殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:沖田愛好家

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芹沢鴨という男

 壬生浪士組。

 それはかつて、出羽の策士・清河八郎が尊王攘夷の魁として集めた浪士集団のうち、清河の欺瞞に反発して京の地に残り、京都守護職・松平容保率いる会津藩の預かりとなった不平分子の集まりである。

 

 その構成員は、この時点ではまだ両手で数えられるほどに過ぎない。

 水戸天狗党の残党を擁する芹沢一派、江戸の試衛館から一旗揚げにやってきた近藤一派、そして根岸一派らが、大義名分のもとに無理やり寄り集まっただけのモザイク模様の組織であった。

 

「烏合の衆」と世間に謗られればそれまでの、出自も思想もバラバラな男たち。

 しかし、その根底にあるのは、いずれも一騎当千の腕の立つ猛者ばかり。

 京の町を徘徊する不逞浪士を力でねじ伏せ、治安を維持することくらい、彼らにとっては児戯に等しいのである。

 

 そんな中でも、芹沢一派の頭である「芹沢鴨」は少し有名な人物であった。

 

 芹沢鴨——その前名を下村嗣次という。

 

 かつて常陸の国を血で染めた天狗党の元構成員であり、激しい内部抗争と暴挙の果てに捕縛され、一時は死刑の判決まで言い渡されていた前科を持つ男だ。

 元より尊王攘夷という神聖な旗印を隠れ蓑に、掠奪、放火、果ては私刑に至るまで、ありとあらゆる悪行に手を染めていたのが天狗党という過激派である。当時の幕府は、攘夷を声高に叫びながら治安を乱す彼らの暴挙を看過できず、下村を含む幹部らを一斉に拘束した。

 

 そんな地獄の底から生還してきたような男が、まともであるはずがない。

 

 彼の纏う圧倒的な死の臭いと辣腕ゆえに、壬生浪士組のなかで芹沢の発言力は、日に日に肥大化しつつあった。

 

「……昨晩の件、本当にあれで良かったのですか?」

「なんだね、新見。昨晩の件とは」

「沖田君のことですよ。芹沢先生は彼女に発破をかけていましたが、殿内暗殺——失敗したそうじゃないですか」

「ふっ、ふははははは! 新見ぃ、その言い方だとまるで、『私は殿内が死ぬことを望んでいた』みたいに聞こえるじゃないか」

「っ、す、すみません。出過ぎた口を!」

 

 庭の見える八木邸内一室で白酒を呷りながら笑う芹沢と、その横でおべっかを使うように酌をする新見錦の談話である。

 昨晩、沖田が殿内暗殺を失敗したことについては、既に彼らの耳に入っているらしく、それについて新見が言及をしていた。

 

 しかし、当の芹沢は、まるでおもちゃの壊れた顛末でも聞いたかのように愉快そうに笑い続けるばかりだ。

 新見の言う通り、沖田の心を煽って殿内暗殺をけしかけた張本人でありながら、芹沢の双眸にはどこまでも底知れない余裕が湛えられていた。

 

「ですが、何者なのでしょうね……あの沖田君が倒せなかった剣客というのは」

「さあな。もしかしたら、意外と名の知れた武士なのかもしれんよ」

 

 芹沢は愛おしそうに、膝元に横たえた鉄扇めいた巨躯の愛刀――備後三原守家の鞘を太い指で撫でた。

 その凶暴な眼差しの奥で何が企まれているのか、新見には皆目見当もつかない。

 ただ、芹沢のどこか含みのある口振りに、新見の胸中へ一つの明確な疑念が湧き上がった。

 

「もしや芹沢先生……その男の正体に、心当たりが?」

 

 その質問に芹沢は目を細めた。

 

「ふん。それについては今から確かめてみるところだよ」

「——失礼します」

 

 芹沢がそれを言い切るのが先か、あるいは無造作に襖が引き開けられたのが先か。

 新見が声の聞こえた襖の奥へと視線を投げれば、そこには二人の男女が部屋へ入ってくるのが見えた。

 

「沖田君——」

「芹沢さん、連れてきました」

 

