殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:ただの物書き

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やぁ、また長くなっちまったよ…(遠い目)
持病かな? 持病じゃないよ、性癖だよ


丁半賭博

「半っ!」

「あぁ! 次こそ、半っ!」

 

 怒号と笑いが入り混じる旅籠(はたご)の一角には、酒と煙草の臭いがむせ返るように漂っていた。

 盆台へ叩きつけられるコマ札の音、飛び交う泥臭い怒声。締め切った障子の隙間から遠慮なく差し込む真昼の陽光が、かえって、真っ昼間から博打に狂う男たちの不健康な横顔を容赦なく白日の下に晒している。外にはまだ眩しい京の青空が広がっているというのに、ここにいる誰もがそんな健全な世界から目を背け、ただ目の前の木切れに全財産を委ねていた。

 そんな敗者の呪詛と勝者の哄笑が交互に鼓膜を刺す中で、一際お調子者のように響く高い声がある。

 ——土佐の脱藩浪人、岡田以蔵である。

 

「おい、優男! 次はどっちじゃ!!?」

 

 以蔵はすでに目を血走らせ、赤衣の肩を強く揺さぶった。

 見る人が見れば(いや、誰から見てもかもしれないが)、その形相はまさに現代でいうところのギャンブル中毒者であろう。馬券片手に叫ぶ下町の不良警官然り、圧倒的破滅の淵で鉄骨を渡らされる青年然り、あるいは命を賭けるリスクに脳を焼かれて恍惚とする女子高生然り。それら古今東西の猛者たちに負けず劣らず、男は狂おしいほどの熱狂の渦中にいた。

 当然ながら、そんな以蔵に肩をゆすられる赤衣は露骨に嫌そうな顔を隠しもしない。どころか冷めた目を向けつつ、深い溜息を吐き出した。

 

「はぁ……某はもう帰りたいのでござるが」

「ええきぃ! つべこべ言わんと、はよう言え! こんな機会なかなかないろう!?」

「張った張った——! 丁方ないか、丁方ないか——!?」

「おい、さっさと張りな、そこの兄さん方! こっちの時間がねえんだよ!」

「もたもたしてっとツキが逃げちまうだろうが!」

 

 正面からは中盆の、隣からは目の色を変えた他の客たちの急かしが入る。真っ昼間からお天道様を拝まずにここに籠もっているような手合いだ。一瞬の滞りすら我慢がならないのだろう。

 このまま渋って時間を潰すのも悪手だと察した赤衣は、半ば投げやりに、賽の転がる盆へと視線を落とした。ただの木切れとサイコロ。しかし、そこに篭る人間の執念だけは本物であろう。

 

「……では、ピンゾロの丁でござる。……多分」

「よっしゃあ! 聞いたがか中盆! ピンゾロの丁じゃ、丁に全賭けじゃぁ!」

「おいおい、正気か? 全員が半に賭けてんだ。ここは無理にコマを揃えず、半方のコマを下げさせて——」

「ええから、はよ勝負せい!!」

 

 ひとりの観客の声を遮り、そうして以蔵は嬉々としてコマ札を放った。

 中盆が駒が出揃ったことを確認し、油の浮いた目で壺振りへ目配せする。それを受け取った壺振りは一瞬、忌々しそうに眉をひそめると、こくりと小さく頷いたあと伏せていた竹筒の笊をゆっくりと引き上げた。

 

「コマ出揃いました――では、勝負!」

 

 ――刹那、賭場全体の時間がぴたりと止まる。比喩ではなく、本当に壺振り以外の動きが止まっているようだった。

 ゆっくりと引き上げられた笊の下から出てきたのは、盆台の上に転がった二つの賽。白地に鮮烈な赤をあしらった「一」の目が二つ、まるで周囲を嘲笑うかのように真上を向いて綺麗に並んでいた。

 

「——ピンゾロの、丁っ!!」

 

 壺振りが叫ぶ。

 客の誰も彼もが半へ怒涛の如くコマ札を進める中、ただ一人、以蔵だけが全財産を突っ込んだ丁の、それも最高に劇的で最悪に尖った大勝ちの出目だった。

 中盆は言葉を失ったまま盆台を凝視し、壺振りは己の右手に何かが取り憑いたのではないかと、戦慄の面持ちで指先を見つめている。イカサマを疑うことすら忘れるほどの、文字通りの神懸かり。

 周囲の博徒たちが驚愕のあまり息を呑み、肺の空気をすべて引き抜かれたかのような静寂が満ちる中、すべてを吹き飛ばすような勝利の雄叫びが爆発した。

 

「おっしゃあッ!」

「おい、またあの以蔵さんが当てたぞ……!」

「まぐれ、なのか……? これで五連勝だぞ」

「いやいや、今日はそういう日ってだけだろ。以蔵さんに、ようやくツキが回ったってだけの話……のはず」

 

 周囲の客たちが、畏怖と困惑の混じった視線を二人に注ぐ。

 彼らからすれば、あの賭け事に全く向いていないダメ人間の以蔵が、その隣で死んだ魚のような目をしている赤衣の囁き一つで勝ち続けているのだ。そんな光景は、奇妙奇天烈以外の何物でもないだろう。

 事実、コマ札をこれみよがしに手で弄る以蔵を見ても、なにか集団幻覚でも見せられているのでは、と疑い半分で目をこする男さえいた。

 しかし、当の本人は周囲の疑心暗鬼など全く意に返さない。どころか、生まれて初めての大勝にもやは脳内麻薬が出過ぎた様子で。

 

