殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
江戸時代、とりわけこの幕末期における居酒屋という空間は、後世のそれとは随分と趣を異にしていた。
元々は酒の量り売りを行う酒屋の店先で、客が
煤けた壁、漂う安酒の匂い、そして日雇いの労働者や無頼の徒が夜な夜な肩を寄せ合う、混沌とした男たちの吹き溜まり。
それが本来の姿である。
しかし、幕末の京都における居酒屋――通称煮売酒屋は、江戸のそれとは随分と趣を異にしていた。
江戸の居酒屋が庶民の日常的な憩いの場であるのに対し、ここ京の店は、いつ刃傷沙汰が起きてもおかしくない、緊迫した志士たちの梁山泊そのものだったのである。
特に木屋町や三条、四条周辺の店は各藩邸からも近く、全国から集まった不逞浪士たちの密談の場として機能していたという。京都守護職らの目を逃れるため、店側は一見さんお断りの警戒態勢を敷き、客は秘密の合言葉を交わして暗がりに身を潜める。
身分制度が厳しいこの時代において、夜の居酒屋だけは例外的に武士も町人も同じ空間で酒を酌み交わせる別空間であったがために、隣に座る男がどこの誰とも知れぬ刺客かもしれないという恐怖は、常に表裏一体であった。
そんな、酒気と殺気が燻る煮売酒屋の片隅で、しかし今、場違いなほど至福の表情を浮かべる少女が一人。
「ん〜〜〜! 美味しい! 美味しいですよー、これ!」
里芋の煮ころばしを一口頬張るなり、沖田は両手をぶんぶんと振ってその感動を全身で表現した。
日頃から、肩の力を抜いているときは妙に明るい彼女だが、極上の甘味を前にしたときは、さらにそれ以上の、あるいは年相応の少女のような無邪気さが顔を覗かせる。
この甘味を口にする瞬間だけは、日々の張り詰めた空気を忘れさせてくれるのかもしれない。醤油やみりん、果ては砂糖が普及したこの時代、こうした甘辛い味付けの料理は、沖田の舌には相性が良かったのだ。
そんな至福そうな沖田の様子を見た赤衣は、下り酒の入った徳利を手に持ちながら、自然と頬をほころばせる。
「ご機嫌でござるな、沖田殿」
「当たり前じゃないですかー! はふはむ……こんな甘くて美味しいものを食べて喜ばない人なんていませんよー!」
はふぇ、と鼻の下を伸ばしながら、それでも箸を止めぬ沖田。
いつもなら、少食とまではいかないものの、一度に量を食べられない彼女にしては珍しい箸の速度だ。
今や目の前の甘辛い煮ころばしに完全に心を奪われているとは、彼女もまだまだ幼いところがあるのかもしれない、と赤衣は徳利を静かに傾けながら思った。
「ほら、あなたも飲んでばかりではなく、食べてみてくださいって!」
「んぐ!?」
返事を聞くより先に、沖田の箸がすっと伸びた。
それはおよそ、年頃の娘が男に対してするような、しとやかな所作では決してない。むしろ、気の置けない悪友の口に美味いものをねじ込むような、そんな乱暴で、けれど信頼と親しみの籠もった距離感の縮め方にも見える。
里芋を口の中へ放り込まれた赤衣は、喉に詰まらせないように、慌ててもごもごと咀嚼を始めた。
うむふむ……。
「どうです? みりんが効いてて、いい感じじゃないです?」
舌の上に広がったのは、ねっとりとした里芋特有の濃密な食感と、それを包み込むような奥深い甘みだった。
里芋は箸でつまんだのを見ただけでは分からなかったが、口に入れると存外によく煮えている。安価な酒に砂糖を混ぜただけの安直な甘さとは違い、本みりん特有の米由来のまろやかなコクが、芋の芯までじっくりと染み渡っていた。醤油の塩気に負けないその芳醇な風味。普段から屯所の賄いを預かる身としては、この絶妙な火加減と味の含ませ方は、板前の確かな腕前を認めざるを得ないものだった。
舌の上でほどける食感に、甘辛く染みた煮汁。
濃い酒の後に食べるには実に具合がよい。
なるほど、客の絶えぬ煮売酒屋というのも頷ける味である。
赤衣は一通り味を堪能したあと、ゴクリと飲み込んだ。
「これは……中々の美味でござるなぁ」
「ですよねー!?」
