殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
――文久三年五月十四日。
土佐藩邸の騒ぎを終えて次の日のことである。
赤衣の剣侠と呼ばれる男は、京の市中を単身で歩いていた。
周りに壬生浪士組の隊士はおらず、山南に貸してもらっていた隊服の羽織も、既にあの場を離れる際には返している。
赤衣があえて彼らと行動を共にしていないのは、単純な理由からだった。
――薩摩の人斬りの裏に、自分の過去に繋がる相手がいるかもしれない。
この世には、人の常識だけでは説明できぬ事象がある。
それは、時に神秘と言われたり、或いは奇跡と呼ばれたり、もしくは超常現象と呼称されたりする事柄だ。
壬生浪士組にいる隊士たちは、誰も彼も一騎当千の猛者ばかり。
しかしながら、彼らは人を相手取ることはあれど、人ならざる者——そういった理外の事象を人為的に起こせる相手を殺すことを生業にしてはいない。
時代を遡り、かの摂津源氏の初代棟梁でも呼び出せれば、その腕を遺憾無く発揮し、化け物退治も安々と成し遂げられもしようが……もはや今の日ノ本は、平安時代と比べ神代も緩やかに終了してしまっている。
あの怪物を前にした時、人の身にできることには限界があった。
魔術回路を持たぬ人間が、人外の術を跳ね除けるのは極めて難しいことである。稀に産み落とされる特異体質でもない限り、ただ加虐に臥すしか常人にはできようはずもない。
赤衣が知る相手であれば尚の事。今の壬生浪士組や会津藩では退けることはできても、討ち取ることは叶わぬだろうと考えていた。
かと言って、赤衣にも出来ることは限られる。
なんとか死にかけながらも魔術回路を追加で二本開いたが、掴んだ手掛かりといば、どれも乏しいものだった。
山南から聞いた——薩摩の人斬りは、赤衣が意識を失うまでの間に、すでに四件もの殺人を行っていること。
その被害者は無差別的で、公武合体派の公家人、京で商いを営む商家の者、何の関係もない町人、そして、路上で暮らす浮浪者……。
身分も立場も、何一つとして共通点はない。
あるのは、皆、斬られた死体は無残に食い荒らされた後があるという事実と、薩摩の物と思われる証拠品が必ずひとつは残されているということくらいのものだ。
しかし――どうしても引っかかることはある。
神秘の隠匿という意味では、今回の人斬り騒動はかなり迅速かつ的確だ。赤衣の目からしても、事件の異常性を除けば、理外の存在に気づけぬほど上手く隠されている。
実際、鴨川近くの現場以外では、蟲のような残留物など、その足取りを掴めるような情報は何一つ残されていなかった。
だと言うのに、だ。下手人そのものへの隠匿は杜撰極まりないと言ってもいい。現場には必ず薩摩に繋がる証拠品が残され、まるで犯人自らが正体を明かしているようでさえある。
斬奸状などの主義主張を残すのではなく。
あえて、自分が薩摩の人間だとひけらかしている様な……。
(どうにも、分からぬことが多いでござるな……)
分からぬことだけではなく、腑に落ちない点もいくつかある。
そもそも、赤衣の過去に繋がる人物が、あの薩摩の人斬りに協力する利とはなんなのか。
何故、自分を直接狙えば済むだけのことを、このような曖昧な事件ばかり起こしているのか。
いや、人を斬って食うだけであれば、もっと効率の良いやり方もできるはずだ。それをしない理由も、赤衣にはとんと思いつかなかった。
分からない。なにもかも、情報が圧倒的に足りていない。
けれど、分からないながらも、一つだけ確かなことがあった。
あの薩摩の人斬りを放置するわけにはいかない——それだけは、今の赤衣でも断言できる。
もし、その背後にいるのが自分の知る相手であるなら、人の認識など容易く惑わされるだろう。見聞きしたことが、そのまま真実である保証はどこにもない。
それは、山南から聞いた話も例外ではない。
(沖田殿が本当に京を離れたのか……それも確かめねばならぬ……あの場を見届けた者がおれば、それに越したことはないのだが)
