殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:沖田愛好家

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ぎぃえ、また長くなっちゃった…!?


白砂の屠殺場

「――そこまでッ! 勝者、土方歳三!」

 

 審判を務める会津藩士の声が、白砂の庭にて響いた。

 それを聞き、藤堂の喉元へと向けていた木刀を土方が無造作にを引けば――途端、場内がどっと沸いた。

 

「おお……!」

「なんという力任せ……いや、凄まじい実戦の気迫よ!」

「あれが、御府内で噂の天然理心流か……!」

 

 会津藩士たちの間に、困惑を孕みながらも、認めざるを得ないという獰猛な感嘆が広がっていく。

 

 実際、これ以上ないほどに見応えのある試合だった。

 十代で目録を授かった藤堂平助の剣は、北辰一刀流の合理を極めた、精緻にして華麗なものだった。

 身軽な体躯を活かした神速の潜り込み、「鶺鴒の尾」による捉えどころのない揺らぎ、そして相手の剛刀を最小限の労力で受け流す完璧な技量。

 見る者を魅了する洗練が、確かにそこにはあった。

 

 対する土方の剣は、お世辞にも「美しい剣術」とは呼べぬ代物ではあった。

 隙あらば頭突きを食らわせ、流派の教えを嘲笑うかのような型破りで強引にねじ伏せる。剣としての美しさは皆無、まさに生き残るためだけに泥をすすってきた喧嘩剣術の極めた無骨さであろう。

 しかし、だからこそ一撃一撃に宿る重みは、木刀という玩具の枠を遥かに超え、観客たちの肌を粟立たせていた。

 

 互いの意地と、あまりにも対極な二つの剣理が白砂の庭で激突した死闘。

 それは、日頃から戦への備えを怠らぬ会津の武士(もののふ)たちの血を滾らせるには、十分にすぎるほどの熱量を孕んでいた。

 

 そんな会津藩士たちの歓声が激しくなる中、藤堂の足元にある白砂だけが、まるで世界の底のように冷たく沈み込んでいくようだった。

 

(……クソっ)

 

 藤堂が内心でそう毒づいてしまうのも無理はない。

 どれほど熱量のある立ち合いを演じようとも、泥臭い死闘の果てに待っているのは、容赦のない「勝者」と「敗者」の二分だけだ。

 負けた藤堂は、下から強引に撥ね上げられた衝撃で痺れきった両腕をだらりと下げ、ただ呆然と立ち尽くしている。鼻梁から流れる血の赤が、白砂の庭に点々と染みを作っていく。

 なんと無様な姿だろうか。

 

(結局、一本も取れなかった……)

 

 藤堂は悔しさに奥歯を噛み締める。血の味が口内に広がることすら、今は厭わない。

 

 自分が試衛館のメンバーの中で、最も力量が劣ると分かっていたからこそ、藤堂は焦っていた。

 歳の近い総司はとっくに手の届かない天才で、近藤や土方、永倉や原田といった兄貴分たちは、それぞれ一騎当千の怪物を宿している。

 そんな彼らの背中に追いつきたくて。

 足手まといにはなりたくなくて。

 誰よりも木刀を振ってきた――はずだった。

 

 端から負けるために、この大舞台に立っていたわけではない。やられ役に甘んじるつもりなど、さらさら無かった。

 

 本気で、試衛館の藤堂平助として勝つつもりで挑んでいたのだ――。

 

 だからこそ、この完敗が骨の髄まで痛かった。

 どれだけ胸の中で悔やみ、叫ぼうとも、これが今の厳然たる事実。現に、会津の誰もが藤堂の精緻な剣など一瞬で忘れ去り、勝者である土方歳三の武勇だけを称え、囃し立てている。

 

(結局、僕なんて……誰からも……)

 

 自嘲の暗い渦に呑まれ、視界が涙で歪みかけた、その時だった。

 藤堂の、強張った背中を、柔らかく叩く声があった。

 

「見事な試合でござったよ、藤堂殿ー!」

「そうですよー! 俯くことなんてありませんともー!」

 

 耳に飛び込んできたのは、ひときわ陽気な沖田の声と、その隣で優しく微笑む、赤衣の男のどこか間の抜けた、けれど芯のある温かい声だった。

 

「っ、……お前、ら……」

 

 藤堂がハッと顔を上げると、観客席からも他の隊士たちが、藤堂に向けて柏手を打っている。

 

「よくやった、平助! 歳の剣術は、まるっきしお前には通じなかったんだ! 胸を張っていいさ!」

「そうだぜ! 副長の野郎、途中から完全に余裕なくしてたからな!」

「純粋な剣の腕前だけで言えば、間違いなくお前のほうが勝ってたよ」

 

 大きな手ぶりで両手を叩く近藤、悪戯っぽく笑う永倉、無気力そうにも総評を述べる原田。

 

