
「え、ええ。ありがとね、トレーナー君……」
「か、感謝する。トレーナー君」
どうにもルドルフとマルゼンスキーの反応が鈍く、武は首を傾げる。
「もしかして変なことした?」
「へ、変じゃないわ。ただその、おったまげーっていうか……」
「……トレーナー君、以前誰かの涙を拭ったことは?」
ルドルフの問いに、武は自分の記憶を掘り起こしてみる。
「確か、レイが泣いてたときはよくこうしてた気がするな」
思い返せば高校時代、レイは多くのレースに挑んできたがあと少しで届かず負けることもあれば苦しい戦いの末勝利を掴んだこともあった。そういったとき、よく涙を流し武が涙を拭っていた。
当時の片思い相手云々以前に戦友のような間柄でもあったレイの悲しい顔は、見たくなかったが故の行動だった。
「……なるほど、君が彼女に未だ慕われる理由が分かった気がするよ」
「あたしはレイって子が誰か知らないけど、うん。これはちょっと心臓に悪いわね」
武は何と無しに言ったつもりだったが、ルドルフとマルゼンスキーは武から僅かに目を逸らし気恥ずかしそうな表情を見せていた。耳や尻尾もそわそわと忙しなく動いていて、武の目にも分かるほどの動揺ぶりだった。
「……その、トレーナー君は何故我々にそこまでしてくれるんだ?」
視線を戻したルドルフが、武に問いかけた。武の答えは、考えるまでもなかった。
「そりゃ、ウマ娘の笑顔が好きだからだよ」
レースが楽しくてしょうがないと笑う姿、レースに勝って喜ぶ姿、ライブステージで観客たちと一緒になって笑顔になる姿――。トレセン学園に来てからようやく自覚したことではあるが、彼女たちの笑顔が好きだし自分の手でそれを実現したいと思ったから武はトレーナーを志した。
当たり前のように告げた言葉だったがルドルフとマルゼンスキーは目を開き、やや間を置いてどちらからともなく吹き出すように笑いだした。
「ふふっ、そうだったな。君はそういう人だ。涙は決して悪いものではないだろうが、笑顔の方が皆を幸せにする力がある。だからこそ君は、トレーナーになったのだな」
「ええ、そうね。トレーナー君はやっぱり、トレーナーに向いているわね。でも、あたしたち以外にあんまりこういうことしちゃだめよ? あたしたちも年頃の女の子だもの」
笑みを浮かべながら納得するようにルドルフは頷き、マルゼンスキーはそれに同調しながらも片目を瞑りながら武に忠告する。
善意のつもりでやったことだったが、マルゼンスキーの言葉で武はようやく自分の行動の意味に気が付く。
「そ、その、困らせちゃってごめん。下心とか全然無かったんだけど」
「だいじょうV! あたしもルドルフもちゃんと分かってるわよ。それよりもほら、記者会見早く行きましょ!」
「そ、そうだね」
今更になって恥ずかしくなってきた武だったが時間も押していたので、マルゼンスキーの提案に素直に乗ることにし、ルドルフも伴って地下バ道を後にするのだった。
お久しぶりです。大変お待たせしました……!
今年の更新はこれで最後になると思います。次回はいつになるか……。気長に待っていただけると幸いです。
コースレコードですが、こちらはウマ娘発表前のレコード記録を参考にしています。
少なくとも、最新のレコードを超えない感じで調整していくつもりです(展開次第で変わるかも?)