桜の花言葉〜殺さずの剣客、そして人斬りの君へ〜   作:沖田愛好家

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なんか、読んでた小説消えてたんですよね。
代わりに勢いで書いちゃいました。
そのせいで、全く良いタイトル名が思い浮かばないという……。
しかもサブタイトルまで思い浮かばないという……。


一章 筆頭局長・芹沢鴨
1-1 天竺葵


 

 男は誰かを殺すことができなかった。

 何を当たり前な、と思ったかもしれない。

 人が人を殺めることに正義や悪やと論ずる意味などなく、殺人という罪科を犯せば、その時点で如何に聖人君子であろうと皆ただの罪人と化す。それが現代における常識であり、昨今の教育環境が齎した最大の功だと言えよう。

 

 ——人が人を殺すことに何の疑問も持たない、何の躊躇いもない人間は、タガが外れてしまっている。

 

 けれど、こと幕末において必要な殺人とは「正義」なのである。

 己が殺される前に斬殺した。

 仲間を殺される前に射殺した。

 要人を守るために絞殺した。

 仇討ちだと曰っては殴殺した。

 理由など挙げ出したら枚挙に遑がないほど、この時代では動機がいくつも転がっている。それこそ、道端で歩いているだけで殺人の動機など見つかりそうなほどに。

 故に、「当代において殺人は必要行為なのだ」と誰かが言った。狂った人斬りが言ったのか、はたまた幕府の幕臣が言ったのかは知らない。もしかしたら、*1似非商人が口走ったものかもしれない。

 けれどこの場合、誰が言ったのかなど重要ではない。重要なのは、「時代がそれを望んでいる」と言うことなのである。このような言葉が流布されても、誰もそれに対し反論を唱えない。ばかりか、世論が殺人を肯定し、時代が殺人を希求している。これらは一重に、命の散り様を美徳と考える弊風が起因しているのだろう。他人のために命を捧げることを誉とした武士道は、まさに封建社会が作り上げた絶対主従の悪夢である。

 国が、時代が、人々が、命を投げ打つことを肯定していると言うのに、誰が「殺人はいけないこと」と断定できようか。殺したとしても、そこに大義名分があれば非難されることなどない。当代での仇討ちは幕府公認のものであり、かの有名な赤穂事件では、各々の手紙に殺人の覚悟が書き認められていた程である。必要であれば斬り捨てられても仕方なかったと言われた時代である。それなのに男は誰も殺すことができない……。

 

 今一度ここで話を戻す。

 

 男は誰かを殺すことができなかった。

 読者諸兄はこれらを聞いて、まだ「何を当たり前な」と思っただろうか。予備知識を与えられ、時代背景を明るみにされた今、少しでもこれを普通のことだと思えただろうか。もしかしたら、腑抜けた男だと嘲笑ったやもしれない。いや、心底情けない奴と蔑んだ可能性も考えられる。戦争であれば人が戦死しても許容するように。寿命を迎えて死ねば仕方なかったと笑えるように。この時代の殺人は日常と癒着している。

 気付いていた人間もいたやもしれぬが、別にこれは「殺人」という大枠に括った言葉ではない。男は誰も殺すことができないのだ。例え、自分とは関係のない命が散ろうとしていても、どんな極悪人が相手でも、男は命の取り零しを許容しないのである。簡潔に言うなれば、男は誰かが死ぬのを許容しなかった。これは異常なことではないだろうか。

 

 ここより始まる物語は、そんな時代に反骨する異常者が、一人の女の子と出会うお話である。

 

 

 霧が掛かった三月の終わりのことである。職を失い、居所も失った剣客は、当てもなく京の町をふらついていた。

 今夜は風が冷たくて気持ちがいい。

 そんな動乱の時代とは真逆の感想を抱く男の足取りは、どことなく軽いように見えた。このまま風に乗ってどこかへ運ばれてしまったらいいのにと、年甲斐もなく思ってしまう。

 男は気がつけば、いつの間にか暗がりの隘路に入っていた。別に人がいない方へと向かっていたわけではない。ただ風に誘われているように、この場所へと足を運ばせていた。特段なにかをしたいわけでもなかった男は、元の大通りにでも戻ろうと踵を返す。男はあまり暗いところが好きじゃなかった。だから、できれば家屋の灯りが漏れる場所を彷徨いたかったのだ。