しかし、そう都合よく、あの場に居合わせた者が見つかるとも思えない。まして敵の手が及んでおらぬ者となれば、望みはなお薄いであろう。
ないものねだりしたところで、無い袖は振れない。
結局、己の目で見て、己の足で辿ったものを信じるより他に道はなかった。
どれほど泥臭くとも、まずは薩摩の人斬りを追うこと。それこそが遠回りに見えて、真実へ辿り着くための最短にして唯一の堅実な方策だった。
(地道に一歩ずつ、か……)
赤衣は小さく息を吐き、思考を切り替える。
そんなところで——店先で客と世間話をしている酒屋の主人が目に留まった。
ここは薩摩の人斬りが起こした最後の人斬り現場のほど近く。噂は酒場に集まるというのなら、何か一つくらい耳にしていても不思議ではない。
今はどんな些細な話でも欲しい赤衣は、酒亭の前で駄弁るその男たちへと歩み寄り、口を開いた——その時だった。
「申し、そこの御仁。ここ最近、ある男を——」
「おい、そこのおまん。ここいらで、がたいのごつい——」
「ん?」
「んあ?」
左右から同時に声をかけられた酒亭の主人が、「……へ?」と目を白黒させる。
当然だろう。左右から全く異なる質の声が、寸分の狂いもなく同時に降ってきたのだから。
けれど困惑したのは、なにも呼びかけられた主人だけではなかった。怪訝そうに視線を横に滑らせた赤衣と、同じく怪訝そうに首を傾げた男の視線が、空中で真っ向から衝突する。
「……おまんは」
「……お主は」
一瞬の沈黙。互いの記憶の引き出しが、凄まじい勢いでひっくり返される音が聞こえる中。
「「酒亭にいた土佐の人(優男)でござるか(か)!?」」
ここに二人。数奇な再会は、京の青空を鋭く衝くような声から始まった。
— 壱 —
これ以上、酒亭の主人を困らせるのも筋違いだ。
そう二人は示し合わせたように、大通りの喧騒から外れた人通りの少ない路地へと場所を移していた。
壁一枚隔てただけで、京の賑わいはこうも遠い羽音のように微かになる。
薄暗い路地裏、赤衣と対峙した以蔵は、少し色の抜けた茶色の襟巻きを無造作に整えながら、鼻で笑った。
「なんじゃ、京も案外狭いもんじゃのう」
「某も、まさかまた会うとは思わなんだよ」
ぽつり、ぽつりと交わされる言葉の合間に、路地特有の沈黙が滑り込む。
互いに明確な忌避感はない。かと言って、互いに肩を抱き合い再会の喜びを分かち合う仲でもない。
かつて酒亭という喧騒の中で交わった二人が、こうして再び出会えたのは偶然か、あるいは見えざる運命の手引きか……そんな観測者の呟きをよそに、以蔵が口を開いた。
「はっ、これも縁ちゅうやつか。それとも腐れ縁かのう」
「まだ二度目でござるゆえ、腐れ縁と呼ぶには早い気もするでござるよ」
「ものの例えじゃ。本気にするなや」
以蔵がフンと鼻を鳴らす。
その所作は、前に会ったときよりも随分と静かで、どこか落ち着いているように思えた。あの時はもっと、獣のように周囲を威嚇するような、剥き出しの気配があったはずだ。
しかし、初めて出会った場所は酒亭であり、なによりお互いに酒が入っていた状態だ。今が素面であることを考えれば、この静けさこそが男の平熱なのだろう——と、赤衣はひとまず自己完結させた。
当の以蔵は赤衣の観察眼など気にする風もなく、無造作に懐へ手を突っ込んだまま、つまらなそうに路地の奥へと視線を流している。
「んで、おまんはこんなところで何しゆうがじゃ。暢気な京見物なわけもないろう」
「某は少々……いや、まぁ、人を探しているでござるよ」
「人探しぃ? なんじゃ、おまん。あの気ぃ強い嫁にでも逃げられたがか」
「……前にも行ったが、沖田殿は別に某と
「馬鹿か、おまん。武家の女が、ふたりっきりで男と飲み歩くわけあるか。命の恩人じゃろうが何じゃろうが――」
そこで赤衣は困ったような笑みを漏らし、ふと足を止めた。
「はは、これは手厳しいでござるな……確かに、そう邪推されても仕方ないかもしれぬが……某にとってはただ、どうしても放っておけぬ御仁というだけでござるよ」
赤衣がそう言って、少しだけ視線を和らげる。