 向けられたのは、敗者への憐れみなどでは断じてなかった。

 ただ純粋に、土方歳三という理不尽な壁を相手に、一歩も退かずに己の剣を貫き通した同志への、最大の賛辞と誇りだった。

 

「っ……なに、言ってるんですか……負けは、負けなのに……!」

 

 そう言った藤堂の瞳から、今度は悔しさとは違う熱いものが溢れそうになる。

 その温かい身内のやり取りに引きずられるようにして、周囲の浪士組の隊士たちからも、さっきまで藤堂のことを話題にも挙げなかった会津藩士たちも、次々と地鳴りのような声が上がった。

 

「藤堂さん、すげぇよ! 俺、本気で魂が震えたっす!」

「あの土方さんが、近づくのためらってたもんな!?」

「いやはや、流石は北辰一刀流の目録をあの若さで取っていることはありましたな」

「ははは、私どもの誰かが試合に出れば、危ういかもしれぬぞ?」

「見ろ、会津のお歴々も、腰を抜かすほど喜んでおられるぞ!」

 

 さっきまでの、冷徹な勝負の場としての緊張感はどこへやら。気付けば近藤一派を中心とした壬生浪士組をはじめに、まるで祭りのような熱気と一体感に包まれていた。

 

 これには、試合に勝ったはずの土方までもが、木刀を腰に差し直しながら「ったく、浮かれやがって……」と、珍しく不器用そうに口元を緩める始末である。

 

「おい、藤堂」

「なん、ですか……副長」

「悪かねえ試合(喧嘩)だった……これからも、サボんじゃねえぞ」

 

 そう吐き捨てる土方の口元は、獰猛に、しかしどこか嬉しそうに釣り上がっていた。

 言葉こそ容赦のない脅しだが、そこには自分の喧嘩剣法を正面から全うさせてくれた藤堂の技量への、確かな信頼と誇りが滲んでいる。

 

 上覧試合――それは、寄る辺なき浪人たちが会津へ己らの力を示すための、乾坤一擲の舞台。

 敗北の苦さは藤堂の胸に深く刻まれた。しかし、この場に生み出された圧倒的な熱量と、会津藩士たちの魂を掴んだ確かな手応えは、間違いなく、彼ら壬生浪士組が京の夜明けへと突き進むための、大いなる成功の(さきがけ)となったと言えるだろう。

 

 誰もが試衛館の、ひいては壬生浪士組という新たな忠臣の誕生を確信し、互いの健闘を称え合う。

 白砂の庭には、嵐のような歓声と、地鳴りのように押し寄せる盛大な拍手が響き、皆が勝利の果実に酔いしれる――その、瞬間のことだった。

 

 ぱち、――ぱち、――ぱち。

 

 それは、どこか場違いなほどにのんびりとした、そして妙に乾いた音だった。周囲が刻む小気味よい称賛のリズムを、上から力任せに踏みつぶすような、そんな異音だった。

 

 どよめく人々の熱気へと冷水を浴びせかけるような、あるいは楽しげに踊る演者を引きずり降ろすかのような、傲慢極まる柏手。

 音が響いてきたのは、試衛館派の賑わいから遠く離れた特等席――壬生浪士組のもう一つの頭、芹沢鴨が陣取る一角からだった。

 

 激闘の余韻に浸っていた近藤たち試衛館の面々も、それに吊られていた会津藩士たちの視線もが、弾かれたようにそちらへと向く。

 

「いやはや。たしかに田舎の猿どもにしては、見応えのある戦いでしたなぁ、芹沢先生?  特に、猿が我ら武士の真似事で棒っ切れを振り回し、顔を真っ赤にしている姿など、実に健気で涙が出そうでしたよ」

「左様。どれほど凄んでみせたところで、刃がついていなければただの遊戯、ままごと。それを見てお歴々までもが喜ぶなど、京の夜明けを預かる者の底が知れたというものだ」

 

 芹沢の背後に控える平間五郎らが、口元を隠しながらくすくすと、しかし確実に広場へ届く声で嘲笑を紡いだ。

 

 ぶしつけ極まりない、しかし確実な悪意を孕んだ言葉。

 それは対峙した藤堂と土方を侮辱するのみならず、彼らを称賛していた会津藩の面々をも暗に「猿の芸に喜ぶ同類」と愚弄する、不敬極まりない暴言だった。

 先ほどまで好意的だった縁側の藩士たちの空気が、一瞬にして険悪なものへと反転するのに、そう時間はかからぬ程の。

 

「貴様ら、誰に向かって、そのような口を――」

「これこれ、よさないか、お前たち。会津の御公儀の御前であるぞ」

 

