殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:ただの物書き

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魔術回路を開け

 赤衣は、八木邸に簡単な書留を残したあと、薩摩の人斬りと出会した鴨川のほど近くに来た。

 理由は簡単で、なにか薩摩の人斬りに近づく手掛かりはないものかと思ったのと、あることを確認するためである。

 普通の人間なら見逃してしまうものでも、赤衣とあの男になら分かる何かがあるやもしれぬ。そう思い立ってのことだった。

 

 しかし、そんな現場へと来てみれば、赤衣も些か驚く。

 というのも、赤衣が辿り着いたそこは、記憶の中にあった景色とはまるで別物になっていたからだ。

 母屋の一つが、まるで火消しの破壊消火をされたように崩れ落ちているのだ。柱は折れ、梁は裂け、瓦は無惨に散らばっている。

 庭先へと視線を移せば、乾いた血の跡が点々と残っていた。

 

「ここまで派手な斬り合いは、しなかったはずでござるが……」

 

 赤衣はそう言いながら、乾いた血の跡が目立つ白砂を指で摘み擦り合わせる。

 

 自分が知らないということは、あのあと沖田と人斬りの間に何かが起きたということか。

 八木邸に自分が運ばれていることを考えれば、沖田になにかあったとは考えづらいが、それでも嫌な予感はする。近藤一派が寝泊まりをしている前川邸も、ここへ来る前に寄ってみたが、誰もいなかった。そのため、沖田が重傷を負わされ寝込んでいるというのも考えづらい。

 

(となれば、沖田殿ひとりで薩摩の人斬りを……?)

 

 こんな派手な破壊跡を残しておきながら、倒したということか。

 しかし、それもしっくりとはこない。

 

 考えられることと言えば、町奉行所を呼んだあと、再度あの薩摩の人斬りが暴れたとか、そういったことくらいであるが、所詮は推測の域を出なかった。

 

 ことの真偽を確かめるためにも、ここで行なうべきことは山ほどとある。

 赤衣は足を止めたまま、しばし黙ってその場を見渡していると。

 

「おい、そこの者! ここは、関係者以外は立ち入り禁止だぞ!」

 

 と、背後から声が飛んだ。

「ん?」と振り返れば、何故か槍を携えた男たちがぞろぞろと赤衣を取り囲み始めている。

 

「貴様、何者だ!?」

「もしや、薩摩の人斬りの関係者か……!」

「のこのこと姿を現しよって!」

「ちょ、ちょっと待つでござる! 某は別に怪しいものでは!」

「黙れい! その小汚い着物! 浮浪者のふりをした過激尊攘派の志士そっくりではないか!」

「…………」

 

 悲しいかな、赤衣は何とも言えない顔をした。

 別に否定できないのが、また厄介である。

 とはいえ、口振りからして、この男たちは京都町奉行所の役人であることは、なんとなく察しがつく。赤衣がこの場で刃を抜く理由もなかった。

 ひとまず、ここは大人しく一歩退こうとした、その時だった。

 

 ——ふと、崩れた母屋の側に視線が落ちた。

 

 白砂の上に、妙な黒い塊が転がっている。

 乾いた泥でも、焼け焦げた布片でもない。形は崩れかけているが、それでも何か生き物だったものの名残。

 

(……やはり、落ちていたでござるな) 

 

 あの夜、鴨川で見たものと同じ気配。

 赤衣の目がそこにだけ吸い寄せられる。

 

「おい! 聞いているのか!」

「動くなと言っているだろうが!」

 

 奉行所の男たちが更に距離を詰め、槍先がわずかに揺れる。

 だが赤衣は、そのどれにも視線を向けていなかった。

 ただ一歩、母屋へ近づこうとしただけである。

 

「悪いが、少しだけ勘弁願えないだろうか?」

「ならぬ!!」

 

 槍の穂先が、わずかに前へと押し出される。

 なにがあっても、部外者と思われる赤衣を近づけたくはないという意思が見て取れた。

 

 そんな空気が張り詰めた、その瞬間だった。

 

「——お待ちください!」

 

 鋭い声が、その場を横から断ち切った。

 奉行所の男たちが一斉に振り返る。

 そこに立っていたのは、息をわずかに乱した男だった。

 

