殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:沖田愛好家

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神道無念流

 凄まじい衝撃音とともに浪人の男が床へ転がった。

 その足元へと歩み寄りながら、芹沢は畳に落ちていた己の鉄扇を拾い上げる。

 

「勝手にどこかへ行こうなど、貴様らは実に無礼千万だなぁ」

 

 血に濡れた鉄扇を冷酷に弄びながら、芹沢が低く嗤う。

 その双眸に宿るねっとりとした殺気が、室内の空気を容赦なく希薄にさせた。

 

「芹沢さん……!」

「総司君」

 

 一歩踏み出そうとした沖田を、芹沢の冷徹な声音がねじ伏せる。

 

「話はまだ終わっていないだろ? 誰が勝手に退室していいなどと言ったかね?」

 

 芹沢は片手で鉄扇を弄んだまま、もう片方の手でお猪口の酒をぐいと呷り、それを容赦なく床へ投げ捨てた。

 パリン、と甲高い音を立てて陶器が砕け散る。

 口元から漏れる、噎せるような酒気。されど、その足元に揺らぎは微塵もない。

 芹沢という男はただ、酔いなど遥か彼方に置き去りにした狂気の眼差しで、目の前の小娘を小馬鹿にしたように睥睨していた。

 

「殿内さん暗殺の件なら後でいくらでも追及してくれて結構です! しかし、あれについては私にだって釈明がある! それすらも訊ねず、独断で隊士へ切腹を命じるなど……貴方こそ、この壬生浪士組で天下でも取ったつもりですか!?」

 

 激昂する沖田の叫びが、狭い座敷に木霊する。

 だが、その決死の抗議を、芹沢は喉の奥で愉快そうに笑い飛ばした。

 

「取ったつもりぃ? たわけたことを抜かすなよ、小娘が。既に私がこの壬生浪士組の長だろうに」

 

 言い終わりと同時、なんの初動もなく無造作に鉄扇が薙がれた。

 完全なる不意打ち。

 凶器と化した鉄塊が、目にも留まらぬ神速で沖田の細い首筋へと肉薄する。

 

 しかし、静寂を激しく打ち破ったのは、肉を断つ音ではなかった。

 

「貴様……」

「少々、芹沢殿は短気がすぎるでござるよ」

 

 直撃の手前、芹沢の鉄扇は、横合いから割り込んだ男の刃によって、強烈に弾き飛ばされていた。

 

 芹沢の濁った眼が、蛇のように細められる。

 壁際へ投げ飛ばされたはずの男の手には、先ほど芹沢が新見へと投げ渡し、畳に突き刺さっていたはずの抜身の刀が、いつの間にか固く握られていた。

 無論、その持ち手は短刀の白刃によってに傷つかなかった、無傷の左手である。

 

 沖田はその圧倒的な反応速度を目の当たりにし、懐から引き抜こうとしていた反撃の手を、思わず引っ込めた。

 あの刹那の瞬間、もし男が左手一本で芹沢の鉄扇を弾き飛ばしていなければ、今頃は沖田の剣が芹沢の脛骨に炸裂し、どうしようまでもない決定的な内部抗争(ころしあい)が始まっていたことだろう。

 奇しくも男の行動は、芹沢の暴挙を止めただけでなく、またしても沖田を人斬りの深淵から一歩遠ざけたことになる。

 

 だが、そんな己がもたらした危うい均衡など露知らず、男はなんの悪びれもない様子で言葉を続けた。

 

「そもそも殿内殿暗殺に関して、某らは嘘の供述をしていたでござる。殿内殿を斬ったのは某。沖田殿が殿内殿に襲われていたため、それを助けようとしての結果でござるよ」

 

 何一つ悪びれもない声音で、さっきまでの己の言葉をも全て平然と覆してみせた男。

 これには流石の芹沢も、その獰猛な面構えに明確な瞠目を浮かべざるを得なかった。

 横で青ざめている新見も、あまりの不敵さに声を失っている。

 

「嘘、だと? そんなものがこの芹沢に通じると思っているのか?」

「通じるも何も、それが真実。お主がどれだけ否定しようとも、事実をねじ曲げることはできんよ」

 

 男はもう話は終わったと言わんばかりに、左手一本で、持っていた刀を床に転がっている鞘へと見事に滑り込ませた。

 

