殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
それでは、人斬り編を開幕します
文久三年五月十日。
汗ばむような初夏の陽気が満ちる、壬生浪士組屯所――八木邸。
その日、広間には珍しく、幹部から平隊士に至るまでの面々がずらりと集められていた。普段の殺気立った空気とは少し違う、どこか落ち着かない、妙にそわそわとした気配が室内を支配している。
そんな隊士たちの視線は、一点に集中していた。
広間の中央、畳の上にうず高く積まれた、仕立て上がったばかりの真新しい羽織の山である。
「芹沢さん。これはもしや、隊服……ですか?」
積まれた羽織の放つ独特な染料の残り香を嗅ぎながら、近藤は声を漏らす。
その問いかけを待っていたとばかりに、上座でどっかと腕を組んでいた芹沢鴨が、不敵に口元を歪めた。
「フ。我ら壬生浪士組が、京の洛中を大手を振って練り歩くに相応しい品物だろう?」
近藤からの問いかけに、どこか自慢げに鼻を鳴らす芹沢。
すると、そのすぐ隣に控えていた新見錦が、芹沢の太鼓持ちをするためか、これ見よがしに一歩前へ出た。その細められた眼光の奥には、明らかな侮蔑の色が混じっている。
「武州の田舎侍には些か不釣り合いやもしれませんが、これも芹沢先生からの計らいですよ。これからの季節、夏服なんて、いくらあっても必要でしょうしね」
慇懃無礼な言葉の裏にトゲを仕込み、くねくねと嫌味ったらしく笑う新見。
並の人間であれば青筋を立てて怒り出すような物言いだったが、近藤の反応は違った。彼は新見の嫌味をまるごと素通りさせ、ただ隊のためにこれほど見事な衣服が用意されたという事実に、大きな目をこれ以上ないほど純粋に輝かせたのだ。
「それはそれは……どうお礼を述べたらいいのやら」
「気にするな」
近藤が大真面目に頭を下げる。
そのあまりに真っ直ぐで汚れのない誠実さに毒気を抜かれたのか、あるいは面食らったのか。芹沢はわずかに拍子抜けしたように盃を煽り、ぶっきらぼうに言い捨てた。
そんな主人と近藤の立場が一目瞭然になったのが嬉しかったのか、新見はさらにフフンと鼻を鳴らしと、朗々と悦に入って講釈を垂れ始めた。
「ちなみにですが! この意匠は、かの吉良邸討ち入りで義挙を成し遂げた、赤穂浪士のダンダラ模様に寄せたものでしてねぇ。さらに言えば、芹沢先生がこの浅葱色を選ばれたことにも――」
「あ、芹沢さん。ほかの隊士たちにも教えてやってよろしいですか?」
「構わんよ、好きにしろ」
「ありがとうございます、早速呼んできます!」
「――という深い意味がありまして。そう、これぞまさに新興の我らが京の地で……って、あれ?」
熱弁の途中で新見がふと正面を見やると、さっきまで神妙な顔で聞いてくれていたはずの近藤の姿が、影も形もない。当の本人は新見の声を完全に右から左へ受け流し、嬉々として広間を飛び出していった後だった。
己の講釈がただの雑音と化していたことに気づき、新見が呆然と口を半分開けた、まさにその時である——。
「――うぉっと!?」
「おいおいおいおい!」
我慢しきれなくなった永倉が、新見のすぐ目の前を風のように横切って羽織の山に突っ込んだ。その勢いに煽られ、新見は危うく尻餅をつきそうになりながら、情けない声を裏返らせる。
しかし、永倉はそんなこと気にも留めず、山の上から一着を勢いよく引っ掴むと、バサァッと両手で豪快に広げてみせた。
「見ろよこれ! 隊服だぞ隊服!」
「ちょっと、永倉君! まだ私の解説が――」
「おー! 思った通り、めちゃくちゃ格好いいじゃねぇか! お前らも見に来いよ!」
新見の必死の抗議など完全に右から左へ受け流し、永倉は少年さながらに目を輝かせて大はしゃぎし始める。
その無邪気な盛り上がりに釣られるように、周囲の平隊士たちも「おお、これが……」「早く着てみたいっすね!」と、瞬く間に広間は喧騒へと変わっていった。
完全に置いてけぼりを食らった新見は、額の青筋をぴくぴくと震わせ、差し伸べた手の行き場をなくしてワタワタとしている。しかし、「静かにしたまえ!」と一喝する度胸まではない。
何しろ、永倉は豪快で腕が立つだけでなく、芹沢と同門であることから、主君に妙に気に入られているのだ。
芹沢という絶対的な後ろ盾がなければただの小心者である新見にとって、永倉は最も強く出にくい相手だった。
新見はあからさまに肩をすぼめ、「ま、まぁいいでしょう……。着るからには、きちんと芹沢先生に感謝してくださいよ?」と、負け犬の遠吠えのような捨て台詞をぶつぶつと吐き捨てるのが精一杯だった。
(……これだから、試衛館の学のない芋侍どもは困るっ! せっかくの風流も、こいつらにかかればただの新しい格好いい服か……!)