己の不器用さを隠そうともしない、どこか達観したような穏やかな響き。そしてなにより、一見すると世慣れているようでいて、その根底にある打算のないお節介な温かさ——。
それが、以蔵の記憶に眠るかつての友の佇まいに、酷く重なって見えた。
——『どうして、わしに護衛なんか任せた。わしが勝手に出て行ったおまんを斬ろうとするとは考えんかったがか?』
——『はは、こりゃあ手厳しいのう。けんど、そうじゃなぁ……僕にとって以蔵さんは、どうしても放っちょけん人ながぜよ』
甘っちょろい。
甘っちょろいくせに、その目には確かな強さが籠もっている。
今はもう袂を分かってしまった、あの掴みどころのない男の影。
似ているわけがない。顔も声も、何もかもが違う。それなのに、赤衣が醸し出す独特の空気が、以蔵の張り詰めた警戒心を無意識のうちに融かしてしまっていた。
「……まぁ、ええわ。実はわしも——」
しかし、そこまで言って口が止まる。
自分が何を口走ろうとしたのかに気づき、以蔵の背筋に冷たいものが走った。
「……いんや、何でもないきぃ」
「?」
フンと鼻で笑い、無理やり話を切った。
だが、それで綺麗に誤魔化せたと思っているのは本人だけである。
あまりにも不自然に途切れた言葉と、その直後に訪れた重苦しい沈黙。酒亭で見せた獰猛なまでの荒々しさを知る赤衣だからこそ、今、目の前の男が抱える不安定な心情の揺らぎが、手に取るように見えた。
止めていた足を再び動かし、赤衣は先行するその背中へ、静かに問いかける。
「お主……何か、あったでござるか?」
「何もありゃせん」
「そう、でござるか? しかし、某に相談できることなら——」
「人探しなんぞ、誰でもするきぃ! おまんは黙っちょけ!」
図星を突かれた子供のように、以蔵は語気を荒らげる。
あからさまに怒りを見せそっぽを向く以蔵に対し、赤衣はそれ以上の追及を諦め、ただ小さく息を吐いた。優しさの視線を向けることすら、今の目の前の男には刃になるだろうと。
そんな路地の薄暗がりに、今度こそ完全に会話の途切れた。
気まずい沈黙だけが取り残され、ただ、互いの間に頑なで重苦しい空気だけが横たわっていた————そんな時である。
「た、大変だぁッ!!」
「あぁ?」
けたたましい叫び声が、表通りから響き渡る。
路地の向こうから、一人の町人が転ぶような勢いで駆けてきた。顔面を土気色に青ざめさせ、肩で激しく息をしながら、必死に周囲へ向かって叫びをあげている。
「薩摩だ! 薩摩者が暴れとるぞォッ!! 早う逃げなはれ!! 巻き添えにされたら、かなわんぞッ!!」
「なんじゃと、薩摩ぁ!!?」
その唐突に降ってきた忌々しい藩名に、以蔵の顔へ瞬時に険しさが走った。
だが、隣に立つ赤衣の変貌は、それどころではなく。
「すまぬ、土佐の人——」
「っ、はぁ!!? おまんはいきなり、なにを言うちょ——」
その行動は、以蔵が驚き、最後まで声を上げるよりも早かった。
さっきまで自分の背後を歩いていたはずの赤衣の影が、土を派手に巻き上げるような地の蹴りとともに、視界の端をかすめていったのだ。
赤衣の身体が、一直線に大通りへと滑り込んでいく。衣服の裾だけが一拍遅れて翻り、巻き起こった風だけが後を追った。
あまりにも迷いのない一瞬の踏み込み。その初速の爆発力を捉えることは、天才と謳われた以蔵をもってしても不可能な速度だった。
「な、なんじゃ、あん速さは……!?」
先ほどまで己の背後で困ったような笑みを浮かべていた、ただの優男とは到底思えぬ移動速度。
あれは間合いを盗む剣客の脚ではない。獲物の匂いを執念深く嗅ぎつけ、遮二無二飛び出した飢えた獣の加速のようにすら思え——。
「いや、そげんことより……おい、ちょ! 待たんか、優男!」
困惑を無理やり押し殺し、以蔵も赤衣の背を追うため地を蹴る。
逃げ惑う町人の群れを肩で割り、強引に避けながら全力で追うが、それでも赤衣の背中は遠い。距離が縮まらないどころか、じりじりと引き離されていく。
対して赤衣は、まるで人波の動きをすべて先読みしているかのように、誰の邪魔も受けることなく、淀みない一定の速さで人混みをすり抜けていっていた。
(なんじゃ、あいつ……!)
