殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:ただの物書き

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薩摩の人斬り

「ここは私に任せてもらえますか」

「大丈夫でござるか……?」

「ええ、問題ありませんとも」

 

 その返しを聞き、赤衣は静かに一歩退く。

 この場はあくまで京を預かる壬生浪士組の領分であり、彼女らの役目。一概の浪人である赤衣が出張っていい場面ではない。

 男は少女から感じる責務を尊重し、助太刀をあえて控え、一歩を譲った。

 

 それを見届けると、沖田もまた一歩、前へと出る。

 石畳を踏む足音だけが、夜の路地に乾いた音を残した。

 

「さて……あなたが――噂の辻斬りですね」

  

 沖田の呟きが夜の路地へ溶ける。 

 

 向かい合う男は一人。

 昨今、巷を震え上がらせているという辻斬り――通称、薩摩の人斬り。

 

 夜毎、人を斬り捨てる化け物。

 奇々怪々にして、鬼哭啾々。

 それは魑魅魍魎の類か、あるいは、業に狂わされた人の成れの果てか。

 

 なるほど——それらの言葉が目の前の男を表すというのなら、妙な納得感がある。

 

 ただ佇んでいるだけだというのに、その男の風貌はあまりにも異様だった。

 剣客特有の鋭い殺気がどうこうという話ではない。もっと根本的な、この世界の理から外れてしまっているかのような何か。

 牙を剥く獣を前にした時、人は本能的に危険を察知して身を竦めるというが、ならば、今この五感をじりじりと焼き焦がしている悪寒は何というのか。

 目の前の男は、確かに人の形をしていながら、人とも獣とも違う――この世に存在してはならないナニカにしか見えなかった。

  

「なにモンじゃ……オハン……」  

  

 対して男は、地を這うような掠れた声で言葉を漏らす。

 それは長い間、他者と会話をしていなかった者のような声音だった。

 

 じぃっと——。 

 

 深く被った笠の奥から覗く双眸だけが、冷徹に沖田を捉えていた。

 蛇に睨まれた蛙ならば、一歩も動けずに竦むほどの威圧感。

 だが、沖田総司という女もまた、別の意味で常軌を逸していた。

 

「あいにくと、あなたに名乗る名など持ち合わせてなどいませんので」 

 

 沖田はその悍ましい視線を真っ向から受け止め、なおも一歩、死の圏内へと間合いを詰める。

 

「一応聞いておきますが、その人を斬ったのは、あなたで相違ありませんね?」

 

 地面に転がる物言わぬ骸を顎で示しながら、沖田は淡々と問いかける。

 

 返答はすぐには来なかった。

 男は微動だにせず、ただじっと沖田を見つめ返している。その空虚な眼差しは、言葉の意味を咀嚼しようとしているのか、あるいは目の前の新たな獲物のどこを斬るべきか選定しているのか。

 

 どちらにせよ、足元に横たわる死体からは、未だに生々しい血が流れ出し、濃密な死臭を路地に充満させている。

 男の持つ白鞘にべっとりと付着した返り血も、まだ凝固すらしきってはいない。

 

 現行犯——とは言い難いまでも、男に言い逃れなど、そもそも通用する状況ではなかった。

 

 だが、男は一度だけ視線を足元の死体へと落とし、それから再び沖田を見た。

 

「どい、ジャった……か」

「?」

 

 噛み合わない問答に、思わず沖田の眉が寄る。

 そんな彼女の不審を置き去りにしたまま、男は構わず言葉を繋げた。

 

「ずーっト……腹ァへンちょっタ」

 

 ぼそり、と路地裏の闇に置かれた声は、まるで違う誰かにの中語りかけるような、異様な独り言だった。

 

「……? あなたは自分が飢えていたから、その人を斬ったとでも言いたいんですか?」

「チガ、う……」

 

 男はゆっくりと頭を振る。

 

「おいでハ、ない。腹ァ、減ン……ちょっタ……」

 

 男は壊れたように、同じ言葉を繰り返す。

 

「ずっと……キギ……鳴いちょっタ」

 

 男の白鞘を握る指が、ごりりと不自然な角度で軋んだ。

 

「クわせェ……クわせェち……鳴いちょっタ……」

 

 その聲音には、一切の怒気も殺意も混じっていない。

 ましてや、狂気に駆られた絶叫でも、快楽に歪んだ笑みでもない。

 ゆえに、胸がむかつくほどに気味悪く感じた。

 