「はははは! 負け犬は吠えられるだけ吠えちょけ! 今日はおまんら全員褌一丁にしてやるきぃ、覚悟しとくぜよ!! なーっはははは!!」

 

 と、勝ち取ったコマ札の束を贅沢に掴み、それを扇子代わりにパタパタと仰いで風を起こしながら高笑いしている。まるで風刺画にでも出てきそうな成り金の様相であった。

 まぁ、客観的な事実を並べるならば、この岡田以蔵という男、これまで賭け事で全財産をスッて一文無しになった回数はもはや両手両足の指では足りず、借金の取り立てから夜逃げした回数にいたっては数え切れないほどの男だ。

 銭と大勝に最も縁遠いとまで噂されたあの岡田以蔵が、ここまで勝ち越せている理由。その原因の一端であるはずの赤衣は、胡座をかいたまま深く深く溜め息を漏らした。

 

「はぁ……(何故、こうなったのでござろう……)」

 

 今日何度目かも分からぬため息とともに、赤衣はそんな諦念を抱きながらそっと目を伏せる。もはやなるようにしかならぬと言いたげな、完璧な諦観の様子で、赤衣は深くあぐらをかき直し、衣服の袖に両手を仕舞い込んだ。

 まぶたを閉じたことで視界が遮られ、それと同時に、鉄火場のどす黒い熱気や以蔵の下品な高笑いが、まるで他人事のように耳の奥で遠ざかっていく。

 ぱちぱちと盆布の上でコマ札が勘定される音が、まるで時間を巻き戻す時計の針の音のように響き始め――赤衣の意識は、ほんの少し前――この旅籠に入る時のやり取りへと、静かに逆流していった。

 

 

 

 

 

  事の発端は、そう旅籠の前に着いた時のやり取りである。

 大通りの喧騒から少し外れた場所に佇む、一見すればごく平凡な、どこにでもある旅籠。強いて特筆すべき点をあげるとすれば、赤衣が住まわせてもらっている壬生浪士組の屯所である八木邸や、稽古場として使わせてもらっている壬生寺からもほど近いということくらいだろうか。

 店先の暖簾は昼下がりの風に揺れており、こんな所に薩摩の人斬りやあの男がいるとは、にわかに信じ難いが、それでも以蔵は自慢げに顎をしゃくってみせた。

 

『ほれ、ここじゃ』

『どう見ても、ただの旅籠でござるが……こんな所に、薩摩の人斬りが潜伏しているでござるか?』

『んなわけあるか』

『……?』

 

 不審そうに眉をひそめる赤衣に、以蔵はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

 

『ここは最近評判のええ鉄火場でのう。こういう賭場には、津々浦々の人間が集まるきい。金があるなら、ここで聞き込みするんが一番ぜよ』

 

 その目はどこか、獲物を見つけた猛獣のそれというよりは、おもちゃ屋の前に辿り着いた子供の輝きに近かった。すでにその時点で、赤衣は本能的な危険信号を察知すべきだったのだろう。

 

『えぇっと、某の懐を聞いたのも、これのためでござるか……?』

『当たり前じゃ。わしが銭を持っちょるように見えるがか?』

『いや、全く』

『そうじゃろ?』

 

 なぜ誇らしげなのか。自分の困窮を天晴れと言わんばかりの態度で肯定した以蔵は、「んじゃ、入るぜよ」と、さも当然のように赤衣の金を軍資金にする気満々で足を動かそうとする。

 しかし、流石に赤衣の足は動かなかった。いくら薩摩の人斬りの情報が欲しいとはいえ、真っ昼間から他人の金で博打に興じようとする無頼漢に、そのまま首を縦に振るほどお人好しではない。

 

『いやいや、某は、以蔵殿から薩摩の人斬りについて教えてもらえれば、それで結構で——』

 

 ぐい、と赤衣がその場に踏みとどまると、先行しようとした以蔵がこれ見よがしに足を止め、大げさに肩をすくめて溜め息をついた。

 そして面倒くさそうに振り返り、赤衣の顔のすぐ近くまでその顔を寄せてくる。

 

『ここでみすみす得られたかもしれん情報を逃すんは、馬鹿のすることとは思わんがか?』

『それは……』

『ま、わしに任せとけ。おまんは確かに賭け事には向いてない顔しちょるきのう』

 

 どこか年長者が若者を諭すような、あるいは手慣れた男が素人を導くような、妙に説得力のある声音だった。その眼光に一瞬だけ宿ったもっともらしさに、赤衣は「……そこまで言うのであれば」と、ほんのわずかに警戒を緩めてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ――そう、確かにあの時は、それっぽい大義名分を掲げてはいた。いたのだが。

 

「がーっははは! いやぁ、こんだけ勝ったんは生まれて初めてのことでないがか!? やっぱり、わしは土佐一の博徒ぜよ! 恐れ慄け、わしは天下の大大大勝負師じゃぁぁ!!」

 

 パッと意識が今の賭場に戻れば、視界の先ではやはり、頭のネジが一本残らず消し飛んだ男が両手でコマ札をかき集め、絶叫していた。

 その姿には、先ほど旅籠の前で見せた知性など、一欠片も残っていない。いや、もしかしたら、そんなものはまやかしで最初から無かったのかもしれない。

 まるで狐にでもつままれたた気分になりながら、目の前にいる、ただただ他人の金で大勝ちして絶頂を迎えているだけのダメ人間を赤衣はじとーっとした目で見ていた。

 ——やっぱりただ博打がしたかっただけでは?

