殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
「そいつとおまえで、最後の一番だ」
胴元がぽんと指先で盆台を叩きながら提示した言葉に、それまで成り行きを見守っていた客たちが、「ほぉ……」と一斉に身を乗り出した。
野次馬根性極まれり——。
なんて言葉を吐きたくなる気持ちも分かるが、ここは鉄火場。金を賭ける云々の前に、ここにいる連中はすべからく、勝負事に恋焦がれる博打好きどもである。賭場の胴元から、本日一番の大勝負が始まると言われれば、誰もが興味をそそっても仕方のないことであった。
しかし、専ら賭博とは縁遠い人生を送ってきた赤衣には、その熱とやらがとんと伝わらない。
ゆえに赤衣は、
「最後の一番……でござるか?」
と聞き返した。
単語の意味は分かっても、なぜそれを提案されたのか。
そこまでの意図を汲み取ることができず、首を傾げている。
「なぁに、難しかことじゃなか。今日はうちがさっぱり勝てとらんからな。最後くらい派手に打たせちゃくれねーか、ちゅう相談だ」
「つまり、見世物にしたい、というわけでござるな」
「まぁ、言い様は悪かばってん、間違っちゃおらん。見世物にされるんは嫌か? もっとも、お前にゃ断る権利もあるが」
そう問われた赤衣は、少しばかり考えると、「いいや」と首を振る。
「情報が手に入るのであれば、某が引く理由もなし。その提案受けさせてもらうでござるよ」
「へっ、そがん来んとな」
そう言うと、胴元はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、横で佇んでいる彦斎へと視線を落とす。
「おい、彦斎」
「……?」
「おまえ、壺振れ」
場が一瞬だけ騒然とする。
ざわめいたのは、成り行きを楽しんでいる客たちではない。胴元の下で働く中盆や、今まで壺笊を振っていた当の壺振りらが、あわせて青ざめた顔となり、どよりと口々に声を漏らしたのだ。
「ど、胴元、本気で……? 河上に壺振りばやらせるとですか……?」
「なぁに、最後の余興だ。お前らは黙って見とれ」
「でも……河上は賭け事はからっきしじゃなかですか……?」
「まぁな。だが、あいつは賭けるから弱いってだけだ」
騒ぐ身内を煙管の先で追い払うと、胴元は煙を吐き出して不敵に口角を上げた。
この赤衣の男が見せた神懸かり的な読み。その正体が何であれ、職人技のイカサマや動作の癖を読むような代物なら、素人同然の――いや、一切の作為もだまくらかす技術もない力押しであればこそ、読みようがないはずだ。
「勝負は変えん。丁半だ。替えるのは壺を振る役だけ。張るのは、そっちの優男一人。丁か半かを読む――それだけでよか」
「ん~、つまり、一対一の賭博……ということでござるか? しかし、それではコマが揃わず、勝負の決着方法も分からぬと思うが」
「そうたい。ちと変則だが、身内じゃあよくやる遊びだ。二本先取のサシ勝負。勝ったやつが全取りってくらいで、あとは今まで通りでよか」
胴元が提示してきたのは、賭場の型からはみ出たざっくばらんな手打ちの条件だった。赤衣も特に異論を挟むでもなく、「なるほど、そういうものか」と提示されたルールをそのまま受け入れる。
そうして男たちの間でとんとん拍子に勝負の枠組みが決まっていく中、完全に蚊帳の外だと思っていた当事者の彦斎だけが、よく分からないと言いたげに疑問符を口にした。
「どうして、私?」
その疑問ももっともである。
彼女にとってみれば、そもそもあれよあれよと連れてこられただけで、長居する気すらなかったのだ。
ここに来てみれば、四日前に斬った人と言うには些か変な相手の話について聞かれ、おまけに、目の前の男はその相手について何かを知りたがっている。
彦斎からしてみれば、あの夜に見た通りをそのまま教えてあげれば済むだけの話では? と思わざるを得ないのだ。
しかし、それをしようとしたら途中で話を遮られた挙句、なぜか自分が壺振りなどという妙な雑用を言いつけられている。
聞かれたことに答えるだけ。それで不利益が出たならば、斬って捨ててしまえばいいのに――そんな、あまりにも素朴で真っ当な理不尽を思い描いていた。
しかし、同郷である胴元は、彦斎の扱いに慣れているのか、彼女がそう疑問を垂らしていれば肩を軽く小突いて返す。
「まぁ、おまえはそう深う考えんでよか。これに勝ったら、お前のツケは全部帳消しにしてやるし……それに、考え過ぎるんが悪い癖って、宮部さんも言うとったろ」
「確かに、先生からそう言われたことはある……実直なところは変えなくていい……とも」
「そこたい、そこ。そういうひと言が、いつも余計なんだ、お前は。いいから何も考えんで振れ。できるな?」
彦斎がぼそりと聞こえるか聞こえないかの声量で言った言葉も、胴元はきちんと拾ったらしく、手慣れた様子で彼女の屁理屈をいなした。
彦斎は、なおも納得がいかないように「うーん」と小さく首をひねる。
が、胴元と遊びでやって膨れ上がったツケが消えるのであれば、中々悪い条件ではない。なにより、女は腹が減っていた。ここ一週間は井戸水だけで腹を満たしている貧しい生活だ。そろそろ、麦飯をたらふく食べたいところでもある。
暫し本気で考え込んだあと――
「できるかできないかで言えば、できるとは思うけど」
「思うじゃ困る」
「そう。それじゃ、できる」
「お前なぁ……『それじゃあ』ってなんだ、『それじゃあ』って……」