そう言って破顔する沖田は、まるで自分の手柄のように胸を張ってみせる。
「一度来てみたかったんですよねー! ここの煮ころがしは、他のお店よりも甘いって有名なので!」
なるほど、と赤衣は頷いた。
酒が主役の店でありながら、客の箸を止めさせない一品がある。
そういう店は強い。
ましてこの時代、砂糖の甘みは、後世の人間が思う以上に価値がある。
剣だの政だのと物騒な話はいくらでも転がっているが、美味い飯を食った時だけは誰もが少しだけ穏やかな顔になるものだ。酒も良いが、こうした甘味の効いた料理もまた、人の心を緩ませる力を持っている。
現に目の前の娘など、その最たる例だった。
「ご近所の吉田さんには感謝しかありませんね。んう〜!!」
そう言いながら沖田は煮ころがしを頬張り、幸せそうに身をよじる。雪椿のような可憐さで頬を膨らませる様は、どこにでもいる町娘そのものだ。
その姿だけを見れば、誰が思うことだろう。
つい二ヶ月前、殿内を殺すべく真剣を振るい、血生臭い京の町を駆け回っていた剣士とは思えない、と。
血と硝煙の匂いより、彼女には甘い煮物の匂いの方がよほど似合っている。
まぁ、本人に言ったら間違いなく怒るだろうが。
と、赤衣は思わず小さく笑みを零した。
血煙と怒号の渦中に身を置く者ほど、こうした何気ない時間を愛おしむ。
笑える時に笑い、飲める時に飲み、食える時に食う。
明日も同じ日常が続く保証など、この動乱の時代においては、どこにもないのだから。
赤衣はそんなことをぼんやり考えながら徳利を置いた。
喧騒に満ちた煮売酒屋の空気は不思議と心地よい。
京へ来てからというもの、こうして肩の力を抜いて酒を飲む機会は案外少ないものだ。今宵くらいは平穏を楽しむのも悪くない。
さて、次は何をつまもうか、と赤衣が箸を伸ばしかける。
まさに、そんな時だった——。
「――あぁクソッ! どいつもこいつもわしを馬鹿にしゆうがか! 腹の虫が治まらんッ!」
その怒声は妙に耳についた。
店の喧騒を切り裂くような響き。
誰かが喧嘩を始めたのだろうか?
浪人崩れに百姓、商人と身分の差もなく煮売酒屋では、別に珍しいことではない。酒が入れば人は気が大きくなる。まして今の京には、腕に覚えのある浪士やら志士やらが掃いて捨てるほどいるのだ。素面でも気が大きい者は、それだけ厄介事を持ち込みやすかったりもする。
今日もまたどこかで揉め事か。
赤衣は半ば他人事のように考えた。
別に他人の口喧嘩にまで顔を出すほど、赤衣の男は腰は軽くない。刃傷沙汰にまで発展しそうなら話は別だが、当人たちが盛り上がっている分には、目を瞑る。
けれど、その瞬間——まさに、赤衣が目を伏せた時である。
首筋を撫でるような違和感。長年の経験により培われた、第六感とも言うべきを感覚であろうか。
そんな場所から、理屈ではなく、直感として脳から信号が下る。
――飛んでくる。
と。
「おろォ゙——!?」
鈍い音ともに、赤衣の情けない声が店内に響いた。
それはおよそ、人間が人間の頭部を硬質な硝子で殴打した際にしか生じ得ない、ひどく生々しく肉厚な破壊音であった。
次の瞬間、赤衣の身体がゆっくりと前へ傾ぐ。
重力に逆らうことを諦めたかのように、その手から箸が滑り落ち、机に置いていた徳利が揺れる。
そして、そのまま。
ばたり。
と、まるで糸の切れた人形のように、赤衣は机へと突っ伏した。
一拍の静寂。
さっきまで美味そうに酒を煽り、自分の勧めた芋の煮転がしに頬を緩めていた男が、何故かいきなり目の前で昏倒した。
あまりにも唐突、かつ理不尽極まりない喜劇のような幕切れに、流石の沖田も思考の辻褄が合わせられない。
何が起きたのか理解できず、女はただ、目をぱちぱちと瞬かせるばかりであった。
「えぇ!? ええ!? ちょ、ちょっと、どうしたんですか、いきなり倒れて!?」
「おっと、当たってもうたがか? はっはっは、そりゃ災難じゃのう」
沖田の驚愕に上乗せするように、奥の卓に座っていた男が笑う。
「けんど、当てられる方も当てられる方じゃ。おまんらも腰に刀据えるんなら、もうちっと危機回避くらいできんにぃあ、この京ではやっていけんぜよ」