 会津藩士の一人が激昂し、刀の柄に手をかけようとしたとき。

 彼らの後ろに腰掛け、悠然と煙管を燻らせていた芹沢が、大仰に手を振って部下たちをたしなめてみせた。

 

 しかし、その顔には微塵の反省もない。むしろ、すべては自分の台本通りだと言わんばかりの、傲岸不遜な余裕をたっぷりと含んだ笑みを浮かべている。

 芹沢の狡猾さが、その細められた両眸の奥で爛々と輝いていた。

 

「申し訳ない、私の部下が失礼をした。だが、まあ……心苦しいことに、彼らの言い分も少しではあるが、私には理解できるんだよ」

「……何が言いてぇ、芹沢さん」

 

 腰に戻していた木刀の柄をを握り、土方は地獄の底から響くような声で問う。

 そんな土方に、芹沢はねめつけるような、獲物を品定めする蛇のごとき視線を向けた。

 

「そう声を絞るな、土方。この距離だ。お前の声では、よく聞こえないだろう?」

 

 ――まぁ、どうでもいいがね。

 そう言って芹沢は、それまで悠然と吸っていた煙管を灰吹きへと無造作に置き、どこに隠し持っていたのか、どっしりとした酒の入った瓶へと手を移す。

 

 会津藩主・松平容保の御前、神聖なる上覧試合の場であるにも関わらず、だ。

 そこで堂々と酒を煽ろうというその振る舞いは、不敬を通り越して最早、この場にいる全員への明確な格付けであった。

 

 手酌で並々と注いだ杯を豪快に喉へと流し込み、芹沢はふぅ、と満足げな息を吐き出す。そして、持っていた扇子をぴしゃりと閉じると、改めて試合場全域を見渡した。

 

「この程度の生温いひりつきでは、何も分からぬ、ということだよ。当たらぬ木刀を寸止めし、勝った負けたと騒いだところで、真の動乱を制する武士としての格など見えはすまい。――この程度では、酒の肴にしかならん」

 

 暗に「お前たちの命懸けの立ち合いなど、俺の退屈しのぎの酒の肴にも劣る茶番だ」と言い放った芹沢に、試衛館派の面々の目が一斉に据わった。

 先ほどまで身内への信頼でわずかに和らいでいた土方の顔から一切の感情が消え、全身から剥き出しの殺気が立ち上る。今にもバーサーカーのような闘争本能が爆発しそうなほど、その双眸は鋭く伸ばされていた。

 

「――だったら、どうしろってんだ」

 

 だが、芹沢はその殺気すらも愉悦のタネにするように、さらに深く、酷薄に笑ってみせる。

 

「決まっているだろう。武士の戦いだぞ?」

 

 芹沢はゆっくりと立ち上がり、白砂の庭を見下ろしながら、さも当然の真理を語るように淡々と言い放った。

 

「これらの立ち合いすべてにおいて――負けた者は、その場で士道不適切とし、腹を斬れ」

「……なっ!?」

 

 静寂を破ったのは、驚愕に満ちた周囲のざわめきだった。

 あまりにも狂気じみた、そしてあまりにも理不尽な提案。

 近藤といる永倉、原田の顔からは一瞬で色が失せ、白砂の庭を取り囲む会津藩士たちも、あからさまに表情を強張らせて当惑している。

 

 上覧試合――文字通り、主君の御前で技を競い、忠義を示すための神聖な場で、試合に負けた程度で腹を斬らせるなど前代未聞だった。

 それでは、ただの身内の殺し合いと何ら変わらない。

 

 たった一言で、先ほどまでの祭りのような熱気は消し飛び、白砂の庭は一瞬にして、冷徹な屠殺場へとその姿を変えようとしていた。

 

「芹沢筆頭局長、何を血迷ったことを……!  ここをどこと心得られる!?」

 

 白砂の庭を包む驚愕を切り裂き、周囲の藩士から非難の怒声が上がった。

 当然の反発だ。神聖なる上覧試合の場を血で汚さんとする狂論。ここは罪人を裁く奉行所でもなければ、身内を殺す屠殺場でもない。

 

「芹沢、貴様は――――……っ!?」

 

 だがその喧騒の中、上座に微動だにせず佇んでいた会津中将――松平容保が、すっと白磁のような片手を挙げた。

 

 それによって起こる――水を打ったような静寂。

 その一挙手一投足だけで、激昂していた藩士たちが一瞬にして言葉を呑む。

 それこそが会津松平家当主であり、京都守護職という死地を総べる若き大名の、絶対的な威厳であった。

 

 容保は場が静まるのを確認した後、冷徹極まる切れ長の双眸で、酷薄な笑みを浮かべたままの芹沢をじっと射抜く。

 単なる酒狂いの暴論か? それとも――。

 容保は芹沢の真意を探るべく、地を這うような重々しい声で問いかけた。

 