一切の気負いがないどころか、どこか適当にも思える彦斎の返しに、胴元は頭を押さえてため息をついた。これ以上この少女と押し問答を繰り広げたところで、時間が溶けるだけだ。「まぁ、よか」と半ば無理やり話を切り上げた胴元は、近くにいた壺振りに「おい」と次に指示を飛ばす。
しかし、そんなやり取りを黙って見ていた以蔵が、ついに堪えきれなくなったように声を荒げた。
「おい、胴元! わしはまだその勝負やるとは言ってないぜよ!」
「おまえの意見は、はなから聞いとらん、以蔵。そこの優男がやると言うた。こっちはそれで十分よ」
「はぁ!!? なぁにぬかしちょるがか、おまん!? 第一、こがん女が本気であの薩摩猿を斬った思っちゅうがか!?」
「ああ。斬ることに関しちゃ、こいつの右に出る者はおらんしな。斬った相手が本当にあの人斬り新兵衛かは半信半疑だったが、そこの優男の反応で確信もした」
以蔵が噛みつきにかかる一方、当の彦斎はといえば、先ほどまで壺笊を振っていた壺振りから「まず客に手を見せて……手首の振りをこう……」「こう?」「いや、違うたい」「でもこっちの方が振りやすいけど」「……ならそれでいいわ」とどこか締まらない指導を受けていた。
彦斎は博具など握ったこともないらしく、竹の壺笊を両手で物珍しそうに検分している。
そんな雑多な光景を横目に、以蔵は胴元に抗議しても埒が明かぬと、赤衣の説得へと変更した。
「おまんも黙っちょらんと、何か言わんか。この女が剣を振るえるとは思えんろうが? こいつら、わしらぁにふっかけるつもりなだけじゃ」
「某は、それでも別にいいでござるよ」
「ほうじゃろ、ほうじゃろ。ほれ、こん男もそげな勝負ぁ受けんと——」
以蔵の言葉が、途中でピタリと止まった。
思考が追いつかない様子で、ぎぎぎと振り返り、まるで信じられないものを見る目で赤衣を凝視する。
「おまん、今なんと?」
「だから、某は別にそれでいいでござるよ、と」
「…………」
一瞬の静寂。以蔵の頭の中で何かが、ぷちっと音を立てて弾けたのが分かった。
「貴様ァ!! わしの金を何だと考えちょうがじゃ!?」
「いやー、元手は元々某のものでござるしぃ。それに、こんな大金あっても使わんでござるよぉ」
「ふざけちゅうがか! おまんが使わんでも、わしが使うんじゃ、このボケェ!!」
「そう言わずに、ほら。人斬り親兵衛なるものの情報が手に入るやもしれぬし」
「うっさい!!」
「痛っ!?」
以蔵がバチンッと豪快な平手打ちを赤衣の頬に叩き込む。
「ならん! ならんぜよ!! あんな薩摩猿のことなんぞ、わしは心ッ底どうでもええき! こんな勝負ぁ認めん!! わしのコマ札にゃ、指一本足りとて触れさせん!!」
がばりと身を乗り出した以蔵は、これまでに稼ぎまくったコマ札の山を渡すまいと、必死の形相で抱きかかえた。
自分の懐から出した金でもないというのに、一度、己の勝ち分として認識した以上、それを手放すなど身を切られるより耐えがたいらしい。あまりの執着ぶりに、赤衣は「まぁまぁ、落ち着くでござるよ……」となだめるように手をかざすが、興奮冷めやらぬ以蔵の耳にはまるで届いていないのか、「がるるる!」と唸るだけ。終いには、近づけば噛み殺すと言いたげな目をしていた。
そんな二人の漫才のようなやり取りを眺めていた胴元は、込み上げる笑いを必死に噛み殺すように、くつくつと肩を揺らす。
「くくく……大した度胸の兄さんだ。そこの土佐犬の言う通り、俺たちはふっかけるだけかもしれんのにな」
形のない情報という不確実な対価に対し、目の前にある莫大な勝ち金を惜しげもなく差し出す度胸。単なる無欲さからくるものか、あるいは己の勝ちを確信しているゆえの余裕か。胴元は男の底知れなさに深く感心すると同時に、心から興奮さえしていた。
一方、宥めようと安易に手を伸ばしたせいで、以蔵にがぶりと左手を噛みつかれている赤衣は、ぽたぽたと流血しながらも本人は痛がる様子すらなく、困ったようにへらりと笑ってみせる。
「買い被りすぎでござるよ、胴元さん。別に某は、胆など座ってはおらんし」
「ただの事実に謙遜は要らん。それに、人に噛みつかれながら言う台詞じゃなか」
腕に喰らいついたまま離れない以蔵の頭をあやすように撫でている赤衣。そんな異様な光景を、胴元は煙管から紫煙をくゆらせじっと見据えた。
「まぁ、お前の言う通り、この場においては肝が太かろうが細かろうが正直どうでもいい。俺はただ、お前と勝負ばしてみたーなった。それだけだ」
笑うか? こんな
欲望が渦巻くこの鉄火場で、ただ己の技量と度量を試すためだけに命を張る。勝利も、利益も、損得勘定なんてものは全部どうだっていいのだ。一博徒として、目の前の男を倒すことができるのであれば、それ以上の喜びはない。
そんな純粋すぎる業を曝け出した胴元に、赤衣はそっと目を細めた。
「……いや。それがお主にとって大事なものであるなら、某に笑う資格などありはせんよ」
理解はできない。共感も難しい。
赤衣は博徒ではないのだから、それも当然だ。賭けに意地や誇りなんてものを乗せることはないし、これからも賭博に打ち込むことは一生ないのかもしれない。
けれども、それが相手にとって大事な信条だというのであれば——最大限それを尊重してやるくらいの気概は持っている。
一切の侮蔑もあざけりもなく、真っ直ぐに自分を受け止めた男の言葉。
それを満足げに聞いた胴元は、口角を不敵に釣り上げて歯を見せた。