「さっぱり分かりませんね……あなたはさっきから一体、誰の話をしてるんです?」

 

 これ以上の対話は無意味だと悟りつつも、沖田は刀の柄を握る手にぐっと力を込めて問い詰める。

 だが、男はもう答えない。ただ、笠の奥の暗闇で、ぎらりと獣の瞳を光らせるだけだった。

 その不気味な佇まいに、沖田の訝しみはより一層深くなっていく。

 

 おかしい——何かが。

 

 これが単なる狂人や、人斬りの快楽に脳を焼かれた浪人であれば、むしろ話は容易だった。

 理屈もなく喚き散らし、支離滅裂な殺意を剥き出しにする手合いなら、力付くでねじ伏せれば、すべてが解決する。

 

 だが、目の前の男にあるのは、凶行の果ての興奮ではない。

 ただ冷徹に、定められた歯車のように、そこでそうするべきと定義づけられた機能のようだった。

 人と会話しているとは、とんと思えなかった。

 

「意味不明なことばかり言い並べたかと思えば、次はだんまりですか……」

 

 沖田は、一定の間合いを保ちながら、隙がなく男を睨む。

 会話の成立しない壁を前にして、沖田は一度間合いを保ったまま、同意を求めるように隣の男へ顔を向けた。

 

「まったく、気味が悪いって、こういう事を言うんですかね?」

 

 しかし、そこではたと言葉を失った。

 沖田の瞳に映った赤衣の横顔が、彼女の予想したものとは違っていたからだ。

 

 眼前に理不尽な死が転がっているというのに、いつもの悪苛烈な怒りはそこにはなかった。

 代わりにあったのは、酷く深く、重い思索に沈んだ姿。

 

 赤衣は腕を組み、下顎を指先で押さえながら、視線をあさっての方向へと落としていた。

 目の前の男を見ているのではない。

 まるで、自らの記憶を掘り起こし、照らし合わせているかのような――そんな深い考え込み方だった。

 

「どうか、したんです?」

「いや……」

 

 小声の問いかけに、赤衣は短く応じた。

 いつもの彼なら「何でもないでござるよ」と続けるような声音。

 だが、視線は虚空に彷徨ったままで、顎を捉えた指先にぐっと力がこもる。その確かな強張りだけで、決して何でもなくはないのだと、かえって雄弁に物語っていた。

 

 赤衣はふっと顎から指を離し、思考を断ち切るように薩摩の人斬りへ視線を戻した。

 

「ひとつ……聞かせてはくれぬか?」

 

 じぃっと。

 㠪面から見据える赤衣の眼差しを、男は笠の奥から静かに見つめ返している。

 

 張り詰めた沈黙。ただの睨み合いではない。

 互いの存在を測り合うような奇妙な静寂のなかで、赤衣は静かに、しかし迷いなく、男の核心へと踏み込んだ。

 

「お主は、いつから……自分が何者か分からなくなったでござるか」

「え……?」

 

 それは、あまりに唐突な問いかけだった。

 なぜ今、そんなことを尋ねるのか。

 沖田が赤衣の意図を測りかね、その横顔に視線を巡らせた、まさにその瞬間である。

 

 緊迫した路地裏の空気が——爆発的な殺意を伴って一変した。

 

「お、おいが……ダレじゃ、と……? お、おいは……キ、ギ、おい、ハ——」

 

 男の喉から、壊れた歯車が無理やり噛み合うような、おぞましい音が漏れる。赤衣の問いが、男の辛うじて保っていた危うい境界線を、完全に踏み荒らしてしまったように見えた。

 

「おいハ……おいハ、ヒト斬リ、じゃ……! 天誅ヲ……売コク奴どもニ、天誅ヲ下す、刃ジャ……ッ!」

「ならば、お主がこれまで辻斬りで手にかけた、無辜の民や女子らは、一体どういう領分でござる」

「おい、ハ……。チが、違ウ、アレは、天誅、おいハ、たダ……タケチ、先生、の……おいハ、先生ノ……」

 

 自らに言い聞かせるような呪詛。

 その言葉は、赤衣へ向けられたものではなかった。

 まるで、自らの内側で崩れ落ちようとする何かを、必死に繋ぎ止めようとしているような、そんな問いかけだった。

 