「……芹沢。貴様、壬生浪士組を率いる筆頭局長として、その言葉の重さを理解しての所業か? 何ゆえ、それほどの命のやり取りを求める」

 

 並の人間であれば、その一言の威圧感だけで平伏し、許しを請うだろう。しかし、芹沢鴨という男の底知れなさは、ここからだった。

 

 芹沢は不敵に唇を吊り上げると、容保に向かって、流れるような優雅さで恭しく一礼してみせた。

 

「恐れながら、松平肥後守様。我ら浪士組は、美しき型を披露して悦に浸るお座敷芸人ではございませぬ。命を賭さぬ剣など、所詮は太平の世の玩具も同然。真に会津の、ひいては公方様の剣と成り得るのかを測りたければ、敗北すなわち死という絶壁の緊迫感こそが不可欠。――それこそが武士の、ひいては我らが壬生狼の格というものにございます」

 

 その言葉は、一見すれば狂人の理屈でありながら、同時に、京都の治安維持という修羅場を預かる覚悟を強いる、不気味な説得力を孕んでいた。

 

「……」

 

 容保は目を細め、底の割れない芹沢の目を凝視し続けた。

 今日日、京の町は長州や尊王攘夷の過激派によって血で血を洗う地獄と化している。幕府から押し付けられた京都守護職という大任。綺麗な理想論や、試衛館の面々が持つような身内の情など、あの魔窟では一瞬で喰い殺される。

 

 容保が求めているのは、美しく洗練された剣士ではない。

 会津のために、公方様のために、泥をすすり、手を血に染めて地獄を共に行進できる本物の怪物だ。

 

 会津の総意と噛み合うのかは分からない。

 松平自身が求めている理想と同じかも定まらない。

 

 しかし、芹沢の濁りきった瞳の奥にある、恐ろしいまでの大義の炎を、容保はその鋭い感性で見抜いていた。

 この男はただ暴れているのではない。己の狂気すらも天秤にかけ、試衛館の甘さを、そして会津の覚悟を値踏みしているのだと。

 

 ならば、試してみる他あるまい。

 

 しばしの、耳が痛くなるほどの沈黙ののち、容保は深く、冷徹な得心を示して頷いた。

 

「……一理ある。戦場に寸止めなどは存在せぬ。今や京は、過激攘夷志士により、困窮を極める暗夜の町。綺麗事の型に何の意味があろう。真の覚悟を測るというのであれば、貴様の言う、命を賭けた証明もまた必要なことだろう」

「殿……!? 断じてなりませぬ、そのような無法――」

「黙れ」

 

 側近の悲痛な諫言を、容保は冷酷な一言で撥ね退けた。その視線は芹沢から外れない。

 

「今、俺は芹沢鴨という男を量っている。此度の大任、我が会津の破滅と共に、その身を地獄へ投じるに足る狂骨かどうかをな」

 

 張り詰めた空気がさらに一段、重圧を増す。

 松平は芹沢の魂の根底を暴くかのように、最後の刃を突きつけた。

 

「最後に聞かせろ、芹沢。貴様にとって武士とはなんだ。貴様は何のために、その命を賭す覚悟でいる?」

 

 問われた芹沢は、一瞬、心底愉快そうに、そして酷く哀しげに鼻で笑った。

 

「ハッ……何をたわけたことを、今更」

 

 芹沢はゆっくりと顔を上げ、上座の松平を、否、そのさらに先にある天を仰ぎ見るようにして、狂信的とも言える傲然たる声で言い放った。

 

「尽忠報国の志を持った国士。――それこそが、この俺のあるべき姿ですよ」

 

 その言葉に嘘はなかった。どれほど堕落しようとも、どれほど悪逆を尽くそうとも、この男の根底にある国を憂う志だけは、一点の曇りもない本物だった。

 そのあまりの純度の高さに、近藤たち試衛館の面々すらも気圧され、言葉を失ってしまうほどに。

 

 ゆえに、芹沢という男の底知れぬ器の大きさと、狂気に満ちた忠義の形を聞き届け、松平は冷徹な決断を下した。

 

「……いいだろう。芹沢からの上奏、この松平容保が認める。この上覧試合において、敗者は須らく切腹しろ」

「――殿っ、本気ですか!?」

「本気だ。元より、命を投げ出せない者など、俺の管理下にはいらん。長州や三条実美ら公家の連中がきな臭い動きを見せている。ともに俺と地獄に落ちる阿呆にこそ、会津の庇護は相応しい」

 

 その瞬間、会津藩士たちは先ほどの憤慨から一転、主君の口から語られたあまりにも悲壮で、あまりにも冷徹な覚悟の重さに完全に気圧されていた。

 