「いいねぇ……ますます面白か男だ」
「――あの、胴元」
そこへ、少し気まずそうに声をかけてきたのは、彦斎に壺振りを指導していた男だった。
振り返れば、どうやら一通りの指導が終わったらしい。竹の壺笊を両手に抱えた彦斎が、相変わらず感情の読めない顔で「……まだ始まらないの?」と言いたげに、じっとこちらを見つめていた。
胴元は「おう、すまん」と短く返事をすると、勝負の場を整えるべく、手際よく下の者たちへ指示を飛ばす。
「そんじゃあ、始めるか。本日一の大勝負」
「——っ、させん! させんぜよ!!」
「るせー。お前には聞いてねーよ」
赤衣の手からようやく口を離し、唾を飛ばして喚き散らす以蔵。そんな男の野次を、胴元は虫を追い払うかのようにあしらう。
そして一転、ぱんっと一回手を鳴らせば、浮ついていた賭場の空気をすっと引き締められた。
さっきまでざわついていた客たちも生唾を呑み、息を殺す。赤衣もまた噛まれた腕の血をかるく拭い取れば、静かに盆台の前へと座り直した。
勝負の場が整ったことを確認すると、彦斎は先ほど教わった作法通り、袖を捲り上げて両手をすっと高く掲げて見せる。手に何も隠し持っていないことを証明する、賭場の清廉な所作。全員が、彼女の手に細工がないことを確認しおえれば、彦斎は静かに言の葉を紡いだ。
「では——入ります」
そうして、彦斎が動き出す。
そこからの所作には、先ほど教わったばかりの素人らしさなど微塵もなかった。刀の柄を握るかのように指の力が完全に抜け、恐ろしいほどに自然で、一切の無駄がない。よく賭場で見る壺振りの動作である。
けれど、次の瞬間には空気が変わった。
見たこともない――そんな、異様な構えを彦斎がとったのである。
「なんだ、あれ……?」
「いや、わからん……」
「居合の構え、か……?」
その構えを目にした瞬間、赤衣を含め、場にいた男たちの間に疑問や驚愕、そして言い知れぬ胸騒ぎが跳ね上がった。
まるで刃を抜き去る直前のような、深々とした半身の構え。
左手の壺笊を身の陰へ隠し、敵の打突を防ぐ小手のごとく右手の賽は前方へ差し出されている。踏み込みの一歩手前を予感させられるように、片膝が立てられ、その眼光は静かに伏せられていた。
もはやそれは、博徒の所作などではない。
間合いを殺し、一撃で敵の首を刎ねるための――人斬りの理合。
何かが、まずい——。
場の誰かがそう思った刹那、伏せられていた彦斎の目が、赤衣の視点と交差した。
「————」
思わず息を呑む。
女の双眸にあったのは、雑念も熱量も一切を排した、どこまでも冷ややかな暗がり。命のやり取りをしているわけでもないのに、刀の切っ先を向けられているわけでもないのに。それなのにどうしてか——このままでは斬られる、と無性に胸が掻き立てられてしまう。
「お主——」
ほとんど無意識に、赤衣の口からは言葉が漏れていた。
底知れぬ悪寒は脳を呼び起こし、危険を察知した脳は全神経を叩き起こす。
離れなければ——今すぐに——。
そう感じさせるのは、赤衣の生存本能によるものか。はたまた、ここ最近開いた回路によるものか。
どちらにせよ、そう察知し、赤衣の身体がほとんど反射的に動き出そうとしたのは間違いない。胡坐をかいていた体勢から即座に腰を浮かせ、その場から間合いを取るべく、強く床を踏みしめかけた——その瞬間。
——かろん、ころん。
と、壺笊の中で賽が小さく鳴った。
気がついた時にはすでに、盆台の上へ壺笊が伏せられていた。
「……どうぞ」
彦斎だけが、どこまでも淡々とそう告げる。その顔は相変わらず無機質で、恐ろしい手技をやってのけた自覚すらなさそうに赤衣を見ていた。
「おい、今の見えたか……?」
「いや、見えへんかった……」
「なんじゃ、今の振り……」
周りの客たちも呆然としている中、誰しもが己の急所を確かめるように手を伸ばす。それは赤衣とて例外ではなく、まるで吸い寄せられるように自らの頸部を掌で抑えこんだ。
もし、今の一閃が斬り合いの最中であったならば——?
そう思考してしまうのも無理はない。赤衣の網膜でさえ、先ほどの凄まじい一閃をなにも捉えられていなかった。賽を入れる瞬間も、腕を振るった軌跡も、彼女の腰が切り替わる変化の予兆さえ、気がつけばすべてが終わっていた。
じんわりと伝わってくる血の巡りに、ようやく生きていることを実感させられる。されど、その流れる血は、まるで冷水でも混ぜらたかのように、いやな悪寒となって全身を支配した。
(某は、今————)
「——なぁにを、ぼけっと首を押さえとるがじゃ! はよう、当てるぜよ!!」
「っ!?」
以蔵の苛立ち交じりの一喝が叩きつけられ、赤衣はようやく我に返った。
そうだ、これは斬り合いではない。ただの丁半賭博だ。
刀ではなく賽を振り、その出目を当てるだけの戯れ。命のやり取りなど、発生するはずもない。
動揺を隠すように軽く息を吐く赤衣の姿を、しかし、胴元だけは心底面白そうに口角を上げて見つめている。
(どうだ、驚いたろう。こいつは博打はからっきしだが、刀の振りだけは誰にも負けん。居合の構えから、そのまま振っとるだけで、お前さんらの見たとおりよ)
胴元は煙管の頭で盆台を軽く叩き、笑みを深める。
(どうも、あの優男は目が良すぎるようだったけんな。壺振りの癖やら手筋の揺れなんぞを鋭く見抜いて当てとったんだろうと読んだんだが――いまの彦斎の振り、お前は捉えられたかよ?)
