殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
舞台は再び、白砂の庭へと戻る。
――無敵の剣。
誰が言い出したのか、斎藤一の剣はいつしか、そう呼称されるようになった。
彼が修めたとされる津田一伝流でも、あるいは無外流でもない。
型として成立しているのかすら怪しい斎藤の剣筋。
そこには伝統的な武術が尊ぶ美しい残心もなければ、無駄のない様式美も一切存在しなかった。
ただ一つ確かなのは、この男の振るう剣は、いかに人を効率よく殺めるかを突き詰めたという事実のみ。
いかに最短で、いかに反撃を許さず、いかに必殺へと到れるか。
剣術としての極意とも思えるそれらを最適化し、斎藤は己にあった形で、それを一つの剣術として作り上げた。
故に、彼の剣技は唯一無二にして、最高率の殺人剣へと至る。
それを証明するかの如く、斎藤の刃はまたしても赤衣の肉を捉え、本日何度目かも分からない鮮血を宙に舞わせた。
「ッ……!」
そんな斎藤の剣に対し、赤衣の男の身のこなしといえば、あまりに異質だった。
これほどの凶刃を向けられながらも、彼は未だ反撃の兆候すら見せない。刀を抜くことすらしようとはしない。
激流に逆らわず、しかし決して呑まれることのない、水そのものの如き融通無碍なる身のこなし。
斎藤の刃がどれほど鋭く空を裂こうとも、男はその剣圧に押されるように、しなやかに、ただそこにある虚空へとのがれていた。
「おいおい……」
浪士組の待機幕から、それを見つめていた永倉が、にわかには信じられないものを見るように目を細めた。
「あいつ、なんで抜かねぇんだ? 斎藤は本気で殺しに掛かってるってのによ……」
神道無念流の免許皆伝であり、修羅場を幾度も潜り抜けてきた永倉だからこそ、眼前の光景の異常性が痛いほどに理解できた。
真剣を構えた斎藤一を前に、己の武器を鞘に収めたまま対峙するなど、正気の沙汰ではない。
いや、既に周囲の観衆も気付き始めている。
赤衣の男は、戦いに勝つ気がないのではない。最初から徹頭徹尾、反撃という選択肢そのものを脳内から完全に消し去っているのだと。
どれほど追い詰められようとも、その不殺の誓いだけは微塵も揺らいでなどいないのだと。
その事実には、斎藤も苛立ちを覚えていた。
これほど猛攻を仕掛けているというのに、手応えはどれも薄皮一枚を裂く程度。
いや、それよりも――。
「(ちっ、また掠っただけか――)そんじゃ、これならどうよ!」
刹那、斎藤は踏み込みの質をがらりと変えた。
白砂を力任せに踏み砕くような、極限まで重心を落とした低姿勢。対峙する赤衣から見れば、一瞬、斎藤の姿が消えたように映ったことであろう。
その死角から放たれる、予兆も、予備動作すらもない、一直線の横薙ぎ。
「——ッ!」
迫る死線を前に、赤衣の男は寸前で半歩退く。
だが、斎藤の天才的な心眼は、その退避すらも完全に織り込み済みだった。
払われた刀の持ち手を左右切り替え、流れる体のまま完全に背面を向けた姿勢から、人間の骨格を無視したような不規則な変角を描いて白刃が跳ね上がる。
見たことも聞いたこともない、既存のいかなる剣理をもあざ笑う奇想天外な打突法。流石の赤衣の男もこれには予測を狂わされ、驚愕に目を見開く。
まともな回避行動すら間に合わない。
頬をかすめては鋭い痛みが走り、さらに肩の衣服を削っては鮮血が舞う。
絶え間なく浴びせられる凄絶な殺意の連打。
先の読めない変幻自在の猛攻に、赤衣の男は完全に翻弄されていた。彼が得意とする完璧な先読みによる回避は崩され、今や己の限界を超えた超絶的な反射神経と、直感だけを頼りに、薄皮一枚でなんとか凌いでいる。
張り詰めた空気を切り裂く刃音と、防戦一方の生々しい死闘に、見守る会津藩士たちが激しくどよめいた。
「おお、また躱したぞ……!」
「これで何度目だ……? あの連撃を、紙一重でかわし続けている!」