「ふざけるな、若造めが。だったらそれを証明してみろ、その真実とやらを見せてみろ」

「証明でござるか?」

 

 芹沢の傲慢な台詞に、男はまるで的外れな問いをされたかのように首をかしげる。

 

「そうだとも。『総司君が殿内に襲われていた』。これが真実なら総司君では太刀打ちできなかった殿内を、君がなんとかしたと言うことになる」

「つまり、彼が私よりも強いことを証明しろと? しかし、それじゃ……」

 

 沖田はそこで言い淀んだ。

 彼女の言う通り、それじゃ最初に沖田が報告していたことを裏付ける材料にしかならないからだ。

 

 男は現に、一度自分に勝っている。

 そこから導かれる結果で、一体どのようにして芹沢にメリットが発生するのか、いまの彼女には何一つとして理解できない。

 だからこそ、沖田は芹沢には他の狙いがあるのではないかと警戒する。

 

「嫌なら、やはり最初の供述は嘘ではない――『沖田総司の独断による隊律違反』と言うことで、今すぐその首を差し出してもらうが、構わないね?」

 

 芹沢は、当惑する沖田を見てせっついた。

 芹沢の真意が分からない以上、沖田は下手に返事ができない。昨日、勢いと焦燥のまま殿内を暗殺しに行った結果が、まさにこの最悪の泥沼なのだ。

 それを痛いほど思い知らされたいま、これ以上の迷惑と不始末を、江戸から大義を抱いてやってきた近藤や土方たちに掛けたくないと思うのが、彼女にとって当然の、そして必然の心理であった。

 

 しかし、だからと言ってこのままおめおめと引き下がるわけにもいかない。

 

「芹沢さん……私は――!」

「どうすれば良いでござるか」

 

 そんな時、沖田の言葉を遮るかのように緋色の浪人が割って入った。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 何か裏があるかもしれないですよ!? そんな簡単に……!」

「大丈夫でござる。いざとなれば、沖田殿の命だけは守ってみせるでござるから」

 

 男がそう、額から血を流しながらも悪戯っぽく笑ってみせると、沖田は訝る気持ちを持たざるを得なかった。

 

 だって、この男とは昨晩死線を交えただけの、ただそれだけの関係なのだ。

 それなのに、なぜ見ず知らずの他人に過ぎない自分のために、ここまで命を張り、その身を肉盾にできるというのか。彼女のこれまでの常識では、到底理解に苦しむところだった。

 

 底の抜けたお人好しだとは思っていたけれど、自分を殺そうとした人間にまで、こうも容易く救いの手を差し伸べるとは――。

 

(どこまで、この人は……!)

「ふっ、戯言を。なぁに、証明方法は実に簡単だ」

 

 芹沢は男の覚悟をせせら笑うと、ぎろりと後ろを振り返る。

 これまで気配を消して口を挟めずにいた己の腹心を鋭い声で呼んだ。

 

「――新見!」

「は、はい……っ!」

「お前が奴を殺せ」

「わ、私が……ですか……!?」

 

 唐突に死刑執行人に指名された新見は、その青白い顔をさらに引きつらせた。

 

「相手は右手を負傷して使えない小者だ。まさか、私や永倉君と同じ神道無念流・免許皆伝の看板を背負う君が、片腕しか使えない若造に怖気付いたなどと言わないよなぁ?」

 

 拒絶を一切許さない、低く地響きのような言葉に、新見はごくりと重い唾を飲み込んだ。

 ここで言い返せば、きっと新見は芹沢に斬り殺される。新見にはそれが、痛いほどよく分かっていた。

 

「わ、分かりました……」

 

 ゆえに、新見はもはや不満の言葉を漏らすこともできず、了承する。

 恐怖で微かに震えそうになる右手を必死に隠しながら、まるで薄氷を踏むような足取りで、縁側から日の差し込む庭へと降り立った。

 

「殺される気は毛頭ないが、それでお主が満足するのであれば、某も文句はござらん」

 

 芹沢の冷酷な眼差しを真っ向から受け止め、男はただ静かにそう言った。

 緋色の浪人もまた、新見の背を追うようにして、迷いのない足取りで縁側の外へと草履を進める。

 