「山南殿……」

「申し訳ありません……! その者から、手を引いていただけませんか」

 

 物腰柔らかく、山南は言う。

 

「その者は、壬生浪士組の隊士なのです」

「なに?」

 

 別に赤衣は壬生浪士組の隊士ではないのだが、流石にそんな空気を読まぬ発言をするほど、赤衣も馬鹿ではない。

 

「そ、そうでござるー某は壬生浪士組の隊士なのでござるよー(棒)」

「……ちっ、紛らわしい格好をしおって! おい、行くぞ」

「「「はっ」」」

 

 先奉行所の役人たちは槍を引き、ぞろぞろとその場を離れていく。山南はその背中が角を曲がるまで見届けると、小さく安堵の息を吐いた。

 

「……ふぅ」

 

 肩の力が抜ける。

 つい先ほどまで役人相手に浮かべていた穏やかな笑みとは違う、本当に安心したような表情だった。

 

「やれやれ、間に合って良かったよ」

「かたじけない、山南殿。助かったで——」

「そんなことより!」

 

 赤衣の言葉を遮るように山南は一歩踏み出した。

 

「目を覚ましたんだね!? どこか痛むところは!? 身体に違和感はないかい!? もう歩いても平気なのかな!?」

「いま、山南、殿に、揺すられ、ている、以外は、なんとも、ないで、ござる〜」

「あっ」

 

 我に返った山南は慌てて両手を放した。

 

「ご、ごめん! つい嬉しくなってしまって……!」

「いえ……お気持ちは、十分伝わったでござるよ」

 

 赤衣は苦笑しながら、乱れた着物を軽く整える。

 山南も照れくさそうに頭を掻き、小さく咳払いを一つした。

 

「だけど、本当に良かった。お医者様も、君の状態は医学的にありえないと匙を投げられていたからね。皆、とても心配していたんだよ?」

「それは……かたじけない、でござるな。某などに、そんな」

「某など、ではないさ」

 

 山南はそう言って、優しい笑みを浮かべた。

 

「君だからこそ、藤堂くんも、永倉くんも、近藤さんも……みんな心配していたんだから」

「……」

 

 本気で心配してくれていた、というのが、嫌というほど伝わってくる。そう言われると、赤衣はなんとも言えないくすぐったさを感じた。それをごまかすように、頬をぽりぽりと掻いた。

 自分がどのような状態で意識不明になっていたかは知らないが、山南の口振りからしても、かなり危ない状態だったのだろう。

 悪いことをしたと思い、赤衣は「すまぬ」と軽く頭を下げた。

 

 山南は小さく息を整えると、ふと周囲へ視線を走らせた。

 

「……少し場所を移そうか。ここは、あまり落ち着いて話せる場所ではないしね」

「移動、でござるか?」

「うん。入口付近にいると、どうしてもそれだけで、目が増えてしまうから」

 

 言われてみれば、周囲の視線は依然として刺々しい。

 山南は軽く手を上げ、奉行所の者へと短く会釈したあと、赤衣を促して倒壊した母屋の方へと歩き出した。

 

「あ、そうだ」

 

 そうして歩いていると、何か思いついたのだろう。山南は「ちょっと、待っててくれるかい?」と少し離れたところに置いていた壬生浪士組の荷へと駆け寄り、近くに畳まれていた浅葱色の羽織を手に取って、そのまま赤衣のほうへと戻ってくる。

 そうして渡された羽織を見て、赤衣は目を丸くした。

 

「えっと、これは……? 某は隊士ではないでござるが」

「知っているとも」

 

 山南は笑った。

 

「でも、その格好ではまた奉行所に止められてしまうだろう? 今は目印だと思って羽織っていてほしいんだ」

「……うぅむ」

 

 赤衣は観念したように羽織へ袖を通す。

 しかし、どうにも、着せられているようで落ち着かない。

 

「落ち着かないかい?」

 

 山南は赤衣の戸惑いに気づいたのか、くすりと笑った。

 

「大丈夫。そのうち慣れるさ」

「……そういうもの、でござろうか?」 

 

 それは羞恥が薄れるという意味なのか、それとも着ているうちに様になるという意味なのか。

 赤衣は少しだけ考えたが、それ以上詮索しても碌な答えは返ってこない気がして、黙って歩き出した。

 