そんな風に内心で盛大に毒づいている新見の悔し気な視線など、知ってか知らぬか。
早くもしつけ糸を器用に指先で引きちぎった永倉は、さっそく袖を通して広間の隅へ走ると、庭先に置かれた手水鉢の水面を鏡代わりに覗き込み、「おうおう、悪かねぇ!」と何度も肩をそびやかしてポーズを決めていた。
その賑やかな様子を眺めながら、残された羽織の山から一着を指先でつまみ上げた原田と、その隣に立つ斎藤は、揃ってなんとも微妙な表情を浮かべる。
「なんすかね、これ……歌舞伎衣装?」
「いやぁ、これはちょっと僕としては……ねぇ……?」
手元の羽織を見つめながら、原田と斎藤は揃って渋い顔で首を横に振った。
当時の感覚からすれば、この「浅葱色」という色彩はどこか田舎臭く野暮ったい印象の拭えない色だ。おまけに、暗闇でこれほど白く浮き出る山形模様をあしらわれては、隠密行動も夜間の辻番もあったものではない。
謀略やら間者やら、そう言った界隈のシビアさを知る面々からすれば、そのあまりに奇抜なファッションセンスには首を傾げるしかなかった。
原田は自身の不満に同意を求めるように、隣でじっと羽織を見つめていた最年少の藤堂へ声をかける。
「なぁ、平助。お前もそう思うだろ? こんなの着て歩くの、ちょっと恥ずかしくねぇか?」
その時、さっそく羽織を大きく広げ、自分の肩幅に熱心に当ててサイズを確かめていた藤堂は、不意に話を振られてビクリと肩を跳ね上げた。
「……べ、別に。僕は隊の決まりなら着るだけですよ」
「?」
そうツンとそっぽを向きながら、藤堂は未練がましさを必死に隠して、すっと羽織を山の上へと戻した。
(別に、ちょっとカッコいいとか、思ってない……! 僕だって、こんな歌舞伎みたい衣装……こんな、こんな……!)
