殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:ただの物書き

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同居する二つの考え

 それは、偶然だった。

 

 人間が持つ、野性的な勘とでも言えばいいだろうか。

 もしくは、生存本能が告げる最大の警鐘とでも呼ぶべきだろうか。

 

 いずれにせよ――赤衣の男がその殺気を察知できたのは、そういった奇跡の類によるものだった。

 

「っ……!」

 

 声にもならない息を漏らすと同時、赤衣の男の身体は勝手に動いていた。

 

 ――思考より早く、半身を捻る。

 直後、音もなく大気を切り裂いていた一閃が、猛烈な速さで視界へと入り込んできた。

 

 きぃぃぃん――……。

 

 遅れて、硬質で鋭い金切り音が鼓膜を刺す。

 咄嗟に突き出した赤衣の刀の鞘――それが火花を散らし辛うじて噛み留めていたのは、冷たい光を放つ、剥き出しの真剣の切っ先だった。

 

 あと数センチ……いや、瞬き一つ分でも反応が遅れていれば、間違いなく喉笛を貫かれていただろう。

 

 じりじり、と嫌な音を立て、刃と漆塗りの鞘が軋み合う。

 防がれてなお、寸分のブレもなく命を削り取ろうとする、その迷いのない殺意を突きつけてくる人物とは――。

 

「なんの真似でござるか……斎藤殿!?」

 

 斎藤一。

 他でもない、試衛館から行動を共にしてきた同志であり――そして、次に行われる上覧試合においては、この赤衣の男の対戦相手となるはずの男だった。

 

 

 

 

 ― 壱 ―

 

 

「いやいや、そいつはこっちが聴きたいんだけどねぇ。なにしてくれちゃってんのさ、赤衣ちゃん?」

 

 じりじりと火花を散らす刃と鞘の隙間から、いつもと変わらぬ、おちゃらけた斎藤の声が漏れた。

 その細められた目元には、あいも変わらず、へらへらとした薄気味悪い笑みが浮かんでいる。

 

 対して、赤衣の男は。

 

「……無益な死を見過ごせなんだ。それだけのことでござる。されど、お主が邪魔立てする理由こそ、某には皆目見当もつかん」

 

 赤衣はすっと目を細めて、静かに言葉を返した。

 

 その疑問も当然である。斎藤一は紛うことなき近藤一派の端くれ。江戸から京に上ってきた土方や沖田らとは違うものの、過去には試衛館に出入りし、交友を深めていた時期もある。

 今では副長助勤を務め、土方や山南の片腕としても働きを見せている男が、一体なぜ……?

 

「そんなにおかしなこと? 僕がお前に斬りかかるのって」

「腑に落ちぬ点がいくつかある……お主が、いくら某個人に悪感情を抱こうと、いささか時と場合が噛み合ってはおらんでござるよ」

「噛み合ってない、ねぇ……(はじめ)ちゃんとしちゃあ、これ以上ないってくらい好機に見えたんだけど、さ!」

 

 言葉の結びと同時、斎藤の身体が爆発的な踏み込みを見せた。

 刀を押し合っていた膠着状態から、何の予兆もない。

 重心の移動すら視認させぬまま、最短軌道で放たれた、赤衣の男の死角を突く前蹴り――。

 

 肉と肉が激突する重苦しい破壊音が、白砂の庭にて響き渡る。

 赤衣の男は咄嗟に左腕を巻き込んで直撃を和らげたものの、斎藤の尋常ならざる脚力によって、その細い身体が文字通り真後ろへと弾き飛ばされた。

 

「くっ……!」

 

 赤衣の男は白砂を鋭く蹴り、数丈後方へと鮮やかに着地する。辛うじて体勢を崩しはしなかったものの、男の足元には、深く、長く、白砂を削り取った二筋の轍が刻まれていた。

 

 ぴたり、と両者の動きが止まり、再び距離が空く。

 斎藤は蹴り上げた足を無造作に白砂へと下ろし、足首の感触を確かめるように、爪先からゆっくりと回した。

 

