殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
男は夢を見ていたた
思い出したくもない、それでも決して忘れることのできない、呪いのような夢を。
――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。
決まってこの夢は、その声から始まる。
暗がりの中には燐光があり、ただそこだけが水面に映る波紋のように揺れていた。
やがて円環が重なり――文字が流れ――光が床を這う。
その中心には、顔の見えない人影が立っていて、逆光へと手を伸ばす姿を、男はただ傍観することしかできなかった。
――降り立つ風には壁を。
――四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉の道は循環せよ。
早く覚めろ――そう思ったところで、目覚められたことなど一度もない。
結末は知っている。
ここから始まる後悔を知っている。
何度見ても結末は変わらず、惰性のように延々と続く悲劇の螺旋を、男は知っている。
――閉じろ、閉じろ、閉じろ、閉じろ、閉じろ。
詠唱は続く。
――繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する。
ひとつ、またひとつと円環は灯る。
――告げる。汝の身は我が下に――我が命運は汝の剣に。
重なり合った光は脈を打ち、世界そのものが息を吸う。
――聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。
その言葉を、その呪いを、その祈りを——男は知っている。
世界の理を捻じ曲げる、死者を現世へ招く禁忌の儀。
知らぬはずもない。忘れられようはずもない。
だから、そっと目を背ける。
世界が白く染まり、光が瞼の裏を塗り潰そうとも、その事実を見たくないと願ってしまう。
それが己の——始まりなのだとしても。
男は——赤衣は、その光景を否定したかった。
――壱――
「……」
瞼がゆっくりと開いた。
まず目に飛び込んできたのは、煤けた天井だった。古びた梁が視界を横切り、見慣れた木目がぼんやりと霞んでいる。
鼻をくすぐるのは畳の青い香りと、どこかで煎じられている薬草の匂いだった。
「……ここは」
掠れた声が喉から零れる。
身体を起こした瞬間、脇腹から鈍い痛みが走った。思わず傷口へ手を添えれば、新しい包帯が幾重にも巻かれている。血に濡れていたはずの着物も、いつの間にか着替えさせられていた。
どうやら、誰かが手当てをしてくれたらしい。
そこまで考えてから、赤衣はようやく部屋の中へ視線を巡らせた。障子は半ばまで開け放たれ、庭から吹き込む風が畳を静かに撫でている。
……誰もいない。
それだけのことなのに、自身が寝かせられていた部屋は、妙に広く感じられた。
「…………」
静寂に包まれた部屋を、赤衣はもう一度ゆっくりと見回す。
視線は無意識に部屋の隅へ向かい、開いた障子へ向かい、もう一度入口へ戻る。
そうして、やはり誰もいない事実を確かめ終えれば、そこでようやく、自分が誰かを探していたことに気が付いた。
——『目が覚めたんですね』
ふと耳の奥で、小さな声が蘇る。
桜の花弁を黒髪につけたままいた少女。こちらが指差すと、少しだけ気まずそうに花弁を摘まみ取っていた、その何気ない仕草までが思い出せる。
(まだ数か月しか経っていないというのに、妙に昔のように感じられるでござるな……)
最初に会った頃より、沖田の態度が軟化したというのもあるだろう。出会ってすぐの頃は、こちらを警戒した猫のように、どこか棘のありそうな対応だった。
しかし、ここ最近ではそんな尖りもすっかり鳴りを潜め、近所の子供に混じっては鬼ごっこをしていたり、縁側で団子を頬張りながらうたた寝をしていたりと、年相応の顔を見せることも増えた。