内心では完全に一目惚れして気に入っていた藤堂であった。
さて、広間がそんな若者たちの色めき立つ空気で満たされているところ。その浮き足立った空気をピシャリと凍らせるように、廊下の奥から静かだが、ひどく鋭く重い気配が近づいてきた。
本能的にそれを察したのか、騒いでいた何人かの平隊士たちの口がピタリと止まったその瞬間、襖が左右へと引き開けられる。
現れたのは、山南と土方――浪士組の近藤一派を実質的に統率する、副長二人だった。
「なんだ、この騒ぎは?」
広間を見渡した土方は、不機嫌そうに眉間を険しく割る。
だが、そんな彼の怒気など、がむしゃら馬鹿と揶揄される永倉には関係がないのか、彼は水桶の前から嬉々として振り返った。
「お、土方ァ! 見てくれよ、これ! 芹沢さんが隊服を俺たちに用意してくれたんだとよ!」
「隊服だ?」
土方は、永倉がこれ見よがしに広げて見せる浅葱色の羽織に視線を落とした。その瞬間、鋭い切れ目がさらに細められ、侮蔑と不快感が入り混じった冷ややかな光が宿る。
「ずいぶんと、仮名手本忠臣蔵《人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。元禄14年4月、江戸城内で赤穂藩主浅野長矩が吉良義央へ刃傷に及び、これを事の始まりとする赤穂事件をもとに、史実とは異なる脚色を施した創作物のこと。》みてぇな衣装じゃねぇか……」
「なんだね、土方。せっかくの私の計らいに、何か文句でもあるのか?」
上座から見下ろす芹沢の、不敵な笑みを含んだ声が広間に直撃した。
一瞬にして、先ほどまでの賑やかなお祭り騒ぎが嘘のように凍りつき、隊士たちが固唾を呑んで二人を見守る。
「あんたが拵えさせたのか、芹沢さん」
「礼など、一々いらないよ。君たちのような泥臭い田舎連中を、少しは京の街に馴染むよう、身なりを整えてやろうと思ってね。そんな薄汚れた格好のままでは、会津公に対しても失礼というものだ」
あくまで不遜に、試衛館の面々を「田舎者」と見下す芹沢。
その言葉の棘を真っ向から受け止めた土方は、ふっと鼻で嘲笑ってみせた。
「別に礼なんて、端から言うつもりもねぇさ。あんたが勝手にやったことだ。だが、事前に俺や近藤さんに一言の相談もなしに大金を動かされちゃあ、勘定方が困るって話をしてんだ」
「なんだと?」
芹沢の額に青筋が浮かび、広間の温度がさらに一段階引き下がる。
一触即発、今にも互いの刀の柄に手が伸びかねないその極限の緊迫感の中、その間に割って入るようにして、山南が穏やかな、しかしよく通る声で手を叩いた。
「まぁまぁ、お二人とも。そこまでにしましょう。せっかくの隊服の御披露目なんですから、そう目くじらを立てずとも良いではないですか」
山南の言葉に、芹沢も興が削がれたのか、鼻の頭にシワを寄せ、掴みかけた刀の柄からゆっくりと指を離した。
一歩引いた芹沢の様子を確認すると、山南は困ったような笑みを浮かべたまま、未だに鋭い眼光を放っている土方の方へと向き直った。
「ほら、土方君も。この鮮やかな浅葱色とダンダラ模様があれば、夜間の乱闘でも仲間内での同士討ちを確実に防げる。それに、これを揃えて街を歩けば、壬生浪士組の名を広く京の民に売るにも、大いに一役買ってくれるんじゃないかな?」
山南が言葉巧みな説得に、土方も不愉快そうに鼻を鳴らし、ふいと視線を逸らした。
これでようやく、爆発寸前だった火薬庫の導火線は静かに引き抜かれた。
張り詰めていた一同がようやく安堵の息を漏らす。
誰もがホッと胸を撫で下ろした、その弛緩した静けさの中へ、鈴を転がすような軽い声がすっと滑り込んできた。
「おや、みなさんも隊服を取りに来られたんです?」
あぁ、また空気が読めなさそうなやつが……とは誰の心情であったか。
その呑気な声に、緊迫感の解けた一同が揃って振り返った瞬間――その姿に一様は目を剥いた。