 新見の微かな呟きなど耳の端にも留めぬ様子で、沖田は淡々と芹沢にだけ告げた。

 その取りつく島もない冷淡さがよほど愉快だったのか、芹沢は「ふっ」と鼻で笑い、そのまま顎で座敷を示して「まあ、座れ」と促す。

 部屋に入ってきた沖田と男はそれに従い、芹沢、新見と対面する位置へ静かに腰を下ろした。

 

「ほう……君が総司君の報告にあった謎の浪人か」

 

 芹沢は唇の片端を歪な形に吊り上げ、男を品定めするように全身を隈なく視線で嘗め回す。

 

 江戸茶よりも紅い色彩を纏った小袖。

 光に照らされ赤く光る茶色の長髪。

 服装の鮮烈さもさることながら、顔の造りも中々に美形と言わざるを得ない。

 

「もっと、山師の利いた厳つい無頼漢を想像していましたが……随分と、若いですね」

 

 新見は喉を鳴らし、唾をこくりと呑み込んでそう漏らした。

 

 沖田総司は、まだ結成間もない壬生浪士組の中にあっても、その剣腕は間違いなく最上格と謳われる存在である。

 実戦の経験が浅いとはいえ、生半可な武士が束になってかかったところで、彼女の天才の前に屠られるのは自明の理であった。

 

 その彼女を容易くあしらい、あまつさえ無力化した怪物――と、予ねて聞かされていたならば、誰もが新見と同じように、幾多の死線を潜り抜けた年季の入った剣豪を思い浮かべるに違いない。

 

 それなのに、現れたのは猫一匹すら殺せそうにない、どこか頼りなげな若造であった。

 年齢で言えば、浪士組のなかでも最年少の部類に入る藤堂平助あたりと大差ないように見える。

 これにあの沖田が遅れを取ったとあっては、新見が不審と侮蔑の目を向けてしまうのも、無理からぬことであった。

 

「すまぬが、どちらが芹沢殿でござるか? なにぶん、某は沖田殿の口から何も紹介されておらん故、名乗ってもらわねば判別がつかぬでござるよ」

 

 新見の放つ無礼な視線を完全に受け流し、男が平然と問いかける。

 その一切の気負いのない声音に、芹沢は手にしていたお猪口を呷り、御膳の上へと無造作に置いた。

 

「私が芹沢鴨だよ」

「そうでござったか。これは失敬」

 

 芹沢が低く名乗ると、そちらに向けて男は至極丁寧に頭を下げた。

 しかし、芹沢は男のそんな腰の低い謝罪など、端から気にする様子もない。

 机上に置いてあった重厚な鉄扇を無造作に拾い上げると、その先端で、男の隣に座る沖田を無遠慮に指し示した。

 

「いやいや、構わんさ。それよりもだ――君が総司君との立ち合いに勝ったというのは、真実(まこと)かね」

 

 男を射抜くほどの眼光。

 その場に満ちた、肌を刺すような威圧感に、隣に座っていた新見は思わず喉を鳴らして息を呑んだ。

 

 だが、緋色の小袖を纏った浪人は、その鋭利な気配をそよ風ほどにも感じていない様子で、平然と首を振る。

 

「いいや、某の完敗でござるよ。それどころか、某は沖田殿に拾われたようなもの。どちらかと言えば、彼女は某の命の恩人でござる」

「ほう……しかし、総司君からは、君との斬り合いで完全に不覚を取ったと聞いたがね」

「それは過程の話。某が倒れた後、沖田殿はいくらでも某を殺せたはず……それをしなかったのだから、某にとっては命の恩人と変わらんでござるよ」

 

 男はそれだけを淡々と言い切ると、最後に、微塵の虚偽も衒いもない澄んだ笑みを浮かべた。

 男の理屈からすれば、止めを刺されなかった以上、それは命を救われたに等しい。

 眼前の怪物たちに、沖田のその不殺の選択を「敗者の失態」などと蔑まれることが、どうしても許容できなかったのだろう。

 

 そもそも、この浪人にとって刃を交えた勝敗など、泥にまみれた端切れほどにどうでもいい事であった。

 殿内という男の命をその剣で救えた時点で、彼にそれ以上の望みなど一つもありはしない。

 