 という極めて正当な非難を、赤衣はかろうじて飲み込む。ここでそれを指摘したところで、今の以蔵の耳には一言も届かないであろうことは、火を見るより明らかだったからであるし。なにより、「そうじゃ! 騙されたおまんが悪い!」と開き直られたら、流石の赤衣も少し手が出てしまいそうと思ったからだ。

 

 そんな赤衣の内心を代弁するかのように、隣りに座っていた無精髭を生やした男が、怪訝そうに声を掛けてきた。

 

「いやー、今日はどないしたんや、以蔵さん」

 

 妙に耳に大阪訛りの男は、ぽりぽりと髭を掻きながら続ける。

 

「えらい景気がええやんか。いつもならこの時間には、身ぐるみの半分は剥がされておケツをまくってる頃合いやろ」

「たしかに。あの博打で身を滅ぼすのが先か、商家への押しかけで死罪になるのが先かで有名な、あの以蔵さんがなぁ……」

 

 一人の浪人のつぶやきを口火に、周囲の客たちからも「全くだ」「何か悪いものでも食ったんじゃねえか」と、次々に同意の声が上がる。

 どうやらこの男、この界隈の博徒たちの間では、別の意味でかなり名が知れ渡っているらしい。その不名誉極まりない評判を耳にしながらも、当の以蔵は歯牙にもかけず、今にもご機嫌な鼻歌でも歌い出しそうな調子で、せっせとコマ札の山を己の懐へと引き込んでいた。

 

「ふふん、ちぃと面白い優男を拾うての。言うなれば、こいつはわしの虎の子、いうやつじゃきぃ」

「へぇ、虎の子なぁ」

「言われてみれば、そこの兄さんに以蔵さんが聞いてるときは、確実に当ててるんだよなぁ……」

 

 これみよがしに、親指でぐいっと赤衣を示す以蔵。

 その言葉を聞いて、隣に座っていた無精髭の浪人は、赤衣の姿を上から下まで値踏みするように眺め回した。地味な衣服に身を包み、およそ賭場の熱気とは無縁の顔をしている優男。

 しかし、この修羅場のような鉄火場で、ただ一人完全に浮いているその人当たりの良さが、かえって尋常でない異物感を醸し出しているのかもしれない。

 なるほど——以蔵が虎の子と言うだけの何かはありそうだ。

 そう思ったのか、その浪人はにやりと下品に口元を歪めた。

 

「なぁ、兄さん。見ぃへん顔やけど、あんたもよく打つ口なんか?」

 

 話しかけられた赤衣は、伏せていた目を上げ、のらりと曖昧な笑みを浮かべる。

 

「いや、某はこの御仁にただ連れて来られただけで、博打の嗜みは全く……」

  

 そう言って隣の以蔵を一瞥した時、ふと思った。

 当の本人はといえば、勝ち取ったコマ札を愛おしそうに指で数えながら、「次勝てば、派手に島原で遊べるぜよ」と早くも次の勝負に向けて算段を始めている。旅籠に入る前に偉そうに語っていた情報収集など、この男の脳内からはすでに綺麗さっぱり消え失せているのは明白だろう。

 これ以上、以蔵の場繋ぎとやらに付き合っていては、日が暮れるどころか、要らぬ金だけが増えていく。

 となれば、もはやこのギャンブル狂を頼るのを諦め、自分一人ででも強引に聞き込みを始めてしまったほうが良いのではないか。

 そう思い、赤衣はそのまま会話の主導権をこちらの質問へすり替えるようにして、真っ直ぐに言葉を返した。

 

「それよりも、お主らはここに良く来るでござるか?」

「ん? まぁ、暇と金がある奴はなぁ。ここは身分問わず集まれる珍しい鉄火場やから、たしかに馴染みの連中も多いわ」

「そういう、次郎さんも、馴染みの一人だもんな。毎日、あしげく通ってるし」

「るせぇぞ、戸吉。俺は暇なんじゃない、これを職にしとるだけや」

 

 赤衣は「そうでござるか」と、二人の仲良さそうな小競り合いに小さく破顔した。

 予想通り、この二人組は場にかなり馴染んでいる。怪しまれない程度の世間話から入るという手順としては、上出来の滑り出しに思えた。少しだけ心の警戒を緩めた赤衣は、ここぞとばかりに本題へ向けて言葉を紡ぐ。

 

「では、この界隈の事情に詳しそうなお主たちに、少し訊ねたいのだが――」  

「ん? 訊ねたいこと?」

 

 次郎が、手の中のコマ札を弄ぶ手を止め、怪訝そうに赤衣を見つめた。その視線には、ほんのりとよそ者を値踏みするような鋭さが混じっている。

 身分を問わず、博打をしに来た者を須らく招聘するこの鉄火場において、なにかしらの情報を探ろうとするのは、タブー中のタブーなのである。

 しかし、賭場の常識など知らぬ赤衣は「最近、この旅籠で――」と、この場のタブーに触れる決定的な言葉を口にしかけた、まさにその刹那だった。

 ――ガシィッ、と。 

 コマ札を数えてぶつぶつ呟いていたはずの以蔵の手が、赤衣の口を勢いよく塞いだ。

 

「んぐっ、んんほうんほ!!?」

「っとぉ、気にせんでええがじゃ! こいつぁ滅法、勘が鋭いだけの優男ぜよ! 博打するには向かん性格じゃきぃ、わしが代わりに賭けてやってるがじゃ、ちぃっと隙を持て余して変なことを口走ってもうた!」