それは、赤衣へ酒瓶を放り投げた犯人――いまだ怒りの収まらぬ様子で肩をそびやかす、泥酔した土佐浪人の言葉だった。
自分が酒瓶を投げつけたことへの罪悪感など微塵もなさそうな、むしろ「当たったお前が悪い」と言わんばかりの堂々たる態度。
この男にしてみれば、ただの鬱憤晴らしの八つ当たりに過ぎなかったのだろう。
しかし、その理不尽な言い草を正面から浴びせられた沖田の胸中は、一瞬にして極寒の殺気へと塗り替えられていた。
「——はぁ?」
沖田の口から漏れたのは、地を這うように低く、ぞっとするほど冷ややかな声音。
ぱちぱちと瞬いていたその瞳の奥から一切の光が消え、ただ静かに、背後の土佐浪人を射すくめるような眼光だけが宿っていた。
せっかくの美味しい芋の煮転がしを台無しにされ、おまけに目の前の連れをわけのわからない理由で気絶させられたのだ。その上、これ以上ないほど傲慢な説教まで付いてきたとなれば、彼女の中のナニカが、断ち切られそうになるには十分すぎる理由だった。
「なんじゃ、おまん。えらい目付きでわしを睨み腐りおってからに。わしが謝っちょるがに、ケチつけるがか?」
「謝って済むなら、お奉行様はいらないんですよ。それに、さっきのは煽ってるようにしか見えませんでしたけど」
沖田の声音には、もはや怒りというより、一線を越えた対象に対する絶対的な冷徹さが満ちている。
しかし、酒の勢いで肥大化した男の自尊心は、目の前の沖田が放つ、尋常ならざる殺気の異質さにすら気づけないらしい。
男は鼻を突く酒臭い息を吐きながら、沖田の顔をまじまじと覗き込む。
対して沖田は、ゆっくりと腰を浮かせ、いつでも動けるような完璧な重心の移動をし、確実に相手を仕留めるための佇まいをとった。
「ほう」
男は、そんな沖田の顔を見て、にやりと口元を歪めた。
「わしにそげんな目ぇ向けるたぁ、いい度胸じゃ……わしに喧嘩売りゆうがか」
酒臭い息がかかるほどの距離。
一見すれば、よくある酔漢特有の絡み方にも見える。
だが、その眼だけは違った。
濁っているようでいて、刃の冷たさを宿したように妙に鋭い。
蛇か、狼か。あるいは、人の皮を被った何か別の凶獣か。
少なくとも、ただの酔っ払いではない――まともな五感を持つ剣士なら、本能が全力で逃走を叫ぶような気配を、その男は平然と放っていた。
けれど、その時だった。男の眉が、わずかに動く。
「……あぁん?」
沖田の顔——よりも下。
普通の男よりも発達したその膨らみをまじまじと見つめ、その土佐浪人は首を傾げた。
「なんじゃ、おまん。もしかして、女じゃったがか?」
髪を男風に結い、野袴を履いて男の格好をしていようとも、至近距離で見つめれば、沖田には隠しきれない女の骨格と肌の白さがある。
血の気の盛んな男たちが屯する夜の煮売酒屋に、女が男の格好をして紛れ込んでいるなど普通ではあり得ないことだ。
だが、男の瞳に宿ったのは、そんな奇妙な状況に対する驚きや困惑ではなかった。さっきまで放っていた獣のような鋭い殺気が一瞬にして霧散し、代わりに底の浅い、ひどく白けきった侮蔑の念が浮かび上がる。
手応えのある男を相手に喧嘩を売るつもりだったのが、蓋を開けてみれば、ただの生意気な小娘だったときた――その事実が、男の興を完全に削ぎ、どこまでも傲慢でぞんざいな態度へと変えさせていた。
「かー。気ぃ強い上に態度までデカいがか。もっとこう、女ならもうちっと大人しゅうしちょれや」
「あ゙ぁ?」
地を這うような短い低音。
それはもはや年頃の娘のそれではなく、完全に「いつでも抜く」と準備を終えた剣鬼の喉鳴りのように聞こえた。
店内の空気も一瞬で氷点下まで吹き飛び、周囲の客たちは一斉に「関わったら死ぬ」と本能で察知していた。
誰もが自分の皿や手元の杯に視線を釘付けにし、気配を消すことに全神経を注ぎ始める。中には、あまりの殺気に出るに出られず、固まったまま心の中で『頼むから店外でやってくれ』と神仏に祈る者までいる始末だった。
今にも凄絶な白刃が狭い店内を飛び交うかと思われた、まさにその瞬間、机に倒れていた赤衣が起き上がった。