 しかし、そこで足は止められた。

 男が大通りに戻るためにと踵と躰を返した時、奥の方から何やら鬼気迫る声が聞こえた気がしたからだ。

 

(なんでござろう……)

 

 最近では京の町も物騒だと聞く。「世直しだ」「尊王攘夷だ」と騒いでは、商人たちから金を捲し立てる攘夷志士。「我々は京を守っているのだぞ」と嘯いては活動資金を囃し立てる幕臣の武士。男からすればどちらも不逞浪士でしかないので、できれば他人を巻き込まないように抗争してもらいたいと、常日頃から思っている。断れば即座に斬ってしまう血気盛んな連中に関しては、何かしらの罰を儲けるべきではないかとも考えていた。

 けれど上の者たちはそこまで頭が回らない。と言うよりも首が回らない。今は国の存亡をかけた戦いの時期でもある。国か少数の人命かと問われれば、彼らは間違いなく国と答えるのだろう。

 ならば、己だけでもその少数の人命を助ける側に回るべきではないだろうか。男はそんな風なことを考えていた。

 

(様子だけでも見るべきか……)

 

 嫌な予感を覚え、そう決意した男は隘路の奥へと突き進む。もしさっきの声が気のせいだったならば、それはそれでよし。無駄骨だと思ったりせず、誰も傷ついていなかった事に安堵すればいい。

 男は結局、誰よりもお人好しであったのだ。

 距離にしてみれば*23丈ほどを突き進んだ時。男の目の前に、暗闇の中から二人の人影が現れた。

 

「た、助けて、誰か助けてぇ……!!」

 

 一人は、そう言いながら手首から先の失せた右腕を庇い、一心不乱にこちらへ走ってくる中年の男性。

 

「逃しません!」

 

 もう一人は、銀色に輝く刀を構え、逃げる男性の背を追っている剣客であった。

 さて、この状況でどちらを助け方が良いのか。

 男からすれば、今目の前に映っている光景だけで判断しなければならない。

 

(とにかく、今にも殺されそうになっている方を助けるのが先決か……)

 

 どちらが善で、どちらが悪か分からないが。

 男は命の危機に晒されている人間を、見捨てることなぞ出来なかった。

 

「そこの逃げている御仁! そのまま某に向かって飛び込むでござる!」

 

 男がそう言うと、助けが来たことに安堵したのか、逃げていた男性がくしゃっと顔を歪める。そして、そのまま男の言う通りに前方へと勢いよく飛び込み、逃げていた男性は数丈先の地面に着地した。飛び込んだ彼とすれ違い様。男は腰に指していた太刀の鞘を左手で握り、親指で鯉口を切る。柄には右手をかけ——滑らせるように——襲いかかっていた剣客の刀に向かって抜刀した。

 キィィィン——と耳障りな金属音が鳴り響く。

 剣客の振り下ろした刀と、男が抜き放った刀が鍔迫り合った。すると光が差し込まなかった隘路に、ゆっくりと月光が差し込まれる。

 

「何者ですか、あなた……」

「そちらこそ、何者でござるか」

 

 睨みあう両者。

 月光で照らされて分かったが、男と向き合っている剣客は実に女らしい顔立ちをしていた。まるで猫でも彷彿とさせる愛らしさだ。刀を持たず、血の匂いさえしていなければ、その辺りの商店で看板娘を務めていそうなくらい美しい。

 端正な顔つきと、綺麗に切り揃えられた黒髪からは、やけに甘い匂いが男の鼻腔をくすぐった。

 

「私はそこに転がっている殿内さんに用事があるんですよ。関係のない方でしたら、どいてくれませんか」

「そうはいかんでござるな。某が退けば、其方、この御仁を殺すのでござろう」

「フン——その方を助けて、あなたにどんな益があると言うのです」

 