 ――自分は誰なのか。

 その、あまりにも単純な問いだからこそ、男には最も耐え難い問いなのかもしれない。

 己が何者なのか。何のために剣を振るってきたのか。誰の言葉で生き、誰の意思で人を斬ってきたのか。

 

 その答えを探ろうとするたび、人斬りの頭の奥で何かが軋む。

 思い出してはならない——考えてはならない。

 

 そんな命令だけが、焼き印のように脳裏を埋め尽くしていく。

 赤衣はなおも視線を逸らさず、静かに言葉を重ねた。

 

「語る言葉が他人の受け売りならば、それはお主の魂ではござらんよ……お主の真の名は何でござる。なぜ、そんな風になった」

「おい、ハ……天誅、ヲ……おいハ、おい、はァァアアッ!!」

 

 その瞬間、男の全身がびくりと跳ねた。

 首筋に青黒い血管が浮かび上がり、笠の奥で眼球が激しく震える。歯はがちがちと噛み合わず、肩は硬直したように痙攣し、四肢は自らの意思とは無関係に引き攣っていた。

 

 何かに苦しんでいる――そう見える。

 

 やがて混濁した言葉すら途絶え、男の口から漏れるのは獣のような唸りだけとなった。

 

「キィエエエエエエエッ!!」

 

 ——まずい。

 

 赤衣との対話を見守っていた沖田の全身を、未だかつてないほどの強烈な悪寒が駆け抜ける。

 理屈ではない。剣客としての本能が、死の接近を察知して激しく警報を鳴らしていた。

 彼女は反射的に腰を深く落とし、刀の柄を握り締める。相手がどのように動こうとも即座に対応できるよう、全神経をその場に研ぎ澄ませた。

 

「向かって来ますよ!!」

 

 沖田は赤衣を見ず、そう忠告を飛ばす。

 だが、その瞬間、沖田は驚愕に目を見開いた。

 

 見失ったのだ——。

 

 それも、正確には違う——網膜には確かにその姿を捉えていたはずなのに、男の身体は消えたと錯覚するほどの加速をもって、一瞬にして視界から消失したのだ。

 

 完璧に身構えていた。いつ斬り込まれても動けるよう、重心も万全に落としていた。

 それなのに、超一流を自負する己の反応速度をもってしても、物理的に捉えきれなかった。

 

(いったい、どこに——ッ!?)

 

 ――と、その思考が形を成すより早く、横殴りの烈風が沖田の頬を叩く。

 

 肌を押し潰すような風圧と、強烈な死の気配。

 それらが自分のすぐ脇を駆け抜けたのだと本能が察知したのは、まさにその瞬間だった。

 

「チェストオオオオオオオオオ!!」

 

 隣から、世界を叩き割るような絶叫が轟いた。

 遅れて、耳をつんざく鋼鉄の激突音が、夜の路地へ文字通り炸裂する。

 

 すさまじい余波に息を詰めながら、沖田が反射的に振り向く。

 そこでようやく、目の前で起きた事態を女は理解した。

 

 いつの間にそこへ割り込んだのかすら分からない。ただ一つ分かるのは——その凶悪の突進の先にいたのは、自分ではなく、赤衣だったということだけだ。

 

「なんで……っ!?」

「ぐぅ……!!!」

 

 赤衣は刀を十字に噛み合わせるようにして、正面から受け止めている。

 だが、止まらない。

 受け止めているというより、轢かれているのだ。

 轟音を撒き散らしながら、二人は石畳を削り取り、そのまま路地を一直線に押し流されていく。暴走した軍馬に真正面から撥ね飛ばされ、それでもなお足を止めようとしている――そんな有様だった。

 

「……っ、やらせません!!」

 

 立ち尽くいている暇などない。赤衣は完全に押されている。あの男の規格外の怪力に、石畳ごと削られながら後退を余儀なくされている。

 

 助けなければ——その事実を理解した瞬間、沖田はもう動いていた。

 

 正面からの加勢では間に合わない。

 ならば背後——低く身を沈め、一気に死角へと潜り込む。

 

 天然理心流の歩法ではない。彼女が生まれながらに、そして生活をしているうえで自然と身についた、俊足の歩法。

 その足音さえ殺す独自の歩法は、薩摩の人斬りとの距離を、一歩、また一歩と一瞬で潰していった。

 

(今、ここ――!)