 誰もが言葉を失い、喉を鳴らすことすら忘れている。

 彼らとて知っているのだ。この若き主君が、どれほどの苦悩の末に京都守護職という死地を引き受けたかを。破滅へ向かう国を支えるため、すでに寿命を削るような思いで政務に当たっているかを。

 

 ――殿は……本気だ。そこまで追い詰められ、そこまでの覚悟で、この浪人どもを量ろうとされているのか……。

 

 主君の決定は絶対である。だがそれ以上に、松平が放つ圧倒的な大名としての業の深さに、藩士たちは己の正論が児戯に等しいものであると悟らざるを得なかった。

 誰も反対の声を上げられない。否、上げてはならない。ここで殿の言葉に、覚悟に、決定に異を唱えることは、主君を侮辱することと同義だからだ。

 

 苦渋と、困惑と、そして絶対的な忠義が混ざり合い、藩士たちはじっと俯き、口を噤んだ。

 その「誰も口を挟めない」という沈黙そのものが、やがて白砂の庭で佇む藤堂へと向けられる。

 

 さっきまでの喜びはない。

 さっきまでの高揚はない。

 

 今や、先の試合で敗北した若き剣豪をどう処断するかを考えている。

 芹沢の放った狂気と、松平の背負う地獄の泥濘。それが最悪の形で噛み合った瞬間、のどかだった上覧の場は、一歩の退路もない処刑場へとその姿を変えた。

 

「聞こえたかね、藤堂君? 肥後守様のお裁きである。敗者は敗者。武士らしく、見事に腹を召したまえ」

 

 芹沢の愉悦を孕んだ声が、凍りついた白砂の庭になめらかに響き渡った。

 

「――は? 切腹……? 僕が……?」

 

 平助の思考は、あまりの理不尽さに完全にフリーズしていた。

 

 心臓が早鐘を打ち、全身の血の気が引いていく。

 助けを求めるように周囲を見渡すが、さっきまで自分を称賛し、熱い眼差しを向けてくれていた会津藩士たちは、一様に重苦しく視線を伏せ、誰一人として平助と目を合わせようとはしなかった。

 

 会津守護職の御前という絶対の空間において、容保の言葉は神の宣託も同然だった。本当に、ここで腹を斬らねばならないかもしれないという現実が、冷たい泥のように藤堂の足元から這い上がってくる。 

 

(なんで誰も何も言わないんだよ……!  おかしいだろ、いきなり腹を切れなんて……っ! )

 

 ただの試合だ。己の力を示し、浪士組の未来を切り拓くための舞台だったはずだ。

 それがどうして、負けたら死ななければならないなどという話になる。おかしい。絶対に何かがおかしい。

 

 しかし、激しい拒絶とは裏腹に、それ以上に巨大な死の恐怖が津波のように押し寄せ、喉が震えて声にならない。

 会津守護職の御前という絶対の空間。そして場を埋め尽くす無言の同調圧力が、十代の若者に過ぎない藤堂の心を容赦なくすり潰していった。

 

「っ……僕、は……」

「なにを木偶の坊のように黙っているのかね? これは誉れ高いことだろ、藤堂君。君はこの自刃により、身を以て壬生浪士の格を示せる。逆に言ってしまえば――ここで腹を斬る覚悟すらねえお前なんぞ、誰からも必要とされねぇってことだろうが!」

「――――っ」

 

 必要とされていない。

 それは、藤堂にとって呪詛のような言葉だった。

 

 藤堂の脳裏に嫌な記憶が蘇ってくる――耳の奥で優しく、しかし酷く冷たい母の声。

 

 伊勢国津藩十一代藩主、藤堂高猷。それが、彼の父の正体である。

 正確には、藤堂が母から聞かされていた父の存在。

 そんな、雲の上のごとき高貴な存在の落胤として生を受けた藤堂は、いつも母親から「あのお方がいつ戻られても良いように」と、熱病に浮かされたように教育を施された。

 母の手の温もりは覚えている。向けられた言葉に、愛がなかったわけではない。

 けれど、母親が藤堂を抱きしめるとき、その虚ろな瞳の視線は、いつも彼の身体を通り抜けて、決して来ることのない『誰か』を待ち続けていた。

 

 母親の目に――藤堂平助という少年は映っていなかったのである。

 

 そして待ち人はついぞ現れぬまま、母は幼い藤堂だけをこの世に遺して逝った。

 父からも、母からも、その目線すら向けられなかった少年時代。天涯孤独となった藤堂の胸に開いた「僕は誰からも必要とされていない」という暗い大穴は、どんなに剣を磨こうとも、どれほど試衛館の仲間と笑い合おうとも、決して埋まることのない底なしの傷口だった。

 

 それを――芹沢鴨という男は、最も残忍な形で抉り出したのだ。

 

「……あ、……ぁ」

 