「一応、先に忠告しておくが、新見とやら。痛い思いをしたくなければ、今のうちに降参することを勧めるでござるよ」

「っ、ふ、ふざけるな! 私は水戸藩出身、神道無念流の新見錦だぞ! 貴様のような小汚い浪人に、負けるはずがないだろう!?」

 

 新見が吠えたのを合図に、両者とも互いの白刃が鞘から離れた。

 とは言っても、緋色の浪人が本来携えていた愛刀は、芹沢の部屋に訪れる前の段階で沖田の手によって既に没収されている。そのため、彼は先ほど手にした芹沢の刀を、断りもなく勝手に持ち出しているわけだが。

 

 閑話休題。(そんなことはさておき)

 

 そんな二人の影が庭の砂利の上に伸びる中、先に動いたのは新見だった。

 じりじりと擦り足で腰を沈め、彼が選択したのは神道無念流の代名詞とも言える面打ちの派生を狙った霞の構えである。

 

 そもそも、江戸の三大道場*1の一つ、「神道無念流」と言えば、立居合として高名であろう。

 だが実際のところ、その門下で高度な居合まで修めた者は極めて少なく、実態としては防具と竹刀を利用した、極めて実戦的な撃剣を数多くこなした者が大半を占めていた。

 

 目の前で対峙する新見もまた、その例に漏れない。

 彼が真に得意とするのは神速の居合ではなく、竹刀試合で培った「いかに相手の隙を突き、確実に骨肉を叩き斬るか」という冷徹な剛剣である。

 だからこそ新見は、最初から刃を剥き出しにするこの構えを選んだのだ。

 

「神道無念流……たしか、諸藩で多くの者が学ぶ流派でござったな」

 

 男はどこか懐かしむようにそう呟くと、新見の気迫に抗うことなく、静かに刀を中央に据える正眼の構えを取る。

 正眼は五行の構えの中でも、あらゆる技へと派生しやすく攻防に優れた基本の構え。

 しかし、男は右手を負傷して左手一本で支えているため、新見の構えよりも自ずと剣先が低くなっていた。

 だが、それが重なった結果、男の切っ先は新見の喉元ではなく、そのガラ空きになった胴体を自然と狙う形に収まる。

 

「ちっ……神道無念流に対し胴を狙いますか。知識だけはあるようですね」

「知識も何も、あれだけ多くの者が学べば、それだけその流派の特性は広く深く知れ渡る。示現流のような門外不出の流派でもない限り」

「痴れ事を! あんな芋臭い剣術と神道無念流を一緒にしないでいただきたい! 門人が多いと言うことは、つまり、それだけ他流派より秀でている証拠! 特性を知られてなお、江戸の三大道場として数えられるのは、神道無念流が優秀である証明! 片腕の浪人風情がどれだけ対策しようと、皆伝である私には敵うはずがない!」

 

 新見はそう叫ぶと、砂利を激しく蹴り立てた。

 口の高さに維持されていた刀が、猛烈な踏み込みと同時に、凄まじい風切り音を立てて斜め上方へと跳ね上がる。

 

 狙いは、頭部を真っ二つに叩き割る唐竹割りの面打突――――ではない。

 

 新見の真の狙いは、神道無念流にて重要視されるもう一つの部位――小手に絞られていた。

 

 正眼の構えを取っている男は、無防備にも中段に剣を真っ直ぐと伸ばしている。

 新見が上段へと構えを切り替えたことで、がら空きとなった胴体。

 そこ目掛けて一閃。男は先手必勝とばかりに、その低い切っ先を突き出してくるだろう――そこまでは新見も完全に想定の範囲内であった。

 

 だからこそ、その剣閃を叩き折るかの如き激しい一撃で撃ち落し、逆にがら空きとなった水月へと、必殺の突きを叩き込む算段を立てていたのだ。

「力の斉藤」と謳われる練兵館の破壊力は、ただ力任せなだけではない。

 相手が放った受け太刀の勢いすらも強引に利用し、力でねじ伏せて叩き潰す。

 

 これには、部屋の中から固唾を呑んで見ていた沖田も、思わず唇を強く噛み締めてしまう。

 新見の狙いは、はなから右手が機能していない男の、左の小手狙い。

 さっさと剣も握れぬほど完全に損壊させることだと一瞬で理解したからだ。

 