 その瞬間、上覧試合の場は、先ほどの芹沢の暴論の時とは全く質の異なる、不気味な困惑へと突き落とされる。

 

「――――、よさないか、斎藤君!」

 

 最初に静止を投げかけたのは、やはり近藤だった。

 土下座していた体勢から頭を上げて、斎藤を叱りつけるように振り向いている。その顔には、身内の理不尽な暴走に対する純粋な困惑と、それ以上に、この混沌とした場を制御しきれていない組織の長としての苦悩が滲んでいた。

 

 だが、それでも、斎藤は突き出した刀を納めようともせず続ける。

 

「なぁに言っちゃってんですか、局長。これは、お上がお認めなすったことだ。組織の長の1人でもあるアンタが、たかが平隊士1人風情が死ぬってなったくらいで、ガタガタ騒いでさぁ……それこそ士道不覚悟ってもんでしょうよ」

 

 斎藤は「なぁ?」と言って、藤堂を一瞥する。

 冷徹に見られた藤堂は何も言えず、ただ唇を噛み締めて斎藤から目線をそらした。己の未熟さが、この地獄のような状況を招いたのだという罪悪感が、少年の心をすり潰していく。

 

 しかし、そのあまりな物言いに、膝を突き、片手で腹を押さえていた赤衣が、苦悶に満ちた目で斎藤を睨み据えた。

 

「本気で言っているでござるか……藤堂殿が腹を切ってもいいと……仲間が無残に斬殺されようと、それでいいと、本気で……」

「逆に聞くけど、僕が冗談言ってるように聞こえちゃってる? それなら、そいつは残念。大真面目ってやつだよ、これは」

 

 そう言って斎藤は、のうのうと散歩でもするかのような足取りで赤衣へと近づく。そのまま水月を蹴られ、姿勢が低くなっている男へと、至近距離で楽しげに喉を鳴らした。

 

「それに僕としちゃあね、さっきも言った通り、ここでアンタと合法的に殺り合える機会を、そう簡単に逃したくないわけよ」

 

 なんたって、あの沖田ちゃんを下したって聞くじゃないの――と斎藤は目を細めて笑う。

 

 試衛館の中でも屈指の怪物を倒した男。その首を、会津藩の御前に添えられるというのだから、これ以上に自身の武勇をひけらかす好機はないのかもしれない。

 

 それは、斎藤一の中の人斬りが、歓喜に身震いして暴走したようにすら思える台詞だった。

 斎藤はそのまま、上座で悠然と煙管を燻らせる芹沢へと視線を投げる。身体の軸は赤衣の男に向けたまま、顔だけを動かすその所作は、まさに複数の獲物を同時に視野へ収める捕食者のそれであった。

 

「って、ことなんで、筆頭局長。始めちゃってもいいですよね、僕とこいつの第二回戦?」

 

 問われた芹沢の唇が、不快げながらも、底暗い愉悦に歪んだ。

 芹沢としても、ここで斎藤を利用することに異論はない。赤衣の男という飼い犬が、己の描いた完璧な処刑の台本を台無しにしようとしたのだ。主人の威厳を侵した不届き者には、死という確実な罰を与えるのが主従の分であり、何よりの娯楽だろう。

 

 であれば、出される答えはひとつだけ。

 

「……あぁ、構わんよ。その試合が終わってから、彼らの処遇はゆっくり決めることにするさ」

 

 そう言質を得た斎藤は、満足げに喉を鳴らすと、顎で無造作に周囲の隊士たちを指し示した。

 

「そんじゃま、聞いてもらった通りなんで、さっさと皆さんも()けた()けた。ここに残られると、うっかり殺しちゃうよ?」

「おい、斎藤」

 

 斎藤の相変わらず軽薄で粗末な忠告に、土方が低く、警告を含んだ声でその名を呼ぶ。

 だが、斎藤は振り返りもせず、背中で語るようにへらへらと片手を振ってみせた。

 

「分かってますよ、副長。それに――僕が負けるわけないでしょ?」

 

 その絶対の自信、あるいはこれ以上誰も介入させないという拒絶の気迫に圧されてのことだろうか。

 近藤は苦渋を飲んだ形相で、藤堂の細い身体を抱きかかえ、土方は険しい面持ちのまま試合場を後にする。

 