「……それにしても」

 

 と、ふと口を開いてみる。

 

「町奉行所は、随分気が立っているように見えたでござるが」

「まあ、無理もないことだよ。これだけの崩れ方を見せられては、誰だって落ち着かないだろうからね」

 

 山南の言葉に、場の空気がわずかに締まる。

 赤衣たちの足は、いつの間にか崩れた母屋の前へと辿り着いていた。

 

 柱は途中から折れ、屋根は内側へ潰れるように落ちている。人の手で壊したというより、何か巨大な力に叩き伏せられたかのような崩れ方だった。

 

「……これは、ひどいでござるな」

 

 赤衣は瓦礫の縁にしゃがみ込み、折れた梁に指先を添える。

 まだ乾き切らぬ木肌の裂け目は、まるで内側から押し広げられたような歪み方をしていた。

 

「外から割った、というよりは……中で暴れた痕跡だね」

 

 山南も遅れて膝をつき、倒れた柱の一本に手を添える。

 軽く持ち上げただけで、ずしりと重さが腕に残った。

 

「これを人の腕だけでやってみせたとなると、正面から受け止めるのは難しいだろうね」

「……厳しい、で済む相手ではなかったでござるよ」

 

 赤衣は瓦礫から視線を外さず、低く言った。

 

「某も一度、刃を交えたが……正面から受けるという感覚そのものが成立していなかったでござる。受けたというより、押し潰されていたに近い」

「……なるほど。薩摩の示現流とは、それほどのものか」

 

 山南は静かに頷き、瓦礫の方へ目を向けた。

 

 それは、彼なりに理を当てはめようとした結果なのだろう。

 剣という体系の中で説明できる範囲に落とし込もうとした結論。未知のものを、半ば既知のものに当て嵌める行為は、決して間違ったことではない。むしろ、正しいとすら言える。

 それにこの世には、異様な技量と剛力だけで、人外のような事象へと至ることもある。身近で言えば、沖田総司の剣が、最もそれに近いだろう。

 

 ただし、今回の薩摩の人斬りは、それとはまた違った要因であることを赤衣は知っている。

 具体的にどのような手段を用いているのかまでは分からないが、人道的ではない方法であろうことは確かだろう。

 なにせ、その力の代償として血肉に飢え、痛みによる苦痛からか理性のタカが外れていた。

 もはや人とは言い難い存在になってまで、あの人斬りが何を望み、何を為そうとしているのかは分からない。

 それでも、放置していれば、これからどれほどの被害が出る事になるか。

 

 赤衣はそこまで考え折れた梁から視線を外すと、短く息を吐いた。

 

「……そういうもの、として片づけるのが、今は一番わかりやすいでござるな」

 

 結局それは、同意であり、同時に保留でもあった。

 その時だ。

 

「すまない、赤衣くん」

 

 山南が、瓦礫の向こうを見たまま声をかける。

 

「少しだけこちらを見ていてくれるかい。奉行所の者に呼ばれてしまってね」

 

 視線の先では、役人らしき男がこちらへ手を振っている。

 

「すぐに戻るよ」

 

 そう言って山南は立ち上がり、軽く手を振ってその場を離れた。

 足音が少しずつ遠ざかる。

 奉行所側とのやり取りへ向かう、その背中。

 完全に視界から外れたわけではないが、今この瞬間だけ、赤衣の周囲から人の意識が一段薄くなった。

 

(……今なら)

 

 そのまま瓦礫へ手を伸ばしかけ――しかし、止まる。

 

(……本当に、開くのでござるか……)

 

 一度閉じた疑似神経を、再びこじ開ける。

 それが何を意味するのかは、赤衣自身が一番よく知っていた。

 

 人を斬るためだけに研ぎ澄まされた感覚。

 二度と思い出すまいと決めた、あの頃の自分。

 

 ほんの一瞬だけ、指先が止まる。

 

 けれど——。

 

(……いや)

 

 この件に首を突っ込むと決めたのは、自分だ。

 芹沢と言葉を交わし、一歩踏み込む覚悟はしてきた。

 ならば、今さら都合よく背を向けるわけにはいかない。

 錆びついた回路も、いずれ開く必要があるのなら――今ここで慣らしておくべきだ。

 