「……なに〜、沖田ちゃん? もうがっつり着込んじゃってさ。あの馬鹿と同類だったわけ?」
斎藤が、後ろにいる永倉を指しながら、呆れたように吐き捨てる。
そう、沖田の細い肩には、すでにあの鮮烈な浅葱色の羽織がしっかりと羽織られていたのだ。しつけ糸も綺麗に抜かれ、まるで最初から彼女のために仕立てられたかのようにしっくりと馴染んでいる。
斎藤の呆れ顔に対しても、沖田はどこ吹く風で、小首を傾げて興味なさそうに言い放った。
「はぁ、別にそういうわけでもないんですが。芹沢さんに、近所の子と遊ぶ前に着て行けって言われたので」
さらりと言ってのけたその言葉に、斎藤は「へ〜?」と上座の芹沢へ視線を走らせた。
「どうかね、沖田君。童どもの反応は」
「ん〜、よかったんじゃないですか?」
「それならば、上々。君にいの一番で着せてよかったよ」
芹沢は満足げに鼻を鳴らし、再び盃を傾ける。
どうやら、決して考えなしに隊服を作ったわけではなかったようだ。
先ほど山南が言った「街を歩けば宣伝になる」という実利を、芹沢はすでに沖田を使って実践させようとしていたらしい。子供たちに顔が広く、人当たりの良い沖田は、まさにこれ以上ない適任だった。
土方も、少し思い直したのか「ち」と軽く舌打ちしている。
「そういえば、あの狗はどうした」
「あー、あの人なら……おーい、芹沢さんが呼んでますよ〜!」
「む、ちょっと待つでござるよ!」
沖田が広間の開け放たれた襖から廊下の奥へ向かってのんびり声をかけると、すぐにドタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
現れたのは、上覧試合の時とは違い、以前の江戸茶の着流しの格好をした男――赤衣である。
両手いっぱいに何かを抱え、息を切らせながら広間へと滑り込んできた。
「おっとっと……それで、某に何か用でござったか、芹沢殿?」
「飼い主が狗を呼ぶのに、理由がいるのかね?」
「……用事がないなら、戻るでござるよぉ」
ジトーとした目で、あからさまに不満げな視線を芹沢へ向ける赤衣。
その姿は、からかわれてへそを曲げた野良犬そのものだが、当の芹沢は楽しげに鼻を鳴らして盃を傾けるだけで、それ以上は引き止めようともしない。
本当にただ、呼んでみただけらしい。
やれやれと大きなため息をつき、赤衣が早々に踵を返そうとしたその時、胸元に抱えたものが大きく傾いた。
「おっとっと……!」
慌ててそれを不格好に抱え直す様子に、いち早く反応したのが永倉だった。首を傾げながら歩み寄り、赤衣の奇妙な持ち物を凝視する。
「おい、赤衣。お前、両手に何握りしめてんだ? 片方は紙みたいだけど……もう片方は、なんだそれ。分厚い木の板か?」
「これらでござるか? いやぁ、ちょうど版元へ持ち込むための絵と、版木の具合を確かめていたところで」
赤衣は苦笑しながら、抱えていたものを畳の上へとそっと広げた。
片や、細かな削り屑がわずかに残る、錦絵の印刷に使うための真っ平らなサクラの木の板。そしてもう片方は、墨の匂いも真新しい、一枚の美しい絵だった。
永倉が好奇心に突き動かされるまま、畳の上の絵をひったくるようにして覗き込む。
その瞬間、彼の豪快な笑顔が嘘のように凍りついた。
「……おい、左之助」
「あ? んだよ新八、そんな声出して」
永倉に呼びかけられ、原田も面白半分にその紙を覗き込む。
「お……」
そして――原田もまた、言葉を失って硬直した。
それもそのはず。白地の紙の上に描き出されていたのは、紛れもない沖田総司の姿だった。
浅葱色の羽織をまとい、悪戯っぽく微笑む少女の姿が、まるで今にも紙面から飛び出して喋り出しそうなほど、生き生きとした墨線で表現されている。
筆致はどこまでも柔らかく、流麗。それでいて、しなやかな立ち姿、風を孕んだような羽織の裾、武人としての鋭さとどこか掴みどころのない涼しげな目元までもが、墨とわずかな着色だけで、まるで生きているかのように生き生きと写し取られている。
