殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:ただの物書き

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島原にてお大尽

 夜も九つを過ぎれば、京の島原は華やぎを増す。

 ――いつぞや、誰かがそう宣っていた。

 だが、その華やぎの裏に潜む毒気まで覆い隠せるわけではない。

 大門をくぐった武士はまず刀を預け、代わりに盃を手渡される。もっとも、刀を預けたからといって、腹に呑んだ殺気まで預けていくようなおめでたい奴は一人物としていやしなかった。

 隣り合う座敷では、幕府方が芸妓を乗せて大笑いし、そのまた隣では、長州訛りの侍が声を潜めて盃を交わす。互いに襖一枚隔てた先に誰がいるか知っているのか、それとも知らぬふりをしているのか──そんな詮索をするほど野暮な町ではない。

 客は名を明かさず、芸妓も余計な詮索はしない。勘定と噂話だけが、どこまでも正直に街を巡る。昨夜ここで笑っていた男が、翌朝には鴨川の河原で冷たくなっているなど珍しくもない街だ。

 それでも夜ごと提灯は灯り、三味線は鳴り、女は笑う。

 島原とは、そういう町であった。

 

 してそんな花街に、鉄火場で博打を終えた岡田以蔵は、二人ばかりの男を従え一軒の揚屋へ足を踏み入れた。

 暖簾をくぐるや否や、奥から老女将が飛んで出てくる。その足取りこそ年寄りらしく鈍いが、客の殺気と懐の具合を見抜く目ざとさだけは、若い頃から一寸も衰えていなかった。

 

「おいでやす、以蔵さん。今日もお顔が見られて嬉しいお人どすわ」

 

 祝いの言葉より先に、その目は以蔵の懐へ落ちる。

 財布の重みを量り、連れてきた男の人数を数え、今夜どれだけ酒が出るかを頭の中の算盤で弾く。その間、ほんの二、三息。

 商いとは、つくづく剣より早い。

 

「へっへっへ! 今日は大尽買ひじゃ! 別嬪の女郎と、うまい酒を浴びるほど持って来させぇ!」

「へいへい、おおきに。すぐにお仕度させますさかい」

 

 慇懃無礼に頭を下げつつも、その一声で、老女将の胸の算盤にも勘定はついたらしい。

 

「——ささ、上がっておくれやす。奥の三階、景気のいい座敷を開けさせますさかい」

 

 さきほどまで愛想笑いを浮かべていた皺だらけの顔が、今度は儲けを前にした商人の顔になる。客を迎える手つきまで、幾分ていねいになっていた。

 

「よっしゃ、頼むぜよ!」

 

 意地汚い老婆の視線など気づきもしないのか。声に促されるや、以蔵は履物を脱ぎ捨てるなり框をぶち跨ぐ。昼間の賭場で大銭(おおあし)を掴んだ男は、鉄火場の馴染みである破落戸(ごろつき)(ごろつき)どもを引き連れ、酒香と薫物(たきもの)の立ち込める朱塗りの廊下をドタバタと肩で風を切って闊歩し始めた。

 

「それにしたって、まさかあの渋ちんの以蔵さんが身銭を切って奢ってくれる日が来るとはねぇ」

「ホンマになぁ……あんだけ、人のために金使うんは性に合わんとほざいとったのに。どういう風の吹き回しや、以蔵さん」

 

 そう言葉を交わしたのは、鉄火場で赤衣にも絡まれていた戸吉と次郎である。

 まさかあの万年金欠な以蔵の奢り酒という、今生であるかないかの珍事に遭遇したふたりは、今なお信じられぬという面持ちで、前を行く背中に問いかけた。

 すると以蔵は、どこか無邪気なニヤリ顔だけを振り返らせる。

 

「なぁに、あん優男がおれば、いつでも稼げるって分かったきぃ。こういう泡銭は、どかんと派手に遊びで流すのが一番と思っただけぜよ」

 

 おそらく、言に偽りなしといったところだろう。胸元の懐紙に包まれた生金が、以蔵の言葉を証明するかの如く、足取りに合わせてじゃらんと重い音を立てた。

 

「やけど、ホンマによかったんかいな? 勝った当人は連れて来んで」

「ああ、それは気にせんでええ。誘ってはみたけんど、あん男はどーも島原が好かんみたいでのう。まぁ、身持ちが重いというか、堅物じゃき仕方がないろう」

「へー、あの人って奥さんいるんだ」

「おう。なんや、いろんな意味ででかい大女ぜよ。尻もでかけりゃ、胸もでかい。背丈はそこそこじゃが気もでかくてのう、なんや自分を持ち上げて『天才ジュクロウ』? とかなんとか言っちょったわ」