 白砂の庭に残されたのは、斎藤一と、赤衣の男。

 ただ二人だけとなった。

 

 さらさらと、乾いた風が白砂をさらう音が、静まり返った場内に不気味なほど鮮明に響く。

 斎藤は肩の力を完全に抜き、まるで得物を持っていなかの如き弛緩した構えを取った。隙だらけに見えるその佇まいこそが、あらゆる方向からの襲撃に対応し、瞬時に必殺の速度へと肉体を臨界させる実戦の極致。

 斎藤は細められた両眸の奥で、じっと赤衣の男の動向を観察しながら、唇の端を獰猛に吊り上げた。

 

「さてと――不殺(殺さず)、だっけか? 僕としちゃあ、そういう死生観って言うの? あんまり興味ないのよ、正直」

 

 赤衣の男は、じっと斎藤の双眸を見据えたまま、腰の刀の鞘を左手でそっと押さえた。その佇まいは静水のように穏やかだが、全身の神経は極限まで研ぎ澄まされている。

 

「殺すだの殺さないだの、そういうのを口にする奴ってのは、決まって腕に覚えのない雑魚ばかり。本当に強い奴ってのはさ――」

 

 そこまで言いかけた斎藤の姿が、揺らいだ。

 ――いや、消えた。

 

「言葉にする前に、もう行動は終わってるってもんだろ?」

「……っ!?」

 

 瞬き一つの間に、斎藤の白刃が赤衣の鼻先へと迫っていた。

 空気を断ち切る、頭部を狙った鋭い横薙ぎ。赤衣の男は咄嗟に上体を後ろへ逸らしてこれを平然とかわすが、容赦のない剣圧がその前髪を数本散らす。

 

 躱されたと知るや否や、斎藤は持ち手を素早く切り替えた。

 刀を上方へ跳ね上げ、そのまま返す刀で脳天へ向かい、力任せに振り下ろそうとする大上段からの白刃。

 

 まともに受ければ押し潰される――そう直感した赤衣の男は、未だ鞘に収まったままの刀を斜め垂直に掲げ、相手の太刀筋を外側へ受け流そうと試みる。

 

 が――。

 

「っ――」

 

 斎藤が乗せた体重と一撃の重さは尋常ではなかった。赤衣の掲げた鞘の傾斜を、火花と共にギチギチと滑り落ちた斎藤の刃先が、受け流しきれず赤衣の肩口から袖を鋭く引き裂く。

 その下の白い肌から、一筋の鮮血が白砂へと滴り落ちた。

 

「おいおい、あんまり簡単にやられてくれんなよ!?」

 

 斎藤の口元が狂気的に釣り上がると同時、赤衣の男の戦慄がさらに跳ね上がった。

 今しがた強引な右手のスイッチで大上段から振り下ろされたはずの白刃が、衣服の擦れるわずかな音と共に、次は一瞬で左手の掌へと滑り落ちる。

 斎藤は淀みのないモーションのまま、今度は左手一本での逆撃――通常の剣士ではあり得ない死角から、這い上がるような鋭い横薙ぎを放ってきたのだ。

 

 一度の奇策ではない。

 この男、戦いの最中に、呼吸をするように左右の主導権を入れ替え続けている。

 

 本来、このような戦闘中に刀の持ち手を頻繁に変えるなど、自殺行為に等しい。刀剣の持ち手や軸足は変えぬのが鉄則。明確な身体の軸、身体の使い方を幾万の稽古で培うのであって、単純に両方を覚えるということは、それだけおざなりになる危険性もあるからだ。

 それを、しかも実戦で切り替えればどうなるか。瞬時に致命的な隙を晒すだけでなく、自身の骨格や重心のバランスをも崩してしまいかねない。

 

 だが、斎藤一という男の肉体はその常識を完全に凌駕していた

 左右の入れ替えが一切の減速を生まず、むしろ遠心力と死角を上乗せする加速装置として機能している。

 