 そんな男の底の抜けたお人好しぶりが透けて見えたのか、沖田は呆れたように小さく溜息を吐いた。

 

「このお人好し——」

「? 沖田殿、今、何か言ったでござるか?」

「いいえ、別に——馬鹿だなって思いまして」

 

 至近距離から投げつけられた直球の罵倒に、男は「え?」と間抜けな顔で固まってしまう。

 

「なるほどなるほど、大体の成り行きは分かった。総司君の報告に偽りはなく、また君の発言にも虚偽はない、と言う事だね」

「いや、だから某は沖田殿に負けて……」

「貴方がそれを主張し続けると話が進まないので、すこし黙っていてください」

 

 未だに的外れな反論を続けようとする男の口を、沖田が手元でぴしゃりと遮った。

 それを見ていた芹沢は、近くに置いてあった酒瓶から注ぎながら愉快そうに話を続ける。

 

「しかしそうなるとだね、私も困るんだよ。総司君は勝手に隊士を斬り殺そうとして、勝手に隊士を逃亡させた事になる。非常に厄介なことに、ねぇ」

 

 芹沢はこれみよがしに演技くさく「困った困った」と首を振りながら、酒にまた口をつけた。もう一方の手では、折り畳まれた鉄扇で己の肩をリズミカルに叩きながら。

 

 しかし、その目は全く笑ってなどいない。

 

 芹沢からしてみれば、近藤一派の沖田も、根岸一派の殿内も、等しく己の覇道を阻む敵でしかない。

 もっと正確に言うならば、この壬生浪士組における主導権争いにおいて、己の足元を脅かす者は誰であろうと排除すべき邪魔者である。

 

 そんな邪魔な連中を、運が良ければ一度に二人も失脚させられる。

 芹沢の狙いがその政治的な切り崩しにあることは、この場にいる新見にも、そして当事者である沖田にも瞬時に理解できた。

 

 だからこそ、この二人はそれぞれの思惑を胸に、芹沢の言葉へと敏感に便乗する。

 

「芹沢先生の言う通り、沖田君はこの不祥事にどのような責任を取るつもりですか? 殿内さんと言えば、幕命でここに残られた取りまとめ役の一人ですよ。それを勝手に斬るなんて……」

「お言葉ですが、殿内さんは近藤一派、芹沢一派、根岸一派とは別に、己の第四の勢力を築こうと裏で暗躍していました。それを見過ごせば、我が浪士組にさらなる血の混乱を招くのは必至。私が殿内さんを仕留め損ねたことを糾弾される筋合いはあっても、あの男を排しようとした大義を責められる覚えはありません」

「だがね、証拠がないだろ、証拠が。彼が第四勢力を作ろうとしてたのは、ただの君の妄言かもしれんよ」

「っ、そちらも殿内さんが不審な行動をしていたのは知っていたはずです! 私にあの人を斬るように提案したのだって……!」

 

 激しい言葉の応酬とともに、新見と沖田は互いに一歩も引かぬ視線で睨み合った。

 室内には、一触即発のひりつくような緊張感が満ちていく。

 

 芹沢はそんな二人を面白そうに眺めていたが、ふと、その政治的な言い争いから完全に蚊帳の外に置かれ、ただじっと己を見つめてくる緋色の浪人へと、唐突に矛先を向けた。

 

「と、こんな風に醜く言い争っている訳だがね。当事者である君は、どう思うかね?」

 

 水を向けられた男は、しばらくその静かな瞳で一同を見渡した後、穏やかに口を開いた。

 

「……某には幕命だの、勢力だの、一派の面目だのといった難しいお話は、とんと分からんでござるが。ただ一つ、この場で確かに言えることは――」

 

 男はそこで言葉を区切り、まっすぐに芹沢の目を射抜いた。

 その双眸に宿る光の深さに、芹沢は思わず笑みを止める。

 

「――これ以上、沖田殿に人殺しを強要するべきではない、と言うことでござる」

 

 男がそう平然と言い放った瞬間、その一室において、全員が虚を突かれたようにぽかんと呆気に取られた。

 

 なにを言っているのか。

 今はそんな話をしてはいない。

 だというのに、この男は唐突に、それが当たり前かのように、そう言ってのけた。

 