追えば追うほど、妙な確信だけが胸に積もっていく。
あの反応は、ただの野次馬ではない。何かを知っていて、それに対して身構えていた人間の走りだった。
聞こえてきた言葉など、ほんの断片に過ぎなかったはず。薩摩が暴れている、ただそれだけ。
昨今の京であれば、長州などの過激尊攘派が天誅と称して無法を働き、商家や米倉を襲う事件は日常茶飯事である。しかし、国元からの統制が厳しく、組織として洗練されている薩摩藩の武士が、白昼堂々市中で無差別に暴虐を働くなど、本来であれば考えにくいことだった。
もしその薩摩が本当に暴れており、さらにあの男がその単語一つに血相を変えて見せたのだとすれば、理由は一つしか思い当たらない。
(あん男、もしかして……!?)
——某は少々……いや、まぁ、人を探しているでござる。
不意に、さっきあの赤衣の優男が口にしていた言葉が甦る。
もしも、あの男が探している人間というのが、自分と同じく薩摩の人斬り――すなわち田中親兵衛のことであったとすれば……。
「んのおおおおおお!! 待つがじゃあああああああ!!」
点と点が繋がりかける中、以蔵は奥歯を噛み締め、さらに足の回転を速める。
息を切らし、人混みをかき分け、野次馬が作った人垣を強引に割りながら、ようやく以蔵は赤衣の背へと追いついた。
「はぁ、はぁ、やっと追いついた……! もう、逃がさんきぃ……!」
激しい息切れとともに、以蔵は逃がすまいと赤衣の肩を乱暴に掴み取る。
「おい、おまんに聞きたいことが——」
一気に捲し立てようとした以蔵だったが、その言葉は途中でぴたりと凍りついた。
掴まれた赤衣は、振り返るどころか、身じろぎひとつもしない。その双眸はただ真っ直ぐに、人垣の中心で繰り広げられている異常な光景へと釘付けになっていた。
その横顔のあまりの険しさに、以蔵も怪訝そうに目を細めると、その中央の騒ぎへと視線をやる。同時に、周囲の野次馬たちからも、恐怖を隠すような低俗な罵声がひそひそと飛び交っていた。
「薩摩の侍だ!」
「どの面下げて歩いてるんだ」
「さっさと西国に帰れ!」
浴びせられる嫌がらせのような怒号。しかし、そこに立っていた十名近い薩摩の武士たちは、そんな雑音など一切耳に入っていない様子で、周囲を鋭い目で見回していた。
抜刀している者こそいないものの、その表情は誰一人として穏やかではない。単なる治安維持のための巡回だと決め付けるのは、流石にできかねる情景だった。
「知っちょっとがあっなら吐かんか!!」
そんな時、薩摩藩士の一人が、これ以上ないほど苛立った様子で声を荒げる。見れば、その薩摩藩士が、露店の主人の胸ぐらを掴み上げていた。
「薩摩ん侍を見っじゃろが!」
「し、知りませんよぉ……!」
「そら言を言うな! そこの酒亭でおはんがそう言うちょったちゅうこっは、すでに耳に入っちょっとよ!!」
乱暴に突き飛ばされ、主人が荷台へ背中を強かに打ちつける。がしゃり、と商品である風車や剣玉が崩れる音が響き、周囲の町人たちが短い悲鳴を上げながら、一歩、また一歩と距離を取った。
「薩摩ん人間の行方を、一刻も早う突き止めんならん!」
「薩摩ん名に関わっことじゃ! 会津や他ん者に先を越されるわけにはいかん!」
「他ん雄藩どもに、おいどんらの身内を引き渡してたまるか!」
そう言って、別の藩士たちもが続いて、逃げ腰の往来へ向けてこれ見よがしに怒鳴り散らしだす。
異常なまでの執着が、かえって周囲の恐怖を煽っていた。
「誰ぞ見ちょらんか! 薩摩訛りの大男じゃ!」
「知っちょる者は今すぐ名乗り出い!」