 あの執拗かつ強烈な撃ち落としの一撃を、片手一本の不完全な構えで真っ向から受け止めればどうなるか――刀ごと腕をへし折られる結末など、一目瞭然であった。

 

「(来たッ、胴への突き!!)いえあああぁぁぁぁ――ッ!」

「まずい――――!!」

 

 案の定、浪人の男が自身の胴へとまっすぐに剣を突き出してくるのを視界に捉えた瞬間、新見は己の完全な勝利を確信した。

 それと同時、地を這うような咆哮とともに、今、凶暴な剛剣が容赦なく振り下ろされる。

 

 ――しかし。

 

「――っ!!?」

 

 新見の想定していた、骨を砕き、肉をすり潰すような手応えは、待てど暮らせど一切返ってこなかった。

 それどころか、浪人の剣が叩き落とされることもなかった。

 

 驚愕に目を見開いて見れば、いつの間にか男が垂直に立てて持ち上げた刀の腹を、新見が渾身の力を込めて振るった凶刃が滑り落ちている。

 

(な、何故……!?)

 

 打ち込む前の不敵な会話を脳裏に再生すれば、誰もが男は先手を狙って胴体を突きにくると思い込んでいた。

 実際、上段の構えからの振り下ろしとわかるや否や、目の前の男はたしかに剣を突き出していたはずだ。

 

 ただでさえ片手を負傷し、長時間の剣戟に耐えられる状態ではない。

 必然、相手が仕掛けてくるより先に剣を届かせる以外に、生き残る選択肢などあろうはずもないというのに。

 

 にも拘わらず。

 

 浪人の男は胴体など最初から狙っていなかった。

 男が狙っていたのは、肉を切らせて骨を断つ突きなどではない。

 新見の放つ渾身の一撃そのものを誘い――敵の力をそのまま動きで受け流し利用する、あまりにも美しい返し技。

 

「くそ――――がっ!」

 

 男のあまりにも精緻な剣技によって、本来の軌道を完全に狂わされ、虚空を撫でさせられた新見が苦悶の悪態をつく。

 全力を込めて振り下ろしたせいで、新見の刀は無惨にも地面を向いて静止してしまっていた。

 

 いや、それだけではない。

 

 ここから強引に男の胴元へ向かって刀を振り上げようとしたその時、たしかに聞こえ、見たのだ。

 浪人の男が、新見の振り下ろした刀の刀身を目がけて、容赦なくその足を踏み込んだ音を。

 まるで万力のような力で剣を踏み締め、そのすさまじい体重移動の反動によって舞う砂利群を。

 

「ふざ、けるな! ふざけるなふざけるなふざけるなあああああ!!」

 

 もはや、その声は哀れにも思えてくる。

 いくら力を込めようとも、刀がびくとも上がらない。

 完全に動きを封じられた新見の顔が、恐怖で引きつっていくのがわかる。

 

「――すまぬ」

 

 男は、それだけを吐きこぼし、左手だけで逆手に握り直した刀の柄頭を引き絞る。

 そのまま、前のめりになって頭の位置が低くなった新見の眉間へと照準を定め、次の瞬間。

 

「がぶっ……!?」

 

 ――無慈悲にも、防御を差し込むことすら許さぬ電光石火の一撃を打ち込んだ。

 

 新見の額の皮膚は弾け飛び、鮮血が飛び散る。

 剣を握っていた手は完全に脱力し、あまりの衝撃に新見の身体は一瞬だけ宙を舞った。

 

 そのまま砂利の上へと無様に地面へ叩きつけられる体。

 受け身すら取れず、激しい土煙が舞い上がる。

 

「真剣の斬り合いにおいて、胴技と突技ほど使いにくいものは無い。神道無念流が道場試合において、胴技を弱点としているのもそれが所以でござろう……だが使いにくいだけであって、それは不能ということではござらんよ」

 

 男は、完全に意識を失ってのびている新見を一瞥もせず、ただ静かに芹沢の刀を下げた。

 そして血の滴る顔のまま、ゆっくりと縁側の芹沢へと、その底知れない静かな眼差しを向け直した。

 

「これで満足でござるか、芹沢殿。新見殿はしばらく立てぬでござるよ」

 