 だが、その静寂を最初に破ったのは、やはり芹沢であった。

 

「ふははははは! 総司君に人殺しをさせない? この期に及んで何を抜かすかと思えば……よりにもよって、会津藩お預かりの壬生浪士組の隊士に刀を抜くなと?」

「誰も剣を抜くなとは言っておらんよ。ただ、一戦交えただけで分かったでござる。沖田殿の剣技は天下一品。されど、その魂は未だ穢れを知らず、彼女のその手は、まだ汚れてはおらぬと。ならば……そのような悍ましい泥沼に、自ら進んで足を踏み入れるべきではない」

「だから殺させるなと? ふん、馬鹿馬鹿しい! 武士が人を斬らずに何を斬ると言うんだ?」

 

 世間を見渡せば、神州を揺るがす「天誅」だ「尊王攘夷」だと、誰もが狂ったように刃を血に染めている。

 

 そんな狂気の時代に対して、男が語る「不殺」の理屈は、あまりにも甘すぎる夢物語であった。

 芹沢はもとより、新見も、そして当の沖田自身でさえ、芹沢の言葉に内々で同意せざるを得ない。

 武士が戦場で断ち切るものは、果物や魚なんかではない。

 己の信念と相容れない人間の、その首根っこだけである。

 

「……」

 

 だが、男はどれほど嘲笑されようとも、その柔らかな意志を曲げようとはしなかった。芹沢の放つ、蛇のような執拗な睨みに真っ向から挑み、細い目線をピクリとも外さない。

 それどころか、文句があるなら幾らでも吐き出すがいい、とすら語りかけてくるような。そんな底知れない勇ましさまである。

 

 芹沢もまた、この華奢な若造の奥底にある芯を本能的に察したのだろう。

 哄笑をぴたりと収めると、手にしていた鉄扇を、ぱしゃりと閉じた。

 

「相分かった。君が人殺しという行為を、反吐が出るほど快く思わない人間だということはね」

 

 芹沢は乱暴に酒瓶を取ると、そのまま御膳に置いたお猪口へとトコトコと白酒を注ぐ。

 

「けれど、それを踏まえて聞きたいことがある。古来より、他人に『その道へは進むな』と嫌なものを説くとき、それは決まって、己の実体験という血の滲む教訓から説明されるものだよ。つまり君がそれほど人殺しの気味悪さを知っており、他人にそれを禁じるということは——君は人を殺したことがあるということだね?」

「……」

 

 芹沢の酷薄な、核心を突く問いかけに、男は何も返さなかった。

 

「いや、実に君は人が悪い。自分は人を殺しておきながら、他人には『人を斬るな』などと綺麗事を宣うのだから。……今のご時世、女が剣客をやっているだけでもおかしな話だ。普通であれば、このような奇跡は万に一つも考えられない。けれど幸福なことに、沖田君には腕があった。群を抜く天才であったからこそ、こうして壬生浪士組に取り立ててもらえているんだ。君は、そんな彼女から唯一の存在理由を取り上げるつもりなのかね?」

 

 その言葉に、あからさまに嫌な顔をしたのは、男ではなく沖田の方であった。

 

 彼女からすれば芹沢の言っていることは全て正論である。

 己がこの血生臭い京の街にいられるのも、近藤勇の役に立つだけの、人を殺めるに足りる技量を兼ね備えていたからだ。

 でなければ、女の身でありながら天然理心流の塾頭など任されないし、そもそも京への同行だって許されるはずがなかった。

 

 己には斬るだけの力があり——才能がある。

 

「慢心」とも取れるその苛烈な自負は、されど沖田がこれまでに磨き上げてきた圧倒的な剣腕によって、絶対の「当然」へと変換されていた。自惚れるだけの強さを、彼女は確かに持っている。

 

 今の彼女は、まだ人を殺したことはない。

 しかし、もしこのまま手を血に染め、人を殺し慣れてしまえば、彼女は瞬く間に「真の人斬り」として大成するだろう。

 それはもはや、この幕末という世界が望み、決定づけた宿命であるはずだった――。

 

