「獪岳が盗りました」
そう言ったのはトヨと言う名の女だった。
「本当なのか?」
問うたのは悲鳴嶼行冥。
盲目で体つきも細い男が、蝋燭の炎に照らされながら一筋の涙を流した。
彼は本当に悲しんでいるのだろう。
孤児を引き取って育てると言う生活のなかで、村人から喜捨として受け取った金銭は僅かばかりとは言え彼にとっては本当に大切な物だった。
そもそも、電気も通らないこの山奥の古寺にとっては今灯している蝋燭すら貴重品なのだ。
春に向けてこれからの生計を考えるため、月明かりの下で行冥が貯えを調べたのが切っ掛けだった。
「獪岳、なんとか言いなさいよ!」
トヨが俺をキツくなじる。
口調とは裏腹に口許には薄汚い笑みを浮かべ、得意気に指の間に小銭をちらつかせながら。
もし俺が年相応の精神を持っていたのなら、即座に激昂したことだろう。
しかし俺は少し他人とは違っていたし、そもそもとても疲れていた。
トヨも必死だ。
この寺には俺を除いても八人もの子供が居る。
お人好しの行冥に全てを任せていては彼を筆頭にして全員が行き倒れる事は確実だろう。
俺が招かれた一昨年はまだ良かった。
例年に比べれば天気が悪い日が多かったものの、その前年が豊作であり、その蓄えのお陰で皆の心にゆとりがあった。
だが、昨年からは豪雨や干ばつという極端に酷い天候不純が続き、今やどこもかしこも食うや食わずだ。
親を捨て、子を売って。
そうして泥水を舐めるようにして息をしている人ばかり。
寺の生活は自給自足が殆どで、そこに行冥が坊主として受け取る喜捨が加わるのだが、このように乱れた世にあってまともに葬儀を行う人もおらず、珍しく呼ばれたその葬儀に豪勢な喜捨を払う人間もいない。
そんな現状で…。
だから、醜悪な笑みに隠されたトヨの嘆きや痛みが、俺には逆に苦しかった。
「悲鳴嶼さん、すみませんでした」
「…そう、か」
「俺は寺を出ます」
「それは!」
「俺は私欲に負けて、貴方から頂いたご恩を忘れました。もうここには居られません」
唖然とする行冥の影で、トヨが苦しそうに顔を伏せた。
こんな時代に、こんな場所に来るような人生を送って。
よく、それだけの心を保てた。
トヨ。
お前は偉いよ。
「…あい、わかった。しかし獪岳よ、冬至は過ぎたとは言えまだ日は短い。いつも言って聞かせてある通り、夜は闇に紛れて鬼が現れる。せめてもう二月・三月、日が延びてから行きなさい」
「いや、しかし俺は…!」
「獪岳よ、これは家長としての命令だ。罪を恥じるのであれば、逃げずにそれを受け止める事も考えねばならぬ。よいな?」
「…わかりました」
「では、今日はもう寝よう」
怒りや、落胆も大きいだろうに。
行冥は俺に微笑んで見せた。
◇
翌日、狩りに出かけると言って寺を抜け出した俺の後をトヨが追ってきた。
このまま帰らぬ覚悟を察したのだろう。
トヨが銭を数枚俺に寄越そうとしたが、俺は首を横に振った。
「世話になった」
「アンタ、行く宛あるの?」
「さて。剣には自信があるが、特にはまだ考えてない」
「なんで、怒らなかったの?」
「行き倒れの俺を助けてくれたろ?恩を仇で返すほど落ちぶれた覚えはない」
何故か心のどこかが、まだここに止まるべきだと訴えるが、どうみてもそれは不可能だ。
「稼げるようになったら、その時には銭で恩を返す。だからその時まで死ぬなよ」
この時代、人は脆かった。
特に子供はちょっとした怪我や病気で呆気なく消える。
それこそ、鬼にでも喰われたように。
「私は、アンタを陥れたんだよ?」
「違う、お前は兄弟を守っただけだ。お前がしたことは間違いなんかじゃない。トヨ、俺はお前を尊敬する」
うつむいたその頭に、手をのせる。
「悲鳴嶼さんにも本当に感謝してる。けど、あの人は人が良すぎるから」
ここで過ごした日々は、本当に心を癒した。
行冥さんも、トヨも皆も。
とても綺麗な心の音で。
一瞬、脳裏に過った父親の顔を振り払い、俺はトヨに手を振り山へと向かった。
「あのさ、獪岳って名前、変えた方が良いよ!」
遠くなったトヨの声に、振り返らぬまま手を振って応えた。
トヨは本当に凄いな。
この名前の意味まで知ってるとは。
◇
山に入って数刻。
町へ向かう道を進んでいるのだが、向かうにしても手持ちが無い。
せめて一匹、猪でも現れてくれれば有難いのだが。
そんな事を考えながら歩いていたのが良かったのか、草の影に猪の頭を見つけた。
(ちょうど良いぞ!まだウリ坊だ、楽に狩れる。いや待て、ここで捌くより生け捕りにして町で売り払う方が金になるぞ)
成体になれば鋭い牙と強力な筋肉を武器に暴れ狂う獣も、まだこの頃であれば警戒心も少なく力も弱い。
俺は幼い頃から知っていた呼吸を整え、集中力を研ぎ澄ませる。
「全集中。雷の呼吸」
稲妻のように息を尖らせる。
身体に流れる日の光を意識し、それを雷に書き換える。
筋肉を爆発させるように加速しーーー捕った!