「あいたたた……落ち着くでござるよ、沖田殿。少し腫れたくらいで、某は——」
「あなたは、黙っててください!!」
「(´・ω・`)」
せっかく頭の痛みに耐えながら放った決死の仲裁も、文字通り一蹴されて再び撃沈する。
この様子を息を潜めて盗み見ていた周囲の客たちは、一様に『ああ、やっぱり……』『今そこで入ったらそうなるわな……』と、心の中で哀れな被害者へ深い同情を寄せずにはいられなかった。
そもそも酒瓶を頭に叩きつけられた完全な被害者であるはずなのに、味方であるはずの身内からまで容赦のない追撃を食らっている。あまりにも不憫すぎるその背中に、店内の誰もが「強く生きてくれ」と心の中でそっと手を合わせるのだった。
「……けっ、気に入らんのう」
そんな中、土佐浪人である男は酒臭い息を吐きながら舌打ちした。
「わしは腹の虫が治まらんでイラついちょったがに、余計に腹が立ってきたぜよ」
「あなたが酒瓶を投げたんでしょうが。何をどうしたら被害者の方が悪いみたいな話になるんです?」
「(・ω・ ` )」
「被害者ぁ? 酒瓶が一つ当たったくらいで大袈裟な女じゃ。さっきから、その男庇うてばっかで、ぴいぴいぴいぴいと喧しい。雀か兎か、おまんは」
「雀でも何でも結構ですけど。少なくとも、人に酒瓶投げて威張る猿よりはマシですね」
「( ´ ・ω・)」
これ以上ないほど正論を吐く沖田と、逆ギレの極みに達している凶暴な酔漢。
その二人の視線が火花を散らす緊迫した空間で、先ほど「黙っててください」と釘を刺された赤衣は、もはや言葉を発することもできず、ただ目線だけでおろおろと交互に二人を見守るしかなかった。
しかし、そんな涙ぐましい努力も虚しく、土佐浪人の濁った双眸が、ふと矛先を変え、机に小さく縮こまる赤衣を捉えた。
「……なんじゃ」
男は不機嫌そうに眉をひそめ、不条理の塊のような理屈を投げつけてくる。
「おまん、さっきから黙っちょるが、何か言うことないがか」
――いや、ついさっき、黙れと言われたから大人しくしていたのだが。
一瞬そんな思いが頭を過ったものの、赤衣はこれを絶好の好機と捉えた。当の加害者から発言権を振られたのだ。これ幸いともう一度仲裁に入り、今度こそこの場を穏便に収めて、美味しい煮転がしが残る平和な食卓を取り戻すチャンスである。
客席からは「もうやめておけ」という無言の同情を背中に浴びているものの、赤衣は健気に意を決し、双方の怒りをこれ以上刺激しないよう、最大限に慎重な言葉を選んで口を開いた。
「あのー、もうそろそろ、その辺りで……他のお客にも迷惑がかかるし……」
「おまんは黙っちょれい!!」
「あなたは黙っててください!!」
「(´・ω・`)」
一寸の狂いもなく同時に放たれた拒絶の言葉が、左右から赤衣の鼓膜を容赦なくぶち抜いた。
敵味方の垣根を越え、奇跡の同調を見せた二人の凄まじい声圧に、赤衣はただ、考えるのをやめるのだった。
— 壱 —
「ハッハッハッ! なんじゃ、おまん! ほいたら、この女の旦那でもないがか!」
「沖田殿は某の命の恩人でござるよ」
「かぁ〜っ! 命の恩人じゃと? おまん、女に助けられちょるがか! そりゃあ情けないのう! なんなら、酒瓶を当てた詫びに、わしが剣でも教えちゃろうか!」
「い、いや、それは遠慮しておくでござるよ……」
男の豪快な笑い声が店内に響く中、赤衣は苦笑いを浮かべながら、やんわりと誘いを断った。
さて、なんでこんなことになっているのやら。
話はほんの少し前に戻る。
—— —— ——
一触即発の緊迫した空気は、意外な形で瓦解していた。
互いに刀の柄へ手が伸びかけたその瞬間、赤衣が慌てて懐から取り出したのは、刀ではなく銭袋だった。
これ以上騒ぎになれば店にも迷惑がかかる。せめて勘定だけでも済ませて退散しよう――そんな至極真っ当な判断である。
だが、その良識が思わぬ方向へ暴走した。
お? と、土佐浪人の目が銭に向く。
おおっ! と、しかも向いたまま戻らない。
『おまんの奢りか! 気が利くのう!』
その謎の納得に、違うでござる——という否定は間に合わなかった。