そんな胴元の内心の問いかけも、口にしなければ赤衣に届くことはない。
己の首元からそっと手を離した男は、慎重に賽の目を探るべく深く息を吐き出した。
胴元の予感は正鵠を射ていた。
赤衣のこれまでの当ては勘などではなく、壺振りの指先の微細な揺れ、呼吸の乱れ、感情の隙――それらを極限まで研ぎ澄まされた観察眼で拾い集め、必然として出目を読み当てていただけだ。
しかし、いま眼前で起きたのは、その観察眼そのものを無効にするような神業である。
刀を持っていないにも関わらず、相手に命の危険を察知させる凄みもさることながら、その行動の残滓すら見せない。あれを目で追える者など、この鉄火場に——いや、京中を探してもいるかどうか怪しいだろう。
おまけに相手は、感情の起伏すら窺い知ることが難しい少女。読みの材料は完全に断ち切られているといっても過言ではなかった。
この状況での勝負は、文字通りの運否天賦。暗闇の中で足元を踏み出すようなものである。
積み上がった勝ち金を失うことなど、赤衣にとってはどうでもいいが、目の前の少女が本当にあの夜、あそこにいたのだとすれば、ここで引き下がって情報を逃す痛手はあまりに大きすぎた。
(降りるわけには……いかんでござるな)
退路など、最初から塞がれている。覚悟を決めた赤衣の目が、静かに澄み渡っていった。
「……丁……丁でござる」
「へぇ……」
赤衣の張った言葉に、胴元が面白そうに眉を跳ね上げる。
まるで最初から、そう答えると分かっていたような余裕さが彼にはあった。
「彦斎、壺」
そして中盆の代わりに合図を出せば、女は壺笊をゆっくりと持ち上げた。
賭場中の視線が、生唾を飲み込む音とともに一点へと集まる。
「えっと……一と五、だから」
「丁だな」
「「「「おぉ」」」」
張り詰めていた静寂を破り、客たちが一斉にどよめいた。
見えぬ出目を土壇場で一発で引き当てた男の、あまりに悪魔的な強運。
二本先取の変則勝負――これで、あと一本当てれば赤衣の完全勝利が確定する。
「んだらっぶしゃ、んもだずばったあいるぜよッ!!!」
「以蔵さん、なんて言ってるか分かるか?」
「いや……? 多分、人語を忘れたんじゃないか」
「多分、『よーやった!でも次外したら斬る!』って言ってるんやろ」
((なんで分かるんだ……?))
唾を飛ばしながら咆哮をあげる土佐の狂犬も。それを解読してみせた身内の謎通訳も。盛り上がる観客の熱気すら、壺笊を振った彦斎にとっては、どうでもいいことらしかった。
少女は「……偶数が『丁』だったのね」と、いまさら過ぎる呟きを漏らすと、さっさと次の準備に入ってしまう。
本来、熟達した壺振りであれば、相手の出方を探り、賽の目をコントロールするための計算や間合いの駆け引きがあるはずだ。
だが、彦斎にはそれがない。思考の形跡すら見せず、ただ言われた通りの手順を淡々とこなしているだけのように見える。
それは、客たちも薄々と理解できたのか。
「あの彦斎って奴、振る速度は凄かったが、出目を調整できねーのか……?」
「まぁ、さっき振り方教えられてたみたいだしな」
と口々に疑念を漏らしていた。
そんな中、当の本人はそんな野次など端から意に介さず、最初と全く同じ手順で両手をすっと掲げて見せた。
「じゃあ、次——入ります」
すっ、と落ちる静寂。
またしても繰り出される、目に見えない居合の構えからの抜刀。一切のタメも駆け引きもなく、無心ゆえの恐ろしい速さで振られた壺笊が、一本目と同様、刹那の間に盆台の上へ伏せられた。
相手に一切の手掛かりを与えない、無心の振り。
しかし、これを当てればその時点で赤衣の勝ちである。
赤衣は見るだけ無駄と目を伏せていた状態から、熟考の末に答えをはじき出す。
「……丁、でござる」
結果は——。
「残念——二と五の半……あってる?」
「あってるよ、いちいち確認すんな」
「「「「「おぉ……!!」」」」」
彦斎の声とともに壺が上がると、賭場全体から大きな波のようなどよめきが上がった。これで一勝一敗。どちらも後がなくなる。
しかし、今はそんなことよりも重大なことがあった。
さっきこの少女は、壺笊を上げる直前、一切の迷いなく「残念」と宣したのだ。ただの素人が勘で言ったのではない。振った手応えだけで中身を完全に把握しているか、あるいは――自在に出目を調整したという証左だろう。前者ができて、後者ができない理由はないため、おそらく出目を調整しているのは確実な物言いである。
さらに言ってしまえば、出目を調整できるどころか、彦斎は赤衣が今回も丁に張ると読み、それを躱したということにもなる。
「(賽子の癖を利用されたでござるな……)…………」
凄まじい速度で思考を巡らせ、考え込む赤衣。
なるほど、ここまではすべて胴元の描いた絵図面通り――いわば予定調和だったのだろう。
胴元が最初に口にした「最後の一番」という言葉。それは決して単なる言い間違いでもなければ、賭場を盛り立てるための演出でもなかった。明確な意図を持って放たれた、巧妙な罠の伏線だったのだ。
一本目で赤衣の読む力を正解させて力量を計り、二本目でその裏をかいて心理的に食ってみせる。
そして互いに後がなくなったこの三本目こそが、最初から用意されていた真の勝負。
勝負してみたくなった、と言いながら自分が壺振りをしなかった理由も、今となればうなずける。きっと、彦斎の出目を調整しているのは、彼女ではなく胴元なのだろう。○○を出せ、と言えば彼女はその指示通りに賽の目を操作できる。ある意味では、これは胴元と赤衣の勝負に他ならなかった。
そこまでの真相に思い至るも、赤衣は胴元の策士ぶりに内心で唸るしかない。
そんな赤衣の表情の変化を、胴元は心底面白そうに見つめていた。
(えらく考え込むじゃねぇか、優男。……やはり見えとったんだろ、あの賽子の偏りも)
一本目で客の実力を測り、二本目で裏をかいて心理的に食ってみせる。すべてはこの三本目で完全に追い詰めるための布石。そこまでは上手くいった。
(ただ目と勘が良かだけじゃなか。コイツは頭の回りも早いときた。さて、次が宣言した通り、本当の最後の一番勝負。一体、どうしたもんか……)