 女剣士は男の剣を華麗にいなすと、そのまま距離を取った。あのまま刀と刀を合わせていても、決着らしいものが訪れないと思えたからだ。実際、男はあのまま鍔迫り合いだけで時間を稼ぎ、その間に殿内と呼ばれた男性を逃がそうとしていた。女剣士は理論的に男の策略を見抜いていたわけではないものの、結果的にはその野生の勘とも言える思考力で、無駄な時間稼ぎをくらわずに済んだのである。

 

「本当に退かないなら——あなたも斬りますよ?」

 

 ともすれば、その声は並の剣客よりもよほど冷酷に響いた。聞く者の身を竦ませる、極北の地に吹き荒ぶ風のような、けれどもオーロラの如く綺麗な声。

 対面しているだけなのに、男はその一言に脂汗を滲ませる。

 

「それは困るでござる」

「ならば早く刀を納め、ここから去れ——私は二度も同じ忠告をしない」

 

 言うが早いか、女剣士は平突きの構えを取った。

 剣術の中でも突き技というのは当てにくい部類に入る。斬撃と違い振り回さないし、直線的にしか進めないからだ。

 しかし、それに勝るほどの殺傷力の高さがあった。急所に当たれば、それだけで相手の動きを止めることができるし、下手をすればそのまま死に追いやれる。故に彼女が突き技を選択したということは、逃がさないという意思表示ではなく——今ここでお前を殺すという決意表明であるわけだった。

 

「随分と血気盛んな娘でござるな」

 

 男は女剣士の平突きの構えとは対象に、刀を持った右手をぶらりと垂れ下げたまま、左半身を少し前に出すだけであった。

 前方から見れば、男の体は斜めに佇んでいる。構えというにはあまりに杜撰だ。あくまで自然体であり、ただ刀を抜いているだけの姿勢にしか見えなかった。流石の女剣士も、眉を下げる。なんの意図があって、そんな姿勢で固まっているのかなど分からない。左半身を若干前に出しているせいで、右手から放つ斬撃の初動は必ず遅れる。それなのに男は、半身を少し前に出しただけで、特に動こうとしなかった。

 

「私のこと侮っているんですか?」

「いいや、そんなことはない。突きに対しての構えなら、これが良いと判断しただけでござるよ」

 

 男はちらりと転がったままの殿内を一瞥する。

 

「其方、殿内と呼ばれていたか! 女剣士がこちらに向かってきた瞬間、走って逃げるでござるよ! そのまま進めば大通りに出るため、誰かに匿ってもらうと良い!」

「わ、わわ分かった! ありがとう、恩に着るッ!!」

「なに、困った時はお互い様でござる」

 

 殿内からの感謝を聞き、男はいざ斬り合いを始めようというのに、わざわざ振り返ってまで喜びを頬に浮かべた。昨今では見られなくなった柔和な笑みに、ふと緊迫した空気が薄れる。

 決して男と殿内に面識があったわけではない。今日初めてお互いの顔を見たし、声すらも聞き覚えがなかったほど薄い関係性である。助ける義理もなければ、労力を払う価値もない。なんせ殿内は右手を既に失っているため、これからは剣を握ることなど出来ない状態なのだ。武士としての人生は明らかに終わりを告げている。

 それでも、他に生きていく方法など幾らでもある。手が無いのであれば、頭を使う商いをすればいい。商いが向かないのであれば、剣を教える道というのもある。殿内には、まだ真っ当に生きられる機会は残っていた。男はその未来の可能性を守るためだけに、己の命を刈り取ろうとしている女剣士と戦うのだ。

 

「戯言を……誰一人として逃しはしない」

 

 唾棄するように女剣士は腰を沈める。

 狙いを定めているのは、目の前に立ちはだかる男の心臓部。それを一突きした後、走って逃げるであろう殿内の首を後ろから一閃——跳ね飛ばす。

 その工程を頭で数回浮かべ、万全のタイミングを見計らい、女は弾丸の如く()()()

 

「今だ! 走れ、殿内殿!」

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 女剣士が飛び込んだのと、殿内が起き上がったのは同時である。転がっていた殿内の方が進み出す速度は遅い。それは庇っている男も百も承知の事実だった。だから本来であれば、「襲いかかったと同時に走れ」は致命的な指示の間違いだと言える。もっと早く、女剣士が仕掛けてくるより前にスタートしなければ、男が一撃で屠られた場合、殿内は確実に殺されてしまうからだ。