 間合いを開けることすら許さない。

 距離が開けようものなら、大胆に軸足を変えて詰める。

 対応することすら許さない。

 躱されれば強引に持ち替え、いなされれば残った手で無理やり押し込む。

 

 擦り切れていく体力の限界、荒い息の合間から、赤衣の男はどうにか言葉を絞り出す。 

 

「斎藤殿は……っ」

「あん?」

「なぜ……なぜ某と戦うことに、そこまで拘るんでござるか……!?」

 

 肉迫する刃と鞘の隙間、目と鼻の先で投げかけられた問いに、斎藤の笑みがわずかに止まる。

 その双眸が、一瞬だけ昏い熱を帯びた。

 

「こんな時にまで、そういうこと聞いちゃう? ……はぁ、お前を倒したいから以外に、何がある」

 

 毒づきながらも、斎藤の刃はさらに加速していく。

 左右の手を絶え間なく切り替え、重心を幻惑させながら放たれる凶悪な一撃。

 だが、死線の火花が散るその渦中、赤衣の男は全精力を集中させ、斎藤が左手から放った必殺の突きを、鞘の先端で完璧に弾き飛ばした。

 

 互いの得物が真っ向から激突し、耳を劈く硬質な金属性の悲鳴が白砂の庭に轟く。本日最大の衝突音が響けば、その苛烈な衝撃が生んだ反動を利用して、二人の距離が大きく開けた。

 

 白砂が舞い散る庭の中央で、二人は再び対峙する。

 ここまで一度も息を整える猶予のなかった赤衣の男は、全身の傷から血を流し、激しく肩を揺らしていた。

 対して、ようやく間合いの外へ戻った斎藤一は、呼吸一つ乱していない。冷酷な手付きで刃に付着した血を振り払うその佇まいは、両者の力量に明確な差が如実にはじめていることを、残酷なまでに証明していた。

 

 そんな圧倒的な優位の中、斎藤は刀をぶらりと下げたまま、まるで世間話がてらといった様子で、気楽な調子のまま言葉を紡ぎ始める。

 

「ぶっちゃけ僕はさ、お前の言う不殺がどうとか、どうでもいいのよ。こんな時代でも、そういう綺麗事を吐く人間は一定数いるわけだし、それを否定する気もあんまり起きないわけ」

 

 そう言った男の声音には、確かに嘲りも敵意もなかった。

 しかし、だからこそ、その双眸の奥に灯る昏い光だけが、どこまでも底冷えして不気味に映る。

 命を奪うことに対しても、守ることに対しても、等しく価値を見出していない者の冷徹さだ。

 

 赤衣の男は激しく肩を上下させ、衣服を濡らす鮮血の重みを全身で感じながらも、その掴みどころのない男を見据え返す。

 張り詰めた沈黙の中、斎藤はわずかに首を傾げ、吐き捨てるように言葉を継いだ。

   

「でもさ、それらは大抵、弱い自分を守るための詭弁ばっかりだろ? 中身が何も伴っちゃいない」

「はぁ、はぁ……弱さを隠す、詭弁か……確かに、斎藤殿からはそう見えるやもしれんでござるな……されど、某のこの誓いは……」

「あー、いいっていいって、そういう熱血みたいなの。剣を交えれば、そいつが何を考えてるのかくらい大体分かる。お前のそれ(不殺)は、たしかに本物だよ」

 

 斎藤はそう言うと、退屈そうに手をひらひらと振った。

 

 ただの独善や、覚悟の足りない命惜しさではない。

 赤衣の男の言う「不殺」が、血を吐くような修羅の果てに磨き上げられた本物の信念であることは、先ほどのほんの数合で十分に理解していた。

 

「だけど……いや、ここはあえて『だからこそ』と言うべきか」

 

 不意に、斎藤の全身から立ち上る殺気の密度が、爆発的に膨れ上がる。

 その変貌の凄まじさに、赤衣の男は思わず息を呑んだ。

 

「気に食わねぇのよ――本気で殺り合えば自分が勝つと思ってるテメーが、俺は心底気に食わねぇ」

 