 赤衣は静かに目を閉じ、己の肉体の内側へ意識を沈める。

 

「すぅ——はぁ————」

 

 脳裏に過ぎらせるは、人を斬るときの感覚。

 もう二度と経験しないだろうと思っていたその不快感を、心中から無理やり引きずり出し、本来肉体には存在しないはずの神経を呼び覚ましにいく。

 眠らせていた魔術回路——それを無理矢理、一本だけ繋ぎ直すのだ。

 

「——、————」

 

 しかし、息がズレる。

 仕方がない、なにせこれを行うのも、沖田を庇う時の無意識下を除けば、何年ぶりという程の空白がある。いや、コレを閉じる前であったならば、ここまでの大業など必要なかったことを鑑みれば、もはや数年どころの話ではないのかもしれない。

 

「ぐ——、んっ————」

 

 雑念のせいで意識がぶれた。

 こんなことでは、たかだか一本を開通させるために一刻も掛かりかねない。山南が戻ってくる前に終わらせておく必要がある以上、無駄な時間をかけている余裕もないだろう。

 

 致し方ない——ここまで、鈍っているのであれば、荒治療をするほかない。

 赤衣は人を斬る感覚を、さらに研ぎ澄ませる。

 肉を斬り、骨を断つ——それだけではなく、相手を斬殺する光景を海馬の奥より引きずり出す。一瞬の間に、己がもう見たくも経験もしたくない破滅の想像を、すべて身体へと染み渡らせる。

 

「っ……」

 

 そこまでして、ようやく……一本だけ疑似神経を作り、自らを、魔力を生成する回路と成した。

 

「まさか、たかだか一本開くのに死にかけるとはな……」

 

 口調も、少し昔に戻っていることを自覚する。

 けれど今は、そんなことを気にしている暇もない。

 赤衣はさっさと、魔力を流すだけの作業に入る。痕跡を探すだけであれば、そんなだいそれた事など必要とはしない。

 

「————」

 

 瓦礫の一部に手を当て、魔力を流す。

 流し込んだ魔力が、ぶわり、とまるで水面を打つ波紋のように広がれば、木材や土そのものへ染み込み溶けていった。

 

 直後、この母屋へ刻まれた出来事の残滓が、脳裏へと流れ込んでくる。その瓦礫が負った傷、削れた木肌、染みついた血痕。そのすべてを、先ほど開いた回路が拾い上げ、演算する。砕けた情報は因果に従って繋ぎ合わされ――導き出されるのは、事実へ限りなく近い再現だった。

 そんな再現の断片だけが、映像となって瞼の裏へ焼き付いていく。

 

「……これは……」

 

 最初に見えたのは、濛々と立ち込める土煙。

 その向こうで、小さな少女が誰かに背を押され、転びそうになりながら駆ける姿。

 しかしそれも、次の瞬間には砂煙に呑まれ、また別の断片へ切り替わる。 

 再び映ったのは、母屋が完全に崩れ落ちる、その一瞬だった。

 土煙を突き破るように、二つの影が外へ弾き出される。

 一つは、巨躯。もう一つは、小柄な影。

 だが、そこまでだった。次の瞬間には、景色はぷつりと途切れ、視界は暗闇へ沈んだ。

 

「は——ぁ、はぁ、はぁ————っ」

 

 赤衣はゆっくりと瓦礫から手を離し、呼吸を荒げる。

 脳に負荷を掛け、さらには多くの生命力を久方ぶりに使用したせいだろう。男は大量の酸素を求めるかのごとく、口から大きく息を吸った。

 額には汗がにじみ、身体は異様な熱さを発している。

 しかし、それでも。

 

(よかった……この場では、まだ生きていたのでござるな……)

 

 読み取れた断片に、沖田が討たれる光景はなかった。

 母屋は崩れ、その直後には二人とも外へ飛び出している。

 少なくとも、この家の中で勝敗は決していない。

 それだけでも、胸につかえていたものが僅かにほどけた。

 

 赤衣の知るあの男が絡んでいる以上、目に映るものも、人づてに聞く話も、どこまで信じていいものか分からない。

 奴であれば、人の認識そのものへ手を伸ばすことさえ、不可能ではない。

 だからこそ、誰かの言葉では足りなかった。

 自分の目で確かめ、自分の手で触れ、自分自身が納得するまでは。

 

