神社の境内にある泉。
そこに浮かべた草舟が
泉には顎を打たれて気を失った男の子の姿が映った。
「あーぁ。ぎゆう負けちゃった」
膝を曲げて座り込んだ幼い
「俺様は死んでも腐っても師範の継子だ、あんな弱味噌なんぞに遅れをとる訳にはいかんぜ」
私が見上げる。
逆光でよく見えないその人は、それでも凶悪な笑顔を浮かべ。
私はその顔がいたく気に入って同じように笑って見せた。
「けっこう、危なかったよね?」
「あぁん? そりゃお前の身体が弱いからだろ?」
「水のこきゅうは、やわらかくて強い。私の身体は固かったのかな?」
あはは。
私ってば頑固だな。
水柱様にも食って掛かるだなんて。
この人も同じように思ったのかな、少しだけ間を空けてから「カッカッカッカッカッ!」と楽しげに笑った。
「やはりお主は面白い
「ははは、それは嫌だなぁ。そもそも私は■■の事が好きだがら、水柱さまのお気持ちには応えられないんだよ」
………え。
誰って?
私が、誰を…好き?
「■■か、また陰気な男を好きおって、同じ陰気仲間ならば弱味噌義勇の方がまだ顔も良く、気心も知れておるだろぉに」
「顔なんてかんけいないんだよ。■■は私を救ってくれた。私につながる沢山の命を守ってくれた。あんなに小さな背中なのに」
待って…え?
私はいったい何を見せられている。
「アレはお前など眼中に無かろう、いや…それどころかアレは死と終局に取り付かれていやがる」
「そうかもしれない。けど、まだ■■は負けてない!」
恥ずかしい。
なんだろ、これ。
恥ずかしくて、恥ずかしくて。
「私は■■を信じてるの」
「私は■■の助けになりたいの」
「私は■月の支えになりたいの」
「私は、私は、私は!」
もう、止めて!
羞恥心に耐えきれず、飛び出そうとした私の前に、一頭の蝶が現れた。
白い羽の外側を淡い葉の緑や桜の花色で染める。
特異なまでに美しい、蝶。
「古き世の水柱様は、随分と下衆な事をなされますね」
ーーー蝶…あぁ。
その姿に安堵したとたん、光が満ちて胡蝶カナエその人を象った。
「また一つ、勉強になりましたね」
柔らかく微笑むカナエちゃんが、私の手を握ってくれた。
「神霊…その中でもとりわけ人間に基因する威霊は扱いが難しいのです」
幼子の姿の私と、顔の無い水柱様が此方を睨む。
「人であったからこそ人の心へ付け込む事を得意とし、未熟な術者の深層に分け入って喰いたがる」
「喰う…何を?」
私の問いに、手の力を込めて応える。
「私たちが持っていて、あの御方が持っていないものです」
そう。
それは即ち。
「五月蝿ぇんだよ」
水柱様の顔を隠す影が、絵の具のように滲んで全体に広がり、同時に私だったモノも、糸が切れたように首が真下へと傾いだ。
「私は蝶です、蝿と間違われると困りますね」
笑顔。
カナエちゃんは今、きっと笑顔だ。
読み書きを教えるように、怪異との間に保つべき距離を教えてくれている。
『見えなければ弾きなさい』
『美しければ畏れなさい』
『その影を注視し、惑わしを退けなさい』
ニコニコと、顔には張り付けたように笑みを浮かべ。
『真菰さんには水の心得があります』
『畏れや恐れを否定してはいけません』
『けれど、それに囚われず』
『水面の心で対峙してくださいませ』
『必ず笑顔で、心を正して』
気持ちを真っ直ぐに保ち、ぶれてはいけない。
間違えてはいけない、間違えないためにも乱れてはいけない。
…術者としての道を行くのなら。
その殿方を、本当に支えてあげたいのなら。
そうだ。
…そのために、私は願ったんだ。
あのお馬鹿を助けるための、一手を求めて。
水柱様の全身に広がった黒。
先程まで右手だった部位が幼い姿の私を模したモノに繋がると、その黒に吸い込まれるようにして融けた。
一部だけを残して。
「かしこみて申し上げます。水柱様、その面をお返し願えますか?」
残されたのは、顔。
私の顔を手に持って、影が苛立つ。
「蝶…蝶か。なるほどお前、胡蝶の系譜か」
この人は水柱。
百年前の柱を主人格としながらも、水柱という
本来であれば私なんか相手にしてもらえるはずもない、水の柱の守り神。
「胡蝶であるなれば理解出来よう。あと一手、この俺様に差し出せ。さすればあの御方の魂は目覚め、今度こそ悪鬼を滅ぼし千年の悲願は果たされる」
「私が胡蝶であるからこそ理解しております。あと一手、もし戯れに差し出したなら、貴方様の渇望はこれなる真菰の悉くを貪り、今度こそ千年の悲願は潰えるでしょう」
鏡合わせ。
術式の初歩であり、もっとも重要な返しの要素。
「俺様を誰だと心得る」
「貴方様は神」
「貴方様は霊」
空間が捻れるような圧を感じた。
カナエちゃんを中心に、世界が怯えてねじ曲がる。
「貴方様は、既にこの世のモノではありませぬ」
彼女の美しく清らかな指が九字護身法の印を組む。
「久方ぶりに見た空はいかがでしたか?」
複雑な型を組ながら、その形状へと意味を呼び込む。
優しく優しく語りかけながら。
「真菰さんの心臓は、真菰さんの瞳は、真菰さんの血肉の清らかなる香りは。色を無くした貴方様を狂わせるにはそれだけでも行き過ぎる」
「小娘が、俺様に、俺様を…!」
「その上に敬愛した御方の魂と邂逅したのです、堕ちたとしても無理はありません」
流れるような美しさで九つの印を結び終え、刀印を構えて闇を見据えた。
「邪魔だ…」
闇となった人形が【ボコリ】と膨れる。
「あと一度で良いのだ、あと一度
首が伸び、足を無くして胴が伸び。
「俺様を、この、俺を、僕を…もう、一度…!!」
黒龍。
のっぺりとした、布で作ったような頭の無い粗雑な龍が、小さな腕で懸命に、宝玉代わりにの私の顔を握りしめた。
「許されません」
絶対の意思を見せて、カナエちゃんが刀印を横に切った。
「御覧なさい、貴方様にまだ人の心が在るのなら、どうか目を見開いて、御改め下さい」
刀印が開いた空間には、鱗滝さんに手を握られる私の姿。
鍛え方が足りないんだよね。
血も筋肉も驚きを通り越して皮膚の内側で破裂しちゃってる。
この調子だと近い内に血で気管が詰まって窒息しそう。
うーん。
痕が残りそう。
これはお嫁に行けないかな?