しかして、俺の皮算用は猪の首を掴んだ瞬間ツユと消えた。
「んごー!?」
叫んだのは猪。
いや、猪の皮を被った人間…らしき子供だった。
「な!?」
子供だ。
フンドシ一枚の、無駄に美形な顔の幼児。
え?
これ猪の頭の剥製?
右手に持った被り物を見て再度固まる。
子供がなんで?
てか、なんだこれ??
「うぉーーーーーーーーーーー!!お前早いな!なんださっきの!!さっきのなんだぁぁぁあ???」
興奮して俺には掴みかかって来た怪人?に、動揺してしまう。
「あ、あれは呼吸だ。特別な息のしかたで強い力を生み出す技術」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん?わっがんねーぞオラぁ!」
幼児とは思えない筋力で猪の子供が俺の身体を這い上がり、背中に張り付いて吼える。
「もっと、わかるように、言え!!」
「い、息だ。息、真似してみるか?」
獣の子供だし、臭いかと思えばしっかりと風呂に入っている臭いがする。
趣味で野獣ごっこをしてる?
けど、そうだとしたらこの筋肉はおかしいだろ??
完全に混乱しながら呼吸を教えると、恐ろしい事にコイツは呼吸の初歩となる肺の使い方を変えていた。
「んがー!?!!?コレ、出来てるのか?ムズいぞ!」
「いや、出来てるから暴れるな、鍛練が足りないから効果が見えないだけで、音は間違いなく呼吸の音の基礎に変わってる」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん!?だから、わかる言葉で、イエ!」
「お前天才、スゴイスゴイ」
【ほわ…ほわ……】
嬉しそうに和む猪頭を背にのせて、流れで呼吸を教えてしまったのだが、良かったのだろうか?
まさかこのたった一回で理解するとは思わなかったし、事故みたいなものだよな?
もしこの先、この猪頭に人が襲われたりしたら俺の責任になるのか?
いや、包丁が悪いんじゃなくて、包丁を使う人間が悪いんだからその理屈で言えば何かあったとしても俺は無罪ーーー。
と、現実逃避をしていた俺の頭を幼児が殴った。
「気に入ったぞ!お前を俺様の巣に招待してやる!」
あ、お断りします。
そう言って首を絞められたのは割愛する。
「よぉおいでなさった」
突然の来訪者である俺を、その老人は穏やかに迎え入れた。
「ジジイ!飯をクレ!!」
「あいわかった」
孫と…祖父?
それにしても顔が似てないのだが。
もう猪の被り物に隠れているが、この子供の顔は飛び抜けて美しいし、何よりも音が違う。
普通親類ならば多少は個々の音が似るモノだが、彼らの間にはそうした共通点が見当たらなかった。
そう、俺は他人よりも特別に耳が良い。
聞きたいことも、そうでないことも。
他人と違うことを求める人には沢山出会ってきたが、他人と違うことを誇らしいと思えたことはついぞ無かった。
「この子が人を招いたのは初めてですじゃ。どうぞ今日はここでおくつろぎくだせぇ」
まだ日は高い。
急げばまだ日のあるうちに町に辿り着けるとは思ったのだが。
『ーー獪岳よ、冬至は過ぎたとは言えまだ日は短い。いつも言って聞かせてある通り、夜は闇に紛れて鬼が現れる』
行冥さんの言葉が思い起こされ、俺はその誘いを受けることとした。
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夜半。
不意に、胸騒ぎがして目覚めた。
何かが違う。
なんだ?
音ではない。
匂い、匂いか?