「なんやそれ?」

「さぁ? わしが知るかい」

 

 と、品悪くも会話を弾ませながら角を曲がった――その時である。

 

 向こう側の暗がりからも、無神経な足音を響かせて別の無頼の徒が歩いてくるのが見えた。

 すれ違うにはちと狭い廊下である。一行を先導して小走りに前を歩いていた老女将が、嫌な予感を察してか振り返り、「すんません、以蔵さん。ちょっと道を譲っとくんなはれ」と制しようとした。

 だが、大金を手にし気が大きくなった以蔵に、そんな小言が届くはずもない。

 普段であれば聞いてやったかもしれないが、今の自分はなにせお大尽——所謂、太客である。客としての格式で後れを取る道理もなければ、どこの馬の骨か知れぬ連中に道を譲ってやる筋合いなど微塵もない。

 ――退けと言うなら、そっちが退け。

 血の気の多い土佐の狂犬は、制する老婆を鬱陶しそうに払いのけると、目を凄めたまま懐へ手を突っ込み、堂々と廊下の真ん中を歩み出た。

 

「あ、これ以蔵はん! 困ります……っ!」

 

 老女将の甲高い悲鳴を背に受け、以蔵は回廊の半ばで、向かいから迫る大男とはちあわせた。

 薄暗い行灯の灯りに浮かび上がったのは、なるほど厳つい貌をした武人である。腰に差した大小の拵えも並のものではなく、上等な羽織を羽織っているあたり、金ぶりもさぞ良さそうであった。

 それなりに身分も実力もしかとした重漢であろうことは窺い知れる。

 ――しかし、それが何だというのか。

 以蔵の眼には、己より上等の服を着た、ただの気に食わん大男としか映っていない。

 当然、いきなり廊下で立ち塞がられた大男の側も、不愉快に思わぬはずがなかった。

 

「なんだ、お前は」

 

 上から見下ろす重厚な声音に、廊下の空気が氷のように凝固する。

 だが、以蔵はひるむどころか、どろりと殺気のこもった目を向け、鼻で短く笑い飛ばした。

 

「おまんこそ、なんじゃ。でかい図体しおって。邪魔じゃ、どけ」

 

 まさか言い返されるとは思ってもみなかったのだろう。大男の眉がピクリと跳ね上がる。

 その刹那、脇に控えていた腰巾着の男が、青筋を立ててしゃしゃり出てきた。

 

「き、君! 芹沢先生に向かって失礼じゃないか!」

「ああ? なんじゃ、その芹沢先生って。わしは別にこがぁん男に教えを乞うた覚えはないわ。お山の大将猿なら、さっさと伏見稲荷にでも帰るぜよ」

 

 鼻を鳴らして吐き捨てる以蔵。

 だが、芹沢と呼ばれた大男の顔に動揺の色は一切ない。

 

「ふっ、私も君のような野良犬に躾をした覚えはないんだがね。土佐の犬は、とにかく磯臭くて敵わん」

 

 やれやれと大袈裟に肩をすくめ、手にしていた鉄扇で、鼻腔を覆うようにゆるりと仰いでみせる。品性を装いつつも、目の奥には以蔵を虫ケラほどにも思わぬ嘲りが含まれていることに、気づかぬわけもない。

 だからこそ、以蔵の血が沸騰したのは必然だった。

 

「なんじゃ、おまん——わしと()り合おうっちゅうがか」

「お前が俺に剣を抜かせるだけの武士(おとこ)であれば、それも一興だがな」

 

 嘲笑うような言葉の裏から、ぬらりと覗く絶対の自信と暗い殺意。

 間違いない。この京でも珍しい、人殺しの目だ。

 それも、一人や二人ではない。十や二十でもきかない――おびただしい血煙をくぐり抜け、数え切れぬ命を刈り取ってきた者だけが持つ死臭漂う目をしている。

 もはや、酔狂の小競り合いなどでは歯止めは効かぬだろう。以蔵とて、天誅の名人と恐れられる剣の申し子である。そんな二頭の凶獣が狭隘の廊下で刀を交えれば、生やさしい刃傷沙汰で済まぬことは明白であった。

 一触即発の緊迫感に、腰を抜かしかけた老女将が、なりふり構わず以蔵の袖や帯にしがみついた。

 

「あ、あの……すんまへん! 本当に勘弁しておくれやす……っ!」

「おい以蔵さん、よせって。今日は楽しく飲もうって話だろ? こんなところで血なんか見て、出禁を喰らっちゃ元も子もないじゃないか」

「そうそう、 頼むから収めてくれや。お前が本気で刀抜いたら誰も敵わんことくらい、俺らが一番分かっとるって」

 