そのくせ、赤衣の姿を見つければ「暇なら、沖田さんに構ってくださいよー」と当たり前のように声を掛け、腕を引く始末である。
……最初の警戒心は、いったいどこへ置いてきたのやら。
だからだろうか。
そんな姿を思い浮かべた途端、脳裏へ蘇ったのは笑顔ではなく、薩摩の人斬りと死闘を演じたあとのこと。
自分が土手を駆け上がり、半ば突き飛ばすように抱き寄せた、その瞬間が——不意に脳裏へ蘇る。
「……蟲、か」
そう呟いた言葉には、どんな感情が込められていたのかは分からない。
血と濁流——川中でえづく男の口からこぼれ落ちた、一匹の黒い蟲。
あれを見た瞬間、考えるより先に、赤衣は身体が動いていた。
理屈ではない。あれだけは触れさせてはならないと、身体のどこかが叫んでいたのである。
「某が運ばれているということは、沖田殿も無事でござろう……」
小さく息を吐き、ひとまずは、と部屋の隅へ立て掛けられた刀へ歩み寄る。
そうして、鞘を手に取ろうとしたとき――ふと、その事実に気が付いた。
「……?」
指先が、小さく震えていたのだ。
傷による痛みではない。力が入らないわけでもない。
ただ、意思とは無関係に、指先が体の制御を離れてしまったかのように小刻みに震え続けている。
赤衣は無言のままその右手を見つめた。
「そうか……」
やがて左手で右の手首を掴み、骨が軋むほど強く握り締めれば、震えはようやく収まる。
いや、無理やり止めた、と言うべきか。
「……俺は、まだ」
苦笑とも溜息ともつかぬ息が漏れる。
身体の節々はまだ重いが、それでも歩けないほどではない。
赤衣は刀を腰に差し、襖へ手を掛けると、そのまま廊下へ出る。
吹き込む初夏の風が、寝汗の残る赤衣の頬を撫でていった。
「……」
襖を締閉め、赤衣は廊下を歩きはじめる。
八木邸の屯所内には、隊士たちの笑い声もなければ、誰かが木刀を振る音もない。足音一つ聞こえてはこない。
この数ヶ月で聞き慣れていた騒音がまるで嘘のようである。
そんな静寂が支配する母屋で、いったいどこへ向かうつもりだったのだろう。
誰を探すとも決めず、ただ足だけが、勝手に前へ出る。
今は、何かを考えるには頭が重すぎた。
— 弐 —
屯所である八木邸内には、隊士たちの姿はなかった。みんな出払っているのか、静けさがしんと打つ。
あてどもなく廊下を歩いていると、ふと一室から酒の香りが漂ってきた。
「ほう、生きていたのか」
障子の向こうから低い声。
開け放たれた部屋では、芹沢が昼間から徳利を傾けていた。
まさか、出会う一人目が芹沢になろうとは。
いや、逆に良かったのかもしれない。この男であれば、余計な心配を口にすることもないだろうし、ただ事実だけを、気分の悪い形で突きつけてくるだけだろう。
それは赤衣にとっても、むしろありがたかった。
「芹沢殿……皆は?」
「ふん。隊士たちは皆、あの薩摩の人斬りとやらを追っているからね。おかげで、こうして静かに酒が飲めるというものだよ」
芹沢は盃を煽りながら鼻を鳴らす。
「お前がさっさと人斬りを殺しておけば、我々も余計な骨を折らずに済んだんだがね」
「そうか……あの男は、逃げたのでござるな」
そう口にした瞬間、自分でもわかるほど、その言葉は軽く聞こえた。
いや、そもそも。軽い、と認識できてしまうこと自体が、妙に引っかかる。
あの男を取り逃がしたという意味を、赤衣自身は理解しているはずだった。あの薩摩の人斬りを逃がしたまま放置すれば、何が起きるのか。誰が斬られ、誰が巻き込まれ、どれほどの火種になるのか……考えようと思えば、これから起こる惨劇などいくらでも思い浮かぶ。
それなのに……理解しているどころか、本来なら一番最初にあの男を捕らえにいかねばならいはずなのに……その足は床に縫いつけられたかのように、動いてはくれなかった。
「それで、お前は何を突っ立っている? その顔を見ていると、こちらの酒も不味くなるというもの。さっさと失せろ、狗」