「黙っとらんで、さっさと口ば開かんか!」
しかし、返事はない。
迂闊に名乗り出れば、どのような嫌疑をかけられるか分かったものではないのだ。幾ら声をかけたところで、あの気迫の前では、誰もが口を閉ざしてしまうことだろう。
そんな怯えの空気が、通り全体を支配していた——そんな時だった。一人の若い町娘が、その威圧感に耐えかねて逃げようとしたのか、慌てるあまり足をもつれさせ転倒した。
「きゃっ!!」
「っ!!? おい、おはん! 待たんか!」
激しい怒声とともに、露天の店主を押し倒していた薩摩藩士が、今度は娘の細い腕を容赦なく掴み、強引に引きずり起こした。
あまりの乱暴さに、娘の手から豆腐の入った水桶が落ち、中身が地面へ無惨にぶち撒けられる。
「今逃げようとしたちゅうこっは、おはん、何か知っちょっとじゃろ!」
「ひぃ、し、知り、ません……っ!」
「嘘を言うな! 逃げ出そうとしたちゅうこっは、何か隠しちょっとじゃろが!」
「ほ、本当に、知らないんです……っ! どうか、どうかお許しを……っ!」
大の男たちに囲まれ、怒号と暴力的な威圧感に晒された娘は、恐怖のあまり過呼吸を起こしかけていた。もはやまともな返答すらできず、ただがちがちと奥歯を鳴らし、涙ながらに必死で首を横に振るので精一杯。客観的に見れば、ただ怯えて逃げ出そうとしただけの無辜の町娘である。
しかし、血眼になっている藩士らにとっては、その動転すら不審な態度にしか映ってはいないようだった。無理やり詰問する薩摩藩士たちの姿は、尋問というよりは、焦りからくる狂暴な八つ当たりにしか見えなかった。
「こそこそと逃げ出そうとすっが怪しか! おはんが吐かんちゅうなら、力ずくでも喋ってもらうしかなか!」
「お、おやめください……っ! お願い、ですから……っ!」
かちり、と白昼の大通りに、あってはならない不穏な金属音が響く。ただでさえ他藩の目を恐れて限界まで張り詰めていた武士の理性が、いよいよ焦燥の底をつこうとしたのか。逆上した藩士の手が、自らの左腰——親指で刀の鯉口を押し切ったのだ。
狂気である。いくら動乱の世とはいえ、何ら罪のない、武器すら持たぬ町娘を相手に、あろうことか白刃を向けようというのは狂った出来事だ。いくら動乱の幕末とはいえ、白昼堂々、公の場で町人を斬り殺せば、薩摩藩の威信はそれだけで地に落ちる。
周囲の町人たちも恐怖のあまり息を呑み、逃げ出すこともできず、ただ地面に張り付くようにして戦慄するしかなかった。
(あいつら焦りすぎて気でも違うたがか……?)
そんな光景を、以蔵はただ冷徹に眺めていた。
娘を助けるような殊勝な心掛けなど、欠片もない。ただ、薩摩という大藩が、たかが一人の浪人を追うあまりに身内の恥を晒し、自ら泥沼へと足を突っ込んでいく姿を、見物人として値踏みしていただけだ。
——勝手に自滅しよるわ。
そう内心で毒づき、以蔵が冷ややかに事の顛末を見届けようとした、まさにその刹那。
「——そこまででござる」
すっ、と。その場にいた誰一人として気づかぬ速度で、赤衣が薩摩藩士の真後ろに音もなく立っていた。
刀は未だ、鞘に納まったまま。しかし、その塗り鞘の柄頭が、男の背中——ちょうど水月の裏へ、吸い込まれるように静かに添えられている。
「——————!!?」
柄頭を当てられた薩摩藩士の肩が、音もなくびくりと震える。
抜刀こそされていないが、ほんの僅かでも身じろぎすれば、その柄頭で背骨ごと内臓を打ち砕かれる——そんな言葉にならぬ死の予感が、男の全身を総毛立たせていた。
「あっ——ぐ——!」
「っ、何者な、おはんは!!?」