「……まぁ、ええけど。あんまり、ほかの客の素性とかは探らんほうがええって、言い含めておけよ、以蔵さん。ここの胴元に、膾切りにされちまうで」

「分かっちゅう分かっちゅう!」

 

 そう言って、次郎という浪人は、赤衣たちから視線を外し戸吉のほうへと談話をしに戻った。

 ふぅ、と溜め息混じりに以蔵が手を離す。

 何が何やら分からず困惑する赤衣だったが、すぐに以蔵がばっと顔を寄せ、小声で怒鳴りつけてきた。

 

「こん阿呆ぅ……! いきなり、なにを言い出すつもりじゃ……!!」

「す、すまぬでござる……某は、ただ聞き込みを、と」

「ここは尊攘派浪士も、浮浪者も、幕府方も集まる鉄火場じゃぞ……! いきなり、そない物騒な話ししたらわしら放り出されて終いじゃ……!」

「ぬぅ……」

 

 返す言葉もなかった。ただの博打好きのろくでなしだと思っていたが、この男にはこの男なりの考えがあったのかもしれない。実際、以蔵は赤衣よりもこういう京の闇を生き抜いてきた実績のある男である。裏の世界の法に関しては、赤衣よりも遥かに肌感覚で理解している先輩であろうことは間違いない。

 まずは場に溶け込み警戒を解く——それが岡田以蔵の出した、この場での最適解なのかもしれぬと、赤衣は思い直し再び沈黙することにした。

 

「どうしたんだい、二人でいきなりこそこそと」

「おいおい、もう次の賭けでも決めてんのかい?」

 

 そうして、さっきの次郎たちとの張り詰めた会話を聞いていなかった、他の呑気な客たちが声を上げて煽ってくる。

 

「がははは、そうじゃそうじゃ。次の賭けるコマ札を、ちと決めとったところぜよ! さ、もうひと勝負といくかのう!」

 

 そう言って以蔵は、何事もなかったかのように盆台へ向き直る。

 なんにしろ、下手な聞き込みは意味がないと分からされた赤衣は、もう少しだけ様子を見ることにした。

 そうして再び、中盆の威勢のいい指示が飛び、ツボ振りによって笊が鮮やかに振られた。盆台のうえで三度、四度と引きずるように押し引きされ、乾いた賽の音が完全に消えたところで、中盆から「さぁ、張った張った!」と賭けの募集が始まる。

 

「ほれ優男、次じゃ!」

「はぁ……サブロクの半。……多分」

「聞いたか! 半じゃ!」

 

 そうして、以蔵が盆布にコマ札を放る。

 それに倣い他の客たちもコマ札を賭けていくのだが……。

 

「――丁方ないか?」

 

 しかし――――。

 

「……コマ揃わず、胴元」

「……流れだな」

「はぁ!!? これで何度目じゃ!?」

 

 以蔵の理不尽な怒号が再び旅籠に木霊した。

 だが、これは当然の結果でもあった。これまでに見たこともない連勝、さらには直前の劇的な大勝ちを目の当たりにした客たちが、こぞって赤衣の読みに依存しきってしまったのだ。

 勝ち続ける以蔵――否、その隣にいる神懸かり的な読みを見せる赤衣とあえて別の方へ賭ける命知らずなど、この狭い賭場にはもう残っていなかった。

 

 丁半賭博は、決して胴元と客の一騎打ちではない。客同士が丁と半に分かれて金を奪い合い、その上前を胴元が撥ねるという相互の騙し合い、潰し合いの場だ。全員が同じ船に乗ってしまえば、その船は沈むことすらできずに立ち往生するしかない。

 ざわつく賭場。気づけば、鉄火場の空気が完全に変質していた。

 赤衣を見る周囲の目は、もはやよそ者への警戒などではなく、飢えた獣のような渇望と狂信の色を帯び始めている。

 

 ——「おい。兄さん、次ぁどっちだ?」

 ——「俺も兄さんに乗る」

 ——「俺も」

 ——「わしもじゃ」

 ——「兄さん、丁か半か!」

 ——「はよう!」

 

 盆台を囲む男たちが、にじり寄るように赤衣へ圧をかける。その様はまるで、干からびた亡者の群れだった。当の赤衣は、自分に向けられた異常な熱量に気づき、困った顔でどうしたものかと身を固くして引いている。

 中盆は、様子の変わった客たちの様子に背筋を寒くしながら、ちらりと奥に座る胴元へと視線を送った。このままでは賭場としての秩序が崩壊する——いや、もう壊れてしまっている。

 一段高い畳の上から盆台を見下ろしていた胴元は、ゆっくりと煙管を口から外した。吐き出された白い煙が、視界を遮るように漂う。

 

「こりゃあ……勝負にも商売にもならん。しょんなか……今日はもう開きにすっか」

 

 その宣告に、客たちがぎょっとした。

 一番激しく跳ね起きたのは、当然、今まさに人生最高の絶頂期を迎えていた以蔵である。

 

「おいおい! それはないがじゃろ、胴元!!?」

「そりゃこっちの台詞だ、以蔵。勝ちよるにもほどがある。見てみぃ。客がみんな、おまえん方にしか張らんじゃなかか。これじゃ俺が身銭切って銭ば撒いとるようなもんだ」

 

 くぅっ、と以蔵が不満そうに喉を鳴らす。せっかくツキが来ている大波が強制終了を食らうなど、彼の賭博魂が許さなかった。

 以蔵は盆台に身を乗り出し、周囲の客たちを睨みつける。

 