そう叱責を受けて初めて、ようやく赤衣は己の足が戻ってきたのを感じる。
「そう、でござるな……失礼した。某はこれで失敬するでござるよ」
言い終えるよりも前に、身体は動いていた。
この男の前では長居は無用だという判断だけが、先に出る。
それは思考ではなく、癖に近かかった。
しかし、踵を返そうとした、その時——後ろで盃を乱雑に置く音がした。
「おい」
「……?」
振り返ってみれば、機嫌が悪そうな顔で、芹沢が鉄扇で肩を叩いている。
「やはり、座り給え。酒は不味くなるが、こちらも肴が切れたところだ。お前でもいれば、多少は退屈しのぎになるだろう?」
そう言って、芹沢は顎で向かいの座布団を示した。
赤衣は一瞬だけ迷い、それから静かに腰を下ろす。
本来なら従う筋合いはない。今すぐ立ち去ることもできる。そうするべきだという判断も、頭のどこかにはある。
それなのに足は、自然と向かっていた。
芹沢はそんな赤衣の着席を確認すると、徳利を傾け、自分の盃だけを満たした。
「三日ほどか……随分と長く寝腐っていたようだが、いい夢は見られたかね?」
その問いに、赤衣は答えなかった。
答えようと思えば、答えはいくらでも思いつく。
悪夢だった、と。思い出したくもない夢だった、と。
あるいは、何も見ていないと笑って誤魔化すこともできただろう。
けれど、口を開けば、さっきまで見ていた夢の残滓まで現実へ引きずり出してしまいそうで。赤衣はただ、徳利から盃へ落ちる酒の音だけを聞いていた。
「……」
「ふん、しけた面だ。答える気もおきないか」
芹沢はさもつまらなさそうに言い捨てると、盃を口へ運び、喉を鳴らした。
「もっとも、世の中はお前一人が寝ていようと勝手に動く。下関では実際、長州の馬鹿どもが異人の船へ砲を撃ち込んだそうだよ」
「長州が……でござるか」
「別に意外なことでもあるまい。攘夷だ何だと威勢だけは結構だがね。自分たちで幕府を急き立てて攘夷決行などと触れを出させておきながら、その建前を最後まで真に受けたのが当の長州だけとは……まったく、笑える話とは思わないかね?」
芹沢は酒を注ぎ直し、鼻で笑った。
「長州は自分の理想に殉じたつもりだろうが、私から言わせれば、周りの腹も読めん阿呆だよ、あれは。藩ひとつで戦を始めたところで、この国が変わるとでも思ったのか。異国は一隻沈めれば退くほど甘くはない。どころか、奴らが死に体になったところを、幕府が嬉々として攻め込むことだってあり得るだろう」
そう満足げに酒を煽る芹沢を、赤衣は黙って見つめる。
相変わらず灰汁の強い御仁でござるな……などと内心では思ってすらいた。
芹沢鴨という男の口から紡がれる言葉は、どれも傲岸で、悪辣で、人を食ったようなものばかりに聞こえる。一歩間違えれば、簡単に人命が飛ぶことすら、この男は周りの目も気にせず躊躇なくやってのけてしまうだろう。
赤衣とは、どこまで言っても相容れない存在。
周りにはそう思われているし、実際、芹沢と赤衣は馬の合うことのほうが少なかった。
けれど、赤衣が芹沢に対し愚痴を吐くことはあれど、心の底から軽蔑したり、嫌悪を示したことは一度もない。
それは、赤衣も気がついているからだ。
この男には、一本の刀が通っている。この男の吐く言葉は、いつだって自身の持つ信念から吐き出されているものだ、と。
何を斬り捨て、何を残すのか。
善悪ではなく、その男なりの秤だけは決して揺るがない。
だからこそ、赤衣には分からなかった。
なぜ今、この話を自分へ聞かせられているのか。
こんな話をするということは、芹沢は此度もまた、己の信念に準じているはずである。
しかし、その意図だけが全く見えてこなかった。
「芹沢殿は……そのような話をするために、某を呼び止めたのでござるか?」
「まさか」
芹沢は盃をくるりと回した。
「酒を飲んでいると、人間どうも口を動かしていないと気持ち悪くなるだろう? ただそれだけのことだよ」