誰も彼もが固唾を呑み、眼前の死闘に目を奪われていた。
先ほどまで場を支配していた「試合に負けた者は切腹」という血生臭いことなど、この時すでに、全員の脳裏から吹き飛んでいることだろう。
ただただ、人間の領域を遥かに凌駕した二人の怪物の、極限のやり取りに魂を揺さぶられ、酔い始めている。
――だが。
熱狂する周囲とは対照的に、死合の渦中にいる斎藤だけは、徐々にその眉間へ、深く縦皺を刻み始めていた。
(どうなってんのよ、全く……常人ならとっくに失血で意識を失って、満足に動ける身体じゃねぇだろうに、いつの間にか、息も整ってやがる……どころか、体のキレはむしろ戦いの中で研ぎ澄まされて、どんどん上がってきてるような……)
当たらない。いや、違う。徐々に当てさせてもらえなくなってきているのだ。
最初は確実に捉えていたはずの刃が、手数を重ねるごとにミリ単位でズラされ、今やまた、最初から軌道を知られているかのような紙一重ですり抜けられた。
確かに傷を負わせ、血を流させているはずなのに――核心を穿つ手応えだけが、ずるずると霧のように消え失せていくおぞましい錯覚さえ覚える。
――これでは、埒が明かない。
斎藤は一度、仕切り直すように嵐のような連撃をぴたりと留めた。これ以上、考えなしに猛攻を振るったところで意味もない。
場を支配していた激しい刃音が途絶えたことで、上覧試合を観戦していた会津藩士たちや、近藤たち、そして控え幕の面々までもが、固唾を呑んで二人の動向を注視する。
しんと静まり返った庭に、じり、と白砂を踏み締め、刀を下げて間合いを取る音がした。
「いやぁ、すげぇよ、アンタ。沖田ちゃんに勝ったって話、あれ半信半疑だったけど、ホントみたいだわ」
「……某は沖田殿に勝ったことなど、一度もないでござるよ」
「またまたぁ、そんな事言っちゃってさ。実戦経験の少ない沖田ちゃんじゃ、アンタに一発も入れられないのが目に浮かぶねぇ」
いつものおちゃらけたトーンを装いながらも、斎藤の言葉には鋭い観察眼が光っていた。
赤衣の男は痛々しく脇腹を押さえたまま、静かに、だが毅然とした声音で返してくる。どれほどの痛みに耐えれば、これほどの修羅場で平然としていられるのか。
斎藤はふっと薄い唇を歪めた。
「でもさぁ、こっちは真面目にやってんのよ」
「……」
「いい加減、抜けよ。その剣は飾りじゃねぇだろ」
突き刺すような言葉の刃。
真剣を持って相手の命を奪おうとしている自分に対し、頑なに剣を抜かないその態度そのものが、斎藤にとっては相手の余裕の表れとさえ感じられた。
しかし、当の赤衣の返答は、斎藤の想像の斜め上をいくものだった。
「某が刀を抜けば、それは試合を認めたことになる……結果はどうあろうと、斎藤殿に切腹させる危険はとれんでござるよ」
「はぁ……?」
その言葉に、思わず斎藤は目を丸くする。
「勝つ気もないくせに、僕が切腹させられるかもとか考えてたわけ?」
「さようでござる」
「アンタ、自分が死にかけてんの分かってる? 敵の心配とかしてる場合か?」
「己の命が危ういからと、他人の死を看過する理由にはならんでござるよ。それに……某は未だ、斎藤殿に対して刃を抜くべき理由を見出せてはおらん」
馬鹿馬鹿しい――――あぁ、馬鹿馬鹿しいったら、ありゃしない。
要するにこの男は、ここで自分が刀を抜いて死合の形を成立させてしまえば、巡り巡って目の前の斎藤を引責の死へ追いやることになると、本気で懸念しているのだ。
自分をなぶり殺しにしようと凶刃を振るう敵の命すら、彼は等しく救おうとしている。そこにあるのは、自己犠牲などという生温かい言葉では片付けられない、狂気とも呼べるほどの烈烈たる不殺の執念だった。
男の静かな言葉が、水を打ったように静まり返った庭に染み渡っていく。
芹沢一派の面々は、そのあまりの綺麗事に呆れ果てて鼻で笑い、近藤たち試衛館の面々は、その突き抜けた覚悟の異様さに気圧され、ただ言葉を失っていた。