 

 白刃が音もなく鞘を滑る。

 月光を弾いた鋭利の一閃は、薩摩の人斬りの無防備な脇腹へ吸い込まれるように走った。

 

「――隙ありっ!」

 

 本来なら、この一刀で綺麗に終わるはずの一撃。

 肋骨を避け、肉を断ち切るようにして振るわれたそれは、相手から急速に血液を無くし、酩酊のように失神へと誘う。

 殺しはしない。けれども、身動きも許さない。

 幕末の京において、背後から迫るこの神速の太刀筋を見切れる者など、どれほどいようものか。

 

 しかし――。

 

「――っ!?」

「——ヌっか」

 

 沖田の顔が驚愕で彩られる。

 決して、遅かったわけではない。むしろ疾い。常人の目には視認することすら叶わぬ速度だ。

 そのうえで、後ろからの完全な奇襲。気配を察知されたところで、沖田の瞬足に合わせた回避など、物理的にできようはずもない。

 

 けれど、現実は無情にそこにある。

 男はまるで背中に目でも宿しているかの如く、背後の気配をいち早く察知した瞬間、力任せにその半身を翻した。

 

「キィエエエエエエエエエエ!!!!」

 

 夜闇を呪うような雄叫びが市中に轟く。

 ――ただ、体を回したのではない。

 男は、正面で刀をぶつけ合っていた赤衣の質量を、強引にその旋回の軸へと巻き込んだのだ。

 それはまるで、独楽が相手を弾くようなもの。刃を合わせていた赤衣を真横へと吹き飛ばし、その凄まじい反動と遠心力を乗せる形で、男の剛刃が荒れ狂う円弧を描く。

 

「沖田、殿ッ!!」 

 

 赤衣が吹き飛びながら叫ぶ。 

 その警告にハッとし、沖田は咄嗟に繰り出していた剣を引き戻して、胸の前に刀を立てた。

 

 と同時、轟——と空気が裂ける音が劈く。

 

 男が、回転の勢いをそのまま叩きつけるような、猛悪な逆袈裟を放った。

 

 剣速そのものは——ほぼ互角。

 沖田が刀を戻して防御に回したのも、男の規格外の回転斬りが到達したのも、時間的には紙幅の差すらない。

 

 しかし、両者には決定的な差があった――膂力という、技量ではどうしようもない絶対的な質量差が。

 

「く、ぅあ――っ!」

 

 刀身を通じて、まるで大砲を叩きつけられたかのような衝撃が沖田を襲う。

 いかに神速の剣を誇ろうとも、彼女の身体は細身の少女のそれである。受け流すことすら許されぬ圧倒的な質量差の前に、その小柄な身体は容赦なく弾き飛ばされる。

 

 軌道を描いて宙を舞った彼女の身体は、防ぐ術もなく、そのまま傍を流れる鴨川の浅い流れへと激しく放り出された。

 

「大丈夫でござるか、沖田殿――っ!!」

 

 水飛沫が上がる音を背景に、赤衣の絶叫が夜の静寂を切り裂く。

 その光景を目の当たりにした彼の瞳は、驚愕と焦燥に大きく見開かれていた。

 

 ただの払いだった。不意を突かれ、十分な体勢すら取れていない状態からの、単なる回転の遠心力。

 それだけの一振りで、一人の人間をこれほど遠くへ吹き飛ばせるものか。

 いいや。もはや人の身が有する膂力の域を、完全に踏み越えている。

 

 ――まずい。

 

 もし、自分の最悪な懸念が的中しているのだとしたら、この人斬りは、もしや——。

 

「くっ、今はそれよりも——!」

 

 最優先すべきは、川へ落とされた少女の救出。

 いくら鴨川の浅瀬とはいえ、あの大砲のごとき一撃を食らって無事でいられるはずがない。もし意識を失っていれば、わずか数寸の水深であってもうつ伏せのまま溺死しかねない。

 

 一刻の猶予もない。そのために地を蹴り、川岸に繋がる並木道へと出る。そのまま最短距離で、沖田が吹き飛ばされた場所へ駆け出そうとした、まさにその刹那。

 

「キ、ギ……ニが、さ……ん……ッ!!」

 

 踏み出そうとした一歩より早く、薩摩の人斬りが地を滑るような速度で眼前へ割り込んできた。

 昏い眼窩の奥からは、ねっとりとした殺意が赤衣を縛りつける。

 