「「上手ぇ……」」
二人の魂を抜かれたような感嘆と、驚愕の叫びが広間に響き渡った。
「いやー、照れますねー。私の絵が綺麗すぎて」
横からひょいと覗き込んだ本人は、恥ずかしがるどころか、片手を頭の後ろに回してポリポリと頭を掻きながら、どこか誇らしげに目を細めている。
そんな沖田の調子の良いセリフが引き金となったのか、それまで遠巻きに見ていた斎藤や藤堂、さらには山南までもが「どれどれ」と一斉に赤衣の手元へと群がった。
「おー、これは……見事なものだね」
「……?(沖田を見る)……?(紙を見る)…………っ!?(沖田を見て、また紙を見る)」
「いや、上手いどころの話じゃないでしょ、これ……赤衣ちゃん、剣術だけじゃなくてそっちの才能まで頭一つ振り切っちゃってる感じ?」
全員が全員、その圧倒的な画力に驚きを隠せずにいた。
しかし、肝心の作者である赤衣の男はといえば、ただただ恐縮したように困った顔で、ポリポリと己の頬を掻いている。
「いやいや、買いかぶりすぎでござるよ。近所の子どもたちに、どうしても沖田殿を描いてほしいとせがまれたゆえ……。筆休めの手慰みに、ちょちょっと落書きした程度でござる」
「いやいやいや! これで落書きは無理がありすぎるだろ! ってか、沖田の絵なんか欲しがるガキの感性も大概奇妙だけどよ!」
「誰の絵を欲しがるの子供が奇妙ってんですかー! これでも沖田さんは人気者なんですからねー!?」
永倉がすかさず激しいツッコミを入れ、藤堂もウンウンと首がもげるほど同意する。どう見ても一流の絵師の仕事である。
「にしても、沖田先輩はこれ知ってたんすか?」
呆気にとられていた原田が尋ねると、沖田は事もなげに頷いた。
「? ええ、前から知ってましたよ。この人はよく境内で子どもたちにお面や動物の絵を描いてあげてましたから、その時に。――あ、そうだ! 芹沢さーん!」
沖田は何かを思い出したように、上座で悠然と酒を煽っていた芹沢に向かって、いたずらっぽく声を張り上げた。
「近所の子たちがですね、前に芹沢さんが描いた『めちゃくちゃ目つきの悪い、鬼みたいに強面な隊士』の絵がまた欲しいんですって! 魔除けにちょうどいいらしいですよー!」
その瞬間。騒がしかった広間が、水を打ったように静まり返った。
(目つきの悪い、鬼みたいに強面の隊士か……)
山南も、斎藤も、藤堂も、原田も永倉もが、一言も発さずに首だけを動かし、すうっと自然にある男へと視線を走らせる。
(((((土方(君)(さん)のことだな)))))
壬生浪士組全員の考えが、初めて一致した瞬間であった。
「……あん? なんだよお前ら。俺の顔に何かついてんのか?」
「「「「「いいえ、何も」」」」」
見事なまでに息の揃った大合唱と共に、全員が一斉に視線を明後日の方向へと逸らす。そのまま天井の木目を数え始める者、用もないのに刀の鍔を磨き始める者、露骨に口笛を吹く者……。
そこまで、不自然な態度を取られれば、いくら土方でも大体の察しが付き始める。
「おい、待て……さっきの『目つきの悪い隊士』ってのは、まさか――」
「ふっ、あれは特注品なんだがな」
土方が青筋を浮かべて身を乗り出しかけた瞬間、上座の芹沢が楽しげに鼻で笑い、土方をじっとりとした目で眺めながら、機嫌良さそうに口元を歪めた。
「まぁ、童どもの無邪気な願いとあっては仕方がない。魔除けの効果が抜群だというなら、後でまた何枚か認めておくとしよう」
「おい、今なんでこっち見て言いやがった?」
土方の詰問に、芹沢は「さて、何のことやら」と肩をすぼめて首を振る。
そんな青筋を増やしていく副長の横では、永倉は未だに赤衣の男が描いた絵から目を離せずにいた。
「いやー、だがなんでそんな腕がありながら黙ってたんだよ、赤衣? 勿体ねぇじゃねぇか」
「なんで、と言われても……特に言う機会もなかったでござるし……」