 砂利の上に転がった新見を冷徹に見下ろしながら、男が静かに告げた。

 そうすれば、これまで氷のように黙していた芹沢も、その太い喉を鳴らしながら「ふっ」と息を漏らす。

 

 手にした血濡れの鉄扇を己の掌へと強く叩きつければ、その凄まじい衝撃によって空気の破裂音を奏でてみせた。

 

「よもやその手負で、神道無念流の皆伝をこうも容易く一蹴するとはな。文句の付け所もない。さすがは巷で噂の『赤衣(あかぎぬ)の剣侠』と言ったところかな?」

「赤衣の、剣侠——?」

 

 縁側で息を呑んでいた沖田は、その聞き慣れない通り名に小さな疑問を咲かせた。

 

「知らないのかね? 京の町にふらりと現れては、尊王攘夷を騙る不逞浪士、私腹を肥やす悪徳商人、果ては辻斬りの類までを片端から成敗して回っている、正体不明の輩の名さ。まあ、連中からは、ただ『赤衣』とだけ呼ばれて恐れられているようだがね。成敗と言っても、今見せつけられた通り、命までは取らぬ生ぬるいお遊びをしているようだが」

「……なるほど。大体見えてきたでござるよ、芹沢殿」

「ほう、腕が立つだけではなく、頭も少しは回るのか。――はははははは! 結構、結構、大いに結構!!」

 

 綺麗に並んだ歯を全部撒き散らすような大笑い。

 

 そう、芹沢鴨という男が本当に狙っていたのは、最初から沖田への懲罰でもなければ、目の前の手負いの男をここで始末することでもない。

 いかにして己の派閥を拡大し、誰も手が付けられぬ絶対的な戦力を懐に囲い込むことができるか――。

 彼の歪んだ頭脳にあるのは、ただそれ一点のみであった。

 

 だからこそ芹沢は、その男をギラついた双眸に映しながら太い人差し指をこれ見よがしに突き立てる。

 

「話が早く済むのは嫌いじゃない。私が君に提案するのはたった一つ。とっても簡単で、互いに実りのあるお願いだよ」

「お願い——でござるか?」

 

 剣侠のいぶかしむような声音に、芹沢は顔の半分が口になるくらい大口を開ける。

 

「私の牙となれ! 国のため、未来のため、指示を出すこの私のために、これからはその剣を振るえ! 尽忠報国! 貴様がこれからその圧倒的な刃を振るう相手は、守る価値もない路頭の小石でもなけりゃあ、畳の上で死に損なっているクソみたいな侍どもでもねぇ! 私と国のために、その力を万全に発揮しろ!!」

 

 それは八木邸中に響く、あまりにも大柄な声だった。

 聞く者が聞けば、壬生浪士内で新たな抗争を引き起こしたであろう。

 幸いにも、試衛館派の近藤や土方らを含め、主要な隊士のほとんどが壬生寺での稽古へと出払っているため、その最悪の事態だけは免れていた。

 

 それでも、隣で事の成り行きを見守っていた沖田は、今の発言に呆気を取られる。

 対して、その狂気の勧誘を真っ向から浴びせかけられた男はといえば――困ったように無傷の左手でぱりぱりと己の頬を掻き、実にあっけらかんと、

 

「せっかくのお誘いでござるが、それは丁重にお断りさせていただくでござるよ。某はこれから先、どこの誰側の味方をしようとも、これっぽっちも考えてはおらんゆえ」

 

 ――丁重に断った。断ってしまった。

 

 張り詰めた空気をあっけらかんと切り裂くその拒絶。

 だが、そう返事されるのも、芹沢鴨という怪物からしてみれば疾うに織り込み済みだったらしい。

 芹沢は、横で己の顔を凝視する沖田を一瞥した。

 

「いいや、君は私の言う通りにするさ。何故なら、こちらにはその材料があるんだからね」

 

 低く、ねっとりとした声音。

 その言葉が意味する重みを察したのか、赤衣の剣侠と呼ばれた男の纏う空気がわずかに揺らいだ。

 

「……んー、困ったでござるな、そう言われると某に拒否権は無くなる」

「ははは、最初からそんなもの用意していないとも。私は確実に物事を進めたい人間でねぇ。念には念を入れるんだ、何事もね」

 