 けれど、それは男が一撃で屠られた場合の話である。

 

「獲った!」

 

 勝利を確信した女剣士が叫んだ——。

 剣先は男の心臓部を目掛けて走っている。

 あと数瞬で男の胴体に風穴が開くだろう。

 その瞬間、男の生命活動は終わりを告げ。

 まるで糸の切れた操り人形のように、下品に地面へと落下する。

 そう、それこそ少女が思い描いた未来。

 そうなるはずだと思い込んだ未来図だった——。

 

「っ、え?」

 

 だが、それは現実に成り得なかった。

 風穴を開けるも何も——。

 さっきまでそこにあったはずの男の体が綺麗に消え失せているのだから。

 まるで隙間を這い回る蛇のように。

 前に出していた左足を軸に、

 男は華麗に女剣士の右背後へと回転していた。

 女剣士を後ろから強襲する一撃。

 回転の反動を使いながら。

 刀を——振り抜く。

 

 

「な……んで」

 

 死んだと悟った瞬間、女剣士——沖田は目を閉じた。

 あの突き技に合わせて、カウンターを決めてくるとは思いもよらなかった。第一、自分の突き技自体、大抵の人間に躱されたことがないのだ。それを初見で完璧に合わせてくるなど、沖田にとってはとても信じられない光景だった。

 

「構えと目線で狙いがバレバレでござる。あれじゃ、合わせてくれと言っているようなもの。道場などであれば、お面をしていて目線が見えないから良いものの、実践じゃ次の手を教えているようなものでござるよ」

 

 沖田がその言葉に反応して目を開けてみれば、目の前には無傷の男がにこやかな顔で立っていた。

 ついでに言えば、彼女自身の体にも怪我らしい怪我は見当たらない。刀を振り抜かれたと思ったのに、どこにも切り付けられた後すら無かった。

 

「どうして私は生きているのですか……」

 

 意味が分からないと言った様子で男に尋ねた。

 最後に見えた光景は、男が己に刀を振るった瞬間である。あれは幻想でもなければ、妄想でもないと言い切れる。そのため沖田は質問したのだ。

 

「どうして、と言われても……某はいかなる理由でも殺しはせんでござるよ。だから今回も、其方の動きを止めるために、ほら——」

 

 そう言って男に指差される己の腹部分。目線を下ろしてやれば、そこには男が持っていた刀が、沖田の衣服を貫いて壁へと縫い付けられていた。

 

「衣服は駄目になったかもしれないが、それは許してほしいでござる。某も其方の見事な突きに、少々手荒なことで止めるしか出来なかった」

 

 あははは、と乾いた笑みを浮かべた男は、後頭部を掻きながら言った。

 恐ろしいほどの絶技に沖田は何も言えない。これは最早完璧な敗北だ。相手を殺すより、相手の動きを止める方が難しいのは沖田でも知っている。本気で殺し合いにでもなれば、己が負けることは自明だと感じた。

 

「はぁ……申し訳ないと思うなら早く抜いてください。殿内さんにも逃げられましたし、それに貴方には敵いそうにありませんので」

 

 ため息まじりに女剣士が言えば、男は「ちょっと待つでござる」と突き立てた刀を力一杯引き抜いた。

 かなり強く突き立てていたのだろう。刀を抜いた部分を見れば、真っ黒な穴が深々と開いている。下手をすれば、この穴が己の体に空いていたのか。それを考えるだけで総毛立った。

 気まずそうに目線を逸らす。

 

「それよりどうして其方は、殿内殿を殺そうとしていたでござるか?」

「はぁ? 呆れました。何となくそうだろうと思ってはいましたが、本当にあなた、何も知らないで殿内さんを助けたんですね」

「返す言葉もない——が、()()()()()()()()()()()()

「……」

 

 沖田は内心でどうしようもなく長いため息を吐く。

 殿内の仲間ではないと半ば分かっていたが、それでもこの男は罪人を逃した男である。正確に言うならば、殿内は何かをした罪人ではなく、これから何かをしでかす”予定”だった人間である。