相手がただの運任せではなく、理屈で張る人間だからこそ、勝負のし甲斐がある。しかしそれは同時に、ここで負けた場合、なにもかも相手に劣っていたという証明にもなる嫌な勝負だ。
慎重にいかねばなるまい、博徒の意地と誇りにかけて。
(心理戦では、相手が一枚も二枚も上手。某には勝機があるとは思えない)
(となれば、勘で張ってくるか? だが、そんな真似をする男なら、ここまで考え込むはずもなか)
(かと言って、河上殿の動きを目で追うのは、今の某には不可能であるし)
(流石に彦斎の動きを読まれりゃ終わりだが、あいつのあの技がそう簡単に見抜かれるとも思えん)
(となれば、某がとるべきは——)
(さて、俺がとるべきは——)
んんむ、と同時に洩れる重苦しい唸り声。
打つ手が決まらない、とばかりに互いに眉間を寄せる二人の様子に、周囲の客たちは「おい、どうしたんだ?」「なんで急に固まってんだ?」とひそひそ顔を見合わせ始めた。
――そんな腹の探り合いの最中。手元で暇そうに賽子を弄っていた彦斎から、至極無防備であからさまな視線が突き刺さる。
(言われた通り、最初当てられたから同じ振り方で別の目が出るようにしたけど……次はどうすればいいの?)
(今、それを考えてるところだ。ちょっと待ってろ。つか目配せしてくんな。バレるやろうが)
(もうバレてると思うけど?)
(……)
あまりに正論すぎる彦斎の無言のジト目に、胴元は口から大量の紫煙を吐き出して誤魔化すしかなかった。
そして、そんな息の詰まる膠着状態を、ここにも黙って見ていられない男がいた。
「あああああ!!! しゃらくさいのう!! まんまと外しよって! こんなもん、運じゃ運!! ツキが回っちょれば、勝てるがじゃ!!!」
己の勝ち分が取られるかもしれないと焦りからか、血走った目で至近距離まで詰め寄ってくる狂犬。知略も駆け引きも全て吹き飛ばす怒号に、周囲の客たちは「うわぁっ」と引きつった笑みを浮かべた。
しかし、赤衣はそんな以蔵にどこか遠い目をして問いかける。
「……それで外しても、怒らないでござるか?」
「んなわけあるか。外したら、おまんの首ぁ鴨川に晒しちゃるき! 死ぬ気で当てるぜよ!!!」
以蔵はそう言って、ガクガクと赤衣の肩を前後に揺さぶった。
静かな化かし合いの最中に繰り出されたあまりの喧騒に、胴元はうんざりしたのだろう。心の底から鬱陶しそうな顔をして、「おい」と若い衆へ顎をしゃくった。
「な、なんじゃ、おまんら! まだ優男の勝負は終わっちゃあせんろうが! ちょ、わしのコマ札に触るなあああ!!!」
「はいはい、大人しくしててください。勝負の邪魔なんで」
「放せ! わしはこいつの連れじゃ!! 放せええええええ!!」
そうして複数の若い衆に手慣れた手つきで取り押さえられ、以蔵は床へと押し付けられる。
そのあまりに相変わらずすぎる情けない叫びに、赤衣も勝負のことを忘れ苦笑いを浮かべるしかできなかった。
(負けたら本気で叩き斬られそうでござる……)
いつも芹沢という暴君にこき使われている赤衣であるが、おそらく以蔵のほうが人を斬るハードルが低い分、確実に暴君適正は上であろう。勝負に負ければ己の生首が次の日には鴨川の河原で晒される光景が、驚くほど鮮明に脳裏をよぎった。
(それにしても……『運』、でござるか……)
正直なところ、赤衣は自分に天運の類いがあるとは到底思えない。それどころか、貧乏神と不運が連れ立って背中に張り付いているのでは、と疑いなくなるのが己の半生だと考えている。
そんな人間が純粋な運否天賦に身を委ねればどうなるか。結果など試すまでもなく、敗北という約束された未来が、必然として立ちふさがるだろうことは目に見えている。
そんな自分が、策もなしに運任せの勝負に出るなど——。
(いや……)
しかし、そこで初めて赤衣の思考が切り替わったように感じた。
床に押さえ込まれている以蔵を横目で見つめ、しばし沈黙した赤衣は、胴元へと向き直る。
「……胴元さん。すまないが、紙と筆を貸していただけないだろうか」
「あぁ……? 紙と筆だと? 急に何ばする気だ」
煙管をあつらえ直しながら、胴元は探るような鋭い視線を送る。
赤衣が土壇場で申し出た奇妙な注文。何か仕掛ける気か、あるいはハッタリか。だが、どこまでも底の割れない目の前の男に、胴元は不敵に口角を上げた。
「……まあよか。俺もお前との化かし合いは、とことん楽しみたい性分でな。――おい、客人に紙と筆を渡してやれ」
「へい」
そうして差し出された懐紙と墨筆を受け取ると、赤衣は周囲の視線を遮るように身を縮め、さらさらと何事かを走らせた。
そして書き終えた紙を慎重に折りたたみ、誰の目にも触れぬよう、盆台の傍らへそっと伏せて置く。
「……これは何の真似だ?」
「先に張ったのでござるよ。丁か半か――この紙に」
その言葉に、胴元や若い衆はもちろん、周りで見守っていた客たちまでもが一斉にどよめいた。
壺を振る前に賭け先を決定し、それを伏せる。つまり、相手がどれほど神業のような出目操作をしてこようと、赤衣がどちらに張ったか分からない以上、狙い撃ちで外させることが不可能になるのだ。
けれどそれは、壺を振るのを見た後、自分の読みで賽の目を当てるという圧倒的優位を捨てることでもある。
「正気か、お前。壺を振る前に張り先を決めるなんぞ、聞いたこともなか」
「なに、ここまで来たら天運に任せるのも一つの手段でござるよ。賭け方の作法としては自由でござろう? それに、判別がつけぬような崩し字で誤魔化すつもりもござらん。開ければ誰がどう見てもそう読めるよう、明瞭に書いたでござる」
「……なるほど、筋は通っとる。よか。ある意味じゃ、お前が今、自分で壺を振ったようなもんだ」
胴元は煙管の煙越しに、盆台の傍らに伏せられた紙を鋭く見つめる。
(……筆の走り、手首の返し。筆運びだけ見りゃあ、ありゃ半だ。間違いなか)
だが、と胴元は心の中で鼻で笑った。
(そんな馬鹿正直な男とも思えんん。あの筆跡自体、俺に見せるための誘いか。なら、本当の答えは裏の裏……丁?)