「えぇい! 勝負せぇや、おまんら! それでもイチモツついとるがか!?」

 

 男の意地を煽るような暴言だったが、ここまで負け続け、懐の金を賭けている客たちの返答は極めて冷ややかなものだった。

 

「そんなこと言われても、なぁ……?」

「いや勝てる方へ張るやろ、普通」

「負けると分かっちょる方へ張る阿呆がおるか」

「ぐぬぬ……!」

 

 以蔵は言葉に詰まり、ギリギリと奥歯を擦り合わせた。

 命のやり取りならいざ知らず、博打において勝つために合理的な選択をするという客たちの態度は、これ以上ない正論だ。

 しかし、その合理性のせいで自分の大勝ちの機会が奪われるという矛盾に、以蔵は行き場のない怒りを爆発させそうになっていた。

 

 だが、隣に座る赤衣にとっては、これ以上ない渡りに船でもある。

 以蔵がどのような筋書きを考えていたかは知らないが、賭場のなかで情報を探るのが絶対のタブーであるならば、終わった後に、外の緩んだ空気のなかで聞けばいい。

 これ以上、無闇矢鱈と他人の金を巻き上げる行為も快く思っていなかった赤衣は、あぐらを解いて立ち上がると、未だ盆台に未練がましくへばりついている以蔵の肩を、ぽんと優しく叩いた。

 

「まあまあ以蔵殿、貸元もこう仰っているし、引き際を美しく飾るのもまた、天下の大大大勝負師の器というものでござろう?」

 

 おだてに極めて弱い以蔵の耳が、ぴくりと跳ねる。

 悲しいかな、赤衣の適当なヨイショは、この短時間で以蔵という猛獣の扱い方を完全にマスターしつつあった。

 赤衣は、そんな以蔵を捨て置き、すぐ隣で「お開きかよ、シケてんなぁ」とぼやきながら立ち上がろうとしていたほかの客たちへ、すっと視線を向ける。

 この界隈の事情に詳しく、毎日あしげく通っている馴染みの彼ら。賭場の空気から解放された今こそ、酒の力を借りて口を割らせる絶好の機会だろうと踏んでいた。

 

「皆、すこしいいでござるか」

「ん?  なんだい、兄さん」

「いや、某は初めての博打であったか思いのほか、勝たせてもらった。これもお主たちのおかげとも言えるし、この後、もしお暇であれば、どこかの飯処で一杯いかがでござるか? 勿論、某の奢りで」

「おいおい、マジかよ!?」

「太っ腹じゃねーか、兄さん! やっぱ、勝ったやつがど派手に銭

は使わねーとな!」

 

 客たちが一斉に相好を崩し、現金な歓声を上げる。

 赤衣としては、ここで儲かった金は元々この客たちのもの。それをそのまま使うのなら懐も痛まないし、情報も手に入る。完璧な計画のはずだった。

 ――しかし、ここで唯一、その提案に猛烈な拒絶反応を示した男がいた。盆台に縋り付いていた以蔵である。

  

「ならん! こうなったら、次の賭場じゃ!!」

 

 懐の銭が他人の酒代として右から左へ消えていくことへの拒絶、そして何より、生まれて初めて味わった大勝ちの脳汁が、賭博狂いの衝動として彼を突き動かしていた。

 まだやり足りない——このツキがあるうちにもっと張りたい。

 と、目が完全に血走っている様子である。

 しかし、赤衣とて、これ以上余計な遠回りに付き合う義理もない。どうにか以蔵を宥めるべく、次に行こうとする以蔵の肩を軽く押し返すように道を塞いだ。

 

「いやいや、某はもう良いでござるよ。懐も十分に温まったのだし、どうしても行くというなら、以蔵殿ひとりで――」

「おまん、薩摩の人斬りの正体を知らんでええがか!? わしはそいつの知り合いでもあるぜよ!!」

「あ……以蔵殿、ここではそれを言ってはいけないのでは……?」

「そげなこと、どうでもええがじゃ!!」

「えぇ……」

 

 ついさっき、赤衣の口を文字通り力ずくで塞ぎ、冷徹に説教を垂れた男は一体どこへ行ったのやら。

 己の賭博欲を満たすためなら、先ほどの自分の大義名分すら一瞬でドブに投げ捨てる。そのあまりの身勝手さとブレの速さに、赤衣は開いた口が塞がらなかった。

 

「嫌じゃ嫌じゃ!! わしはまだ大勝するぜよ!! おまんが行かん言うなら、もう何も教えん!! 折角、名前くらいは教えちゃろう思うとったろに! あー、もう! やめじゃ、やめ!!」

「これは……どうすればいいと思うでござる……?」

「いや、俺たちが知るかいな」 

 

 せっかく奢りの酒にありつけるかと期待していた次郎だったが、ふいっと顔を背けて肩をすくめた。

「その馬鹿はいつもこんなんだから」と言いたげな、完全に諦めきった目。どうやらこの界隈において、以蔵のこの手の発作は日常茶飯事のようであり、誰もまともに相手をしようとはしなかった。

 そんな、しまりのない押し問答が続く様子を、盆台の向こうから胴元が煙管をくわえたまま、じっと眺めていた。吐き出された白い煙の向こうから、低く、しかしよく通る声が響く。

 

「……なんだ、おまえら。人斬り新兵衛ば追うとるとか」

「あっ、うるさいぜよ! 余計なことしゃべるな、胴元!!」

「親、兵衛……?」

 