「確かに。人殺しは時に切望され、武士とは人を斬るのが役目――沖田殿にはそれを行うだけの天賦の才能があり、また力もある。このまま剣の道を進めば、誰もがその名を恐れる最強の剣客となるでござろう」

 

 男は静かに言った。

 それがこの世の冷酷な真理なのだと。

 この血を求める時代が、最も希求している人間像なのだと。

 

「けれど某は——そんな誰もが従う当たり前よりも、誰もが諦める当たり前じゃないことを目指す方が、ずっと素敵だと考えているでござるよ」

 

 男の言葉に、わずかに熱が籠もる。

 

「剣は人を傷つけ、命を奪うためだけの凶器ではない。その圧倒的な力で目の前の誰かを守り、その涙を拭うためにだって振るえるはず。できれば……沖田殿には、そんな誰かを守るための剣を目指してもらいたい」

 

 当たり前じゃないことを目指す。

 誰かを守るための剣の道を志す。

 

 口で言うのは簡単だ。

 もし、時代が違えば。もし、世の誰もがそんな強い心を持ち合わせているならば。

 きっと男の言う理想は現実になったやもしれぬ。

 

 けれど、この世からは戦争も、不条理な殺戮も、全て無くなりはしない。

 それは、彼の言う理想を実行できぬほどに人間は弱く、脆いからこそ、誰もが「時代のせい」や「常識」という名の言い訳に逃げるのだ。挑戦することをやめ、理想の夢を見ることを、いつしか諦めてしまう。

 

 しかし、男の瞳にある願いは、どこまでも純粋で、どこまでも濁りがなかった。

 それはまるで、幼な子が星を指差して将来の夢を語るような、あまりにも眩しい眼差しであった。

 

 芹沢はそんな男の瞳に舌打ちし、新見は意味が分からんとばかりに冷ややかに視線を逸らす。

 

 だが、――沖田総司だけは。

 

 そんな男の語る戯言に耳を貸し、その幼子のような夢見ががちで馬鹿な微笑みから、目が離せなくなっていた。

 

「綺麗事だな……やはりどこまでいっても夢物語に相違ない」

 

 幾ばくかの逡巡を得たのち、芹沢が吐き捨てられたのは、そのようなものだった。

 

 そして――。

 

「貴様らは誰一人として、時代の転換というものを真に理解できちゃいねぇ! 近藤も、根岸も、家里も、誰一人として、だ!」

 

 次の瞬間、獣のように低く怒鳴るや否や、手にした重厚な鉄扇を男の顔面に向けて容赦なく投げ放つ。

 

 けれど男は避けることをしない。その場からあえて微動だにせず、座したまま。

 鉄扇が額にあたり、そこから血が流れようとも、男は一点の曇りもない鋭い瞳で芹沢の双眸を捉え続けた。

 

「なぜ避けなかった? もしや——避けたところを斬りつけると分かっていたのかな?」

 

 芹沢はその言葉通り、鉄扇を投げつけると同時に、膝元の愛刀の鯉口を切り抜き放っていた。

 もし男が鉄扇を躱そうと一瞬でも上体をのけ反らせれば。

 あるいは意識を取られ、視線を芹沢から外していれば。

 その隙を狙った白刃が、いまごろ彼の肢体を文字通り両断していたことだろう。

 

 一連の刹那のやり取りを間近で見ていた新見は、芹沢の底知れない残虐性に思わず息を呑み、絶句した。

 

「いや、どちらにせよ避けるつもりは無かったでござるよ。某は間違ったことは言っておらん故」

 

 額から頬へ、頬から首筋へと、裂けた生傷から紅い血が止めどなく伝い落ちていく。

 

 それでも男は声を荒らげることもせず、ただ静かに、凪いだ海のような冷静さで言葉を返した。

 芹沢がどれほど嘲笑おうと、牙を剥こうとも、男はその挑発の渦に一切乗らない。

 ただ、己の語った理想の重さを、その身を挺して証明してみせたのだ。

 

 正面から己の殺気を完全に受け流された芹沢は、急につまらなそうな表情を浮かべると、抜き放ったばかりの抜身の刀を、横にいた新見へと無造作に放り投げた。

 当然、そんな危険な凶器をまともに受け止められるはずもない新見は悲鳴を上げてのけ反り、刀は鋭い音を立てて畳へと深く突き刺さるのだが。

 