 事態の只事ならなさに青ざめた戸吉や次郎も、なりふり構わず以蔵の身体を押し留める。

「お前が本気で抜けば誰も敵わない」――その一言が、幸いにも膨れ上がった以蔵の自尊心をわずかに満足させたのか。ここで一暴れして出禁を食らうのも、せっかく掴んだ大銭をドブに捨てるという計算も、ようやく理性の働き始めた頭が、その隅を掠めた。

 ちっ、と短い舌打ちを響かせた以蔵は、忌々しそうに壁際へ身を寄せると、強情に顎をしゃくってみせる。

 

「……はよう、通れ」

 

 以蔵が折れたことで、張り詰めていた空気がふっと緩み、周りの連中が胸を撫で下ろす。

 だが、あっさりと引いてみせた以蔵を見て、芹沢の口端が歪んだ。

 フンと鼻で嘲笑うや、芹沢は開いたわずかな隙間へ横柄に踏み込み、すれ違いざま、わざとらしく以蔵の肩を強くぶつけて通り過ぎようとする。

 

「ッ……こんの!」

 

 当然、そのような無礼をされて頭に血が上らぬわけもない。以蔵の右手が弾かれたように柄へ伸び、目釘を握り込もうとした――が、その手がぴたりと止まった。懐の生金がずしりと重い存在感を主張したからだ。

 

 ——『少なくとも某には、心根は優しい御仁に見えるよ』

 

 初めて会った日、あの赤衣の吐いた訳の分からない戯言。

 見ず知らずの人間に酒瓶を投げつけられながら、へらへらと薄笑いを浮かべていたあの優男の情けない面が、不意に脳裏を掠める。

 そのせいか、柄にかかりかけた手が、どうしてもそれ以上動かなかった。

 

「——なにかね?」

 

 柄から手が離れた一瞬の迷いを、芹沢の鋭い眼光は見逃さなかった。重厚な声音が、再び廊下に響く。

 以蔵は忌々しそうに視線を逸らすと、吐き捨てるように言った。

 

「……用ぁない。はよう行け」

 

 背後で振り返った芹沢の目が、ぬらりと冷たく光る。

 ――襲いかかってくる気骨すら無しか、野良犬が。

 そう言いたげな侮蔑を一瞥だけ残すと、大男は影のように廊下の奥へと消えていく。腰巾着の男も、以蔵の狂気の眼光を恐れてか、そそくさと主人の背中に隠れるようにして通り抜けていった。

 

「けっ……気に食わん奴ぜよ」

 

 すれ違う男たちの背中へ、忌々しそうに吐き捨てる。

 だが、その去りゆく一行の最後尾――薄暗い回廊の陰影に没しかけていた一人の後ろ姿に、以蔵の目がふと留まった。

 

「……ん?」

 

 引っかかりを覚えて、思わず目が留まる。

 芹沢の威圧感や腰巾着の小者っぽさとは明らかに異なる、静かな足取り。その横顔の輪郭に、見覚えがあるような気がしたのだ。

 ——あの女、どっかで……?

 暗がりの中、行灯の灯りが一瞬だけその横顔を掠める。

 確かめようと目を凝らしたが、その人物は以蔵の方を振り向くどころか、一瞥すら寄こさない。ただ淡々と、角の奥へと吸い込まれるように去っていく。

 その後ろ姿を、以蔵はいぶかしげに目だけで追った。

 

「ふう……いやぁ、変な奴らやったな。って、どないした? そない固まって」

「……いや」

 

 一瞬、その背中に声をかけて呼び止めようかとも思ったが、以蔵は喉まで出かかった言葉を飲み込み、そのまま口をつぐんだ。

 

(見間違いか。あん優男の嫁は、たしか黒髪じゃったしのう……)

 

 いま目の前を通り過ぎた女は、髪色が違う。なら、ただの他人の空似じゃろう――そう強引に胸中で結論づけた。

 

「んなことより、ほれ、はよう行くぞ! あんな気に食わん男見とうせいで、気ぃ削がれたわ! 酒を飲まんとやっとれん!」

「おうおう、俄然やる気が出てきたみたいだな、以蔵さん」

「へい、ほんまにお騒がせいたしました。ささ、お部屋はこちらを上がったところどす」

「よっしゃ! 今日は朝まで付きおうてもらうきぃ、わしが満足するまで帰れる思うなよ!」

「いやぁ、俺らの肝の腑が朝までもてばええがなぁ……」

 

 さっきまでの殺伐とした気配などどこへやら、以蔵はニッと歯を見せて破顔すると、何事もなかったかのように豪勢な大座敷へどたばたとなだれ込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

— 壱 —

 

 

 ——最初は、小さい女の子に事情を聞いたの。そしたら、そいつが悪い奴だと知った。

 ——あとは奉行所を呼ばせて、大きな音のした方へと走っていったわ。

 ——危険と思わなかったのかって?