「はは……、あはははは!」
突如、斎藤が見開いて笑い出した。
しかし、その笑い声には歓喜も愉悦も、ひとかけらも含まれていない。
ただただ、あまりの聖人君子ぶりに向けられた、底冷えするような嘲笑だった。
「ふぅー……ったく、なんか一気に馬鹿らしくなってきちゃったわ……君、底抜けの大馬鹿でしょ?」
「う……そこまで言われると、いささか心外でござるな……」
「いいや、大馬鹿だね。それもとびっきり狂ったやつ。この僕から、笑いで一本取ったんだ。近藤局長の口に拳を入れる芸の次くらいには面白かったよ」
赤衣はそれを聞いて、解せぬ、とでも言いたげな顔をした。
緊迫した死闘の最中だというのに、どこか間の抜けたその佇まいは、やはりこの場においてあまりにも異質である。
そんな男の反応を、斎藤はしばらく薄っぺらな笑みを浮かべたまま観察する。
言葉でどれほど脅そうが、命の危機を突きつけようが、この男の覚悟は絶対に破れない。中途半端に甚ぶるような真似はすべて、この突き抜けた狂気の前にはお遊びにすらならないのだと、斎藤は瞬時に悟った。
ならば。
(さて――一体いつまで、その甘ちゃんを貫けるのか、見せてもらおうじゃないの)
人の本性など、死に直面すれば容易に暴ける。
化けの皮を剥がしたいのなら、殺す一歩手前まで追い込んでやればいい。
じっと赤衣の男を見つめる斎藤の双眸から、温度が、色が、急速に失われていく。後に残ったのは、ただ純粋に人を屠るためだけに存在する、冷酷無比な人斬りの目。
周囲で観戦していた永倉や山南の表情が、その劇的な空気の変貌に一瞬で強張った。
「もう少し遊ぼうと思ってたけど……ま、仕方ないよね。これ以上は言葉も、剣も勿体ねぇし」
赤衣に向かって歩き始めた斎藤は、無造作に、腰に差していたもう一本の刀の柄へ、右手をかけた。
ゆったりとした所作で引き抜かれた二振目の白刃が、初夏の陽光を浴びてぎらりと冷たく輝く。
二刀――いや、それすらもこの男にとっては、型なき剣を完成させるためのパーツに過ぎない。
「見せてやるよ、僕の無敵の剣。誰にも見せたことはないけど、お前の馬鹿さ加減に敬意を表し、特別おまけだ。冥土の土産にでも持っていきな」
「……!!?」
斎藤が二本の刀を構えた瞬間、世界から彼の気配が綺麗に消え失せた。
じり、と白砂を踏んだ音が、やけに遅れて鼓膜に届く。
直後、対峙する赤衣の男の網膜の奥で、斎藤の姿が奇妙に引き伸ばされた。
それは、物理的な俊敏さや、単なる突進の速度とは根本から異なる、おぞましい異質さを孕んだ足運び。
まるで陽炎のように、あるいは時間の流れから一瞬だけ零れ落ちたかのように、斎藤の身体がブレる。見つめる側の距離感と時間の感覚が、その不可解な歩法によって根底からかき乱されていく。
まだ遠い。あの位置からなら、絶対にこちらへ刃は届かない――そう脳が距離を誤認したまさにその刹那、斎藤の影はすでに懐の最奥、心臓の目と鼻の先にまで染み込んでいた。
いかなる達人が誇る絶対の間合いであろうと、この歩法の前には虚無に等しい。たとえ敵が長大な槍を構えて間合いの有利を盾にしていようとも、そのリーチの優位性ごと空間をねじ切り、あらゆる間合いから強引に『先手』を強奪する。
型を持たないがゆえの自由。
自由であるがゆえに無限。
流派の概念すら置き去りにした、命を刈り取るためだけの宿業の足跡ゆえに――。
「――――息があるうちに拝んどきな。ま、その前に殺すがな」
それは――無形へと至る。
― 壱 ―
斎藤が技を放ったと同時、赤衣は、世界からあらゆる音が綺麗に剥ぎ取られていくのを感じていた。
極限まで研ぎ澄まされた知覚の中で、時間の流れが急激に減速し、果てしなく引き延ばされていくように感じる錯覚。
スローモーションと化した視界のただ中、斎藤の放った二条の白刃が己の肉体へ迫り来るのを、男は残酷なほど鮮明に認知していた。