 それを沖田はある人物から聞き、独断で殿内を酒場へと連れ出した後、酔った彼を四条大橋で暗殺しようと考えていた。ただ誤算だったのが、先に剣を握られぬよう右手を切断したにも関わらず、殿内が咄嗟の判断で、大声を発しながら一目散に逃げてしまったことだ。

 それが結果的に功を奏し、こうやって訳もわからないお人好しに阻まれてしまった。

 殺しはいけないでござるよ。

 ——何を甘っちょろいことを言っている。

 沖田からしてみれば、目の前の男が気に食わないと思うのに時間は掛からなかった。

 

「この時代で殺しの善悪を説きますか——この私(沖田さん)でも呆れるくらい馬鹿ですよ、あなた。まあ、良いです……あの傷では二度と剣は持てないでしょうし、何より血を流しすぎて死ぬ可能性が高い。殿内さんには悪いですけど、あんなの死んだ方がマシな痛みですよ」

「それは本人に頑張ってもらうしかないでござるな。某に出来るのはここまで」

 

 医療の知識などあまり無い男である。そんな男が保証できるのは、沖田から逃すということのみ。

 腕がどれだけ良くても、専門外のこととなれば男はとことん弱かった。

 

「それじゃ某は行くでござるよ。沖田殿? も女でありながら剣客をしている身——あまりとやかく言うつもりは無いが、夜道は気をつけるでござる」

 

 そう言って刀を納め、大手を振って四条橋の方へと歩いて行く男。

 さっき対峙した時は、中々鋭い眼差しをした剣客という印象を抱いたが、後ろから見ればただの陽気な男である。きっと、沖田が後ろから襲うなんて考えてもいないのだろう。

 

「全く。あんなお節介焼きに出会うとは、私もついてません」

 

 再度、沖田はため息まじりに呟いた。

 

(私も帰ろう)

 

 肌にこびりついた乾いた血を取りながら考えていると、同時、気がついたことがある。

 

「あぁっ! ちょっと待ってください! 小袖だけじゃなくて、帯まで斬ってるじゃ無いですか、あなた! どうしてくれるんですか!? 私帰れませんよ!?」

 

 道理でさっきから着崩れすると思っていた。腹部に穴が空いているのが原因かと思っていたが、よくよく見てみれば帯が千切れかけている。あと少し力を加えたら、前から着物がはだけるのは容易に想像できた。

 男は沖田の動転ぶりに思わず振り返り、何事かを察して笑った。

 

「あはははー、すまんでござる」

「何が、すまんでござる、ですかああああ!!1」

 

 込み上げてきた激情を肩に宿し、沖田は力一杯鞘だけを男に投げ付けた。

 人間とは投擲能力において生物界で最強だと言われている。霊長類では、ごく稀に高速で正確に物を投げつけられる場合もあるそうだが、人間は日常的にそれができる。沖田の投擲能力も一般人とはかけ離れたしなやかなフォームにより、あり得ない速度を誇って男の脳天に鞘を直撃させた。

「んぎゃっ」

 情けない声を発し、ばたりと倒れる男。無理もない。鞘は重さに換算すると*31斤いかないくらいである。これは野球ボールに換算すると大体3〜4倍の重さだ。それが放物線を描くことなく、一直線に投げ込まれたのだから、威力は計り知れない。さっきの斬り合いでは絶対に倒せないと思っていたのに、呆気なく男はやられてしまった。

 あまりの拍子抜けに、沖田は目を丸くする。てっきり軽く避けられるものとばかり思っていた。

 

「……もしかして、くたばりました?」

 

 沖田は男に警戒しながらも声をかけた。

 右手には柄が握りしめられている。さっきまでこの男とは争ったわけだし、今ならこの男を殺せるかもしれないと考えたからだ。

 けれど男は、そんな沖田に対しても反応することがなかった。

 

「あの、からかっているんですか?」

 

 沖田は最後の確認として、抜刀していた刀で男の体を少しだけ突いた。針に刺されたような傷跡から、ほんのり血が滲み出る。けれど、男が何かしらの行動を起こすことはない。完全に気を失っている。頭部に鞘が直撃したのだから当たり前と言えば当たり前だが……。