男は刀からあっさりと手を離すと、まるで以前からそこが自分の席であったかのような顔で赤衣たちの卓へ歩み寄り、そのままどかりと腰を下ろしたのだ。
『店主ぅ! 酒じゃ酒! 今日は気前のえい旦那がおるきにのう!』
『だから違うでござるよ!?』
赤衣の悲鳴にも似た抗議は、豪快な笑い声に呑まれて消えた。
一方の沖田はといえば、当然ながら面白いはずもなく。
『帰ってください』
『なんでじゃ?』
『なんでじゃ、じゃありません』
『酒飲むだけじゃろ?』
『飲まないでください』
『なんでじゃ?』
と、まぁ会話が成立してなかったのだ。
いや、成立する気が最初から無かった、と言うべきかもしれないが、得てして酔漢とは理不尽な生き物である。
結局、そのまま「帰れ」「失せろ」「どっか行け」なんて言葉を一通り無視し終えた頃には、なぜか男の前には徳利が並び、三人で一つの卓を囲むという奇妙極まりない状況が完成していた。
しかも当の本人は、当然のような顔で酒を呷っている。
当たり前だが、人の金で、だ。
厚顔無恥にも程があった。
—— —— ——
そんな理不尽な回想を経て、再び視線を目の前の卓へと戻す。
赤衣が心の中で深いため息をついている間にも、事態はさらに泥沼化しつつあった。
原因は明白だ。
この迷惑極まりない土佐浪人を酔い潰して黙らせよう——。
そんな至極真っ当な目的で始まった酒比べだったはずなのだが、途中から沖田の妙な負けん気に火がついてしまったのである。
そして現在、酔い潰されかけているのは、なぜか沖田の方だった。
世の中とは実に理不尽である。
柳蔭*1の入った陶器を片手に、沖田は赤くなった顔をふらふらと赤衣へ寄せた。
「なんれすか〜、私を除け者にしれ、盛り上がって〜」
「なんじゃ、女。もう酔ったがか?」
「うるさ〜い! この沖田さんが、これしきの甘酒で酔うなんてありえませ〜ん!」
残念ながら、彼女が飲んでいるのは甘酒ではなく、れっきとした焼酎ベースの度が強い酒なのだが。
ツッコミを入れることすら虚しくなるほどの強弁と共に、沖田はさらに酒をあおる。その飲みっぷりは豪快を通り越してただの自暴自棄にしか見えなかった。
「お、沖田殿、流石に飲み過ぎでは……?」
「だまらっしゃい!」
びしぃっ、と赤衣の鼻先に指が突きつけられる。
呂律どころか視線すら完全に泳いでいるが、その怒りの矛先だけはなぜか赤衣へと向けられた。目の前の土佐浪人という共通の敵を前にして、なぜ身内が弾劾されねばならないのか。
「だいたい、あならもあなられす!」
「そ、某でござるか?」
「なんれ、この人まだいるんれすかぁ!」
「それは某も聞きたい」
返す刀で叩きつけられた不条理な詰問に、赤衣は思わず本音を漏らす。
店が壊れるのを防ごうとしただけの善意の結果がこれである。
とんだとばっちりだ。
「わらし、追い出そうとしれたれしょう!?」
「してた、でござるなぁ……」
「帰れって言っれたれしょう!?」
「言ってた、でござるなぁ……」
詰問のたびに沖田の身体がぐらぐらと左右に揺れる。
言葉の鋭さに反して、彼女の身体を支える重心はとっくに崩壊していた。今ここで赤衣がそっと支えを引けば、そのまま床に直行するのは火を見るより明らかである。
「なのに、なんれ普通に飲んれるんれすかぁ! もぉ〜!」
ぽかぽかぽかぽか。
言語による抗議が限界を迎えたのか、ついには幼児の駄駄さながらに赤衣の肩を拳で叩き始める。
天才剣士の神速の突きとは程遠い、猫のじゃれつきのような生ぬるい衝撃が、赤衣の肩に虚しく響くのだった。
「なんじゃ、かったい女じゃのう。終わった話をいつまで引っ張りゆうがじゃ。こいつも酒飲んどるし、わしも飲んどる。それでええじゃろうが」
どこまでも自分に都合のいい男であるが、酒の席のうやむやこそが至高と言わんばかりの横柄な態度には、妙な割り切りがあった
土佐浪人の男はさらに自らの顎を傲慢に突き出し、己の胸をどんと叩く。
「それに、おまんはわしを誰と心得る? 江戸でも負けなしを誇った天才剣士様とは、まさにわしのことじゃ!」