「おいどんらの邪魔ばすっ気か!」
一拍遅れて異常事態に気づいた周囲の藩士たちが色めき立ち、一斉に赤衣へ敵意を剥き出しにする。だが、背後を取られた男は完全に硬直したまま、冷や汗を流して指一本動かすことすらできないでいた。
「別に、ただ声を荒げ事情を聞くだけならば、某も邪魔をする気は無かったでござるよ。しかし、かように刀を抜くというのであれば、某も黙ってはおれんな」
取り囲まれ、数多の殺気を浴びながらも、赤衣の薩摩藩士たちを見据える双眸だけは、ひどく冷え切っている。
「町人を脅したところで、お主らが欲しい答えは得られぬ。それが分かったなら、さっさとその娘から手を離せ」
その言葉に殺気はない。刀すら抜かれてはいない。
それなのに、そのはずなのに——どうしてか、自分たちの命の蝋燭は、すでにこの赤衣の指先に摘ままれているような気がしてならなかった。
もし一歩でも踏み込めば、どうなるか。次の瞬間には自分たち全員の首が飛んでいる——そんな恐ろしい確信だけが、怒りで血走っていた薩摩藩士たちの脳裏を強制的に冷やしていく。
痛いほどの沈黙の中。後方で静観していた一人の薩摩藩士が、その張り詰めた空気を断ち切るように重い口を開いた。
「もう……よか、退くど」
「じゃ、じゃどん! 半次郎っ!」
若手の薩摩藩士がすがり付くように声を荒らげる。
だが、半次郎と呼ばれた男の眼光は、それを黙らせるように鋭く光った。
「聞こえんじゃったか? 退っど。これ以上、厄介事ば増やすな」
その鶴の一声ともいえる男の言葉に、他の薩摩藩士たちは舌打ちを残しながらも、引き下がっていく。赤衣も、背中に柄頭を抑えつけていた男を解放してやり、薩摩の一団が完全にひいたのを確認してから、ようやく刀から手を離した。
ひとまず最悪の事態は去ったのだと、大通りのあちこちから、せき止められていた安堵の息が漏れ始める。
そんな周囲の喧騒や畏怖の視線などどこ吹く風と、赤衣はゆったりと振り返り、先ほどまで恐怖に怯えて地面にへたり込んでいた町娘へ目線を合わせた。
「お怪我はござらぬか?」
「は、はい……」
さっきまでの、周囲の空気を凍らせていた凄みが嘘のように消え失せ、そこにあったのは陽だまりのような柔らかな笑みだった。
そのあまりの落差と、間近で見る端正な顔立ちに、町娘は一瞬だけ呆然とする。そして、じわじわと頬を赤らめながら何度も深く頷き、「あ……ありがとうございます」と消え入りそうな声で小さく頭を下げた。
「けっ……なんじゃ、あの甘っちょろい顔は」
そんな光景を、以蔵は少し離れた位置から冷ややかに見つめていた。
つい数瞬前、あの薩摩の度肝を抜くほどの神速を見せておきながら、今はただの頼りない優男のようにへらへらと笑っている。そのあまりの二面性に、以蔵は妙な居心地の悪さを覚えるしかなかったのだ。
(やっぱり、似ても似つかんのう——こいつの方が、よっぽどの筋金入りじゃ)
毒気を抜かれたような、しかしそれ以上に、男の底の知れなさに苛立ちを覚えた以蔵は、懐手を崩さぬまま、どすどすと足音を荒げて赤衣へと近づいていく。
「おい、優男」
「ん?」
ぶっきらぼうな声が、鼻を鳴らすように放たれる。
赤衣は娘を優しく促して帰すと、ゆっくりと立ち上がり、以蔵の方へ向き直った。
その際、以蔵が勢いよく足音を鳴らして近づいてきたのを見て、てっきり自分と同じようにあの娘の安否を案じて慌てて駆け寄ってきたのだと、ごく自然に勘違いしたらしい。
「あぁ、お主も様子を見に走ってきていたでござるか」