藤の花の香りがしないんだ。
「もし」
声掛けに、一瞬呼吸が変わる。
「伊之助はこちらに来ておられぬかの?」
「お、驚いた。ご老人でありましたか」
「あいや、申し訳ない。あの子が、伊之助が家におらぬようでしてな。夜は危ないので家にいるように言ってあるのじゃが」
問われ、辺りを探るようにして耳をすますが、辺りにはあの子供の音は無かった。
「いえ、こちらには居らぬようで。それよりご老人、藤の花の香は焚かないのですか?」
「うむ。ちょうど切らしておりましてな、本当ならば今日届くはずだったのですが。ワシも古い人間ですのでのぉ、それもあってちと不安で」
「なるほど、わかりました。一宿一飯のご恩もありますし、私はこう見えて剣の嗜みもあります。少し辺りを探してみましょう。今は、鉈しか手にありませんが」
「申し訳ない、恩に着ますじゃ」
身形を整え、月明かりの下に出る。
草木の香りに、闇の気配を探る。
「………」
流石に音は届かないか。
就寝前の事を思い起こす。
子供ーー伊之助ーーは呼吸をグングンと上達させ、ある程度身体にも影響を与えるようになりとても興奮していた。
おそらく、その興奮が押さえきれなくなり外に飛び出したのだろう。
そして大概の阿呆が向かう先は高所。
つまり、山に登れば捕まえられるはず。
「よし」
気を入れて歩き出す。
この時にも、僅かな違和感を感じていた。
正確に言えば、伊之助に出会ったときから。
いや、もっと言えば俺が【獪岳】を名乗った瞬間から。
しかし、運命は巻き戻らない。
動き出した歯車は、誰にも、止められやしない。
それでも俺は、何度でもこの日の事を思い出すのだ。
◇
音が、しない。
山頂へ向かうにつれ、森から命の気配が遠退く。
何かに怯え、隠れるように音が小さくなって行く。
「ぐがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
伊之助の声だった。
即座に呼吸を整え、脚の筋肉に意識を集中させる。
「伊之助!」
鬼だ。
これが、鬼の音!
『鬼の音は人間の音と全く違うから』
俺が知らないはずの、俺がよく知っている人の声が聞こえた。
同時に見つける。
人と同じ形をしながらも、まるで狂った異音の主。
片腕で伊之助を掴みあげたその姿を、捉えた。
「うあぁぁぁぁぁぁ!!」
幻聴を振り払い、鬼の腕に鉈を振り下ろした。
雷の呼吸は鬼と戦うための呼吸。
それは知っていた。
たぶん、俺はそれを産まれる前から知っていた。
けど、俺が使えるようになったのは呼吸だけで、雷の型はどうやっても使えるようにならなかった。
それでも、人と同じ形をした鬼なら脆い部分だって同じ筈だ。
肘の間接へ向けた一撃は、狙い違わず、その腕を切り落とした。
腕ごと切り飛ばされて地面に転がる伊之助には意識がなく、それでも心臓の音からその無事を確認して、俺はもう一度鬼に意識を集中させた。
「おっほー♪餓鬼がやるじゃねーの」
腕を落とされたと言うのに、その鬼はまるで気にもせず、血が流れるままに上腕を俺に向けた。
「ま、無駄だけどさ」
血がうねり、切り落とした鬼の腕と繋がって線を結ぶ。
するとどうだ。
それらは弛んだ糸を締め付けるようにして一瞬で元の形を取り戻す。
「お前、この変なのを助けに来たのか?」
助けた筈の伊之助は再び鬼の手の中にあり、もはや奇襲も使えない。
「…だったら、なんだ」
二本角の鬼が、俺を見下ろす。
ざんばらの黒髪で、特徴的なのは肘の先から肥大化した硬質な腕。
俺の記憶の扉が、ガタガタと震える。
必要ない。
俺は獪岳だ。
ただの、人間だ。
心が弱いだけの、ただのーーー。
「コイツ、死ぬところ見たいか?」
手が震え、顎まで震えて膝を地につける俺を見て、自分に怯えていると思ったのだろう。
鬼が愉しそうに目を歪め、ゆっくりと…見せ付けるように伊之助の細い首に爪を食い込ませていく。
「あ、ああぁ」
血が伝う。
赤い、赤い血が。
ダメだ。
それは許されない。
何故か?
愚問だ。
伊之助は必要な人間だからだ。
そう『鬼舞辻無惨を倒すために』絶対に必要なーーーーー。
「助けて下さい」
気付けば、懇願していた。
哀れっぽく。惨めに。まるで役者のように。
「助けてくれるなら、大人を一人、子供を八人、貴方に差し上げます」
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それからのことは、よく覚えていない。
途轍もない罪悪感に、本来俺が知る筈のない知識が混ざった影響だろう。
気が付けば桑島慈悟郎、雷の呼吸の育手に引き取られていた。
どうしても書きたくなった。
豆腐メンタルな作者ですが、子供に「人間は出来ないことはやろうとすら思えないんだよ、やろうと思ったならそれは絶対に出来るよ」と言った手前、引くに引けなくなった感じもある。
まぁ、頑張る。
期待せずに応援したいただければ幸いです。
ーー追記ーー
書き始めて半年後の2022年の1月現在。
ようやく獪岳が寺に来た時期を数日前から数年前に変更しました。
色々考えがあったんだと思うけど、数日前は無理じゃないかな、昔の俺よ。
それに伴って鬼との初戦闘シーンもわずかに修正しております。
無我夢中で書いてたからなぁ。