 会津藩士たちは目を伏せている。誰も自分を見ていない。誰も自分を必要としていない。

 世界から完全に拒絶されたような、あの幼少期の暗闇が、白砂の庭の照り返しの中に重なっていく。

 

(ああ、そうか……僕がここで腹を斬れば……見事に死んでみせれば……近藤さんたちの、試衛館の役に立てるのか……僕が死ねば、やっと、誰かに必要として――)

 

 パニックの果てに、思考が急速に「死」の甘い誘惑へと傾いていく。

 恐怖のあまり涙で視界が歪む中、藤堂の手は、自らの命を終わらせるための脇差へと、磁石に吸い寄せられるように伸びていき、その冷たい柄に指先が触れた――瞬間であった。

 

「――早まんじゃねぇ、藤堂」

 

 低く、地を幾重にも這うような声が、藤堂の鼓膜を震わせた。

 差し伸べられた無骨な手が、脇差を抜こうとしていた藤堂の手首を、骨が軋むほどの力強さで掴み取っている。

 弾かれたように顔を上げると、そこには、いつもの恐ろしい仏頂面をさらに般若のように歪めた、土方歳三の姿があった。

 

「副、長……?」

「お前はそのままじっとしてろ」

 

 政治的な打算も、会津藩の目も、今の土方には知ったことではなかった。目の前で、試衛館からの大事な仲間が、言葉の毒に脳を焼かれて死に急ごうとしている。その一点だけで、己の身体を動かすには十分すぎた。

 

 土方は強引に藤堂の身体を自分の後ろへと引きずり込むと、その広い背中で少年を完全に庇い、鋭い眼光で芹沢を睨み据えた。

 

「なんのつもりだ、土方?」

「それはこっちの台詞だ、芹沢」

 

 その獰猛な睨みを受けた芹沢は、苛立たしげに鉄扇を己の膝へと打ち立て始める。

 

「副長自ら、この筆頭局長である俺の差配を邪魔立てするってのか? 肥後守様のお裁きに不服と見えるが……それは、壬生浪士組が会津の法には従わぬという、明確な反逆と受け取って良いのかね?」

 

 芹沢の言葉は、その一言一句が致命的な罠だった。

 ここで土方が「そうだ」と言えば、あるいはそのまま芹沢に斬りかかれば、芹沢一派を除く浪士組は一瞬で反逆者としてこの場で誅殺される。

 

 それは土方も理解しているからか、安易に言葉を交わしたりはしない。ただ黙して、じっと芹沢だけに殺意を向け続けた。

 

 そんな張り詰めた糸が切れる寸前の空間へ。

 

「恐れながら、申し上げますッ!!」

 

 と、男の咆責が滑り込んだ。

 

 何事かと思い、声のする方へと視線を飛ばせば、近藤勇が、血相を変えて前にしゃしゃり出たのである。

 土方が物理的に平助の死を止めた、その一瞬の隙。主君への不敬を承知で、近藤は白砂の庭に激しく両手を突き、土下座してみせた。

 

「会津中将様! これなる藤堂平助、未だ若輩の身なれど、その剣技と忠義の志は決して偽りではございませぬ! 此度はあくまで木刀による上覧の場。真にこの命を投げ出すべきは、京の闇にて不逞の輩を討つ、その実戦の場であるはず! どうか……どうか此度はお咎めなしと平伏し、この平助の命、公方様の剣として使わせてはいただけませぬか……!」

 

 だがしかし、必死に叫ぶ近藤の姿を、芹沢は鼻で笑った。

 

「おやおや、近藤。随分な物言いだが、それは此度のご差配を下された肥後守様への、明確な異議申し立てと受け取って良いのかね? まさか、大した代案も持ち合わせず、ただ身内可愛いさで駄々をこねているわけではあるまい?」

「それは……っ」

 

 近藤の喉が、引き攣ったように鳴った。

 武士としての理屈、主従の道理だけで縛られているのではない。近藤の脳裏を過ったのは、もっと泥臭く、致命的な組織としての現実だった。

 

 壬生浪士組は、未だ正式に召し抱えられたわけではない。会津藩にその存在価値を認められるかどうかの、薄氷を踏むような瀬戸際にいる。

 ここで筆頭局長である芹沢の――しかも、決定を下した松平容保の差配に、局長である近藤自身が真っ向から反旗を翻せばどうなるか。

 それは会津藩の重臣たちの目の前で、「壬生浪士組は身内の統制すら取れず、内部に深刻な不和を抱えた脆弱な組織である」と自ら暴露するに等しかった。

 

(ここで芹沢さんに逆らえば、浪士組は一発で取り潰される。皆の行き場がなくなる。だが、だからと言って、平助を死なせては……!)