下から斜め上へと、空間ごとねじ切るように跳ね上がる必殺の逆袈裟。
刃が空気を切り裂く微細な震え。陽光を反射してぎらぎらと明滅する銀光。それが自身の脇腹へ、ミリ単位で距離を詰め、確実に命を刈り取らんと食い込んでくる軌道が、手に取るように分かった。
(防げぬ。……いや、躱せもせぬでござるな、これは)
剣を抜いて構えていたのならまだしも、赤衣の男はそれすらもしていない。
周囲で見守る観衆たちにとっても同様だった。
誰もが呼吸の仕方を忘れ、肌を刺すような極限の風圧の中で、眼前の赤衣に訪れるであろう確実な死を本能的に予感していた。
永倉も、山南も、上座の芹沢や容保、あの沖田でさえも、次の瞬間に白砂の庭へぶちまけられるであろう鮮血の赤と、転がり落ちる首級の光景を網膜の奥に思い描いていた。いかなる達人であれ、あの間合い、あの虚無の剣を前にして生き残る術など存在しない。
生と死の境界線が曖昧になる、ほんの、一瞬の刹那。
その引き延ばされた時間の隙間で、赤衣の男は――己の生存本能のすべてを、冷徹に拒絶する暴挙に出た。
刀を抜けば――その超絶的な神速の一撃をもってすれば、あるいはこの刃を受け流し、生き残る道があったかもしれない。
ほんのわずかでも身をよじれば、致命傷だけは避けられたかもしれない。
だが、男はそのどちらの選択肢も、最初から無かったかのように脳裏から捨て去った。
ここで自分が生きるために刃を交えれば、それはこの理不尽な殺し合いを肯定することになる。
ならば、と。
そうなるくらいであれば、と。
己が滅ぶことも厭わず、赤衣は我が儘を貫くため、刀の柄にかかっていた手を完全に離した。
迫り来る死線を正面から見据えたまま、ただ静かに、祈るように瞼を閉じる。
身をよじることすらせず。最後の最後、刃がその首筋を断ち切るその瞬間まで、男は剣を抜かず、誰も傷つけないという、狂気にも似た手段を選び取ったのだ。
「――ッ!?」
斎藤の昏い瞳に、驚愕の光が走る。
命を乞うのでも、諦めるのでもない。どこまでも己の信念を通しきろうとする不遜なまでの静寂。
その覚悟の重さに、人斬りの刃が、ほんの一瞬だけ、自らの意志で惑わされた。
キィィィィン――ッ!!!
白砂の庭に、鼓膜を劈くような激しい金属音が響き渡る。
放たれた凄まじい慣性をねじ伏せるため、斎藤は交差させた二挺の刀身を力任せに噛み合わせ、己の超人的な筋力をもって強引に制動をかけたのだ。
互いの刃が激しく軋みを上げ、火花を散らす。巻き起こった凄まじい風圧が赤衣の髪を激しくなびかせ、純白の砂を丸く吹き飛ばした。
「……なんで、対応しなかった? 見切ってたろ」
絞り出すような斎藤の声が、静まり返った場内に鋭く響く。
その刃先は、かすかに、だが確実に震えていた。
これほどの至近距離で刀を突きつけられながらも、眼前の男からはいささかの恐怖も感じ取れない。
それが斎藤には、たまらなく不気味だった。
「いや、見切ってなどおらんよ」
ゆっくりと、本当に恐れを知らない静けさで、赤衣の男が瞼を開ける。その双眸に宿っていたのは、死線に直面した人間のそれではなかった。
血を流し、満身創痍でありながら、ただひたすらに澄み切った、底のまるで見えない深淵のような、静謐な光。
斎藤はそれを、信じられないものを見る目で、激しい動揺を隠さずに睨みつける。
「嘘こけ――と言いたいが、それでもだ。今のは、俺が無理やり止めなきゃ、今頃、首と胴体が泣き別れになって完全に死んでいた。それなのに、だ。なんで……なんで、抜こうとすらしなかった、てめぇ!?」
いつものおちゃらけた仮面は完全に剥がれ落ちていた。
そこにあったのは、自分の命すら平然とチップとして賭けてみせた眼前の狂人への、純粋な戦慄である。
常人であれば、どれほど強固な意志があろうとも、死の間際になれば生存本能が勝り、刀を抜くか、せめて身をよじる。
それが生物としての理だ。
なのに――この赤衣の男にはそれがなかった。