 無論、それだけで安心できるほど状況は甘くない。

 それでも、胸を締め付けていた最悪の想像だけは、ほんの少し遠のいた気がした。

 

「はぁ、はぁ——とり、あえず——っ」

 

 乱れた呼吸を整えようと、赤衣は片膝をついた。

 その拍子である。視界の端で、土の中から白いものが覗いたのは。

 

「これ、は?」

 

 赤衣は崩れた木片を静かに退かし、土へ半ば埋もれた瓦礫へ手を差し入れる。

 最初は、折れた木片かと思った。

 だが、違う。土に半ば埋もれたそれは、人の指先だった。

 赤衣は息を整える間もなく、それへと指をかける。

 土を払い、ほんの僅かに持ち上げてみれば、それが人の親指であることは分かった。

 付け根に残る、刃では決して付かない歪な裂け方から見て、鋭い犬歯で、力任せに噛み千切られた痕。

 

「はは……やっぱり、沖田殿は、無理をする御仁でござる、な」

 

 そう呟いた、その時だった。

 

「赤衣くん!」

 

 山南の足音が駆け寄ってくる。

 赤衣は反射的に親指を握り込み、そのまま袖口へと滑らせた。

 

「どうしたんだい!? 顔色が真っ青じゃないか!」

「だ、大丈夫でござる……少し、立ち眩みがしただけで」

「いや、それは大丈夫とは言わないよ。少し待っていてくれ、いま籠を——」

「あぁ、あぁ——だ、大丈夫でござるよ、山南殿!! お気持ちだけ、お気持ちだけ受け取らせてもらうでござるからー!!」

「そうかい……? そこまで言うなら無理強いはしないけれど……本当に辛くなったら遠慮なく言うんだよ?」

 

 山南はなおも心配そうに赤衣の顔色を窺っていたが、当の本人は何度か深呼吸を繰り返すうちに、ようやく息が落ち着きを取り戻し始めていた。

 

「かたじけない。些か、久方ぶりに身体を動かした反動が出ただけでござるよ」

 

 そう言って赤衣はゆっくりと立ち上がる。

 袖口へ収めた親指の感触が、まだ掌に残っていたが、それを口にするつもりはなかった。

 今この場で話したところで、山南には説明のしようがない代物だし、それどころか余計な混乱を招くだけだろう。 

 

「それより」と赤衣は前置きを置いてから、静かに口を開く。

 

「某が倒れている間、なにが起きたのか話を聞かせてはもらえぬだろうか」

「あぁ……そう、だね」

 

 山南もそれ以上は無理に体調の話を続けず、眼鏡の位置を直しながら歯切れの悪そうに呟いた。

 

「先に言っておくと、この数日で分かったことは、正直あまり多くないんだ」

 

 崩れた柱へ目を向けながら、淡々と語り始める。

 

「土方くんや斎藤くんたちは今も京中を駆け回っているよ。現場検証も聞き込みも続けているけれど、有力な手掛かりはまだ掴めていない」

「……そうでござるか」

「それどころか、君が眠っていた間に、似たような辻斬りが四件。いずれも夜道で襲われ、傷口や現場の荒れ方が、今回とよく似ているそうだ」

 

 赤衣の眉がわずかに寄る。

 

 いやに、頻度が高い。

 赤衣が昏倒していた日数は、芹沢から三日だと聞かされている。それを考えれば、同日内に複数回起こしている日もあるということであろう。

 いくら外方のために、人肉を食らう必要があると言っても、それほどの高頻度は要らないはずだ。

 

「奉行所も壬生浪士組も、京中へ人を出して探している。けれど、まるで煙のように足取りが掴めなくてね」

 

 山南は苦笑交じりに肩を竦めた。

 

「情けない話だけれど、今は後手に回るばかりなんだ。原田くんと永倉くんは、こことは別の現場検証に——」

 

 赤衣は静かに頷きながら聞いていた。

 

 土方。

 斎藤。

 近藤。

 藤堂。

 永倉。

 原田。

 その他の隊士たち。

 

 これまでの会話で一人、また一人と、近藤一派の主要隊士の名が挙がっていく。

 芹沢一派の名前が挙がってこないのは、とうの芹沢が今回の件に乗り気ではないからだろう。

 そこまでは、理解できる。

 