 言葉の終わりを待たずして、斎藤の肉体が弾かれたように地を蹴った。

 その踏み込みの速度は、先ほどまでの比ではない。

 一度開いたはずの間合いは一瞬で無へと帰し、再び逃げ場のない超近接戦の檻が赤衣の男を閉じ込める。

 

 それは型も流派に囚われない、しかし狂おしいほどに実戦に特化した歪な剣筋。

 土方の喧嘩剣法とは根底から違う。

 斎藤の繰り出す剣技は、どれも合理的な剣術が組み合わさった結果であり、人を斬るを突き詰めた究極の一。

 

 ただでさえ変幻自在な軌道に、あの持ち手の切り替えが最悪の形で噛み合っていた。

 右から来たかと思えば、肉迫した瞬間に刀が左手へと滑り落ち、突きと見紛う直線の軌道が、次の瞬間には凶悪な横凪ぎへと変化する。

 人間の関節の限界を無視したような変化の連続は、赤衣の男の予測能力をも完全に狂わせていた。一撃一撃が急所を違わぬ、あまりにも凶悪な連撃。

 

「某は、そのようなつもりで言っているつもりはない! 勝つだの負けるだの、そんなもののために……!」

 

 防戦一方のまま、風圧だけで皮膚が裂けそうな刃の嵐を皮一枚でかわしながら、赤衣の男は必死に声を絞り出す。

 しかし、その高潔さこそが、目の前の男には気に入らない。

 

「その言い草が気に食わねぇって言ってんのよ!」

 

 激昂の咆哮。だが、斎藤の瞳はどこまでも冷静に赤衣の隙を見極めていた。

 

 左手から放たれた凄まじい唐竹割りが振り下ろされ、赤衣の男は白砂の上を泥臭く転がるようにしてそれを回避した。

 直後、男が先ほどまでいた場所の白砂が、大爆発を起こしたかのように激しく吹き飛ぶ。刀とは思えぬ、大槌でも振り下ろしたかのような破壊力――。

 

 間髪入れず、辛うじて立ち上がろうとする赤衣の男の足元へ、今度は右手に持ち替えられた地を這うような低い一撃が襲う。

 完璧な連携――男はそれを上空へ跳躍してかわすしかなかった。

 

 だが、空中という四肢の自由が利かない無防備な瞬間こそ、斎藤が冷徹に狙い澄ましていた本命だった。

 

「それで避けたつもりか!」

 

 下から上への、天空を穿つような斎藤の苛烈な突き上げ。

 空中へ逃げた赤衣の男の脇腹を、その冷酷な白刃が正確に捉えた。

 肉を裂き、骨を削る鈍い感触が手の平を伝う。

 

「ぐぅ、っ……!」

 

 男は苦悶の声を漏らしながらも、空中で強引に腰を翻し、なんとか串刺しになる最悪の事態だけは避けていた。

 しかし、詰めが甘い。

 完全に穿てなかったのを確認するや否や、斎藤は突き刺した刀を引き抜きがてら、そのまま袈裟斬りのように斜め下方へ刃を振り下ろす。

 そして、その斬撃の勢いと遠心力をすべて乗せるようにして、未だ空中で身を硬直させている赤衣の胸元へ、容赦のない蹴りを叩き込んだ。

 

 強烈な衝撃に、赤衣の身体が弾け飛ぶ。

 白砂の上を何度も激しくバウンドしながら転がり、男はどうにか死に物狂いで体勢を整えて着地した。しかし、その赤衣の着物の脇腹部分はじわりと黒く染まり、そこから鮮血が止めどなく溢れ出て白砂を汚していく。

 

 肩を激しく上下させながら、男は左手で痛々しく傷口を押さえ、それでも折れない瞳で真っ直ぐに斎藤を見据えた。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 白砂の庭に、男の荒い呼吸音だけが切なく響く。

 もはや戦闘を継続できるかすら怪しいが、そんな男に向けて斎藤はのっそりと、だが確実に逃げ道を塞ぐような足取りで歩みを進めた。

 

 白砂を踏み締める、静かで規則正しい足音。

 それはまるで、死期の到来を告げる秒針のようにすら思える。

 