胴元から見ても、この優男は一見すると無欲で正直者に見える。
だが、決してみすみすカモにされるような愚者ではない。己が追い込まれていることを自覚した上で、あえて先に張り方を伏せ、こちらに裏の裏を読ませる心理戦を仕掛けてきていることくらい胴元にも分かる。
(けんどなぁ、甘か……賭場での心理戦なんぞ、下策中の下策。同じ土俵で化かし合う奴にしか通じん手段だ)
煙管を軽く咥え直し、胴元は煙の向こう側へと緩やかに視線を巡らせる。
必勝の手がかりは、盤上の駆け引きの中にはない。本物の勝負というのは、場の外で決まるものだ。
そうして胴元の視線が――床に叩き伏せられ、若い衆たちに上から組み敷かれている以蔵のところで止まった。
その顔を床へ押しつけている若い衆の一人が、胴元に向かってこくりとうなずく。
(……見えてたか?)
(ええ、以蔵さんの目に反射して。間違いなく、半でした)
(そうか)
賭場に言葉なんぞ要らない。長年連れ添った手下となら、一瞬目線を交わすだけで会話は完璧に成立する。
胴元は煙管を持つ手を止め、勝ちを確信した不敵な笑みを口元に浮かべた。
(紙は隠せても、人の目までは隠せん。それも仲間の視線まではな……詰めが甘いぜ、優男)
視線を戻せば、赤衣は伏せた紙に意識を向けたまま、微動だにしない。
こちらへ目を向けようともしないのは、完全に自分の罠へ誘導できたと信じ切っている証拠なのだろう。
胴元は勝利の味を噛み締めながら、ゆっくりと彦斎へ視線を送る。
「彦斎」
「なに?」
(——丁を振れ)
(……)
胴元の目線に応え、彦斎は無表情のまま、迷いなくふたつの賽を壺笊から取り出した。
そして「入ります」と宣言した瞬間――乾いた賽の音だけを残して、壺笊が盆台へと叩きつけられる。
間違いなく、今日の中で一番早い壺振り。
賭場全体がゴクリと息を呑み、静寂が満ちた。
「悪いな、優男。この勝負は俺の勝ちだ」
その勝利宣言に、赤衣はなにも返さない。
胴元の言葉に合わせ、彦斎がゆっくりと笊へ華奢な手をかける。
「お前が賭けたのは半だろ? ……開けろ、彦斎。この客に引導ば渡してやれ」
「分かった」
彦斎がそう返すと、すっと壺笊が持ち上がる。
開帳された盆台の上、鎮座するふたつの賽が晒された。
その結果は——。
「一と五……丁」
彦斎の声が響き渡るや否や、客たちが大歓声をあげる。
「胴元の言うとおりなら勝負あり!」
「貸元の勝ちじゃ!」
完璧な手応えと客どもの熱狂を背に受け、胴元は笑みを深々と刻む。
盤上の仕掛けをすべて看破し、自らの手の中で客を踊らせきった者だけが浮かべられる、全能感に満ちた笑み。
これだから、博打はやめられない。
相手の心も、技も、考えもすべてを踏み抜くことでしか得られない快感が、ここにはある。
「くくくっ、賭場ってぇのはな、相手を読むだけじゃ勝てん。相手ば見てる人間——それこそ、賭場全体を読んでこそ、ようやく一人前の博徒ってものさ」
相手の仕掛けた罠を逆手に取り、隠された正解を場外から引きずり出して見せた己の眼力。
勝ち誇った笑みを浮かべたまま、胴元は立ち上がると、そのまま盆台の前に置かれた折り紙へ、ゆったりと指先を伸ばした。
「お前はそれば怠った。だから負ける。さぁ——答え合わせといこうか」
胴元が勝利の瞬間を味わうように懐紙をつまみ、ゆっくりと開く。
指先を滑らせ、その紙面に綴られた黒々とした墨文字を目に収めた――次の瞬間。
胴元の顔面から、一切の感情と笑みが削ぎ落とされた。
時間に取り残されたかのような、不気味な静寂。
折りたたまれた紙の中央、誰がどう見ても疑いようのない明瞭さでそこに書かれていた文字は――。
『丁』
――であった。
「…………は?」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
胴元の首が、ぎぎぎと不気味な音を立てるような緩慢さで、床の以蔵を押さえつけていた若い衆へと向いた。
若い衆もまた、自分の目を疑うように顔面を蒼白に染め、唇を震わせながら必死に首を振る。
「お、俺は……確かに……半って……」
周囲の歓声が、潮が引くように困惑へと変わっていく。
狂喜から一転、凍りついた賭場の中心で、赤衣は申し訳なさそうに静かに苦笑を漏らした。
「申し訳ござらん。ほんの少しズルをしたでござるよ」
その言葉の意図を察した瞬間――胴元の脳内で、すべての糸が繋がった。
筆順の癖、長考の芝居、そして山勘で張ると思わせるような紙面に書いた張り方……これらは心理戦の仕掛けるためのものでは断じてなかった。
対等な土俵でしか、心理戦は起こりえない。それは、相手の心理を探る以外でしか勝ちを拾えないからこそ成り立つ最終戦線だからだ。
しかし、博打に精通している胴元に、そのような危険を冒すことはしない。