そう言って、またもや一口飲む。
「もっとも、阿呆を見ていると腹が立つ性分ではあるがね。長州もそう。人斬りもそう。自分が何を斬れば世が変わるのかも分からず、刃だけをただ振り回す。そんな思想のない連中には、心底虫酸が走るというものだ」
そこまで言い捨てると、芹沢は面白くもないように盃を床に置き、言葉を切るように鉄扇へ手を伸ばした。
「今や会津も浪士組も、たかが人斬り一人に振り回され、血眼になって京中を駆けずり回っている」
「……」
「実に結構なことじゃないか。犬は犬らしく、投げられた骨でも追い回すのがお似合いだろう——投げた人間など見ようともせずに、ね?」
それはただの酔い言ではないように聞こえた。
この男だけは、他の人間とは違う、別の視点をもっている。
投げた人間——つまりは、薩摩の人斬りを動かしている人間。
それこそが真に追うべきものであり、本当に対処に当たらなければならない存在だと、そう遠回しに告げているような口振りだった。
「……その投げた人間というのを、芹沢殿は、どこまで見ているでござるか」
赤衣が思わず問えば、芹沢は鉄扇を仰ぎながら、頬杖をつく。
「フッ、お前にそれを言ったところで何になる」
その曖昧な返答は、否定とも肯定とも取れなかった。
「だが、一つ言えることは、人斬り風情など、どうでもいいということだよ。たかが一人や二人を斬った程度で世が変わると信じた盲信者どもは、揃いも揃って夢見がいいからね」
「意外でござるな……芹沢殿は、人斬りを望むものとばかり」
「望んではいるさ」
芹沢はそう言い切った。
「使い勝手のいい駒は抱えておいて損はないだろう? しかし、人を斬るだけなら、そこら辺の餓えた犬でもできる。そんなものを誇る連中には反吐が出る、という話だよ」
「……」
人斬りを欲しているようでいて、同時に人斬りそのものには執着していない。
沖田に刃を振るわせようとしたことも、隊士たちに死合を強いたことも、すべて「人斬りそのもの」ではなく、その先にある何かを見ていたから。
なるほど、と赤衣は内心で呟く。
芹沢にとって人斬りとは、目的ではない。
ましてや価値でもない。
ただ、それをどう扱うか——それだけの話なのだ。
芹沢は鉄扇をぱんと畳に叩き閉じた。
「思想なき刃は、所詮犬ころにも劣る。武士とは、己が信念に殉じる者のことだ。誰を斬るかも定めず、ただ刃を振るうだけのうつけ者など話にもならん」
その言葉は、断罪というよりも、ただ事実を並べるような響きだった。善悪の議論でもなければ、誰かを裁くための激情でもない。
ただ、刃を持つ者に対する条件を淡々と示しているだけだ。
赤衣は、その言葉を否定する理由を持たなかった。
同意したわけではない。だが、そこに含まれている前提だけは理解できてしまう。
誰を斬るのか、なぜ斬るのか。
その二つを失った刃は、ただの暴力に過ぎない。
それは正しいのかもしれない、と一瞬思う。
だが同時に、その正しさがどこかで誰かを切り捨てる論理であることも、分かってしまう。
赤衣は盃の縁に視線を落とし、自身へと問いかける。
(誰を斬り……何のために刀を振るうか……)
斬るべきものは、ある。あの薩摩の人斬りの裏にいるであろう人物に、赤衣は心当たりもある。
だがそれは、必ず思い出したくもないことを、思い出してしまうということ。その触れてはならぬ何かに意識が触れかけた瞬間、赤衣の胸の奥がわずかに詰まった。
(やはり、俺はまだ……)
思考としてはまだ輪郭にもなっていない。
それでも、そこへ踏み込むことだけは本能的に拒んでいる。
気がつけば指が、手が、腕が震えていた。
痛みではない。だが制御だけが一瞬、外れたような感覚。
赤衣はゆっくりと息を吐く。
喉の奥に残る違和感は消えない。
だが、それを言葉に変えるほどの余裕もなかった。
「……芹沢殿」
呼びかけは静かだった。
盃を傾ける男へと、視線だけを向ける。
何を問うべきかは、もう分かっている。