 しかし――。

 

(……妙、でござるな……)

 

 ふと、小さな引っ掛かりが胸に残った。

 この事件の当事者は、自分だけではない。

 最後まであの怪物と刃を交え、この母屋で戦い続けた者が、もう一人いる。

 なのに、山南の口から、その名だけが一度も出てくる気配がない。普通であれば、いの一番に挙げそうな人名を、あえて避けるかのように出さなかった。

 

 赤衣はしばし黙考すると、静かに山南へ視線を向ける。

 

「……ひとつ、気になったのだが」

「ん? なんだい?」

「この件の当事者である沖田殿の話だけが、一度も出てきておらぬが、どうしてでござるか?」

 

 そこで初めて、山南の表情がわずかに止まった。ほんの一瞬だけ流れた沈黙が、かえってその問いの重さを物語っていた。

 

「なにか……あったのでござるな」

 

 赤衣は目を鋭くさせながら問うた。

 

 山南はすぐには答えない。

 ほんの一瞬だけ視線を伏せ、小さく息を吐く。

 

「……あの日の戦いで、沖田くんも相当無理をしてしまってね」

 

 その声音は穏やかだったが、どこか苦味を帯びていた。

 

「君も打ち合ったんだろう? あれだけの相手と、一人で斬り結んだんだ。傷も浅くはなかったし、身体への負担も相当なものだったよ。それに……」

「……?」

 

 そう何かを続けようとした山南は、頭を振って止める。

 

「……すまない。これは私の口から話すことではないね。とりあえず、近藤さんと土方くんが話し合って、この機に沖田くんを京から離すことにしたんだ。表向きは、将軍警護の一隊として江戸まで同行するという形でね」

「ということは……沖田殿は、多摩へ?」

「うん。そのまま試衛館へ戻って、しばらく静養させるつもりらしい」

 

 そこまで聞いて、赤衣は静かに目を細めた。

 

「つまり……京を離れたのでござるか」

「昨日の朝にね」

 

 山南は頷く。

 

「本人は最後まで不満そうだったよ。『まだ動けます』『あの人斬りを追わせてください』と、珍しく土方くんの命令に何度も食い下がっていた」

 

 思い出したように苦笑する。

 

「だけど土方くんが珍しく頑として譲らなかった。『お前は帰れ』の一点張りでね……あやうく、斬り合いにまで発展するんじゃないかと肝を冷やされたよ」

 

 山南は赤衣へ向き直り、静かに笑う。

 

「だから、少なくとも沖田くんに命に別状はない。ただ、今は京にいないというだけで……」

「そう、でござったか」

「……すまない。君も沖田くんの顔くらいは見たかっただろうに」

 

 赤衣は山南の表情を静かに見つめた。

 

 動揺も、躊躇も感じられない。話の筋はまかり通っており、違和感を感じさせるものもなかった。

 少なくとも山南自身は、本気でそう信じている、ということだろう。

 

(……山南殿の認識には、違和感はない、か……蟲がついた形跡も見受けられぬ)

 

 ならば問題は、その情報そのものだ。

 沖田が本当に京を離れたのか? それとも、誰もがそう思わされているだけなのか?

 今はまだ、判断できない。

 山南が嘘をついているとは思えないからこそ恐ろしい。

 もし、山南たちの認識そのものを書き換えられているのなら――。

 

「いや……気に病むことなど無いでござるよ。沖田殿が生きていると分かっただけで、某は十分。それに、あまりくよくよしていては、沖田殿に怒られてしまうでござるよ」

 

 赤衣は穏やかに笑う。

 山南もその笑みに安堵したように、小さく頷いた。

 

 だが、その穏やかな表情の裏で、赤衣の思考は止まることなく巡っている。

 

 まだ何一つ終わってはいない。

 沖田が本当に京を離れたのか。薩摩の人斬りは、今どこに潜んでいるのか。そして、あの男はこの一件にどこまで関わっているのか——いずれも、人から聞いた話だけでは答えは出ない。

 ならば——。

 

(この目で見て、この足で追うしかないでござるな……)

 

 幸い、拾えたものは少なくない。

 赤衣は袖口へ視線を落とすと、静かにその拳を握り締めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 — 壱 —