 斎藤は先ほどまでの激しい持ち手替えを止め、刀を無造作に左手に提げたままだ。

 隙だらけの佇まい――しかし、その一歩一歩が赤衣の男の間合いを確実に侵食していく圧迫感は、先ほどの嵐のような連撃よりも遥かに重苦しい。

 

「さぁ、とっとと剣を抜きなよ、赤衣ちゃん」

 

 至近距離で、刃の届く間合いで、斎藤はぴたりと足を止めた。

 見下ろすその顔には、先ほどまでのおちゃらけた笑みはひとかけらも残っていない。

 

「この斎藤一を相手に、不殺なんて甘っちょろいこと言ってると――」

 

 斎藤がそう言えば、ぶらりと下げられていた白刃が、何の予兆もなく、すっと水平に突き出される。

 

「本気で殺しちまうぞ」

 

 

 

 

 

 

 ― 壱 ―

 

 

 激しい金属音が響き渡る中、誰もが白砂の庭へと視線を奪われているその時。

 浪士組の控え幕に、一人の男が息を切らせて駆け込んできた。

 

 山南敬助である。

 普段の理知的な面影をかき消すほどの焦燥を滲ませ、彼は幕内を見回した。

 

「あぁ、いたいた! 沖田君!」

「山南さん?」

 

 振り返ったのは、沖田総司だった。

 彼女もまた、控え幕の隙間から白砂の庭での死闘を見つめていた一人だった。

 

「はぁ、はぁ……すまないけど、今はどういう状況かな? 僕がいない間に大変なことになってるって聞いたんだけど」

「あぁ、まぁ、大変なことになってますね」

 

 そう語る沖田の横顔は静かだったが、その瞳は白砂の庭の一挙一動を、一瞬たりとも見逃すまいと鋭く注がれていた。

 

 その視線を山南が辿ってみれば、そこには赤衣に向かって斎藤が真剣の火花を散らしている光景が目に飛び込んだ。

 先ほどまでの上覧試合とは明らかに質の異なる、殺し合いの熱気。あまりの驚愕に、山南は目を見開く。

 

「え、し、真剣!? どうして、斎藤君は真剣を使っているんだい!?」

「いやー、話せば長くなるといいますかぁ……実は――」

 

 沖田は視線を死合から外さないまま、芹沢の暴挙から藤堂が切腹させられそうになったこと。そして赤衣の男が乱入した一連の流れを、簡潔に山南へと伝えた。

 

「……なるほど。つまり、芹沢筆頭局長の暴挙をとめるために入った赤衣君を、斎藤君が攻撃し、ああなっているわけだね」

「そういうことです。流石は山南さんですね、理解が早くて助かりますよ」

 

 いつもと変わらぬ様子で言う沖田ではあるが、その胸中は決して穏やかではない。 

 身内である藤堂が切腹するまでに追い込まれ、そしてそれを止めに入った赤衣が命を懸けて戦っているのだ。

 穏やかであるはずがない。

 

 そんな彼女の心情を素早く見抜いた山南は、気遣うように、そして急かすように尋ねる。

 

「……沖田君は、彼らを止めに入らなくていいのかい? 君が一番、彼と親しいはずだ」

 

 しかし、その問いに対して、沖田は小さくかぶりを振った。

 

「……行きませんよ。私が行ったら、あのバカの覚悟を、全部台無しにしてしまいますからね」

「台無しにって、……藤堂くんだって、無体な目に遭いかけているんだよ? 仲間が苦しんでいるのに、黙って見ているなんて……」

 

 山南の悲痛な訴えに、沖田は一瞬だけ目を細めた。

 

「藤堂のことも、もちろん心配ですとも。芹沢さんのやり方も、絶対に許すことはできません」

 

 きっぱりと言い切った沖田の声音には、仲間を侮辱されたことへの純粋な憤怒が宿っていた。

 しかし、彼女はすぐさま、冷静さをその瞳に取り戻す。

 

「でも、私が今あそこに斬り込んだら、浪士組の内部不和が安易に証明されて、あのバカが命懸けで繋いだ藤堂の命も、皆の居場所も、全部パーになっちゃうじゃないですか」

 