 反射的に噛み付いた以蔵の声を無視し、赤衣はその名に強く反応した。

 求めていた情報が、思わぬところから勝手に向こうから転がり込んできたのだ。赤衣は駄々をこねる以蔵の肩から手を離し、盆台の縁に身を乗り出した。勿論、赤衣の反発を利用して身を乗せていた以蔵は、そのまま畳の上へと転がる。

 

「っ!!? 胴元さん、知っているでござるか!?」

「いや、俺はあんまり知らん」

 

 胴元は煙を細く吐き出し、思わせぶりににやりと笑った。

 その言葉を聞いて、畳のうえで卑猥な開脚を決め込んでいた以蔵が「なんだ、知らんがか」とあからさまにホッとした表情を浮かべる。

 けれど老獪な胴元の言葉がそれで終わるはずもなかった。

 

「だが、そいつを最近斬ったっちゅう奴なら知っとる」

「なにぃっ!?」

「そ、それは真でござるか!」

「ああ。もっとも、本人が勝手に吹いとるだけかもしれんがな」

 

 胴元は煙管の灰を軽く叩き落とすと、近くにいた若い中盆へ顎をしゃくった。

 

「おい、あいつば呼んで来い」

「よかとですか……?」

「よか。呼べ」

 

 若い中盆は一瞬だけ気怠げな顔をすると、部屋から出ていき奥へ消えていく。

 しばらくして、空いていた襖からひとりの浪人が現れた。さっき呼びに行った若い中盆もいるため、その浪人こそが件の薩摩の人斬りを斬ったという者なのだろう。

 男物の着物を無造作にまとい、長い髪を後ろで一つに結っている。その佇まいは、血生臭い鉄火場にはいささか不釣り合いなほど、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出していた。

 彼女はどこか眠たげな目で賭場をぐるりと見回すと、

 

「呼ばれたから来たけど……食事?」

 

 と、緊張感の欠片もない調子で小さく首をかしげた。

 場が一瞬で脱力したように静まり返る。胴元が深く眉間を寄せて顔をしかめた。

 

「飯ばねだる前に、俺んツケ返してから物言え」

「違うの?」

「違う。おまえが向こう三月分の飯と給金ば賭けたんだろうが……まったく」

 

 胴元は盛大なため息とともにお手上げと言わんばかりに頭を掻いた。

 先ほどまで場を支配していた、鉄火場特有のひりついた緊張感が一瞬で霧散していく。期待されていた刺客の登場はどこへやら、蓋を開けてみれば、ただの身内の借金まみれの居候を叱りつける、実に生活感に溢れたやり取りが目の前で繰り広げられていた。

 

「あの、この御仁が、でござるか?」

「ああ、すまんな。見苦しか身内ば見せた。俺たちは賭場ば切り盛りしよらん時は、御所警備ば任せられとる浪士だ。その一人がこいつでな――おい」

「……?」

「自分の名くらい名乗れ。……いや、急に振った俺が悪かったか」

 

 そう促された少女は、ようやく胴元の言いたかったことを理解したのか、客人であろう赤衣の方をじっと見つめた。

 その瞳は、一見すると気怠げで、どこかおっとりとした印象を与える。しかし、じっと見据えられると、その奥にあるのは底知れない冷たさというよりも、凪いだ水面のような静けさが際立って見えた。悪意も残虐性もない。ただ、己のなすべき役目のために、いつでも迷いなく刃を振るえる――そんな、奇妙なほど曇りのない純粋さが、そこにはある。まともな倫理観を持つ人間からすれば、その歪みなき純粋さにこそ、本能的に背筋が凍るような凄みを感じる、そんな目であった。

 しかし彼女は、そんな独特の気配をまといつつも、驚くほど礼儀正しくぺこりと一礼してみせる。

 

「河上彦斎。よろしく」

「あ、これはご丁寧にどうも……某は——」

 

 学問を修めた育ちの良さを感じさせる、実にも美しい所作だった。赤衣が毒気を抜かれたように頭を下げ返そうとした――その時だった。

 ふらり、と彦斎がまるで間合いという概念が存在しないかのような自然さで、赤衣の目の前まで顔を近づけてきた。

 本当に、鼻の先が触れそうなほどの至近距離。身長差のせいもあって、自然と赤衣が彦斎を見下ろす形になるが、彼女はそんな一般的な距離感を一切気に留めない。気まぐれな猫が初めて見るものを検分するかのような仕草で、下からぐいっと顔を突き出してくる。

 感情の揺らぎを映さない静かな眼差しが、じっと赤衣の顔を――否、まるで刀身の傷を検めるように覗き込んでいた。

 

「えぇっと……そ、某の顔になにか……?」

「……綺麗な目をしてるのね、貴方」

「は、はあ……そうでござるか……?」

 

 ぽつりと、感情の起伏がない声で呟かれた。

 お世辞やからかいの類ではなく、ただ自分の目で見た事実を素直に言葉にしたような、どこか独特な響き。初対面の女性にいきなり至近距離でそんな真っ直ぐな観察眼を向けられ、赤衣は困惑しつつも、どう応じたものかと内心で大いに戸惑っていた。

 そんな二人の間に流れる奇妙な緊張感を察してか、盆台の向こうから胴元が苦笑交じりに窘めの声をかける。

 

「ああ、気にせんでくれ。この賭場じゃ、あんたみたか優男はそうそう見んけん。不思議がっとるだけだ。――おい、彦斎。人様の顔ば、じろじろ覗き込むもんじゃなか」

「……そう。それじゃ、やめるわ」

 