「それをいうなら、わらしらって、てんれん理心流の天才塾ろうですよ!!」
「沖田殿、さっきから呂律がろくに回っておらんでござるよ……」
「塾頭」と言いたかったのだろうが、完全に甘噛みしている。
赤衣の哀れみの混じったツッコミも、酒精に溺れた少女の耳には届かなかった。
江戸の剣術界の端くれを自称する無頼漢と、多摩の出の意地をかける看板娘。傍から見れば不毛極まりない「天才」の安売り合戦だったが、土佐浪人はその流派の名を聞いた瞬間、心底くだらなそうに吹き出した。
「てんれんいしんりゅう……? ふははは! 聞いたこともない、田舎剣法ぜよ! 芋臭あてかなわんわ!」
「あ〜! バカにしましらね〜!」
火に油を注ぐとはこのことである。
壬生浪士組の前身たる試衛館の仲間たちと、泥にまみれて磨き上げてきた誇りを「芋臭い」と一蹴され、沖田の脳内麻薬が限界数値を突破した。
「そっちこそ、天才らか、変態らか、知りませんけどねぇ。この沖田さんにかかれば、今すぐにでもけちょんけちょんに——」
「おー、やるがか? 剣の腕を競うっていうにあ、わしも本気でやる……って、おい、優男。なんかコイツ、様子がおかしゅうないか?」
「? たしかに、なにかこらえる様な顔をしてるような……」
今にも白刃が飛び交うかと思われた次の瞬間、沖田の動きがピタリと止まった。
怒気で真っ赤だったはずの顔面から急激に血の気が引き、土気色を通り越して真っ白になっていく。そのただ事ではない変化に、百戦錬磨の土佐浪人をして、手合わせどころではない何かを感じ取ったらしい。
「うぷ」
口元を両手で押さえ、頬を不自然に膨らませる沖田。
一瞬前までの剣鬼の威厳は消え失せ、そこにあるのは、限界を迎えたただの器の小さな酔っ払いだった。
店内の緊張感が、全く別方向の戦慄へと変わる。
「うわぁ!? 吐くな吐くな! 汚い!!」
「お、沖田殿! 店の外に出るでござるよ! すまぬ、お勘定は置いておくから、これで失敬!」
凄絶な殺し合いではなく、凄絶な大惨事を回避するため、赤衣は弾かれたように立ち上がった。
卓の上へ小銭をばら撒くように置くと、今にも限界を迎えそうな沖田の肩を抱え、そのまま店の戸口へ向かう。
「うっ……うぷ……」
「いかん! 急ぐでござる!」
「待て待て待て!? こっちぃ向けるな!!」
背後で土佐浪人が本気の悲鳴を上げる。
ほんの数秒前まで「剣の天才じゃあ!」と豪語していた男とは思えない情けなさだった。
もっとも、吐瀉物に対してだけは天下無双の剣豪でも無力らしい。
赤衣は片手で沖田の口元を(決壊を防ぐ最後の砦として)必死に押さえ込み、もう片方の手で彼女の細い肩を抱きかかえるようにして、一目散に走り出した。
他のお客の視線や店主の引きつった顔が背後を過ぎ去っていく
半ば転がるようにして店を飛び出し、夜風が吹き込む薄暗い裏路地へ、滑り込むように飛び出したまさにその瞬間だった。
「お、おき――」
「うぷっ」
「あっ」
間に合わなかった。
だが、幸いにもここは店の外。被害は京の石畳がすべて引き受けてくれた。
赤衣は心の底から安堵の息を漏らし、そのまましゃがみ込んだ沖田の背中を、トントンと優しくさすってやる。
やがて、胃の中身を盛大に路地へ献上し終えた沖田は、ぐったりと壁にもたれ掛かった。
「うぅ……気持ち悪いですぅ……」
さっきまでの威勢はどこへ行ったのか。
天然理心流の天才剣士は今や見る影もなく、雨に濡れた子犬のようにしょんぼりしている。
「大丈夫でござるか?」
「はい……おかげさまで、吐いたら酔いもさめてきました……」
「それは何より――」
「でも、あの土佐犬にはまだ言いたいことが山ほど――」
「どうやら、酔いはさめておらんようでござるな」
即座に訂正する赤衣。どうやら酒精と一緒に、理性だけが先に流れ出てしまったらしい。
さすっていた手を再開させ、沖田の酔を飛ばすべく奮闘する。
そんな二人のもとへ、のそのそと店先から、土佐浪人の男は姿を現した。
「ったく。無茶しよってからに。飲めもせんのに意地張りおって。見苦しいてかなわんのう」
呆れたように息を吐きながら、男は懐を探り、小さな紙包みをひょいと放り投げてきた。