 感情に任せて飛び出せば、事態はさらに悪化する。

 身内の不祥事をこれ以上会津藩の前で晒せば、浪士組そのものの存続に関わる。

 仲間を大切に想うからこそ、今ここで動くわけにはいかない――それは、冷酷なまでに正しい状況判断と言えるだろう。

 

「ほんと、馬鹿ですよね、あの人……私たちが動けないのを理解して、自分の命を賭けて前に出たんです。『悪いのは会津でも試衛館でもなく、勝手に乱入した部外者の自分だ』って、すべての泥を一人で被って」

 

 皮肉るような言葉とは裏腹に、その声音には隠しきれない愛おしさと、もどかしさが滲む。

 

 それに、と沖田は死合を続ける二人に視線を戻した。

 

「あの人の言う不殺なんて、今の時代、どこまでいってもただの綺麗事なのに変わりませんからね。戦場で人を殺さないなんて、そんなの無理に決まってます」

 

 庭の中央では、斎藤が駆使する変幻自在の猛攻で、赤衣の男を徹底的に追い詰めていた。衣服の擦れる音一つで持ち手を変え、死角から容赦なく襲いかかる斎藤の白刃。

 赤衣の男の身体に、また一つ斎藤の刃が教えを刻み、赤い血沫が舞う。

 

 その瞬間、沖田の心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。

 だがそれでも、彼女は足を踏み出さない。

 羽織の袖の奥、衣服の下で、彼女の細い指が刀の柄に白くなるほど強くかけられたまま、硬直している。

 

 今すぐ飛び出してあの刃を弾き飛ばしたいという衝動と、それを捩じ伏せる理性が、彼女の体内で激しく火花を散らしていた。

 

 じっと、ただじっと耐えるように庭を見つめたまま、沖田はぽつりと、しかし重みを持った声音で言葉をこぼす。

 

「我を通したくば、相手より強くなければなりませんから、あのバカが不殺のままでいるためには、ここで斎藤さんに独力で勝たなきゃいけません」

「……」

「それなのに、私が手を出して助けちゃったら……あのバカは助かっても、あの人の信念は偽物になってしまうじゃないですか。それは、あの人にとって死ぬより残酷なことだって思うんです」

 

 その言葉は、誰よりも赤衣の男の本質を理解し、彼の魂に寄り添おうとする、深く、痛烈なまでの情愛そのものだった。

 己の身が引き裂かれるよりも辛い拒絶を、彼女は今、男の誇りのために選び取っている。

 

 けれど、緊迫の糸が限界まで張り詰めたその直後、沖田はふっと声音の温度を綺麗に消し去ってみせた。

 

「大丈夫、心配しないでください。いざとなれば、私が割って入りますから。斎藤さんも、芹沢さんも、止めようとする会津の人たちも、邪魔する奴は全員私が斬り殺して、あの人を連れてここから逃げます。一度、命を救われた側ですからね、それくらいはしてあげますとも」

 

 ふふっ、と鈴を転がすように笑いながら放たれたその言葉には、ハッタリも誇張も一切ない。

 もしあの男の命そのものが本当に潰えかけるなら、世界の法も理不尽もすべて力尽くで叩き斬る。まだ誰の命も奪ったことのない純白の天才が秘める、底知れない執念の鱗片。

 

 そこまで聞いた山南は、沖田の横顔を見つめたまま、ただ圧倒されて言葉を失っていた。

 

 彼女の中には、確実に二つの考えが同居している。

 戦場の現実をシビアに見据え、綺麗事を「無理だ」と切り捨てる、冷徹な人斬りとしての側面。

 そして同時に、その綺麗事を「偽物にしたくない」と、男の誇りを命懸けで尊重しようとする、深く、痛烈なまでの至純な情愛。

 

 冷徹なまでの現実主義と、矛盾するほどの深い優しさ。

 その両極が、奇跡的なバランスで彼女の精神を支えているのだろう。

 

 山南は胸を締め付けるような緊張感をどうにか解きほぐすように、小さく息を吐き出すと、慈しむように優しく微笑んだ。

 