己の肉体が滅びることへの恐怖よりも、優先される何かがある。
その精神構造の得体の知れなさが、斎藤を芯から慄かせていた。
対して、赤衣の剣客はゆっくりと首を横に振った。
その表情は、どこまでも穏やかで。
「言ったはずでござる。どのような結果になろうと、某はこれを試合とは認めぬと」
斎藤の顔が険しく歪む。
理解不能。まるで意味が分からない。
死を目前にしながら、そこまでして剣の理を否定し、不殺の我が儘を貫き通すのか。自分が死ねば、その信念すら塵になるというのに。
男にとっては、己の命が助かることよりも、自分が刀を抜き、戦いに応じることの方が、遥かに忌むべきことなのだ。
他人の命と運命を守るためなら、自分の命など躊躇なく差し出す――その底なしの利他主義は、もはや聖者のそれではなく、一種のおぞましさすら秘めている。
「逆に、斎藤殿は何故、剣を止めたでござるか」
ふいに投げかけられた逆質問に、斎藤の思考が一瞬、停止する。
――なぜ、止めたのか。
その問いは、斎藤の胸の内に湧き上がったどす黒い苛立ちを、正確に逆撫でした。
生きる物なら、死の間際には身をよじるか、武器を取るか、せめて恐怖に顔を歪める。それが戦場における絶対の理だ。
だが、この赤衣の男はただの木石のように、そこに佇んでいただけだった。
剥き出しの殺意をぶつけた側が、まるで一人で虚空に向かって踊っていたかのような、猛烈な拒絶。その常軌を逸した在り方に、己の剣の調子を完璧に狂わされたのだ。
「…………はぁーあ」
長い、本当に長い溜息を吐いて、斎藤は強引に二本の刀をそれぞれの鞘へと収めれば、カチン、と硬質な音が二度、静かな庭に響く。
ただただ気味が悪い。
その得体の知れなさへの強烈な嫌悪感だけが、酷く不快な事実として残る。
羽織の袖の中で、激しい制動の反動による腕の震えが止まらぬまま、それを隠すように、斎藤はぽりぽりと乱暴に頭を掻いた。
その表情は、文字通り「おてあげ」だと言わんばかりの、心底呆れ果てたものだった。
「やめたやめた。これ以上続けても、気持ちよくやれそうにないっての。おかしいよ、アンタ。十分、イカれてる」
だらりとしたいつもの気怠げな態度に戻りながらも、その言葉には明確な拒絶の意志が籠もっていた。
これ以上、この得体の知れない馬鹿に関わるのはまっぴらごめんだと、全身で語っている。
斎藤はそのまま、白砂をじゃり、じゃりと不躾に踏み鳴らしながら、上座の控幕へと顔を向けた。
その視線の先、最前列で不快感を剥き出しにしている巨躯の男を見据え、ひどく軽い調子で声をかける。
「てな。わけなんで、すみません、筆頭局長。僕はここまでみたいです」
上座の芹沢鴨は、手にした鉄扇を苛立たしげに握り締める。ギリ、と鉄扇の骨が軋む音が、白砂の庭に響くようだった。
「……ふざけているのかね? 会津の御前で、身内の恥をこれ以上晒すつもりか、斎藤君」
「そう言われましてもねぇ……
並の隊士であれば、その一言で平伏し、恐怖に震え上がるであろう絶対的な威圧。だが、斎藤はそんな筆頭局長の殺気すら、どこ吹く風と受け流してみせた。
「んじゃま、あとの切腹がどうのとかは好きにしちゃってください。当然、僕が切腹することになった場合は、全力で抗わせてもらいますがね」
吐き捨てるようにそう言い残すと、斎藤は芹沢の怒号が飛んでくるよりも早く、くるりと背を向けた。
その足取りは、先ほどまでのが嘘のように、ひどく億劫そうで、気ままなものだった。
――死闘を演じた一方が、個人の我が儘で勝手に舞台を下りる。
それも、内容を見れば相手を完全に圧倒し、いつでも首を刎ねられたはずの男が、だ。
前代未聞の暴挙であった。
斎藤の後ろ姿が遠ざかる間、白砂の庭は、あまりの衝撃に水を打ったように静まり返っていた。誰もが言葉を失い、ただただ呆然と、去りゆく男の背中を見つめることしかできない。
だが、その静寂が破られた瞬間、堰を切ったような大混乱が会津の面々を襲った。