「っ……やはり、簡単に通す気はないようでござるな」

 

 すっと赤衣の佇まいから、一切の揺らぎが消えた。

 焦燥に駆られて背を向ければ、致命的な追撃を受け、結果として救出を遅らせるだけだ。

 ならば小細工は不要。

 眼前の障害を最速の剣で斬り伏せ、その足で彼女の元へ向かうのが、最も手っ取り早く確実な道である。

 

 赤衣は左足を引き、抜刀の構えを取った。

 

「オハン、も、コロす……ッ!! 我ラ、の、行手ヲはばムもん、は、ゼンいん……ッ!!」

「つべこべ言わず、かかってこい! 事情は知らぬが、これ以上、お前に時間を掛けてやるわけにはいかんな!」

 

 ただ、自分の慕う人のため——自分が慕う者の意志のままに、敵を殺し、不要なものを殺し、天誅を下す。

 その純粋すぎた人斬りの執念が、狂気によって黒く塗り潰され、ひどく歪でおぞましい異質な衝動へと完全に入り変わっていく。

 

 目の前にいる者が誰であろうと関係ない——ただ、殺し尽くす。

 それが、格差のない未来につながるのであれば——それが、異人に抗い国難を退けられるのであれば——。

 男は、すべてのものに、万物不当の天の裁きを下す。

 

「天ッ誅、ジャァァァァァァ!!!」

 

 薩摩の人斬りが地を蹴る。

 初太刀の大上段——薩摩藩士が使う示現流の代名詞でもある型。

 その凄絶な踏み込みにより、並木道の土塊が爆散した。強靭な大腿四頭筋により繰り出された急加速をもって迫る巨躯は、もはや巨大な質量兵器となんら変わらぬと言えるだろう。

 

 だが、赤衣の肉体もまた、すでに動いていた。

 迎え撃つは神速の抜刀術——狙うは頸動脈への峰打ち。

 狂気を孕んだその息の根を止めるのではなく、確実に意識だけを刈り取るための一振り。

 そんな、常人の知覚すら置き去りにする銀閃は、本来なら、相手がそれを認識するより早く喉元へと到達する早業だった。

 

「――っ!?」

 

 ——が、その抜刀よりも早く、眼前の距離が消失した。

 

「キィエエエエエエエッ!!」

 

 薩摩の人斬りが、抜刀が放たれるまさにその刹那——狙い澄ましたかのように、さらに前進の踏み込みを行ったのだ。

 

 完全に拍子を狂わされる。常人であれば一瞬の知覚すら許されぬ神速の最中にあって、男はあり得ない緩急をもって肉薄してきたのである。

 

 剣客同士の間合いの勝負において、それは明確な自殺行為だった。

 半歩間違えれば首が飛ぶ。少しでも、ずらす拍子を間違えれば、ただ自分から首を差し出す愚行と化す。

 だから誰もやらないし——誰も試みようとはしない。

 

 しかし、目の前の男は躊躇なくそれをやった——いや、狂気によって脳を焼き切られた男には、恐怖や躊躇、そして理合に従うという概念そのものが存在し得なかったのだ。

 

 肉を切らせて骨を断つ——どころではない。

 己の死すら完全に度外視した超至近距離への潜り込み。首を狙ったはずの赤衣の抜刀は、完全に予測を裏切られて軌道を狂わされる。

 

「ぐ――っ!」

「キギィ!」 

 

 ギィンッ――と耳を劈く火花が夜闇に弾ける。

 振り抜けるはずだった赤衣の刃が強引に止められた。

 

 伸ばし切るはずの腕は伸ばしきれておらず、折り畳まれた状態のまま、最悪の形で、薩摩の人斬りの太刀と噛み合う。

 

「く、ぐぅっ……!!」 

 

 鍔と鍔が激しくぶつかり合い、互いの濁った吐息が顔に吹きかかる超至近距離。

 居合とは本来、一撃離脱を本領とする剣だ。一瞬の斬り抜けによってその真価を発揮する。力と力が正面から衝突する鍔迫り合いは、抜刀術にとって最も相性の悪い、最悪の展開と言っても過言じゃない。

 

 肩口へ食い込んだ刃が、じりじりと赤衣を圧迫していく。受け流そうとするも、受け流した先からさらに強引に力で押し込まれる。

 かつて、示現流の初太刀を受け止めた武士が、刀で防ぎながらも、そのあまりの膂力に刀ごと顔面を陥没させられたという逸話がある。

 それは決して誇張などではなかった。

 目の前の化け物が放つ威力は、その伝説すら容易に凌駕している。

 

 薩摩の人斬りが乗せる質量は、まるで崩落する土石流そのものだった。

 

(これ以上、押し込まれれば……!)