予想通りの姿なんだけど、客観的に見ると申し訳ない気持ちになるんだよね。ほら、鱗滝さんはあの日から仮面を外して生活してるでしょ?
だから、苦しそうなお顔がそのまんま見えちゃう。
はぁ。
私って親不孝だなぁ。
「しばらくは、息をするにも苦労されそうですね」
そうだね。
けど、必要な事だったから。
私の言葉に微笑んで、カナエちゃんが凛として龍を見据えた。
「さぁ…どうか大人しく、その面をお返し下さいませ」
その願い、その道理。
正しいと理解しても諦められない、執着心。
それを表すように龍がウネウネと宙を泳いだ。
「願いは行き過ぎれば鬼と化します、ご理解していらっしゃるのでしょう?
綺麗だ。
ここが私の世界だからこそ、わかる。
本来異物であるはずの、カナエちゃんの美しさと優しさ。
そして…その奥底にある畏ろしさ。
それが伝わったみたいで、龍の動きが止まった。
端からハラハラと崩れて消える。
そして残ったのは、私の顔を大事そうに胸の前で抱える小さな男の子だけ。
「イヤだ! ボクはお師匠さまに会う!」
あぁ。
この子の未練なんだね。
「もう一回、もう一回だけでいいから!」
「純粋な童心ほど畏ろしい」
可哀想ですがーーー。
そう形作るカナエちゃんの唇に、指を添えた。
「少しだけ、許して」
歩み寄る。
ふわふわと、何だかどうにも頼りない身体を動かして、心に向き合う。
恐怖はあるよ。
間違いなく、私は怖い。
人と向き合うこと、触れ合うこと。
理解を願って傷付けること。
だから私は逃げてきた。
鱗滝さんから逃げて、義勇から逃げて。
そして命の恩人からも、目を背けた。
あの人の心が、魂が。
どれだけ深い地獄の底で苦しんでいるのか、私は私の才能によって知り得たのに『あの人を傷付けたくない』と言う気持ちを盾にして壁を作った。
目の前の男の子と、魂が寄り添っているからだね。
とても、とても。
涙が溢れて、それでも足らずに私の胸が引き裂かれ、裂け目からは血が鮮やかな花のようにふわりと広がる。
「真菰さん!」
「だいじょうぶだよ。心はね…痛いんだ。この痛みが、私には必要なんだよ」
後悔を、共有する。
ああしておけば良かった。
話をすれば良かった。
時間が戻ってくれたなら。
もう一度、もう一度だけでいいから…!
『「会いたい」』
「そうだよね、苦しいよね」
心を込めて、抱きしめた。
小さな鼓動を。
今はもう現世にはあり得ない童心を抱く。
「私はあなたのお師匠さまを知らない。けれど義勇のことは知ってるよ」
まだ固い。
心の固さを示すように、この子の身体は岩のように固い。
だから暖める。
私の命と血の灯火で、柔らかく包む。
「出会ったばかりの義勇はーーー」
花身術。
我が身を花に、其の身を内に。
『会いたい…もう一度、逢いたい』
たゆたえ…揺蕩え。
私の中の水面から、私の外の水面まで。
『ズルいな、お前だけが、命を持って』
やるせない気持ち。
この世はとっても残酷で、命を落とせば途切れてしまう。
『もっと見てもらいたいんだよ、僕は、俺は、俺様は…!』
願いは、望みは。
どこも逝けずに飢えては嘆く。
渇望は渦巻き、その場に留まって穢れを呼び込む。
だから。
「かしこみ、かしこみ」
痛みを流す。
私の内側にある荒神さまのお怒りを痛みとして受け入れて、それを水面へとそっと流す。
「かしこみ、かしこみ」
だいじょうぶ。
私は、あなたを信じる。
あの人が繋いでくれた、私の命を信じる。
「潮の風知る水の主、柱が神の痛みに願う」
『………』
「義勇を、信じてあげて」
心に浮かべるのは、気弱で甘えん坊な表情。
だけどその内側は何時だって罪を抱えて怯えて泣いて。
「今はまだ弱いかもしれない」
その姿が、雷月と重なる。
「あなたの知っている魂に届かないかもしれない」
けれど。
「きっと、あなたの気持ちは届いたよ。これでもまだウジウジしてるんだったら、今度こそ私が姉弟子としてこてんぱんにしてやるんだから」
だから、信じて。
あなたの信じる
私も…。
あの人を信じるから。
その心が伝わったのかどうか。
気付くと満身創痍の私はお布団で目を覚ました。
すぐ隣に置いてある狐の面が少しだけ。
私に微笑んだ気がした。