「お、おい、これは一体どうなるんだ……!?」
「勝負の判定は!? 最後のは完全に決まっていただろう! あの赤衣の男の方が、実質的な敗者として切腹か!?」
「し、しかし待て! 勝負を一方的に投げ出して敵前逃亡したのは、あの斎藤という男の方だぞ! あちらを敗者として罰するのが筋ではないのか!?」
そんな怒号が飛び交うものの、不思議と、去りゆく斎藤の背に斬りかかろうとする者も、白砂に佇む赤衣の男へ刀を抜こうとする者も、一人としていなかった。
口では威勢のいいことを叫びながらも、藩士たちの本能は、先ほどまでの死闘の残像に完全に支配されていたのだ。
感覚を誤認させるほど卓越した歩法を使う斎藤の、あの無形の必殺。そして、それまでの死合を、刀を抜くことなく、やり過ごしてみせた赤衣の男。
――あれらは、本物の化け物だ。
もし今、ここで下手にあの二人のどちらかを敵に回し、生殺与奪の戦いを挑めば、今度は自分たちが一瞬で肉塊に変えられる。
藩士たちの心の底には、そんな言語化すらされぬ、おぞましい恐怖の楔が深く打ち込まれていた。
あの二人にだけは、絶対に触れてはならない。
関わってはならない、と。
しかし、彼ら公儀の武士にとって、最も恐るべきは「主君の面目を潰されること」に他ならない。
浪士組という素性の知れぬよそ者の気まぐれによって、主君の命令をあやふやなままにされたとあっては、会津藩の、ひいては京都守護職としての威信が完全に失墜してしまう。
だからこそ、彼らの歪んだ保身の刃は、無意識のうちに最も安全で、最も反撃の恐れがない生け贄へと向かって逆流し始めた。
「――いや、そもそもだ! 元を正せば、あの浪士組の藤堂平助とやらが、潔く殿の命で切腹しないのが問題ではないか!?」
「っ、左様だ! あの者が当初の予定通り、ここで速やかに切腹して果てていれば、このような事態にはならなかったのだ!」
「そうだ、まずは藤堂だ! 藤堂平助を直ちに引き出し、当初の沙汰通り切腹させよッ! その後、先の二人の試合を――」
藤堂平助という男も、一廉の使い手ではあるのだろう。
だが、先ほどの天理を外れた二人の怪物に比べれば、まだ同じ地平に立つ人間に過ぎない。
数という圧倒的な暴力を頼れば、自分たちが傷つくリスクを最小限に抑えつつ、確実かつ安全に処理できる。
化け物への恐怖から目を背け、傷ついた公儀のプライドを強引に慰めるための、あまりにも卑劣で醜い集団心理。一度は赤衣の乱入によって有耶無耶になりかけたはずの「藤堂平助の処刑」という結末が、行き場を失った藩士たちの責任のすり替えによって、より強固な殺意となって再燃してしまったのだ。
じり、と藤堂のいる近藤一派の待機幕を包囲するように、藩士たちの足元が動き出す。
無数の手がそれぞれの刀の柄へと伸び、いつでも引き抜けるよう親指が鯉口にかけられた。
藤堂の側に控えていた近藤や永倉らも、いざという時のため身構える。今後のことも踏まえ、突入してくるまで抵抗は見せないが、いざというときは会津藩と袂を分かつつもりなのだろう。
だが、そんな試衛館の面々よりも前に、一人の男が会津藩士たちの前に躍り出た。
先ほど斎藤の猛攻を浴び、痛々しく脇腹を押さえていたはずの赤衣の男である。
男は、己の傷など一切顧みず、ただ「これ以上の死を容認しない」という、あの狂気的なまでの利他主義が再び彼を突き動かしていた。
数に物を言わせて圧殺しようとした会津藩士たちは、ここで決定的な計算違いに気づく。
牙を剥く試衛館たちを相手にするだけでも泥沼だというのに、そこへ赤衣の怪物までが、再びその身を盾にせんと立ち塞がろうとしているのだ。下手に動けば、この場にいる全員がタダでは済まない。
庭園の空気が、敵味方入り乱れる血の雨を降らせる寸前の極限状態となった――その刹那だった。
「やめろ、バカ共。たかだか、一人を切腹させるために、何人死ぬ気だ」
「「「っ………!!?」」」