絶対に勝てる情報をかき集め、それを用いて最上の勝利へと導く。相手が博打の素人であれば猶更、同じ舞台まで降りてやることを必要とは感じない。
だからこそ、目の前に勝ち筋があれば、どれほど警戒深かかろうと食いついてしまう。勝ちが確定したと思った瞬間、思考を奪われ、疑うことすら忘れて飛びついてしまう――それこそが、博徒という生き物の抗えない習性であり、弱点なのだから。
しかし、胴元の博徒としての習性を利用しようとしたところで、それを実現させるための技は必要である。
第一、半を書いたと思わせた方法は、胴元にもとんと思いつきもしなかった。
静まり返る賭場。数秒の重苦しい沈黙。
やがて——赤衣との勝負を冷静に分析していた胴元の喉から、堪えきれない笑いが漏れ出した。
「……くくっははっ! はははははははっ!!」
勝利の歓喜から一転、何が起きたか分からず呆気にとられる客たちを置き去りにし、胴元だけが腹を抱えて大笑いを続ける。
「くくくっ、いやぁ、参ったばい。どうやったかは知らねぇが、最後の最後で見事に一杯食わされた。優男、顔に似合わずえらい策士じゃねーの」
豪快に笑い飛ばすと、胴元は煙管を盆の縁で叩いて灰を落とし、潔く負けを認める。
「いいさ、勝ち分は全部持っていきな。勝負で負けた以上、そこにケチつけるほど野暮じゃなか。お前の素性をほじくる気もねぇし、胴元の取り分だなんだと横から抜く気もない。――彦斎、お前の知っとることを、この客人に話してやれ」
「ちょっと、待って。私のツケはどうなるの?」
「んなもん、帳消しになるわけねぇだろ。きっちり残っとるわ」
「がーん……そん、な……」
「なんだそりゃ。初めて聞いたぞ、そんな間抜けな掛け声」
本気で期待していたらしい彦斎の落胆ぶりに、場にわずかな毒気が抜けた空気が漂う。胴元は苦笑を浮かべつつ、赤衣へ向けて顎をしゃくった。
「おい、優男。今夜はこの旅籠に泊まっていけ。もうじき夜も更ける。まともな飯と寝床くらいは用意させるけん」
「いや、それは——」
そこまでの世話を焼かれる筋合いはない――と赤衣が断りの言葉を口にするより早く、脇から帳場を預かる若い衆が困り顔で割り込んできた。
「しかし、胴元。今日は満席ですよ?」
「あ? 満席なら何だってんだ。彦斎の部屋にでもぶち込んどけ。どうせ新兵衛の話を聞くんだろ? それに、こいつぁ宮部さんの計らいで一人でふてぶてしく大部屋を使っとる。妙な気を遣うくらいなら、最初から相部屋にしとけばいい」
赤衣が言葉を詰まらせていると、本人の与知らぬところで、あれよあれよと宿の手配が進んでいく。
たしかに、今の赤衣は壬生労使組にも戻らないと決めているため帰る場所はないが、それでもあてのない旅の身であったため、野宿など慣れっこではある。
それに、今日会ったばかりの見ず知らずの博徒に、ここまで至れり尽くせりされるのは流石に気が引けた。
しかし、一度言い出したら聞かないタチなのか、胴元は突っ立っている赤衣の困惑など気にも留めず、彦斎へと視線を向けた。
「おい、彦斎。そういうわけだ、ついでに客人の面倒を見ろよ」
「……」
見ず知らずの男と同室など嫌悪以前に心底面倒くさいとばかりに、あからさまに顔を背けて完全無視を決め込む彦斎。
だが、胴元もまた、この手の扱いに慣れ切っているため、煙管を叩きながらぼそっと呟いた。
「……ツケを少し減らしてやる」
「やる」
間髪を容れぬ即答に、胴元は満足げに笑う。
当の赤衣としては、ここで頑として固辞してくたほうがよかったのだが、やはりツケがなくなるほうが、彼女にとっても嬉しいことだったのだろう。
金の力であっけなく買収された少女に、赤衣は「現金な娘でござるなぁ……」とどこぞの団子ですぐに吊られる少女を思い返し、遠い目をした。
「って——いやいや! 某はまだ了承していないでござるよ! 一宿一飯の恩義まで着せられる覚えは――」
「まぁ、そぎゃん嫌がるな。ここに泊まっていくっていうのは、お前にとっても悪い話じゃなか」
「……?」
慌てて手を振る赤衣を制し、胴元は周囲に聞こえぬようすっと身を乗り出すと、声を一気に潜める。
「実はな、ここだけの話だ。彦斎が薩摩の人斬りを斬ったと聞いてから、宮部さんって人が肥後藩士を使って色々と探らせとる」
「? でも、胴元さんは知らぬと……」
「俺は、な。だが、宮部さんのところへ行けば、何か掴めるかもしれん。明日、聞いてきてやるけん、おとなしく待っとけ」
見ず知らずの自分に対し、あまりにも出来過ぎた破格の取り計らい。
赤衣は身を引いた胴元の顔をまっすぐに見つめ、疑問を隠さず問いかけた。
「……胴元さん。なぜそこまで、世話を焼いてくださるでござるか?」
「あぁ?」
胴元は煙管を咥え直し、何を言っているんだ、とばかりに眉を顰めた。