「ほれ。気付けの薬じゃ。飲ましとき」
「おお、かたじけない」
「ええ……っ!?」
沖田が信じられないものを見るような目で、驚愕の声を上げる。さっきまであれほど尊大な態度で、酒瓶まで投げつけてきた無法者である。まさかそんな男から、まっとうな気遣いを受けるとは思っていなかったのだろう。
男はそんな純粋な視線がひどく居心地悪かったのか、鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「なんじゃ、その顔は」
「いえ……あなたにも、そういうところがあったんだなって」
「酒飲ませてもろうた礼じゃ」
「……別に奢る気はなかったでござるが」
「ほいたら返せ言うがか?」
「いや、別にそこまでは」
「なら黙っちょれ。わしは借り作るんは好かんきのう」
そう吐き捨てる土佐浪人の男に、赤衣は思わず苦笑した。
先ほどまで酒瓶を投げつけ、今にも斬り合いになりかけていた男とは思えない。
乱暴で、短気で、どうしようもなく面倒臭い。だが、その頑ななまでの不器用さは、彼なりの一筋縄ではいかない筋の通し方なのだろう。
どうやら、ただの凶暴な酔っ払いというだけでもないらしい。
「にしても、おまんもよぅこんな女に付き合えるのう。わしには、これっぽちも理解できんのじゃが」
「そうでござるか?」
「そうじゃ」
男は路地の隅でぐったりしている沖田を見やり、露骨に顔をしかめた。
先ほどまで「猿」だの「田舎流派」だのと言い合っていた相手である。土佐浪人の男にとって、初対面でここまで生意気な態度を取った女など、顔を見るだけで腹が立つ存在と言ってもも不思議ではなかった。
だが、赤衣にとっては、沖田はそのような人物には映っていないらしい。
確かに彼女は口が立つし、時に容赦のない刃のような鋭さを見せる。
けれどその本質は、別のところにあるはずだ。
剣としての才覚に恵まれ、それ以外のことを知らないがゆえの危うさ。自分の大切な居場所や仲間を守るために、できることを己で狭めていると言えばいいだろうか。
無知、ではない。
己を知りすぎているからこそ、それは答えとして成立してしまい、ほかの道を模索することすら忘れさせる。
そしてそれは、目の前の土佐浪人にも言えることだった。
牙を剥き出しにして吠えていなければ、この濁流のような京の夜を生き抜けない――そんな危うい不器用さが、赤衣にはどうにも放っておけないのだ。
「たしかに、この娘は気丈で、男勝りなところもあるが……少なくとも某には、お主と同じで、心根は優しい御仁に見えるよ」
土佐浪人の男は数度まばたきをする。
向けられた肯定の言葉が予想外だったのか、それとも自分の本質を見透かされたような錯覚を覚えたのか。まるで何か気に食わないものを見た時のような歪んだ顔になり、次の瞬間には、あからさまに不機嫌そうな音を立てて舌打ちした。
「……おまん、ムカつくぜよ」
「い、いきなりでござるなぁ」
「気色悪いくらい人を疑わん。見よって腹が立つ」
「それは褒められておるのでござろうか?」
「わしが知るか」
即答だった。
だが、その一言のあとだけ、不自然な沈黙が落ちる。
土佐浪人の男の視線は赤衣ではなく、どこか遠くへ向いていた。
昔を見ているようにも見えるし、何も見ていないようにも見える。
やがて男は忌々しそうに鼻を鳴らした。
「……昔、似たような阿呆がおっただけじゃ。――いや、嘘じゃ。おまんのほうが何倍も甘い、今のは忘れてくれ」
そう言って、男は背を向ける。
「ほれじゃ、わしは行くぜよ」
「もう帰るのでござるか?」
「帰らん帰らん。まだ酒が飲めるきのう」
どこまでも図々しく、どこまでも逞しい男だ。
赤衣が呆れ半分に見送ろうとした時、男は足を止め、振り返ることなく親指で無造作に背後を指し示した。
「あぁ、そうそう。そこのの酔っ払い女にも言うちょけ」
「?」
夜風が路地を吹き抜け、男のボロをまとった背中を小さく揺らす。
一瞬、言葉を吟味するような短い静寂。静かに、けれど先ほどまでの絡み酒とは明らかに違う、本物の剣士としての重みを帯びた声をくぐらせ。