「まあいい。どちらにせよ総司君に処罰が必要なのは変わらないのでね。よかったじゃないか、これで君の言う通り彼女は人殺しには成らなくて済む」

「……どういう意味でござるか」

「同志である仲間を勝手に殺そうとしたんだ。彼女には、その償いをしてもらわないとだろう?」

 

 低く、ねっとりとした声音が座敷に響く。

 それを聞き、男の細い眉が初めて不穏さにピクリと動いた。

 

 しかし、そんなことはどうでもいいのだろう。

 芹沢は懐から一振りの小ぶりな短刀を取り出すと、それを沖田の目の前へと無造作に放り投げる。

 

「短、刀……?」

「大丈夫だ、総司君。苦しまないよう、きっちり新見が介錯してくれる。何の憂いもなく、安心して逝くといい」

 

 芹沢の喉からは、まるで肺から空気が漏れ出したような、気味の悪い笑い声が漏れていた。

 座ったまま硬直している沖田の目線に合わせるように、芹沢はゆっくりとその巨躯を屈め、彼女の顔を、まるで穴が開くほどに凝視する。

 

「ほら、どうしたのかね。最後くらい、君たちが常々言っている『武士の誇り』とやらを、この私に見せてみたらどうだ?」

「まさか……」

「おお、ようやく気づいたのか。鈍いね、君は。それとも……近藤の道場では『切腹』の作法すら教わらなかったのかな?」

 

 切腹、と聞いた瞬間、沖田は驚きの表情を見せる。

 だが、その困惑を愉しむように、芹沢の無骨な手が沖田の手首を乱暴に鷲掴みにした。抵抗を許さぬ剛力で彼女の手を床へと押し付け、まるで自決の作法を強制するように、芹沢はさきほど投げた一振りの短刀をぶっきらぼうに引き抜く。

 

 鞘から剥き出しになった白刃。

 鏡面のごとき輝きを放つその刃文には、恐怖ではなく、信じがたいものを見るような沖田の貌が、あまりにも克明に映し込まれていた。

 

「仕方ない。切腹のやり方も知らん田舎娘のために、真の武士である私自ら教えてあげるとしよう」

 

 芹沢は沖田の細い右手を強引に捻り上げると、その掌に無理やり短刀の柄を握らせ、鋭利な切っ先を彼女自身の下腹部へと向けさせた。

 

 ――重い。

 純粋な腕力のみで言えば、当然、芹沢のほうが強い。

 沖田は必死に歯を食いしばり、渾身の力を込めて刃を押し返そうとするも、所詮は小柄な女の筋力だ。どれほど鋭い剣を振るう天才であっても、当時の日本人としては規格外の巨躯と怪力を誇る芹沢に敵うはずもなかった。

 

(ああ、やっぱり、こうなりますよね……!)

 

 正直なところ、殿内暗殺を仕損じた時点で、沖田はこうなるであろうことを半ば予感していた。

 

 いやもしかしたら、たとえ暗殺を成功させたとしても、その罪を芹沢は沖田に擦り付ける予定だったのかもしれない。芹沢一派からしてみれば、邪魔な根岸の身内と、目障りな近藤の愛弟子を、合法的に葬り去ることができる一石二鳥の好機だったのだから。

 

 だからこそ、この場を凌ぐ政治的な方策も考えてはいた。

 考えては、いたのだ。

 

「こらこら。力が入りすぎだ、総司君。もっと肩の力を抜きたまえ」

「――っ、く、お拒り……します!」

 

 だが、ここまで道理も無視した暴挙に出るとは――完全な想定外だった。

 

 みしみし、と畳が擦れる嫌な音が響く。

 じりじり、と容赦なく着物を裂き、肉へと迫る冷徹な白刃。

 あと僅か――蟻一匹すら這い出る隙間のない絶望の間合いまで、沖田の腹部と短刀の切っ先が近づいた。

 

 まさにその刹那だった。

 

「やめるでござる」

 