 

 組織の命運という重荷と、家族同然の同志の命。

 その二つの巨大な天秤の間で、近藤は言葉を失い、ただ白砂に額を擦りつけるしかなかった。

 

 大将が泥をかぶって耐える姿に、後ろに控える永倉や原田もまた、その政治的な地獄を理解せざるを得ない。

 拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んで血が滲むほどに歯噛みするが、下手に動けば藤堂どころか全員の首が飛びかねない。その呪縛が、彼らの身体を硬直させていた。

 

「これが、あんたの狙いかよ、芹沢さん……!」

「完全にやられたな。上覧試合でうちの者ばっかり多く出させたのも、これが狙いか……手を出すなよ、新八。分かってるとは思うが」

「分かってんよ、そんくらい! 俺にもよォ!」

 

 それでも堪りかねて、ひそやかに吐き出される隊士たちの剥き出しの怒声。しかし、それを芹沢は涼しい顔で受け流し、むしろ、極上の光悦に浸る様子で、手酌で掬った酒をひといきに呷ってみせた。

 

「ふっ、何を騒ぐ。君らとて命など惜しくはあるまい? 京の町を血で染める覚悟でここへ来たのだろう。ならば、今ここで死ぬも、明日の路地裏で野垂れ死ぬも大差はないはずだ。それとも何か? いざとなれば、命が惜しくて尻尾を巻くような腰抜けだったのか、お前たちは」

 

 どうにも聞き分けがない――。

 芹沢は、土方や近藤たちのそんな頑なな態度を、底冷えのするような冷たい目で見つめていた。

 そして、その試衛館派の聞き分けの悪さを、そのまま極上の言い訳に仕立て上げるように、上座の松平容保へと向き直る。

 

「どうする気だ、芹沢。筆頭局長としての貴様の案を飲んでやったが、誰も腹を斬りたくないらしいぞ」

 

 松平の、冷徹に試すような声が響く。

 主君の言葉は絶対であり、すでに賽は投げられている。ここで引き下がれば、芹沢の面目はおろか、浪士組全体の覚悟の格が落ちるだろう。

 

「肥後守様。どうやら、これほど身内に甘い腰抜け共には、切腹の美学など理解できぬ状態でございます。――ならば、代替案を差し上げましょう」

 

 芹沢は腰の愛刀――白鞘の『備後三原』へ、ゆっくりと手をかけた。

 親指でハバキを押し上げ、白刃がちろちろと凶悪な光を放つ。

 

「壬生浪士組筆頭局長たるこの私が――直々に、規律を乱したこの不調法者の首を刎ねる。これならば、未練がましく腹を斬る手間も省けましょう」

 

 筆頭局長による、身内の断頭。それは、大義名分を盾にした最悪の粛清の宣言だった。

 あまりの狂気の極みに場が完全に凍りつく。芹沢が刀を抜き放とうとし、激昂した土方が「上等だ、やれるもんならやってみろ」とばかりに自身の木刀の柄に手をかけた、まさにその刹那――。

 

 誰も彼もが、どう動いても破滅しかない袋小路の絶望に囚われ、息を呑んだその瞬間。白砂の庭の片隅から、それまで気配すら殺していた男の声が響いた。

 

「――そこまでにしてもらえないでござるか、芹沢殿」

 

 着物の裾を小さく翻し、これまで静観していた男がゆっくりと歩み出る。

 男は、凝固していた土方と芹沢の間にすっと何の躊躇もなく割って入ると、まるで頑なな試衛館の面々を背後へ庇うようにして、その細い身体で立ち塞がった。

 

「なんだ狗。ここは、お前のような部外者が出る幕ではないだろ」

 

 芹沢は細めた目をさらに不快げに歪め、心底見下した鼻で笑った。それを合図に、周囲の芹沢一派の隊士たちからも「犬の分際で」「先生の邪魔をするな野良犬が」と口々に嘲笑が浴びせられる。

 

 ――狗。そう、この赤衣の男は壬生浪士組の隊士ではない。

 芹沢が、沖田が起こした殿内暗殺未遂の際、己独自の駒として拾い上げた素性不明の飼い犬――平たく言えば、芹沢個人の私兵という扱いである。

 

 だが、その歪な立場こそが、今この絶望的な状況において唯一の抜け穴でもあった。

 男は浪士組にあらず、会津藩から俸禄を貰っているわけでもない。

 つまり、彼がどれほど無礼を働こうとも、それは壬生浪士組の内部不和にはならず、全てはこの男一人の責任となる。会津藩預かりの身分ですらないため、武士の理屈も政治のしがらみも、この男を縛る鎖にはなり得なかった。

 

 ただ一匹の狂犬が、御前で勝手に吠えている――それだけの理屈で、この場を引っかき回せる唯一の存在。

 

 だからこそ男は、浴びせられる侮蔑の雨を甘んじて受け入れるようにただ静かに目を伏せ、されど一歩も退くことなく、小さく首を横に振った。

 