 

 刃が沈む。

 布地を裂き、肩の肉へと鋼が食い込む。

 腕がみし、みしと軋み、全身の骨が悲鳴を上げた。

 

 強烈な加圧の前に、赤衣の足が地面へとめり込んでいく。

 一歩。また一歩。

 防戦一方のまま押し込まれ、どれほど踏ん張ろうとも抗いきれない。

 

 ついには、耐えかねた片膝が地面へと叩きつけられる。

 その衝撃で地べたに蜘蛛の巣状のひびが走った。

 

「くんぬ……っ!!」

 

 赤衣の脳裏に、肩から胸、そして腹までをまとめて両断される最悪のイメージがよぎる。

 もはや、差し込んでいる刀すらも、このしのぎ合いに耐えられるかどうか怪しい。

 それと同時に、上覧試合の折、斎藤から受けた脇腹の古傷が、内側から激痛と共に弾け飛ぶのが分かった。

 じわりと溢れる血の感覚——それでも。

 

「チェェェェェストォォォォォォ――!!」 

 

 怪物がさらに全体重を乗せて刃を押し込んでくる。

 刃が沈み、肉の薄皮一枚まで、あと一寸——あと半寸。

 死線が喉元に触れたその瞬間、赤衣の瞳に、冷徹な光が奔った。

 

「——っ!!」 

 

 次の瞬間、赤衣は力で抗うのを完全にやめた。

 わざと脱力し、さらに深く身体を沈める。

 無論、ただ力を抜けば次の瞬間には真っ二つだ。だからこそ、相手の凄まじい押し込みの矛先を、己の肉体を通じて前方へと受け流すように、慎重かつ大胆に力を制御する。

 

 押し込むことに、そして自分の抜刀術を力で破ることに盲目になりすぎたゆえの隙。本当に僅かな——男の足元の浮き。

 男の身体は、完全に前傾姿勢になりすぎており、ほんの僅か体幹の乱れを起こしていた。

 

 ゆえに、赤衣はそれを見逃さず、利用した。

 鍔迫り合ったまま人斬りの懐へ――その剛腕の下へと、己の肩を深く滑り込ませたのだ。

 

「キィ――!?」 

「はああああああああッ!!」 

 

 相手の突進力、押し込む腕力、そしてその巨体の体重。

 敵が放ったすべての運動の力を利用して、自分の身体を支点とする回転へと変換する。

 柔道の肩車、あるいは古流武術の投技に似た理合だった。

 

「————」 

 

 凄まじい風切り音と共に、薩摩の人斬りの巨躯が軽々と夜闇の宙へと舞い上がった。

 たった一瞬。されど、宙を舞う怪物にとっては永遠にも等しい致命の刹那。

 

 赤衣の使用する抜刀術は、すべて隙を生じさせぬ二段構え。

 鞘から放たれた一撃目が防がれた瞬間の対処など、とうの昔に肉体が覚え込んでいる。

 

 人斬りが宙を舞っている最中にもかかわらず、赤衣の身体が鮮やかに翻る。

 片膝を突いた状態からの、地を這うような最速の振り抜き。

 座したまま放たれる、逆渦の銀閃。

 

 そこで、再び夜が裂けた。 

 

「ががぁッ!!!!」

 

 ごぎりっ――と、鋭利な切断音ではなく、肉厚な鉄の塊が、肉と骨を限界まで叩き潰す重低音が響く。

 凄絶な速度をもって、刀の峰が、天地をひっくり返り空中を待っていた男の頭蓋を、正面から完璧に打ち抜いていた。

 

 頭部へ大槌のごとき一撃を食らった人斬りの首が、不自然な角度で大きく跳ね上がる。

 そのまま巨体は弾丸と化し、錐揉み状に回転しながら、生々しい肉の衝突音を響かせ、沖田が飛んだところとは別の鴨川の浅瀬へと吹っ飛ばされた。

 

「ガッ……、ハ……っ!」

 