 

 

 その日の夕刻――屯所へ戻った芹沢は、いつものように乱雑な足取りで自室へ入った。

 酒の匂いが微かに残る畳の間。今朝方、赤衣と話をしていた部屋である。

 文机の上には、一通の書き置きが、まるで最初からそこにあったかのように静かに置かれていた。

 

「……ほう」

 

 芹沢はそれを手に取り、ざっと目を走らせる。

 書かれていた文は短い。

 

 ——少しの間、お暇を頂きます。

 ——何卒、ご容赦いただきたく候。

 

 差出人の名はない……が、それだけで芹沢にとっては十分だった。

 

「くくっ……律儀なことだね、まったく」

 

 そう呟くと、書き置きを机へ放り投げ、自らは酒瓶を手に取った。

 その時だった。

 

「失礼いたします」

 

 襖の向こうから、新見の声が響く。

 それに対して、芹沢が「入れ」と短い返事をすれば、襖が開き、新見が静かに頭を下げた。

 

「芹沢先生、実は……」

 

 と、そこで新見は今しがた、芹沢が放り投げた文が目に入った。

 そして彼も、差出人のないそれが、誰が誰に宛てて書いたものなのかを一発で理解したのだろう。

 自分の要件を告げるより前に、新見は酒を煽る芹沢へと問うた。

 

「その、本当によろしかったのですか……?」

「あァ?」 

「彼のことですよ。このまま、好きにさせて……放っておけば、どこへ行くやも分かりませんし」

 

 芹沢は酒を一口煽ると鼻で笑い、「構わんよ」と胡座をかき、徳利を揺らす。

 

「こちらは約束を十分に果たしたのでね。私がこれ以上、何かする必要もないだろう?」

 

 それだけ言って盃を傾ける。

 だが、新見はなおも口を開きかけた。

 

「ですが――」

「それにな、新見」

 

 と、芹沢が遮った。

 どこか獣じみた笑みを浮かべながら、愉快そうに続ける。

 

「今はもう、面白い駒が揃いつつある。そうは思わないかね?」

 

 その一言だけで、新見も全てを察したのだろう。

 小さく息を吐き、「……なるほど」と苦笑する。

 芹沢は盃を煽り、豪快に笑った。

 

「泥中に咲く誠の花、か……我ながら良い例えを言ったものだ」

 

 そう言って芹沢は、書簡を掴み近くに置いてある火鉢へ放り込んだ。

 

「さて……どこまで咲き誇れるのか、楽しませてもらおうじゃねぇか」

 

 紙はゆっくりと燃え、「少し暇を頂きます」の文字だけが最後まで残り、やがて灰となる。

 芹沢はその灰を一瞥すると、何事もなかったように酒を呷った。




だから、言っただろう、芹沢さんは良い人だけど、良い人じゃないって!?
え? 言ってない?
言ってなかったかぁ……

ということで、赤衣が魔術回路を一本開きました。
サラッと出てきて、は? となった人の気持ちは分かりますよ。
でも、まぁこれ以上、書くこともないし、どうせ皆これくらいはできるんだろ、と思ってただろうし、さらっと書きました。
さて、この赤衣をどこぞの英霊とか思っていた人はここで脱落です、なんで外したのか明日までに考えてきてください。(嘘です、すみません。というかそんな予測した人もいないと思われ)


さて、本編に流すわけでもない、こそこそ話を豆知識のかわりに。


実は、赤衣が眠りについた日から、近所の子どもたちと遊ぶのは山南さんがひとりでやっているそうですよ。
沖田と赤衣がこれなくて、ごめんね、と言いにいっただけなのに、子どもたちに捕まっちゃったんだとか。
子どもたちからは、サンナンと呼ばれ、初日から好評なんですって。
(ただし、総司に比べて足遅い!と男子からは不平不満も一部ある模様)
(女子人気はぶっちぎりの1位を更新しました)
(現在、手先の器用さとプロレス技をしかけてもいいサンドバッグ要素でしか赤衣は勝てません)



さて、次回くらいから、幕末トリオがおそらくできるかなー。
トリオといっても、次回までならまだデュオだけど。
1人は赤衣として、さて、あと2人は誰でしょうね?(にこ)
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