 ここまでの全てが芹沢に仕組まれたことである。

 

 当初はきっと、沖田を身内にする予定だったのだろう。

 同志である殿内義雄の暗殺を成功させ、人斬りとしての凄絶な才覚を顕した彼女を、そのまま近藤一派から強引に引き抜く。

 それが芹沢鴨の描いた、壬生浪士組を掌握するための最初の一手だったに違いない。

 

 けれど、それは赤衣の男によって頓挫した。

 

 沖田は殿内を斬るどころか、その刃を完全に止められ、さらに人斬りを止めさせるような事まで囁くお人好しに出会ってしまったのだ。芹沢の欲していた、狂気の牙を持つ絶対的な人斬りを誕生させるのはもはや不可能。ましてや、殿内暗殺で得るはずだった彼女の「負い目」や「好感」も、これ以上は稼ぎ損ねると芹沢は早々に判断したのである。

 

 しかし、その早い判断能力こそが、次なる狂気の計画へと誘わせた——。

 

 それが目の前の手練れを己の配下に加えると言うもの。

 

 いくら挑発しても乗ってこなかったが、その実力は新見との一戦で確かめた通り。沖田総司という天才的な技量となんら遜色ないほど洗練されている。

 人を殺めぬ甘ちゃんであるところを除けば、概ね芹沢の望んだ最強の刃と言えるだろう。また、人斬りとしては致命的とも言えるそのお人好しな性格も、搦め手で仲間を引き入れるための弱点と思えば、これ以上なく都合の良い呪いだと捉えられる。

 

 結果、芹沢は当初の計画を全て切り崩し、沖田という存在を逆に利用して、この剣侠を手に入れる方向へとシフトチェンジしたのであった。

 

「芹沢さん」

 

 しかし、それまで黙ってやり取りを聞いていた沖田が、低く震える声で割り込んだ。

 

「意思のない者を勝手に隊員に迎えるのは、邪魔でしかありません。そもそも、こう言うことは近藤さんや家里さんにも」

「ほー、誰が隊員として迎えると? 勘違いするなよ、総司君。コイツは私の狗だ。君たちにあげるつもりは微塵も無い」

 

 噛み付いてきた沖田を追っ払うかのように、芹沢は冷酷に鼻で笑い、言葉を一蹴した。

 確かに芹沢が誰と組もうと、それが会津藩と対立する長州や土佐でも藩士でも無い限り、文句を言われる筋合いはない。ましてや、配下として加えようとしているのは単なるお人好しである。大局的に見れば、百利あって一害なしとすら言える。

 

 であれば、沖田がそこまで芹沢の横暴な態度に怒る必要は無いはずなのだ。

 

 それなのに――沖田は自分でも何故湧き立つのか分からぬ怒りを発露させる。

 

「狗だとか、あげるだとか……すこし彼に向かって失礼なんじゃないですか」

「ふっ。私は己の部下にきっちり上下関係を教え込んでいるだけに過ぎんよ。君みたいにキャンキャンと鳴かれては、外で連れ歩くのも恥ずかしいだろぅ?」

「っ、私だけならまだしも……近藤さんまで侮辱するつもりですか……!」

 

 かちん、と沖田の腰元で鯉口を切るかすかな金属音が鳴った。

 そんな一触即発の濃密な殺気に、赤衣の剣侠がぬるりと割って入る。

 

 今にも芹沢へ飛びかかりそうだった沖田の目の前に立ち、まるで芹沢から沖田を庇うように背を向けた。

 

「(この人は、また……!)なんで止めるんですか! あなたは芹沢さんの味方をするつもりですか!?」

 

 それが堪らなくイラつくと思った沖田は、衝動のまま男の後ろで雑に結ばれた長い茶髪をぐいと掴んで引っ張った。

 

「あわわわわ、お、落ち着くでござる、沖田殿! 某はなんと言われても気にしないでござるから〜!」

「あなたのためじゃなくて、私は私のために芹沢さんを斬るんです! 自惚れもいい加減にしてください!」

「え……某のために怒ってくれていたのでは無いのでござるか……?」

「当たり前じゃないですか! なんで昨日会ったばかりの貴方に、私がそこまでしなければいけないんです!? 私はあなたと違って、見ず知らずの人に汗水は垂らしません!」

「誇らしい顔で言う台詞ではないでござるよ、沖田殿……」

 