 盛大な水飛沫を立て、水面に落とされた人斬りの口から大量の鮮血が吐き出された。

 なおも闘争の本能だけで川底へと手を突き、強引に起き上がろうとする怪物。

 しかし、脳震盪と峰打ちの破壊力に肉体がついていかないのか、支えようとした腕が、がたがたと激しく震え、そのまま力なく地面へと崩れ落ちた。

 喉の奥から、肺胞の潰れたような苦しげな嗚咽だけが漏れ出す。

 

「はぁ……、はぁ……、はぁ……くっ」

 

 対して、完全に静まり返った河岸の並木道では、赤衣は激しく肩で息をしていた。

 たまらず不自然に開いた左膝を地面に突き、片手を地面へと這わせる。刀を杖代わりにしなければ、その場に崩れてしまいそうなほどの満身創痍だった。

 

 完全に限界を迎えた肉体の悲鳴を、ただ気合いだけで強引にねじ伏せ、男は未だ暗い川沿いの先を睨み据え続ける。

 

「沖田、殿……は……!」

 

 おぼつかない足取りで、赤衣は冷たい鴨川の流れの中へと躊躇なく足を踏み入れた。

 浅瀬とはいえ、流れる水が容赦なく体力を奪っていくのは変わらない。

 月光の届かぬ暗い水面を見回しながら必死に彼女の姿を探すと、少し下流の闇の中で、水飛沫と共に激しく咳き込む影があった。

 

「いったたた……。ごほっ、もう、冗談抜きで骨が軋んでますよ……」

 

 そこには、ずぶ濡れの着物を夜風に震わせながら、どうにか自力で立ち上がろうとする沖田の姿があった。

 赤衣は急ぎ歩み寄り、冷え切った彼女の手をそっと引いて、川岸の土手へと引き上げる。

 

「よかった……、無事でござるな」

「全然よくありませんよ! さっきのは、この沖田さんも本当に死ぬかと思いましたからね!?」

 

 憤慨した様子でまくしたてる沖田だったが、土手の上に上がった瞬間、赤衣の肩から、そして脇腹から止めどなく溢れ出る鮮血に気づき、その表情を凍りつかせた。

 

「って……その傷、何ですかそれ……!」

「……問題ないでござるよ」

 

 努めて平然を装う聲音で答えるものの、赤衣の着物はまたたく間に赤黒く染まっていく。

 斎藤と切り結んだ際の古傷が完全に裂けている。それに加え、先ほどの凄絶な鍔迫り合いで肩の肉も深く削がれていた。

 普通なら立っていることすら億劫な重傷だ。

 

 それでも赤衣の視線は、川の中で今も悶え苦しむ男から一瞬たりとも離れなかった。

 

 人斬りは未だ、痙攣するように身体を震わせ続けている。

 立てない。それは間違いない。だが、あれほどの昏倒の打撃を頭部に喰らいながら、あの怪物は未だに気絶すらしていないのだ。喉の奥から這い出る呻き声は、まるで身体の内側で蠢くナニカと必死に戦っているかのようですらある。

 

「とにかく、手当はあとでするとして……今のうちですね」

 

 沖田は表情を引き締め、ぱちんと音を立てて刀を鞘へと納めた。

 

「近くで縄を探して縛りましょう。これだけ痛めつけられていれば、いくらあの化け物でもしばらくは動けませんとも」

「そうだと、いいが……」

「とにかく、あなたはそれ以上、傷口を開かないよう、ここで座って見張っててください! 縄を探してくるのは、私がやりますので」

「おろ」

 

 と、無理やり肩を押さえつけられ、草むらへと座らされる赤衣。

 ずぶ濡れのまま、すたこらと近くの民家や問屋の荷を求めて走り去る沖田の背中を、彼はただ呆然と見送るしかなかった。

 もう少しは年頃の娘としての矜持や、体裁を気にしてもよさそうなものだが――彼女の有無を言わせぬ小気味よい勢いには、どうにも調子を狂わされる妙な強制力がある。

 

「……やれやれ、大したお転婆娘でござるな……」

 

 痛む脇腹を押さえながら、赤衣の唇から自然と小さな苦笑が漏れた。

 過酷な戦いの中に灯った、ほんのひとときの温もり。

 

 ――しかし、そんな気の緩みも一瞬のことだった。

 

「……が、あ……っ、ア……」

 