「某のような者がでしゃばる無礼は、平に平にご容赦を。されど、此度の件ばかりは見過ごすことはできんでござるな」

「ほう。飼い犬が私の差配に口を出すというのかね?」

「芹沢殿。某を飼う際に約束したこと、お忘れでござるか……某は申したはず。人は殺さぬ、人は殺させぬ、無益な争いは好まぬと。此度のやり方は、その約束どれもを違える鬼畜の所業と見受けられるが?」

 

 赤衣の男の訴えに、芹沢は大仰に肩をすくめると、ひょうひょうとした面持ちでせせら笑った。

 

「ハッ! 勘違いするなよ。私はお前に、藤堂君を殺せなどと命令した覚えはない。それに、負けた者に切腹を命じたのは私ではなく、あちらにおわす会津中将、松平肥後守様がお決めになったことだ。私はただ、提案したにすぎんよ」

 

 あまりにも理不尽な詭弁だ。

 しかし実際、芹沢は赤衣の男に何か命令したわけでもなければ、実行を決定づけたわけでもない。

 ただ、松平へ上奏し、それが通ったために決定に基づいたまま行動をしているに過ぎない。

 

 赤衣の瞳に鋭い光が宿る。

 

「……それがお主のやり方でござるか。詭弁と分かりながら、そうやって言葉の刃で人を死地へ追い詰める……ならば、これ以上この場に留まる意味はござらん」

 

 男はくるりと背を向けると、会津藩士たちの視線などこれっぽっちも恐れぬ様子で、毅然と言い放った。

 

「近藤殿、藤堂殿。あちらがそのおつもりなら、こんな上覧試合、もうお開きにいたしましょう。人の命を弄ぶ悪趣味な悪ふざけに、これ以上付き合う必要はどこにもござらんよ」

 

 場が、再び別の凍りつき方をした。

 会津藩守護職の御前である。そんな不敬が許されるはずがない。近藤たちがここで立ち上がって帰れば、それは会津への明確な反逆――浪士組の即時取り潰しを意味していた。

 

 ――近藤たちは動けない。この理不尽な地獄に耐えるしかない。

 男が、その残酷な組織の現実を知らないはずがなかった。

 

 けれどしかし、知っていて、あえて言っているのだ。

 隊士ではない部外者という己の立場を最大限に利用し、自分が「御前試合を勝手に台無しにした大不届き者」としてすべての罪とヘイトを背負う。

 そうすれば、近藤たち試衛館派は連座を免れ、藤堂の切腹話も有耶無耶にできる。この場に満ちる最悪の同調圧力を、己の身を挺して叩き割るための、あまりにも無茶で、あまりにも優しい嘘だった。

 

 男はぽん、と藤堂の肩を優しく叩く。その掌は、驚くほど温かかった。

 

「さぁ、荷をまとめて帰るでござるよ」

 

 すべての矛先を自分へ向けさせるための、力技の試合放棄ト。

 赤衣の男が近藤たちの前に立ち、そのまま白砂の庭を去ろうと一歩を踏み出した――まさに、その一瞬だった。

 

「――っ」

 

 男の目論見を許さぬかのように――背後から、音もなく、しかし確実に大気を切り裂いて這い寄る凄まじい殺気を、赤衣の男の研ぎ澄まされた五感が捉えた。




さて、あと1話か2話でこの話も終わります。
今は下手にあと書きでは語らず、みなさんに楽しんでいただきましょう。

まぁ、豆知識だけは貼っておきますが。


■藤堂平助の落胤説
作中で平助が「誰からも必要とされていない」と苦悩する引き金となった出自。実際の歴史でも、平助は伊勢国津藩の藩主・藤堂高猷(たかゆき)の隠し子ではないかという説が根強く残ってたりします。
彼の愛刀が、本来なら一介の浪人が持てるはずのない高級品「上総介兼重」であったことや、立ち振る舞いに品があったことがその根拠とされているそうですよ。
作中の「誰の目も自分を向いていなかった」という孤独の描写は、この数奇な出生秘話を題材してるんですね!

ちなみに、リライト前の小説でも、藤堂くんちゃんのこの話を活用する気満々でしたが、FGO世界では半ば史実みたい。ボツにならなくてよかった…。

この人のエピソードが見たいって人います? という名の登場人物優先権

  • 近藤勇
  • 土方歳三
  • 山南敬助
  • 沖田総司
  • 永倉新八
  • 原田左之助
  • 斎藤一
  • 藤堂平助
  • 芹沢鴨
  • その他(FGO未登場の壬生浪士組)
  • 高杉晋作
  • 坂本龍馬
  • 武市半平太
  • 勝海舟
  • 人斬り彦斎
  • 人斬り新兵衛
  • 人斬り以蔵
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