その声の主は、京都守護職――松平容保であった。
たった二言。されど、一切の反論を許さぬ絶対的な重みを含んだその声に、激昂し、藤堂へ歩を進めようとしていた藩士たちは一斉に動きを止め、弾かれたようにその場へ膝をついた。
張り詰めた沈黙が戻る中、会津藩士の暴挙を止めようとしていた赤衣の男は、痛む脇腹を片手で庇いながら、その鶴の一声で暴走を止めてみせた松平を見る。
そして、何を思ったか、男はそのまま許可を取ることもなく会津中将へと話しかけた。
「会津中将殿」
遮るもののない白砂のただ中から放たれた静かな声に、場がすっと緊縮する。
本来、一介の素浪人が、御連枝であり京都守護職たる松平容保に対し、取次も通さず直に言葉を発するなど、天地がひっくり返っても許されることではない。
拝謁の資格すら本来はない余所者が、お上の前で勝手に口を開く――その事実だけで、即座に不敬罪として首を刎ねられても文句は言えない、のだが。
「なんだ」
あろうことか、松平はそれを咎めることもせず、聞き返した。
呼び掛けに応じてもらえたことで、赤衣は言葉を続ける。
「どうだろうか。ここは上覧試合を荒らした某だけを処罰するということで、場を納めてはもらうというのは」
「おい、お前……! 何を勝手なことを言ってやがる!」
背後から、永倉新八の驚愕と怒りの混じった声が飛んだ。近藤も藤堂も、まさか、素性も知れぬ赤衣の男が自分たちのために命を差し出そうとするなど夢にも思わず、呆然と目を見開いている。
だが、そのあまりにも不遜で境界線のない物言いに、藩士たちは別方向で即座に激しい怒号を飛はした。
「貴様、なにを勝手に殿へ上奏など!」
「今更、殿に吐いた唾を飲めと申すのか!?」
「会津の――公儀の面子を何だと心得るッ!」
殿に直接話しかけた大不敬への怒りと、ふざけた代案を出された焦燥。
再び、無数の手が激しい音を立てて腰の刀へとかけられ、剥き出しの殺意が、全方位から赤衣の男へ殺到する。
しかし、引き抜かれんとする数多の刃の圧力を正面から受けながら、赤衣の男は臆するどころか、その澄み切った双眸を、ぎょろりと騒ぎたてる会津藩士へと向けた。
「面子だの、意地だの——そんなもので、人に殺し合いを強要するな」
それは低く、静かに。けれど、その場にいる全員の腹の底へ直接響くような、圧倒的な覇気を伴った声だった。
一瞬にして、白砂の庭の温度が氷点下まで叩き落とされる。
誰もが呼吸を止め、総毛立つ。
男は鞘に収まったままの剣の柄に手を掛けた。
「どうしても、その安っぽい体裁を守るためだけに死人を出したいというのならば、かかってこい。斎藤殿に抜きはせなんだが……この刃は、軽弾みに命を摘みたがる者に容赦はせんよ」
「し、しかし……!」
「他人に強要するくらいだ。――お前たちも、痛みを受ける覚悟はできているのだろう?」
親指でパチリと刀の鍔を押し上げる。引き抜かれることのないはずのその鈍色の鉄塊が、今はまるで血に飢えたように光を放っているように見えた。
空気が、完全に凍りつく。
それは事実上、会津藩という巨大な組織全体への、明確な敵対宣言にも等しかったからだ。
誰も動けなかった。刀を引き抜くことさえ忘れて、藩士たちは硬直していた。
この男の眼は、本気だ。言葉通り、己の命など最初から勘定に入っていない。
ただ、これ以上誰かの命を奪おうとするならば、この場の全員を敵に回してでも、その肉体を叩き伏せる気でいる。
その凄絶な気配の変貌には、試衛館の近藤や永倉さえもが、戦慄を禁じ得ずに目を見張っていた。
だからこそ。
「……もうよい」
静かに、しかし逆らうことを許さない絶対的な格式を伴った松平の声が響いた。
松平は何かを思案げに、眼下の赤衣の男をじっと見据える。
「俺の言葉を撤回するだけで、このバカ共の命が拾われるなら安いものだ。切腹の件、取り下げにしてやる。そこの赤衣の剣も含め、此度の件はすべて不問だ。……お前もいいな、芹沢?」