 一人残された河岸の静寂のなか、おぞましいうめき声が、再び彼の意識を現実に引き戻す。

 赤衣の視線は鋭く、川面を揺らす影へと据えられた。

 

 浅瀬に伏した薩摩の人斬りの口から、おどろおどろしい呼気が漏れている。

 先ほどの峰打ちは、間違いなく脳を揺らし、頭蓋を叩き割るほどの威力を込めた。人間の肉体であるならば、最低でも数刻は昏倒していて当然の致命打。

 だが、男の指先はぴくりと動き、川底の泥を掴むようにして、じりじりとその巨体をのけ反らせ始めている。

 

(回復が早い……いくら示現流の使い手とて、これほど頑強なはずが……)

 

 赤衣は開いた脇腹を片手で押さえ、溢れる血を止めようと強く圧迫しながら、冷徹な目でその光景を観察する。

 

 気絶していないのではない。

 あれは、肉体が気絶することを許されていないのだ。

 

 男の瞳の奥には、すでに意志の光など残っていない。

 白目を剥き、ただ喉を鳴らすだけの肉塊。それなのに、その四肢だけが、まるで目に見えない強靭な糸で無理やり駆動させられているかのように、ぎちぎちと音を立てて起き上がろうとしている。

 

 そんなとき、赤衣の目が限界まで見開かれた。

 血に濡れた男の唇の隙間から、ぬらりと現れる、一匹の異形な蟲——京の町で、まず見ることがないと思っていたそれが、ゆっくりと這い出てくるのが見えたからだ。

 

「まさか————あなた、が…………?」

 

 かつての戦いか、あるいは古き因縁か。

 脳裏をよぎる最悪の仮説に、赤衣の脳裏が一瞬で真っ白に染まる。

 

「ありましたよー、太い縄ー! 見てください、こんなの神社でしか見たことがないですよねー!」

 

 その無邪気な声と同時に、赤衣の背筋を未だかつてない絶対的な悪寒が駆け抜けた。

 

「っ、沖田殿! 早く、そこから離れるでござるッ!!」

 

 思わず、裂帛の気合いと共に赤衣が叫ぶ。

 夜闇の向こう、嬉々として縄を掲げていた沖田が、その異様な声音に不思議そうに首を傾げた。

 

「え? いきなり、どうしたんですか————って」

 

 その瞳には困惑しかない。それも当然だった。

 剣の天才たる沖田の目をもってしても、捉えられているのは、目の前で必死に叫ぶ赤衣と、いまだ川底で起き上がれずに苦しんでいる人斬りの姿だけ。

 そちらの領分ではない者に、この異変は捉えられるはずもなかった。

 

 次の瞬間、血に濡れた蟲が、爆発的な跳躍を見せる。

 一直線。まるで、誰を狙うかは最初から決めていたかのように、並木道にいた沖田の無防備な喉元へと飛んだ。

 

「――ッ!」

 

 説明している暇など、一瞬たりともない。

 赤衣は開いた傷口から鮮血をぶち撒きながらも、限界の肉体で地を蹴り、土手を駆け上がった。

 

 迫る影。消える距離。

 激突の刹那、彼は沖田の身体を壊れ物を扱うかのように強く抱き寄せ、その細い体躯を庇うようにして、自らの身体を丸ごと覆い被せた。

 




思ったより、長くなってしまった…許せ、サスケ。

ということで、まぁ、まだまだ明かしていないことも、ありますが。
徐々に本作で何が起きているのかの検討は付き始めるだろう、話です。

薩摩の人斬りとはダレなのか。
なんでこんなバケモンみたいな奴がいるのか……。

次回で、この人斬り編の起承転結の起くらいは終わるかと思います。
(え、まだ起なの? ええ、まだ起なんですよ…)


ということで、ちょこっと豆知識もいってみよー!



■チェストって!?
薩摩武士の代名詞ともいえる「チェスト!」ですが、その語源は実ははっきり分かっていないんです。
有力な説の一つが、示現流の教えである「知恵捨て(ちえすて)」が訛ったというもの。「余計なことは考えず、一撃にすべてを懸けろ」という精神を表した言葉だとされています。

また、示現流では打ち込みの際に、腹の底から絞り出すような大声を上げる「猿叫(えんきょう)」という気合も有名ですね。

ちなみに作者は、冒剣劇活劇時代劇に登場する
「ちぇりお!」
が大好きです
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