「……変わったね、君は」

「? 藤堂にも似たようなこと言われましたけど、私ってそんな変わりました?」

 

 沖田はどこか腑に落ちないといった風に、小首を傾げる。

 その無防備な仕草は、先ほどまでの刺すような殺気を感じさせない、年相応の少女のそれだった。

 

「うん、まぁ……丸くなったと言うか、鋭く尖ったというか……いや、これ以上は野暮だからやめておこう。君のそれは、君自身が自覚すべきことだろうしね」

 

 ただひたすらに純粋に剣を振るうだけだった少女が、大切な者を見つけ、その誇りを守るためにあえて刃を収めること――戦わないという選択を覚えたのだ。

 

 山南はそれ以上の追及をそっと胸にしまい、彼女と共に、再び白砂の庭で繰り広げられる死闘へと視線を向けた。

 

 だが、山南は他の誰もが目を向けない、深い懸念にも気がついていた。

 

(沖田君は気づいていないだろうけど、彼女が変わったのは彼のおかげだ……彼の信念に心の底から共感しているわけでも、ましてや同じ不殺を貫こうとしているわけではない……)

 

 たしかに沖田総司は赤衣の男と出会って変わった。

 試衛館の誰もが、彼女が人間らしい温かさや、仲間を思いやる柔らかさを手に入れたと感じている。それは決して間違いではない。

 藤堂の身を案じ、赤衣の男の誇りを尊重しようとする今の彼女には、確かな情が宿っている。

 

 けれど――その情の深さこそが、同時に恐ろしい刃でもあるのだと、山南は理解していた。

 

 彼女の獲得した人間らしさは、赤衣の男という絶対的な存在を軸にして成り立っている。

 彼を守るため、彼の遺した平穏を守るためであるなら、彼女はいつでも、人斬りへ――剣に愛された怪物へと成り果てる。

 

 仲間を、そして最愛の者を大切に想うあまり、一歩間違えればすべてを滅ぼしかねない危うさ。

 今回、手は出さないと決めたのだって、それが赤衣の男の誇りと藤堂の命を守るための、現在の最適解だからだ。

 けれど、もしその天秤が崩れ、男の命そのものが消えかける時には、彼女はためらいなく怪物へと、その身を投じるだろう。

 

 その痛烈なまでの事実に思いを馳せ、山南は、自身の震える両手を隠すように強く握りしめた。

 

(今はまだ、彼という錨が沖田君を繋ぎ止めている。だけど、もしあの錨が壊れてしまえば、あるいは沖田君が先に、その天秤を壊してしまえば……)

 

 誰も取り返しのつかない修羅が、この壬生に生まれてしまうのではないか?

 庭から響く、斎藤の赤衣を吹き飛ばす凄絶な音が、山南の脳裏の不吉な予感をさらに煽るようだった。

 

(いや、これ以上考えることこそ、無粋か……)

 

 山南はそっと思考を打ち切り、今はただ、目の前の歪な均衡が保たれることを祈るように、再び庭の戦況へと意識を集中させた。




fgo新章はじまりましたね。
もう皆さん、やられていますか?

私はそっちよりも、11周年イベントでまさかの、ぐだぐだが朗読劇になることのほうに驚いています。

そんなことで、ちょこっと豆知識

斎藤一の「左利き説」の真相
現代のフィクションで斎藤一は「左利きの名手」として定着していますが、歴史研究における事実は少し異なるんですね。

というのも、同時代の一次史料(日記や公文書)に、斎藤が左利きだったという記述は一切ないのです。この説の初出は、昭和初期に子母澤寛が著した『新選組遺聞』であり、遺族らの口伝がベースとなって世に広まったそうな。
明治以降に撮影された斎藤(藤田五郎)の写真で刀を差している位置や、遺品である刀の鞘の摩耗具合を検証すると、「実際には右利きであった」可能性が極めて高いのが現代の定説だそうです。

まぁ、牙突さんが有名すぎますね!


ということで、あと1話でこの話は終わります。
おそらく明日でるかなー。
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