その柔和な相好をさらに崩し、気さくに言葉をかけてきた。
しかし、そんな的外れな好意と、あまりに警戒心のない態度に、以蔵の眉間の皺が一段と深くなる。
「……おまん、命がいくつあっても足りんぞ。相手はあの薩摩じゃ。一歩間違えたら、今頃その薄っぺらい首がすっ飛んどるわ」
「それは、そうかもしれぬが……あのままではあの娘が斬られていたかもしれぬ故、某が立入るしかなかったでござるよ。それに、お主もいつでも動けるよう、息を詰めておったのでござろう?」
「はぁ!? 誰がそんなお節介するか! わしはただ、あのアホ猿どもが勝手に自滅するのを鼻で笑おうとしちょっただけじゃ!」
あまりに見当違いな男の発言に、以蔵はカッと頭に血を上らせたのか怒鳴り返した。
以蔵は本当に助ける気など微塵もなかった。ただ、白昼堂々の抜刀という一触即発の空気に当てられ、人斬りとしての本能か、無意識に呼吸を鋭くさせていただけだ。あるいは、自滅していく薩摩を特等席で見物しようと身構えていただけ。
それを、この赤衣の男は「娘を助けようとしていた」などとおめでたい誤解をしている。勝手に善人扱いされた苛立ちと、微細な呼吸の変化だけは正確に捉えられていた薄気味悪さが、以蔵の不機嫌さを一層激しくさせた。
そんな以蔵の態度を見た赤衣も、どうやら自分の勘違いを悟ったのだろう。「本当に、違うのでござるな……」と困惑しながらも、ぽりぽりと頬を掻く。
けれど、そんな当惑も長くは続かない。
大通りの奥、先ほど薩摩藩士たちが消えていった方角へ視線を転じた瞬間、赤衣の双眸に再び深い思索の影が落ちた。
「しかし……妙、でござったな」
「あぁ? 何がじゃ」
「あの薩摩藩士らでござるよ」
赤衣は静かに目を細める。
「薩摩の人斬りとやらは、あの者たちの仲間でござろう? 見つけて何をする気かは知らぬが、まるで、同じ薩摩の侍を追っているかのような……そんな焦りに見えたでござる」
世間を震撼させている薩摩の人斬りの凶行。赤衣はそれを、薩摩藩が裏で糸を引く組織的な犯行だと踏んでいた。
その行動の裏には、赤衣の過去に繋がる男が潜み、薩摩藩の一部を取り込んで暗躍しているのだろう、と。
先ほどの薩摩藩士たちの追跡劇も、御しきれなくなった手駒を回収し、身内の不始末を闇から闇へ葬るためのもの――そう読めもしなくはなかった。
しかし、彼らが魅せたあの一線を越えかけた剥き出しの焦燥は、赤衣の推測に冷や水を浴びせることとなる。
あれは、身内のヘマを隠すためのトカゲの尻尾切りなどではない。むしろ、自らの藩を内側から脅かす明確な敵へ向けられた、憎悪と怒りの裏返しのように見えた。
自分が見誤っていたのか、あるいは人斬りを巡る前提そのものが根本から違っているのではないか……己の立てた仮説が、わずかに揺らぎ始めるのを、赤衣は敏感に感じ取っていた。
だが、それを聞いた以蔵は、さもくだらなそうに鼻を鳴らす。
「そりゃあそうじゃろ」
「?」
「薩摩の連中からすりゃ、あんな脱藩浪人ぁ迷惑でしかなかろうからのう」
――脱藩、浪人。
その単語が聞こえた瞬間、赤衣の身体がぴたりと動きを止めた。
声にならぬ衝撃が、脳の奥底へと鋭く侵食していく。
もしも、あの人斬りが薩摩藩の指示で動く組織的な手駒などではなく、藩のあずかり知らぬ個人の暴走なのだとしたら?
さっきまで半次郎たちが剥き出しにしていた、あの焦燥――あれは身内が他藩に捕まるかもしれないと焦っていたものではなく、藩そのものを破滅しかねない大罪人を、一刻も早く己の手で圧殺し、自分たちは関係ないと主義主張するための決死だったのではないか?