が、その問いをそのまま口にすることだけが、どうにも躊躇われた。
「……某は、どこへ向かうべきなのでござろうな」
それは問いというより、確認に近い。
芹沢はすぐには答えなかった。
盃を一度だけ傾け、酒を喉へ落とす。
「どこへ向かうべきか、などと問うのは立派だがね。大抵そういう問いを口にする奴は、もう自分で答えを決めているものだよ」
芹沢は赤衣を見ない。
見ていないからこそ、言葉だけが鋭く届く。
「ただ、その答えを認めてやるのが怖いだけだ。正しい行き先など、最初から決まっちゃいねぇ。誰も決めちゃくれねぇ。迷い、悩み、多くの泥を被りながら、それでも信念という根を張り続け、いつの日か形となって答えを得る」
芹沢は盃を一度傾ける。
そこでようやく、盃が静かに畳へ置かれた。
「そうして形となったものを、人は『誠』と呼ぶそうだ」
小さく笑うでもなく、感情の色も滲ませず、ただ事実を置くように言った。
言葉の余韻だけが、畳の上に薄く沈んでいく。
「蓮のように綺麗に咲くとは限らないがね。お前のことだ。お前自身で決めろ」
それだけ言うと、芹沢は何事もなかったように立ち上がった。
障子が鳴る。
次の瞬間にはもう、その気配は縁側の外へ抜けている。
部屋に残るのは、酒の匂いと、言葉だけだった。
「誠、でござるか……芹沢殿には似合わぬ、いい言葉でござるな……」
ぽつりと落ちた呟きは、誰に届くでもなく畳に沈んだ。
あの鴨川での光景——血と濁流の中で、男の口から這い出てきた黒い蟲。その瞬間にだけ、理屈ではない何かが身体を動かしていた。
あの時のことは、正直あまり覚えていない。ただ守りたいと思った。自分がやらねば、代わりに大切な人が死ぬと思わされた。
自分の因縁などよりも先に、そう願い走り出していた。
——『じゃあ、壬生浪士組でいいじゃないですか』
——『なので、どこにも行かず、見届けてください』
——『私と今話しているのは、誰だろうと関係なしに助けてしまう……そんなお節介焼きで腹が立つ侠客です』
一人の少女の声が、静かに重なる。
そうだ。失いたくなかった。
理屈ではなく、ただそれだけで十分だった。
もう二度と関わることはないと思っていた世界に、再び足を踏み入れることになる。
それは億劫で、重く、簡単に飲み込めるものではない。
それでも——胸の奥に残っていた震えは、いつの間にか止まっていた。
「ありがとう、芹沢殿。某も、些か踏ん切りがついたでござるよ」
その言葉は、空へ溶けるように落ちていった。
——その頃。
奥の襖の向こう側には、ひとつだけ、呼吸を殺した気配があった。完全に消えているわけではないが、かといって、存在を主張するでもない。
——やがて、その気配もまた、何事もなかったかのように引いていく。
芹沢さんが、なんかすごく良い人になっている、だと!?
はい、気の所為です。こんなイケメンなオジサマなはずはありません、みんなダマされないで!
さてはて、まぁそんな軽口はどうでもいいとして。
赤衣は直ぐに目を覚ましましたね。私の展開速度的に、当分は出てこないとおもったであろう読者諸兄はいるかもしれませぬが、そんなことはない。
まぁ、この話で赤衣が何者かっていうのは、お察しがいい人はもう察しているでしょう。
この世界はある種、そういうIFなのですから。
さて、ちょこっと豆知識もいきますか。
そもそも、この人斬り編をはじめるときの、なぞの出だしは覚えていますか?
文久三年五月十日とは、幕末史の中でも特異な日。
この日、幕府は朝廷および尊王攘夷派の圧力を受け、「攘夷を実行する期限」を公式に約束してしまったんですが、
しかし幕府自身にその意思はほとんどなく、結果としてこの約束は空文化となるんですね。
でも、代わってそれを真に受けたのが長州藩であり、同日以降、下関海峡において外国船への砲撃を開始することになる。
いわゆるこれは、下関戦争の始まりだったのです。