永倉の感心しきった問いに、赤衣の男はけろりとした顔で答える。彼にとっては、手慰みのひとつに過ぎないのだろう。
その時、人だかりの後方から「どうしたんだ、皆? そんな入り口で集まって」と、他の隊士たちを呼びに行っていた近藤が覗き込んできた。
そして、永倉の手元にある半紙――そこに描かれた、今にも動き出しそうなほど見事な沖田の姿を目にした瞬間、近藤はその大きな目をさらに引ん剥いた。
「おお……! これは、すごいな……! 実に見事だ、格式のある素晴らしい筆致じゃないか!」
少年のように目を輝かせ、近藤はまじまじと絵を見つめた。
墨線だけで描かれているはずなのに、そこには確かに、新調された浅葱色の羽織を誇らしげに纏った、凛々しくも乙女のような柔らかさがある沖田総司が呼吸づいている。
ふと、近藤は絵から顔を上げ、広間を見渡した。
目の前には、同じ羽織を着て赤衣を問い詰める永倉がいて、それを呆れながらも笑っている原田や斎藤、藤堂たちがいる。上座には不遜に鼻を鳴らす芹沢がいて、傍らには微笑む山南や、眉をひそめる土方がいる。
(ああ……そうだ。私たちはどれだけ啀み合おうと、同じ看板を背負って生きる仲間になったんだ……)
芹沢により作られた真新しい隊服と、それを囲んで笑い合う仲間たちの姿。それらが赤衣の見事な絵と脳内で重なった瞬間、近藤の胸に、言葉にできないほどの熱い感慨が突き上げてきた。
このかけがえのない今という瞬間を、このお揃いの羽織を纏ったみんなの姿を、ひとつの形として残せたらどれほど素晴らしいだろうか。
昂る感情のままに、近藤はポンと力強く手を打つ。
「赤衣さん、ひとつお願いをしてもよいだろうか」
「なんでござる?」
「どうせだから……と言うつもりはないのですが。もしよければ、ここにいる皆の姿を、一枚の絵に描いてもらうことはできないだろうか?」
その提案に、真っ先に永倉が飛びついた。
「おお! いいじゃねぇか、それ! せっかくだし全員描いてもらおうぜ! な!?」
「うるせぇぞ、新八。少しは落ち着け」
「そうそう。僕もあんま乗り気にはなれないしなー」
「なーにを言ってんだよ、斎藤、左之助! 滅多にない記念になんだろ!?」
はしゃぐ永倉に対し、斎藤と原田は互いに顔を見合わせ、揃って深いため息を漏らす。
「「――だって、後世にこんな姿が残ったら恥ずかしいし」」
「お前らなぁ!?」
息の合った拒絶を見せる二人に、永倉が声を荒げる。
しかし、そんな頑なな彼らに、意外な人物から言葉が掛けられた。
「……まぁ、いいんじゃねぇか、別に」
低く、どこかぶっきらぼうな声音。
振り返れば、つい先ほどまで芹沢に怒りを募らせていたはずの土方が、腕を組んだまま、フイと視線を逸らしてそう呟いていた。
「副長……?」
原田が驚いたように目を丸くする。もっともこの手の催しを嫌がり、くだらないと一蹴すると思っていた男が、少しだけ口元を緩めていた。
「明日をも知れぬ身の俺たちだ。いつか誰が死んで欠けるかも分からねぇ」
その言葉に、広間が水を打ったように静まり返った。
京の街の片隅、まだ何者でもない壬生浪士組。
明日死ぬか、それとも未来を掴むのか、先のことなど誰にも分からない。だからこそ、今この瞬間の、確かにここに生きていたという証を、形にして残しておくのも悪くはない――そんな土方の、不器用ながらも隊を想う一言が、全員の胸に静かに染み渡っていく。
「ふふ」
その沈黙を破るように、山南敬助が優しく微笑んだ。
「では、私も賛成するとしますかね」
「山南さんまで……」
原田が「はぁ」とため息をつき頭を掻く。
その横で、斎藤が半ば諦めたように原田の肩を、ぽんと叩いた。
「もう諦めるしかないみたいよ、僕たち。ああ見えて、土方さんは近藤さんのことになると甘ぇし、山南さんもこう見えて意外と遊び人だから、こういうお祭り騒ぎには弱いのよ」
(……今、すごく失礼な表現でまとめられた気がするのは、気のせいだろうか?)