混迷を極めていたパズルのピースが、最悪の精度でカチリと噛み合っていく。いや、噛み合ってしまう。
抱いていた前提が根底から覆る衝撃。しかしそれ以上に、赤衣の背筋を伝ったのは、逃れようのない強烈な戦慄だった。
なぜ、京の町をあまねく震撼させ、朝廷や幕府すら実態を掴みあぐねている怪物の正体を、この目の前の男はこうも平然と断定できるのか。
なぜ、土佐の人間が、それを知っているのか。
「お主……は、一体?」
「……」
だが、その問いかけに以蔵は答えない。
ただじっと、無言のまま赤衣の顔を横目で見つめ返していた。
その目は、いつの間にか深く、昏い光を宿している。それは物珍しそうに他人を観察するような、そんな生易しい目では断じてなかった。
「おまん。薩摩の人斬りを追っとうじゃろ」
以蔵がそう言って身体を向き合わせた瞬間、空気が変貌した。
二人の間に数瞬の沈黙が降り、行き交う野次馬たちの喧騒がふっと遠のく。まるで、高所から落下する時のような凄まじい悪寒が、足元からぞくりとせり上がってきた。
「……何故、そう思ったでござるか……」
赤衣の声色は変わらない。どこまでも穏やかで、平時の調子を必死に保とうとしている。
しかし、腰へと添えられていた右手だけは、音もなく、ほんの僅かに下へと滑った。あと数寸。それだけで柄を握れる位置。
しかし、以蔵は身構えるどころか、さも愉快そうに鼻で笑う。
「さっきの走りじゃ。あの怒鳴り声を聞いた途端、真っ先に飛び出しよったろうが」
そう言いながら、以蔵がじりっと一歩、距離を詰める。
赤衣の双眸が微かに揺れた。自身の抜刀術が最も威力を発揮する間合いを維持するため、以蔵の踏み込みに合わせて、寸分の狂いもなく正確に一歩、後ろへと退く。
「ただの野次馬なら、あげな走り方はせんき」
「っ……!」
「しかも、関わりもない人間が、あん薩摩の連中をそこまで気にかける訳がなかろうが」
さらに一歩、また一歩と以蔵が間合いを詰める。
「おまん――」
「くっ——」
赤衣の瞳が細くなる。
この男は、ただの土佐の浪人だと高を括り、特に警戒もしていなかった。だが、これほどまでにこちらの本質と動向を正確に見抜いてくるとなれば、話は別だ。
もしかすると、この男は薩摩の人斬り――ひいては、その影で糸を引くあの男と裏で繋がっている刺客なのか。
(……まずい)
もし、この場で斬り合いにでもなれば、何人もの被害者が出る。
薩摩の人斬りも、人並み外れた力を出していた。
いくら、魔術回路を数本開いているとしても、被害者を全く出さずに戦える相手では決してない。
しかし、仮に目の前の男が敵であるのなら、このまま放置するわけにもいかない。
そう思っている中でも、以蔵がまた一歩踏み出した。
(致し方、ないか……!)
覚悟を決めた赤衣の右指が、音もなく刀の柄へと届きかける。
互いの剣気が沸点に達し、白刃が閃こうとした――まさにその瞬間だった。
————ガシィッ!
と、張り詰めていた空気を破り、肉厚な掌が赤衣の肩を掴んだのは。
「————え?」
「おまん——金はもっちゅうがか!?」
「…………は?」
あまりの想定外の衝撃と、天と地ほどに脈絡のない問いかけに、赤衣の思考は完全に停止する。いつでも命を刈り取れるはずだった右指が、柄の手前で所在なげに固まった。
視線の先では、以蔵がこれ以上ないほどの満面の笑みを浮かべ、赤衣の顔を覗き込んでいた。
土佐弁を書きながら、薩隅方言を書いていると、あらたな関西弁ができあがって、作者もわけがわからなくなってしまうんだ。
これ書きすぎると、日常生活にまで移りそうになるから注意が必要だぞ。
ということで、岡田以蔵が赤衣と合流を果たしました。
互いの目的は違えど、どちらも薩摩の人斬りを追う者同士。さてはて、これからどうなるのやら。と言いながら、もう一人スタンバイしてる模様。
あとしれっと歴史好きなら知ってるかもしれませんが、最後の幕末四大人斬りがでました。はい、めちゃさらっと。
だって、まだ型月世界にいないですから。うん、実装とかされたら、ちょちょっと書き換えられるようにするため、ただのモブ感で今はいてください。
さて、豆知識で幕末四大人斬りについて書いてもいいんですが、チョチっと趣旨を変えて何人かの壬生浪士組から見た、赤衣の現在の好感度でも考えてみましょう。
こういうのが好きなら増やすのも一考。
近藤
総司の殿内暗殺未遂の件や上欄試合のこともあってかなり好印象。
しれっと夜遅くに晩酌に誘ったりして、三国志について熱く語りあうことがあるとかないとか。何故かやけに外国の武人などに詳しい赤衣から、密かに三国志以外の英傑についても教えてもらってる模様。目下のお気に入りは、アーサー王伝説のベディヴィエール卿とのこと。
あと、飯がうまい。
土方
悪いやつじゃねぇが、芹沢さんのところの小姓みたいな者だから、一定の距離感を保ち警戒心を持つようにしている模様。沖田を腑抜けにしたであろうことをきっかけに、些か複雑な心境を持つらしい。近藤さんに仇なす場合、即座に斬り殺すと誓っている、一人だけ覚悟ガンギマリマン。
あと、沢庵がうまい。
斎藤
嫌い。