「次は酒やのうて剣で来い。天才はわし一人で十分じゃ、とな」
ふはははは! と傲岸不遜な高笑いを夜風に響かせながら、男は闇に溶けるようにして今度こそ立ち去っていった。
その足取りは、不思議と先ほどよりも幾分か軽やかに見えた。
男の気配が完全に夜闇へと消え、路地裏には再び静寂が戻ってくる。遠くからかすかに聞こえる大通りの喧騒が、かえって二人のまわりの静けさを際立たせていた。
赤衣はふう、と大きなため息をつき、ようやく緊張の糸を緩める。激しい胃の嵐を通り過ぎた沖田は、壁に頭を預けたままじっと目を閉じていた。
夜風が彼女の乱れた前髪を優しく揺らし、火照った頬を冷ましていく。
少しの間、ただ二人の静かな呼吸音だけが響いていたが、やがて彼女の睫毛がかすかに震え、ゆっくりとその瞳が開かれた。
まだ少し気怠げではあるものの、その眼差しには先ほどまでの泥酔した曇りはなく、確かな理性の光が戻っている。
「大丈夫でござるか?」
「ええ、だいぶ楽になりました。介抱してくださって、ありがとうございます」
少し気恥ずかしそうに身を起こしながら、沖田は衣服の乱れを小さく整えた。
そして、男が消えていった暗闇の奥を忌々しそうに見つめ、形の良い眉をひそめる。
「それにしても、名前も教えず、立ち去るなんて……それで、どうやっていつでも相手になるってんですかね? バカなんでしょうか」
「聞いていたのでこざるか」
「ええ。あの距離なら、嫌でも耳に入りますから」
吐き捨てられた言葉には呆れが混じっていたが、その口元はどこか楽しげにすら見えた。
素性も知れぬ無頼の徒。けれど、あの男が放った最後の言葉だけは、武士として、剣客としての矜持を持った、いい言伝であった。
赤衣は手元に残った気付けの薬包を見つめながら、穏やかな眼差しで受け止める。
「まぁ、悪い御仁ではなかったでござるよ」
そう言うと、夜の風が静かに吹いた。
とても、中途半端なところですが、これまた続けると二万文字いくので、一旦区切ります…!
作者の脳裏には「私の出番まだ?」と囁く人もいますが、今は全力で無視します。あと少し待ってほしい。
まぁ、作中ではまだ分かってませんが、大体の人はこの土佐モンが誰か分かってるでしょう。ええ、作者のセリフ回しが下手すぎて分からないとか言われたら泣くので、分かって欲しいです。(切実)
さて、ちょこっと豆知識も置いておきます。
■柳蔭(やなぎかげ)というお酒
沖田が飲んでいた柳蔭は実在する江戸時代の酒なんです。
本みりんと焼酎を一対一で割った飲み物で、現代で言うカクテルのような存在でした。
名前の由来は、
「柳の葉が茂る頃に飲む酒」
とも、
「柳の木陰で涼みながら飲む酒」
とも言われています。
甘くて飲みやすいため「これならいける!」と調子に乗って飲みすぎる人が出るのも昔からだったようです。
現代でも、柳蔭、または本直しという名前で販売されていますよ。
実際に自分で作りたい場合は、酒造対象の本みりんと米焼酎(白岳や白水)なんかを混ぜれば作れます。
是非是非、試してみてくださいね。
ただし、お酒は20歳から!
さて、この辺りで失礼を。
平日更新はかなり難しいかもしれませんが、もしかしたら出るかもしれません。
今後の参考にしたいので、今の作品の「文字数」や「展開のペース」について、一番気持ちに近いものを1つ教えてください!
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今の文字数・テンポのままで最高!
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展開 or 文字数をサクサク早めにして!
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描写やエピソードをじっくり厚めにして!
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続きが読めれば、どんな形でもOKです!