 自分のための怒りじゃないと言われて落ち込む赤衣の剣侠。

「はぁ」とため息混じりの声を漏らして、赤衣の剣侠は取り残され気味であった芹沢へと向き合った。

 

「芹沢殿。某をどうしても部下にしたいのなら、条件がいくつかあるでござる」

 

 未だに右手からは裂傷による出血がひどい。ぽたぽたと板張りの床に血が垂れているのは、見ているだけで痛々しいと思えた。

 それでも男は気にした風もなく、傷ついていない方の左手だけで、芹沢の重厚な刀をその主へと丁寧に差し出した。

 

「ふん……申してみよ」

 

 言葉に対し、剣侠は「では……」と口をひらく。

 

「一つ、某は人を殺さぬ。

 二つ、某は人を殺めさせぬ。

 三つ、某は無益な争いを好まぬ。

 以上のことを守ってくれるのであれば、芹沢殿の狗にでも道具にでもなるでござるよ」

 

 剣侠が提示した条件を、芹沢は反芻しながら考える。

 一つ目の「人を殺さない」というのは、まだ目を瞑ってやらないこともない。だが、その次の「人を殺めさせない」というのは、これから京の街を暴力で震撼させようと目論む芹沢にとって、少々厄介な足枷になると思えたからだ。

 通であれば、ここで鉄扇を叩きつけて突き放すところだろう。

 ――けれど、芹沢の目は、砂利の上で未だに気絶してピクリとも動かない新見錦を捉えていた。

 

「良いだろう。その条件、すべて飲んでやる。どうせ貴様は人を殺させずとも、十分に牙として使えることを、今しがた証明してみせたからな」

 

 そう返して、芹沢は男から刀をひったくるように受け取った。

 それを聞いて、男は先ほどまでの張り詰めた空気を霧散させ、子供のようにころころと無邪気に笑った。

「良かった、交渉成立でござるな」と言うと、男はそのまま左手で沖田の手首をきゅっと引っ張り、踵を返してその場を去ろうとした。

 

「あ、そうそう。一つだけ言い忘れていたでござる」

 

 突然、何かを思い出したように男がピタリと足を止める。

 そのまま、のんびりとした動作で振り返った。

 芹沢はその様子を細い目で眺めながら、男の次の言葉を促した。

 

「なんだ」

「いや——芹沢殿は某のことを狗と言っていたが、確かに某は狗がお似合いと思ったけでござるよ」

 

 男はどこまでも穏やかな微笑を浮かべたまま、しかし、その瞳だけは漆黒の深淵のように冷たく澄み切っていて。

 

「狗に噛まれたくなければ、精々、その手綱は死ぬ気でしっかりと握っておくことでござる、芹沢殿」

 

 そう言った時の男の瞳——。

 その双眸の奥に映る、底知れない『何か』を直視した瞬間――。

 百戦錬磨の怪物であるはずの芹沢鴨の背筋に、生まれて初めて生々しい戦慄が走った。

 

 

 

 

 

― 壱 ―

 

 さて、ここから蛇足ではあるのだが、もう少し続く。

 芹沢との騒動が終わり、二人は井戸付近にて傷を処置している場面——そこでの会話。

 

 短刀を握りしめて、あまつさえ破壊したのだ。当然のことだが、かなり裂傷が激しい。沖田程度の知識では下手に疵付けを縫うこともできないので、とりあえず焼酎で消毒して、その上から布を当てることとなった。

 

「んいい〜っ、やっぱり酒は傷口にしみるでござるなぁ〜……」

「なにを当たり前な。あとで土方さんにちゃんと軟膏もらっておきますから、今は文句を言わないでください、よっと」

「痛い! 痛いでござる、沖田殿!!」

 

 きつく布を巻く沖田に「容赦」という二文字は存在しないが、それでも甲斐甲斐しく男に治療を施した。

 

 目の前にいるのは、芹沢に与することとなった、つまり近藤一派とは相容れない人間である。普通に考えれば、そんな者の治療などする必要もなく、また気に掛けることすら煩わしいはずだ。

 