 ——……特には。だって大概の悪人なら斬れば済むでしょ?

 ——だから。

 

「横から居合で一閃。そいつを斬ったの」

 

 赤衣の泊まる旅籠――語りかけていた彦斎は、まるで当たり前のことを話すような口ぶりでそう言った。

 そこに武勇を誇る意図はなく、人を斬ったことへの躊躇もない。ただ、起きた出来事を順々に語っているだけである。

 

「その時に誰かいたのは覚えてる。何かを話したような気もするわ」

「なるほど……」

 

 彦斎から説明を聞き、赤衣は静かに頷いた。

 

「おそらく、その御仁が沖田殿でござろう」

「多分ね。男の格好していたから、自信はないけれど」

 

 普段から男装で通している沖田だからこそ、彦斎がそう覚えていても不思議ではない。

 ——いざ斬り合いになった時、袴の方が動きやすいじゃないですか。

 本人の弁であるが、平時から物騒なことを口にする彼女だ。女の格好をしたのなんて、永倉に担がれて会津中将への上覧試合に行く時くらいだろう。赤衣と街へ繰り出す際も、基本はいつもの着流しに袴という出で立ちである。

 何にせよ、彦斎の口にした男装の人物とは、十中八九、沖田総司で間違いない。鴨川の河原近くで赤衣が得た現場の状況とも見事に合致した。

 

「ねぇ……」

「ん? どうしたでござるか?」

「いや……いつまで、これを繰り返せばいいの?」

 

 頭の中で情報を整理していた時である。

 今まで聞くのをためらっていたのか、どこか呆れと不審の混じった声音で彦斎が尋ねてきた。

 それもそのはず、今の会話で実に三度目は同じ経緯を説明させられているのだ。誰だって聞きたくはなる。

 しかし赤衣は、申し訳なさそうに、苦笑しながら後頭部を掻いた。

 

「んー……もう一度だけお願いしてもよいでござるか?」

「……それ、さっきも聞いた」

「今回は本当に最後でござる」

「それも、今ので三回聞いた」

 

 彦斎の目が、じとーっと半眼になる。

 気まずい沈黙が、ふたりの間に流れた。

 やがて、彼女は諦めたように、はぁと小さく吐息を漏らす。

 

「……まぁ、いいけど」

 

 言うなり、彦斎は所在なさげに天井へ視線を投げ――ふと、首だけを横に向けて赤衣を凝視した。

 

「それより、なんで私は布団なの?」

「……」

 

 本命の疑問は、どうやらこちらだったらしい。まったく意図が分からないという眼光が、何よりそれを物語っていた。

 というのも、現在、この二人はきわめて異様な格好で収まっている。

 薄暗い部屋の隅――なぜか彦斎だけが布団に寝かされており、しかもその右手を、赤衣がそっと握りしめているのである。

 

「河上殿は疲れておられたようゆえ、横になった方が楽かと思って」

「……そういう問題じゃない気がするけど」

 

 何を言い訳したところで、側から見れば奇妙な介護か、さもなければ夜這い寸前の一幕にしか見えない。

 彦斎は疑念を隠そうともせず、じとりと赤衣の顔を見つめ返す。

 けれど。

 

「特に他意はないでござるよ。ただ、人は誰かに手を握られている方が、幾分か心が安らぐものでござろう?」

 

 赤衣は恥じる風もなく、至極真面目な顔で当然のようにそう宣ってみせる。本気でそれが最善の気遣いだと信じ切っているその眼差しには、一切の邪気は見られなかった。

 

 ——別に、薩摩の人斬りについて話すくらい、なんともないのに。

 彦斎はそう思いもしたが、だからと言って、振り払おうとすれば払えるはずの手を、引き抜こうとはしなかった。

 伝わってくる手の温もりも、敷かれた布団の心地よさも、決して悪くはない。何より、この赤衣の男に妙な下心などなく、単に不器用な気遣いの産物なのだろう、と妙に納得はできる。

 これ以上追及するのも億劫になり、彦斎は「……そう」と短く呟きを漏らした。

 

「まぁ、いい……で、もう一回?」

「すまぬが、是非」

「本当にこれで最後?」

「多分」

「多分なんだ……」

 

 半ば脱力したように、匙を投げた吐息をつく。

 それでも本気で拒むほどではないらしい。

 彦斎は天井へ視線を戻すと、ぽつり、ぽつりと再び記憶の糸を辿りはじめた。

 

 ——最初は、小さい女の子に事情を聞いたの。そしたら、そいつが悪い奴だと知った。

 ——……どうして悪い奴か分かったかって?