 そう呟いた彦斎は、実にあっさりと赤衣から視線を外し、すっと一歩退いた。

 まるで最初から興味などなかったかのように、一切の名残を惜しまず身を引くせいか、そのあまりに淡々とした引き際の軽さが、かえって彼女の掴みどころの無さを際立たせているようにさえ思える。

 ようやく離れてくれた彦斎に、赤衣はほっと胸を撫で下ろした時だった。

 しかし、そんな空気などどうでもいいとばかりに、真正面から力ずくで引き裂く男がいた。それまで畳の上を転がっていた、土佐の男である。

 

「がははは! なんじゃ、胴元! 何を言い出すかと思えば、おまん正気か!? こんなヒョロヒョロの小娘が、あの親兵衛とやり合えるわけないぜよ!」

 

 がばっと跳ね起き、腹を抱えて笑いながら、これみよがしに彦斎を上から下まで指差す以蔵。

 自分も同じ土佐勤王党の人斬りとして同じ修羅場を潜ってきた以蔵だからこそ、薩摩の田中親兵衛がどれほどのバケモノか、その腕っぷしの強さをよく知っている。だからこそ、目の前にいる、そこらの店先でおにぎりでも食べていそうな華奢な少女が、その剛剣と渡り合ったなど、ただの冗談にしか聞こえなかったのだ。剣の天才である以蔵からすれば、見え透いたハッタリを大真面目に語る胴元たちがおかしくてたまらない、といった様子である。

 

「そがな細い腕で、あいつの剛剣を受けられるわけがないろう! どうせ暗がりでの見間違いか、藩内でええ顔しとうて盛った嘘に決まっちゅう!」

 

 だが、当の彦斎はといえば、正面から盛大に浴びせられる嘲笑にも眉一つ動かさなかった。ただ気怠げに、後ろで一つに結った髪の毛先を退屈そうに弄んでいる。怒るでもなく、言い返すでもなく、完全に自分の世界に浸っているような、徹底したマイペースさ。

 まるで目の前に誰もいないかのようなその猫めいた態度が、火のつきやすい以蔵の癇に障った。

 

「おい、なんじゃ女……わしが言っちょることに、何か間違いでもあるちゅうがか」

「それ……私に言ってる?」

 

 心底不思議そうに、小さく首をかしげた。

 煽りや無視をしていたわけではなく、本当に、今の今まで自分の話をされているとは思っていなかった――そんな調子だった。

 

「おまん以外に誰がおる!」

 

 案の定、以蔵の血管がブチ切れんばかりに激昂する。

 このままでは賭場がただの喧嘩場になりかねない。そんな一触即発の空気に、一番盛大なため息を吐き捨てたのは、やはりまとめ役である胴元だった。これ以上放っておけば、話がいつまでも進まないと察したのだろう。こんこん、と煙管の雁首で盆台を叩き、強引に場を引き締める。

 

「まぁ落ち着け、以蔵。確かにそいつの言い草は癪に障る。だが、悪気があって言うとるわけじゃなか。腹立てるだけ無駄だ」

 

 やれやれと首を振って以蔵を宥めると、胴元は一転して、少女へと厳しい視線を向けた。

 

「そんなことより、彦斎。おまえ、人斬り新兵衛と斬り合うたち、宮部さんに話しとったろ」

「? 誰、その人斬り親兵衛って」

 

 今度は心底心当たりのなさそうな顔で、彦斎は再び小首をかしげる。今、巷で有名になっている薩摩の人斬りを聞いても、彼女の記憶の引き出しには一切引っかからないらしい。

 

「おまえが言うとったろうが。ほら、四日前の雨の日だ。鴨川ん近くで」

「あぁ、あの薩摩方言の人? いや、蟲……?」

「蟲が刀なんぞ振れるわけなかろうが。何ば、とんちきなこと抜かしとる」

 

 呆れたように吐き捨てた胴元は、がしがしと頭を掻いた。周りの人間も、彦斎の要領を得ない回答に、そろそろ薩摩の人斬りとやらと斬りあったという話すら、以蔵の言うとおり彼女の妄言なのではと思い出している。

 

 しかし、赤衣だけは違った。

 四日前……鴨川近く……蟲……。

 その情報は何から何まで、自分の知っている状況と一致している。

 

 どくん、と赤衣の心臓が、にわかに大きく脈打ち始めた。

 脳裏に鮮烈に浮かび上がるのは、沖田と酒亭からの帰り道、薩摩の人斬りと遭遇した、あの夜のこと。

 同じ場所。同じ頃合い——なにより、常人なら口にしない蟲という単語。

 

(まさか……)

 

 あの場に、彼女がいたというのか。

 しかし、赤衣が衝撃のあまり青ざめて硬直しているのを見て、胴元は客人が完全にドン引きしていると誤解したのだろう。やれやれと頭を振りながら、内情を誤魔化すように苦笑いを浮かべた。

 

「悪かっな。見ての通り、こいつは、ちぃと頭のおかしか奴でよ」

「心外ね。私は至って普通」

「変な奴ほど、そう言うもんだ……」

 

 胴元が呆れたように呟くが、しかし、もうそのやり取りは赤衣の耳には入っていなかった。

 脳裏に去来する仮定。薩摩の人斬りを追う道中で、見つかればいいと思っていた、沖田と人斬りの戦いの最後を見ているであろう者。

 もし、あの凄惨な戦場に、この少女がいたとしたら――抑えきれない焦燥感に突き動かされ、赤衣はその会話に割り込むように、無意識に彦斎の華奢な肩をつかんでいた。

 