「最初に言うたろ。こっちは人斬り親兵衛の情報を賭けると。あれは彦斎の話だけじゃなか。張ったものは、負けたなら渡す。それを惜しんで文句を言うようじゃ、博徒の看板は上げられんしな」
ま、俺は肥後藩士でもあるんだがな——と胴元は白い歯を見せて笑った。
「それに、ここ最近はきな臭か噂ばかりでな。なら、お前みたいな奴に渡した方が、少しは良い方に転ぶ気がした。何せ、人様の懐から勝負で取った金を、平気な顔して周りに回そうとする大馬鹿者だ」
そう言って胴元は、床で未だに取り押さえられている以蔵や、ぽかんと呆然としている客たちを目線で指し示した。
欲と金が渦巻くこの賭場で、利を貪るどころか一服の清涼剤のように異質であり続ける男。
それは、血で血を洗う政争を繰り広げるこの京の町にとっても、異常な存在として映りこんでいることだろう。
「そういう、よか馬鹿に恩を売っといて、損はなかろうよ……と思っただけのことさ」
そう言った胴元は、やはり紫煙を燻らせながら笑うのであった。
おいおい、また15000字とかいってるぜ?
そろそろ、学習しろよ……(泣)
ということで、わりと心が泣いている作者です。
できれば、FGOフェスまでに、この話はすべて走り抜けたいと思っているのですが、んー、すこし難しいか。なんかすごい勢いで投稿しだしたら、察してください笑
ちなみに、ちょこっと豆知識も兼ねて少し解説しますが、胴元というキャラは別にFGOに出てきたキャラではありません。おそらく、今後出てきそうなキャラでもありません。(ぐだぐだが続けば、松平容保とか半次郎は今後出そうだが)
彼はただの肥後藩士であり、道楽で一時的に賭場を経営している人です。
名前を松田重助といいます。
いや、誰ぇ!!? となっている方は普通です、そのままでいてください。
松田重助だと!? となった方は幕末好きか司馬御大好きですね、いい酒が飲めるかもしれません。
とはいっても、彼のことはあまりよくわからないでいいと思います。一次資料も少ないですし、どうせ池田や事件の折に死んで、史実では彦斎が「おのれ売国奴」と怒りのまま上洛するきっかけになる人なくらいですから。
(ん? まぁまぁ重要では?)
とまぁ、しれっと爆弾発言を投下しつつ、現時点における壬生浪士組から見た赤衣の評価や余談の続きでも出しますか。
藤堂
人が良すぎて調子が狂う。他人の悪意とか、そういうのを知らずに育った人間なのでは?と疑っている。
日常生活ではあまり関わり合いがあるとは言えないか、なにかと赤衣に目をかけられることがあるため、その度にちょっとだけウザいと思うときもあるもよう。ただ、気にかけてくれること自体、自分が必要とされていることを認識できるため、若干喜びを感じていたりもする複雑な乙男心を持つ。
あと、飯がうまい。
山南
話の馬も合うし、滲み出る良い人感により、警戒すべき相手とは思えないくらいには好印象。
最近の悩みは、土方がいざとなれば赤衣を殺す気でいるので、どうしたものかと思っている。ただ、芹沢と沖田どちらを赤衣が選ぶかと言われれば、きっと沖田を選ぶし、沖田は近藤や土方を優先するため、赤衣がなにかしら敵対することもないだろうと、楽観的見方もしているもよう。未来など誰にも分からぬというのにね。
何気に、壬生浪士組では赤衣とプライベートな交わりが沖田についで多い人。
あと、飯がうまい。
永倉
赤衣? あぁ、良いやつだな! と簡明直截な意見を出すレベルには好印象。ただ、剣の稽古には付き合ってくれたことがないし、芹沢に飲みに誘われた時、決まって赤衣を連れ出そうとするが、悉く袖にされているため、そう言った付き合いの悪さには不満を抱いている。
芹沢や土方の関係が冷え込み続けているのを知っており、赤衣にもなんとかしてもらえないかと画策していたりもするが、思いの実現には至っていない。
ちなみに、沖田と赤衣が良い雰囲気になっているる時に限って話しかける特殊能力を持つ。
あと、絵がうまい。
原田
誰とは言いませんが、早くもらってやってくださいよ、と内心で思ってる人。おそらく壬生浪士組内きってのカプ厨。ただし、上記の馬鹿により原田の願いが届くことは今のところないらしい。
幕府方の密偵という出身が出身なだけに、一人だけ赤衣の情報を意外と持っていたりする人。いやまぁ、こんな時期に転がり込むなんて普通に怪しいじゃないすか。
ただまぁ、それらを踏まえたうえでも悪い人ではなさそうであり、なにより意外と不殺という曲げない意思を持っていることは尊敬している。
あと、飯がうまい。
沖田? あぁ、まぁこれに関しては本編に書いてるし、のちのち出てくるので今は書きませぬ。
芹沢? あぁ、これこそネタバレの宝庫なので書きません。
次は赤衣から見た評価とかを書くかもしれぬ。
では、また!