 ——……その女の子が血まみれだったから。どうやら両親を殺されたらしい。本人は言わなかったけどね。

 ——だから、悪い奴だと分かったの。

 

 その間も、赤衣は無暗に割り込まず、同じ問いを重ねぬよう言葉を選びながら、静かに相槌を打つ。

 ただじっと、包み込むように彦斎の右手を握ったまま。

 

「……ねぇ」

「ん?」

「手……」

 

 ふいに溢れ出たような呟きだった。

 赤衣は少しだけ意外そうに目を丸くする。

 

「嫌でござったか?」

「別に……嫌じゃ、ないけど……」

 

 彦斎は己の手を包む、赤衣の大きな手に視線を落とした。

 男にしては華奢ではあるはずが、手は武芸者のそれだ。幾度となく刃を握り、死線を潜り抜けてきた証のように節が張り、皮が硬い。

 けれど、痛くはなかった。

 拘束するように力を込めているわけでもなく、逃がさぬよう握りしめているわけでもない。ただそこに、置かれているだけ。

 

(……温かい)

 

 こんなふうに、誰かに手を握られたまま横になるなんて、一体いつ以来のことだろう。

 幼い頃、熱を出して寝込んだ夜の記憶だったか。

 それとももっと昔、まだ実父が生きていた頃のことだったか。

 手繰り寄せようとしても、その輪郭は溶け去り、もう思い出せそうにない。

 

「……眠くなってきたでござるか?」

 

 赤衣の穏やかな声が、静寂のなかに落ちる。

 

「……少し」

「……そうか」

 

 行灯の芯が弾け、炎が微かに揺れた。

 部屋を満たすのは、草むらから響く夜虫の鳴き声と、重なり合うふたつの呼吸音だけ。

 

「無理に起きておらずとも構わぬでござるよ」

「でも……まだ話の途中……」

「続きは、夢の中で思い出すくらいで丁度よいでござる」

 

 彦斎は、小さく安らかな息を吐いた。

 深い闇の中へ沈んでいくように、瞼がゆっくりと閉じられていった。

 

「じゃあ……少しだけ…………」

 

 彦斎は、小さく安らかな息を吐いた。

 深い闇の中へ沈んでいくように、瞼がゆっくりと閉じられていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、静かな室内に規則正しい寝息だけが満ち始める。

 彦斎が完全に意識を手放したことを確かめてもなお――赤衣は、その華奢な右手を握りしめたまま、微動だにしなかった。

 手を開き、温もりを重ね続けるのは、決して愛着や気まぐれなどではない。

 無防備な無意識の深淵――夢の領域へ落ちていく彼女の意識へ繋がるための、確固たる経絡を維持するためだ。

 人は眠りにある時こそ、最もその防壁が薄れる。

 彼女自身すら意識していない記憶の底、その原風景の欠片を覗き見るために。

 安らかな寝顔を見つめる赤衣の瞳から、先ほどまでの穏やかな温もりは消えていた。

 そこにあるのは、魔術師としての冷徹な眼光と、一人の少女の領域を侵犯することへの重い罪悪感だけだ。

 

「……すまぬ、河上殿」

 

 ぽつりと落とされた低い呟きは、夜虫の声に紛れて、暗がりの中へ静かに消えていった。




男女2人、密室、手繋ぎ…何も起きないはずもなく。
いや、本当に何も起きないんですけどね、ええ。


ん? そんなことより以蔵さんが最後に見たのはなにかって?
なんでしょうねー(すっとぼけ)

ということで、ちょこっと豆知識ーーーー!


■揚屋ってなんぞや
作中で訪れた「揚屋(あげや)」は、実は遊女を置く店ではナイ!
知ってる人も多いかもですが、揚屋は客をもてなすための宴席を開く場所で、遊女や太夫は置屋から呼ばれてきました。
なにかと有名な、某薬師の作品には遣手ババアなるものが出てきますが、この置屋を取り仕切っているものこそが、その遣手ババアですね。
ちなみに、「引手茶屋」というのもあるのですが、これは吉原なんかで妓楼に行く前に通されるような場所ですね。揚屋はとにかく金がかかるため、吉原では「引手茶屋→妓楼」というリーズナブルで効率的なシステムが流行っていったんだとさ、おしまい。
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