「?  どうかしたの、そんなに慌てて」

 

 急に凄まじい勢いで肩を掴まれたというのに、彦斎は身構えるでもなく、ただ不思議そうに大きな目を瞬かせて赤衣を見上げる。

 赤衣は緊迫感を覚えたまま、脳内で整理することもせず言葉を発した。

 

「もしや——その場に、沖田殿が——いや、女の人がひとりいなかったでござるか!?」

「女の人……? ああ、確かあの時——」

 

 記憶の糸が繋がったのか、彦斎が見たままを素直に口にしようとした、その瞬間だった。

 

「まぁ待ちねぇ、彦斎」

 

 低い声が、彦斎の言葉を鋭く遮った。

 声の主は胴元だ。先ほどまでの、身内の不始末に頭を抱える気前のいい兄貴分といった顔はそこにはなかった。煙管を盆台の縁に叩きつける手元は静かだが、その眼光は、赤衣の素性を値踏みするように冷たく据わっている。

 彼らはただの賭場の人間ではない。御所警備を任された肥後藩親兵選抜の志士であり、長州らと同じく尊王攘夷を掲げる肥後勤王党の藩士でもある――つまり、人斬り親兵衛と同じ志を持つ陣営の人間なのだ。

 世間一般、ひいては大半の諸藩にとって、洛外の壬生村に居座る壬生浪士組などという集団は、まだ名もなき有象無象の浪人集まりに過ぎない。しかし、彼ら肥後藩士にとってだけは話が別だった。京における肥後藩の屋敷が、件の浪士組が屯所としている八木邸や壬生寺のすぐ目と鼻の先にあるのだ。

 その地理的な近さゆえに、彼らは近所で不気味な気炎を上げ始めた武装集団の動向を、どこよりも早く、克明に掴んでいた。とりわけ、その中でも沖田という名前は、ここ最近、いささか耳にする存在だ。

 そんな壬生浪士組の隊員と同じ名を出し血相を変えている目の前の男。これが単なる偶然であるはずがないと、老獪な胴元が察知しないわけがなかった。 

 

 だが——。

 

「悪かがね、うちは道楽でやっとる、しがなか賭場だ。ここへ足ば踏み入れた以上、俺たちは役目も身分も置いてくる、ただの博徒に過ぎん。だから、あんたの事情を詮索する気もなか。それを外で喋る真似もせん」

 

 もしかすれば幕府方の息がかかった回し者か、あるいは自分たちの命を狙う敵方か。ここで捕らえて素性を吐かせることなど、肥後勤王党の志士たる彼にとって造作もないことだ。

 しかし、ここは鉄火場である。どれほど血生臭い素性を持っていようと、暖簾をくぐって盆台の前に座れば、等しくただの客。政治の都合や陣営の遺恨をこの場に持ち込み、博打の聖域を汚すような真似は絶対にしない。それこそが、この場を預かる胴元としての、そして何より博徒としての譲れない矜持だった。敵か味方かなど、賽が転がり、金が動くこの空間ではどうでもいいことなのだ。

 

 胴元の男は煙管を盆台へ置く。その手つきには、志士としての殺気ではなく、己の通した筋に従う男の、妙にさっぱりとした潔さがあった。

 

「だから、この賭場に見合う話をしようじゃなかか。こっちは鉄火場ば滅茶苦茶にされ、おまえの素性も気になっとる。このまま、おまえだけ勝ち逃げじゃ面白うなか。……そっちはそっちで、こいつの情報が欲しいだろ?」

 

 そう言って、胴元が盆台を指先で軽く叩く。

 

「一つ、勝負せんか?」

「勝負、でござるか?」

 

 赤衣が目を細める。

 胴元は、そんな彼の呟きに笑みをこぼし、未だ赤衣に肩を抱かれる彦斎を指差した。

 

「そいつとおまえで、最後の一番だ」




んまぁ、なんだろう筆が乗ったんですね、きっと。
この場面で15000字も使う予定なかったんだけどなー、なんか無駄にモブキャラがキャラ立ちしてきたんだよなー(遠い目)
Web小説のいいところは、最終、文字数は際限なくいけるというところですね! ちなみにハーメルンは1話で最大15万文字とかだった気がする。
一度、別の小説で何をとちくるったのか、それをやって「流石にないな」と思い直し、やめた記憶があります。 

そんな私の愚痴など、もうどうでもよいでしょう!
文字数が勿体ない…!!
なんて悪ふざけもはさみつつ、ひとまずかる~くちょこっと豆知識。

河上彦斎と言えば、熊本! 熊本といえば肥後藩! 肥後藩といえば、作中にもある通り、めっちゃ新選組縁の地と距離が近いです! なにせ、私の記憶が間違えてなければ、肥後藩細川屋敷はおなじ壬生村ですからね!
もしかしたら、FGO君もこの設定を拾って何かしてくれないだろうか、と思ったりもするのでした。


ということで、詫びも兼ねて、は特にないのですが
3話くらいに挿絵を放り込もうと思います。
うそ、ちょっと詫びもある。なぜなら、作者はまだFGOのイベントを完走できていないから。まってろよ!グレイリリィ! え、セイバーとランサーどっちかしか貰えないって、まじぃ?



【挿絵表示】



あと何枚か落書きはありますが、気が向いたら出します。
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