 しかし、芹沢一派だとか、家里・根岸一派だとか、そんなものどうでもいいと考えている沖田からすれば、あまり関係のない話ではあった。彼女本人からすれば、近藤を立役者にはしたいものの、それで芹沢を殺そうなどとは考えていない。殿内のように、第三勢力を作り上げ、壬生浪士組に仇なすようであれば粛清しようとは思ってはいるが。

 

 しかし、それを知らない男からすれば、この手厚いとも言える処置に、内心で首を傾げずにはいられなかった。

 

「沖田殿は良いのでござるか」

「何がです?」

「その、芹沢殿が某に言っていたこと——勘のいい沖田殿であれば、理解したでござろう」

「……」

 

 気まずげに頬をかく赤衣の剣侠。

 沖田はそれを見て、「ああ、あれのことか」と、その言葉が指す記憶を掘り起こした。

 

 ——つまり君が人殺しの悪さを説明するということは——君は人を殺したことがあるということだね?

 

 男が沖田に後ろめたいことがあるとすれば、きっとこれのことだろう。

 沖田はそれを理解し、ため息にもならないほど長い息を吐いた。

 

「意外ですね、貴方って実は話したがりなんですか?」

「えっ?」

 

 沖田の言葉が思っていたのと違ったせいか、男は目を丸くする。

 まるで母親に怒られると思っていたのに、逆に褒められた時の子供みたいだ。

 

「興味ない、と言えば嘘になりますね。でも私と今話しているのは、初対面の人でも、例え昨晩殺し合った人でも、誰だろうと関係なしに助けてしまう……そんなお節介焼きで腹が立つ侠客ですとも」

 

 沖田はそれだけを言うと、最後に男の右手をパンと叩いてにっこり笑った。

 まるで春に咲く桜のように——。

 暖かい日差しを伴いながら、それはキラキラと眩い光を放つ。

 

「でも、話したくなったら勝手に話してください。意外とこう見えて、私も結構な聞きたがりなので」

 

 その言葉に、男は堪えきれず「ふっ」と笑った。

 

「なんでござるか、それ……某は死ぬまで言わぬかもしれんよ?」

「なら私が聞くまで死ななければいいことです」

「死ななくても、どこかへ行ってしまうかも……」

「そうなったら追いかけます。地の果てって本当にあるんですかね?」

「また沖田殿の邪魔をしてしまうやもしれぬのに?」

「大丈夫、その時は私があなたを斬りますから」

 

 沖田と赤衣の剣侠はそれだけの言葉を交わすと、それ以上何も言わなくなった。

 お互いがお互いに何かを秘めている。そんなこと、出会った時から男も女も理解していた。

 

 片や、女の身でありながら剣客をし、人斬りを目指すもの。

 片や、過去に陰鬱な影を持ち、人を殺さぬと誓うもの。

 

 決して相容れぬはずの水と油。

 しかし、どことなく同工異曲でもある。

 そんな二人が交わった時、待ち受けるのは鬼か蛇か……。

*1
幕末期の江戸で高い人気を誇った三つの剣術道場




いつもちょこっと豆知識を載せていますが、どうしよう今回も載せようか。
後書きなんてみんな飛ばすものだし、なくていいか、なんて思ったりもしている私です。
いや、それでも、もしかしたら少ないながらも需要あるかもしれぬ!

と言うことで、ちょこっとだけ豆知識。

・神道無念流
作中でも説明した通り、幕末江戸三大道場の一つ「練兵館」で教えられていた。
「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されており、神道無念流は他流派と比べて力の剣とされていたことがうかがえる。まあ、力で最強なのは示現流かもしれませんが。
芹沢と永倉は実はこの流派が一緒だったりします。よく、芹沢と永倉が他の隊士と比べて仲良さげに描写されるのは、このため。
そして実は、あの桂小五郎さんは練兵館の初代塾頭を務めており、もしかしたら試衛館時代に近藤達と知り合っていたかも。(創作では知り合ってることになってたりする)

永倉、井上、藤堂、原田などの壬生浪士メンバーをオリキャラとして出すか。また、出すとしてとの程度か。(これによって沖田さんの出番が減るとかは無いです)

  • 出さないでほしい
  • 出しても良いけど、モブキャラ程度で
  • 出してほしい
  • めちゃくちゃ出してほしい
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