その視線が、雛壇の隣へと向けられる。話を振られた芹沢鴨は、手の中の鉄扇を忌々しげに握り締め、チッと派手に舌打ちをしてみせた。
「……肥後守様が、そういうのであれば、私に異論はありませんよ」
不承不承といった様子で形式的な一礼をして引き下がる芹沢。
張り詰めていた藩士たちのざわめきが、その最高権力者二人の裁定によってぴたりと止まった。
だが、それだけで容保は終わろうとしなかった。
じっと赤衣を見つめ、その底知れぬ異質な剣気と、命を鴻毛のごとく軽んじる不気味なまでの信念を、自らの網膜に深く刻み込むようにしている。
そうして、幾ばくかの沈黙のあと。
「……おい、赤衣とやら」
「なんですか?」
「もう一度、お前の名について聞かせてもらおうか」
男はいつの間にか、先ほどまでの威圧的な気配を綺麗に霧散させ、また元の、頼りない浪人の佇まいに戻って答えた。
「困りましたね……某には、本当に名乗る名が」
「いや、それについては、もうよい」
「?」
容保はふっと、皮肉げに、しかしどこか羨望を孕んだような薄い笑みを浮かべた。
京都守護職という巨大な役割に縛られ、日々血生臭い政争の渦中に身を置く彼だからこそ、すべてを捨てて個として立つこの男に、奇妙な興味が湧いたのかもしれない。
「俺が聞きたいのは、なぜ名を捨てたかだ。それくらい、答えてもよかろう」
その問いに、赤衣の男は静かに目を伏せる。
ここで答えなくとも、きっとこの高潔な藩主は何か罰を与えたりはしないだろう。その声音からは、身分を脱ぎ捨てた、ただの男同士のような気さくな響きすら孕んでいた。
だからか、赤衣は困ったように眉を下げて笑みを浮かべる。
松平の聞き方は、彼からすれば、あまりにもずるいものだった。
「聞いたところで、つまらないものですよ……」
「構わん。俺が個人的に聞きたいだけだ。言葉の重みなど問うつもりはない」
赤衣はそう言われて、松平を見る。
そうして、負けたといわんばかりに、目を細めて笑った。
「某が名を語らぬのは、歴史に残さぬためでござる。……後世に、某のような男の名はいらぬでござるよ」
これほどの天を衝くような力を持ちながら、時代の表舞台に己の足跡を一切残さぬという、徹底された隠匿の決意。
己の存在そのものを歴史の闇に埋め殺すという言葉の重さに、容保は小さく、しかし深く得心のいったような息を吐いた。
「……そうか」
松平容保はそれ以上何も言わず、翻る着物の音を立てて立ち上がり、そのまま奥へと立ち去ろうとする。
これ以上、この茶番じみた上覧を続ける気は失せたのだろう。
赤衣の男は、足早に去ろうとする会津中将の背中に向かって、今度はこちらから呼びかけた。
「会津中将――いいや、松平さん」
その声に、松平は一瞬だけ、わずかに足を止める。
それに合わせるように、赤衣の男は、深々と頭を下げた。
「此度の御配慮――感謝します」
男はそれ以上、言い訳も弁明も何も語ることはなかった。
ただゆっくりと踵を返し、誰に呼びかけるでもなく、静かに白砂の庭を歩き出した。
誰もその背を追おうとはしなかった。
ただ、夕暮れに近い冷たい秋風が、じゃり、じゃりと去りゆく男の足音と共に庭を吹き抜けていく。
容保は、本陣の御簾の隙間から、遠ざかっていく赤衣の背中を静かに見つめ、
「……不器用な男だな、お前も」
と、誰に聞かせるでもなくぽつりと言い残し、薄暗い廊下の奥へと歩みを再開させるのであった。
この1話で最後と言っていたな……あれは嘘だっ!!
とかなんとか言っていますが、普通に二万文字くらいになったので分割します。
上覧試合自体は終わりです。これは本当。
よく漫画とかであるトーナメント戦みたいに、全試合する気は毛頭ありません! なぜなら、特に需要がないからです!
あとは、今回の話の真相というか、深堀をするエンドロームを1話やります。
早ければ、今日投稿しているかもです。
豆知識はちょっと今回はお休みー。