斎藤の容赦のない分析に、山南は一瞬だけ引き攣った笑みを浮かべたが、すぐに元の柔らかな笑みへと戻し、原田たちの肩をぽんと叩いた。
「まぁ、二人ともそう嫌がることはないさ。未来の私たちがこれを見たら、きっと懐かしく思える日が来るだろうからね」
穏やかな、未来を見据えるようなその一言で、広間の空気は完全に決まった。
近藤は、皆の賛同が得られたことで、そのまま上座の芹沢たちへも視線を向ける。
「芹沢さん、新見さんも、いかがでしょう?」
「フン。誰が君たちみたいな芋侍なんかと——」
「好きにしたまえ。仕上がりが良ければ、今後の隊士募集の触れ書きにでも使えるやもしれんしね」
「——だそうだ。ほら、なにをぼさっとしている! 芹沢先生を真ん中に、さっさと並び給え!」
芹沢は興味なさそうに酒を煽りながらも、明確な拒絶はしなかった。
芹沢は実に見てくれから入ることを、案外こだわったりする。今回の絵の件も、そういった彼の性格から、了承したのかもしれない。
外堀がじりじりと埋まっていく光景を前に、赤衣の男はただただ苦笑するしかない。
「えーと……これは、断れない流れでござるな?」
「描けますか? かなり人数が多いですけれど」
沖田が覗き込むようにして尋ねる。
「うーぬ……」
赤衣の男は、改めて広間全体を見渡した。
新しい羽織を嬉しそうに眺めて笑う者、あちこちで騒ぎ立てる者、そんな騒動に呆れてため息をつく者。それぞれが、全く違う、剥き出しの人間臭い顔をしている。
そして――。
「……まぁ、面白そうではあるし、最善は尽くしてみるでござるよ」
「別に嫌なら断ってもいいんですよ? 近藤さんの単なる思いつきでしょうし」
「いや……」
赤衣の男は、集まった浪士たちを見つめながら、少しだけ愛おしそうに目を細めた。
「某も……この瞬間を書き留めたくなった」
普段は互いにいがみ合い、一歩間違えれば刃傷沙汰にまで発展しそうな危うさを孕んだ壬生浪士組。そんな彼らが、ほんの少しだけ一つの仲間のようにまとまって見える、奇跡のようなこの一瞬。
激動の時代の渦中で、この平穏がまたいつ訪れるかなど、誰にも分からない。
ならば、書き留めよう。
今の浪士組を。
まだ誰も歴史に名を刻んでいない頃の、浅葱色の羽織に浮かれる、若者たちの生きた証を。
――だが、光が強くなれば、影もまた濃くなる。
穏やかな陽気の下、初夏の京の街には、誰の目にも見えない血の暗雲が、すでに低く立ち込めていた。
それは、静まり返った寺社の境内か。
「武市……センセイ……」
あゆいは、騒がしい洛中の酒場か。
「どいつもこいつも、わしを馬鹿にしおってからに……」
もしくは、陽光の届かない薄暗い路地裏か。
「……お腹、空いた」
はたまた、河原を見下ろす橋のたもとか。
「…………」
――後に人斬りの名を冠する先駆者たち。
この動乱の時代が、既に血の音を立てて動き始めているとも知らずに、浅葱色の狼たちは、まだ無邪気に笑っていた。
最初のやつなニィ!? ってなってる人もいるかもしれないけど、あまり気にしなくていいよ。
最後の4人はいったい誰なんだいっ!? ってなってる人もいるかもしれないけど、おそらく皆分かってるから何も言わないよ。
じゃあ、ちょこっと豆知識もおいとくぞ。
■浅葱色のダンダラ羽織
有名かもしれませんが、実はこれ、超短命で不評だったという話があります。
作中で原田や斎藤が渋い顔をし、土方が「忠臣蔵みてぇな衣装」と吐き捨てた通り、当時の感覚でもこのデザインは「あまりに派手で歌舞伎の衣装のよう」「目立ちすぎて隠密行動に向かない」と不評みたいでした。
FGOの土方さんは霊衣が実装されましたが、実はこの人が一番着たがらなかったみたいな話もあるんですねー。
また、材質が麻だったことから、この羽織は京に残った浪士組が夏服としてしたためたのではないか、みたいな話もあるんだとか!
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