 沖田はこの瞬間、この男を完全に殺せると判断した。

 

「なぜだか知りませんが、倒せたみたいですね」

 

 そう言って沖田は、刀の鋒を男の心臓部へと狙い定める。人間であれば一突きで絶命させられる急所。さっきは見事な回転で避けられたが、今の動かない男になら、間違いなく当てられる。

 

「——悪く思わないでください。斬り合った後に、無防備を晒した貴方が悪い」

 

 身も心も凍らせる、不吉な声色で沖田は呟いた。

 殿内を逃したこの男が何者かなど、沖田には分からない。聞いた限りでは、ただの通りすがりのお人好しだと思っている。そんな人間、別に殺す必要もないのだが、それでも沖田は目の前の男を殺そうと思った。

 

 なぜなら、この日、沖田は人斬りになる覚悟をしてきたからだ。

 

 兄弟子である近藤のため、京の町で壬生浪士としてやっていくには、自分を人斬りにしなければならない。

 ある人物から「殿内が近藤を害そうとしている。総司君は未だ人を斬ったことがないのだろう?」と言われた。それが意味することなど、聡い沖田には瞬時に理解できた。女でありながら剣客をやっている身だ。いずれそういう話をされることなど目に見えていた。

 だから、沖田は証拠のためにと殿内を誘い出し、酒場で証言を取れた時から、己が人斬りになる覚悟をしていた。近藤の役に立つため、試衛館メンバーの足を引っ張らないようにと。

 なのに、だ。

 目の前で倒れている男に殿内暗殺を邪魔立てされ、しかもその理由が「殺しはいけない」などという意味の分からない戯言ときた。今更ながらに向かっ腹が立つのも仕方のないこと。

 

「小娘のままでいられない。私たちの夢のためにも」

 

 誰に聞かせているのか。沖田の口からは自然と言葉が溢れていた。

 現代は、後に幕末と呼ばれる時代の転換期。意義ある人殺しは許容され、また黙される時代。時代が、国が、人々が殺人を肯定し希求する。そんな乱れに乱れたはずの時代なのに、倒れた男は沖田に向かって言い放った。

 ——人殺しはいけないでござるよ。

 戯言だ。胸を掻きむしりたくなるほどの甘言だ。誰が聞いたって反吐が出る。汚れを知らない小市民ならまだしも、脇差をさした武士の言うセリフではない。そんな言葉を吐くのは、いまだに己の手を汚したことのないヘタレだけである。

 けれど、それでも沖田は…………

 

 

 ほんの少しだけ——人を斬らないことに安堵した。

 

 

 気がつけば、振り下ろしていた刀が男の心臓部から大きく逸れて、何もない地面へと突き刺さっていた。当然、流れ出ているはずの血は誰からも溢れていない。男も先程と同じように、少しも動かず地に伏している。

 ふっと短い息が沖田から溢れた。

 

「意味もない殺人をしてまで、私はこの夢を——」

 

 今日初めて真剣で人を斬った沖田。その感触を確かめるように、突き立てた刀から手を離しゆっくり開閉させる。

 気持ち悪い。

 肉にめり込む感触も、骨を砕き斬る感触も、斬られた相手が発する奇声も、鼻腔をくすぐる鉄の臭いも、何もかもが気持ち悪い。肌にこびりつく乾いた血をさっさと洗い流したい。汗と血が染み入った着物なんて早く脱いで、横になりたい。

 けれど、昨今の京はこんな気持ち悪いもので溢れかえっている。治安を維持することは難しく、京で過ごす人間はどこかで安寧を求めている。

 そんな世知辛い現代で、彼女は一人考えた。

 いつかこの気持ち悪さも、慣れてくれる日が来るのだろうか——と。

 

 

 男は目を覚ました。「どの男だ?」と聞かれれば、あの「お人好しの男」であると答える。そのお人好しの男は、いつの間にか眠っていたことに気がついた。。何故なら頭上には見知らぬ天井、横を振り向けば見たこともない襖が並んでいたからだ。

 男の最後の記憶にあるのは、一人の雪椿を彷彿とさせる女剣士。彼女と戦ってから少し後、そこで男の記憶はぷつりと途切れていた。何かいけないことを思い出そうとする気分だ。昨日の記憶を掘り返そうとすればするほど、なぜか頭痛がする。