 突如として、肉と鋼の擦れ合う凄絶な音が座敷を引き裂いた。

 見れば、短刀の白刃そのものを、なんの躊躇いもなく素手で力任せに掴み取り、その軌道を完全に停止させた者がいた。

 

 浪人の男は極めて静かに芹沢を見据えたまま、その驚異的な握力に任せ、掴んだ刀身を握り潰す。

 

 なんら比喩ではない。

 鍛刀の根本からぽっきりと折るのではなく、まるで乾いた石くれでも粉砕するかのように、鉄の刃を木っ端微塵に砕き割ってしまった。

 

 鋭利な業物を握り締めた代償は、当然ながら凄惨だった。

 男の掌の皮膚は容易く引き裂かれ、肉の断裂が痛々しく垣間見える。そこからどばりと溢れ出た鮮血が、まさに滝のように滴り落ち、畳の上へと不吉な紅い水たまりを広げていた。

 

 常人ならば五指すべてを落としていても不思議ではない、狂い悶えるほどの重傷。

 にもかかわらず、緋色の浪人は己の痛みなど最初から存在しないかのように、ただ、呆然とする沖田へ視線を向けた。

 

「大丈夫でござるか?」

「え、ええ……」

 

 事も無げに、ただ心配そうにそう尋ねる男の顔を見て、沖田は半ば無意識に首肯する。

 しかし、すぐさま正気に戻り――。

 

「って——自分の手が、今どうなっているのか分かっているんですか!?」

「ん? ……はて、少しばかり切れてるでござるな」

「『切れてるでござるな』って……そんな生易しいものじゃないでしょう! これじゃあ、下手をすればもう刀だって振れないじゃないですか……っ!」

 

 叫ぶなり、沖田は短刀の破片を拾うと、自らの着流しの裾をガリッと強引に引き裂いた。

 現れた白布を、男の血に塗れた掌へと猛然と巻きつけていく。怪我をした時は、まずこうして力任せに縛って血を止めるのだと、試衛館の道場にいたとき教えてもらった。

 

 突然のことに、浪人の男は丸い目をさらに丸くする。

 まさか、彼女がここまで取り乱したように己の手当てをするなど露ほども予想していなかったのだろう。

 

「あーもう! とにかく、血を止めながら井戸まで行きますよ! 水で洗い流してから、もっと綺麗な布で止血した方が良いと教わったことがあります!」

「い、いや。そこまで面倒をかけてもらうわけには……」

「何を言ってるんですか! 貴方は、私なんかのためにその指を切断するところだったんですよ!?」

「あわわわ、沖田殿、強引でござる〜! 某、自分で歩けるが故〜っ!」

 

 怒涛の気迫に押されるがまま、男はズルズルと情けない声を上げながら部屋の外へと連れ出されそうになる。

 

 しかし、背後の怪物が黙って見過ごすはずもなかった。

 

 興を削がれたせいか。はたまた、切腹の邪魔をされた腹いせからか。

 芹沢は沖田に手を引かれ、よろめいていた男の衣服の襟を、背後から容赦なく鷲掴みにし、そのまま部屋の奥へと力任せに投げ飛ばした。




うほ、いい男。
主人公の容姿をようやく描写できた。
どうせ皆さんあれでしょ、参考元の姿を想像してたでしょ。
大丈夫、作者も同じです。

はい、今回のちょこっと豆知識を載せておきますねー

・新見錦
新撰組が好きならば知ってる人が多いと思われる人物。
芹沢が筆頭局長で、この新見と近藤が局長を後につとめたりする、意外とすごい人。浪士組の際には、三番組小頭に任命されていたりします。しかも部下には、沖田の義理の兄である林太郎、井上源三郎などの試衛館メンバーが多くいたりだとか。まあ、井上さん以外は江戸に戻りましたけど。
そんなことから、意外と名も知れた人だったり、強い人だったりしたのかもしれませんね。私の小説ではちょっと小物くさいですけど!!

永倉、井上、藤堂、原田などの壬生浪士メンバーをオリキャラとして出すか。また、出すとしてとの程度か。(これによって沖田さんの出番が減るとかは無いです)

  • 出さないでほしい
  • 出しても良いけど、モブキャラ程度で
  • 出してほしい
  • めちゃくちゃ出してほしい
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