 少しだけ気を休めようと、空いていた障子の奥を見れば庭が広がっている。雄弁に咲いた桜が見事なまでに美しいと思えた。

 

「目が覚めたんですね」

 

 桜に夢中になっていた男の背後から、声が掛けられる。痛む頭を庇いつつ、ゆっくりと後ろを振り向けば、そこには淡い青色の着流しを着た沖田であった。さっきまで外にいたのか、沖田の黒髪に桜の花弁が着いている。男はそれを見て、くすっと笑うと、頭の方を指差して「ついてるでござるよ」と教えてあげた。

 

「っ、ありがとうざいます。起きて早々、人に指摘するくらいまで元気になったんですね」

 

 嫌味を十二分に含めた言い草だったが、男はそれを気にしない。

 

「沖田殿がここまで? どうやら迷惑をかけたようでござるな」

「迷惑って……そんなの殿内さんを逃した時から思っていましたよ」

「あははは、それについてはあまり謝る気がないでござる」

 

 男は気まずげに頬を掻くと、布団から立ち上がった。

 それとは対照的に、沖田は彼の近くに腰掛ける。

 

「あまり長居するのもよくはない。何も恩返しできないが、某はこれにて失礼するでござるよ」

 

 いつの間にか着替えさせられた寝間着を脱ぎながら、男は言った。

 長いこと寝ていた気がするため、体が重く感じる。さっさと出立ちの準備をする男を見ながら、沖田は部屋に立てかけてあった彼の刀を手に持った。

 

「出ていくのは結構ですが、その前に貴方と話がしたい人がいます」

「某と話でござるか?」

「ええ、殿内さんとの件かと」

 

 沖田がそう言って目を伏せると、男は苦笑いをした。

 殿内との関係を聞かれても、男から答えられるものは何もないからだ。あれはただの偶然、その場に居合わせたから助けただけの奇跡でしかない。殿内という人間自体を懸念したというには、あまりに男は無差別的な行動であった。

 

「困ったでござるな。某は本当に何も殿内殿とは繋がりがないのだが」

「知っています。あなたが何も考えていない、とんだお人好しということも。それでもあの人に話をしたいと言われれば、私はそれに従うしかありません」

 

 沖田の言葉に、男は眉を曇らせる。

 

「あの人とは、いったい誰の事でござるか?」

「芹沢鴨——私に殿内さんを暗殺するよう提案した張本人です」

 

 ここから始まる物語。

 それは、()()()()()()()()異常者が、()()()()()()()女の子と動乱を生き抜く物語である。

*1
似非:くだらないという意味

*2
およそ10メートル

*3
600g




Q.この主人公、絶対にあれを参考にしているやろ?

A.Yes、Yes、Yes. Oh my God.



ちょこっとだけ豆知識。
以下、Wikiさんを活用。

・殿内義雄
1863年、清河八郎発案の浪士組に参加。その後、壬生に残った芹沢・近藤・根岸らたちと共に、壬生浪士組(後の新選組)を結成する。
最初の壬生浪士の筆頭格だった近藤・芹沢・根岸らは既にそれぞれ派閥を形成していたが、殿内と家里は江戸幕府の信用で筆頭格になったので派閥らしいものはなく、旧知の根岸らと近かったとされている。
殿内は自前の派閥を形成するために旅に出ようとする際、近藤らにしこたま酒を飲まされ、京都四条大橋にて闇討ちに遭い死去した(文久3年5月の書簡で、沖田に殺害されたという)。これが壬生浪士組最初の粛清とされる。暗殺の原因は諸説あり。

この小説では、主人公のおかげで彼は無事あの後も生き残り、ひっそりと余生を過ごした。一応は明治まで生きており、最後は孫に看取られて死んだ。

永倉、井上、藤堂、原田などの壬生浪士メンバーをオリキャラとして出すか。また、出すとしてとの程度か。(これによって沖田さんの出番が減るとかは無いです)

  • 出さないでほしい
  • 出しても良いけど、モブキャラ程度で
  • 出してほしい
  • めちゃくちゃ出してほしい

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