殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
まず、草の匂いがした。
その次に濡れた土の湿り気が混じり合っているのを感じ、最後に――ごく微かに鼻腔を刺す、鉄の饐えたような血の臭いがした。
赤衣は、緩やかに瞼を上げる。
視界を埋めるのは、旅籠の深い天井でもなければ、枕元でゆらめいていた行灯の明かりでもない。
そこにあったのは、ただ茫々と広がる京の闇であった。
「……」
背丈ほどに伸びた草むらが、夜風を受けてさざ波のように揺れている。その向こう——倒壊した母屋が、まるで巨大な獣の死骸のように静まり返っていた。
赤衣は周囲を見渡し、小さく息を吐く。
「成功……ということでござるな」
声に揺らぎはない。
予期していた結果をただ淡々と確認するような、冷めた独り言であった。
いま赤衣が立っているこの場所は、京であって京ではない。
眠りにつく直前、彦斎に幾度も問い、強引にその脳裏へ刻み込ませた過去――四日前、鴨川近くで薩摩の人斬りを斬り伏せたという、まさにその時分であった。
なぜ、過去を欲したのか。目的など、語るまでもないだろう。
赤衣は知りたかった——知らなければならなかった。
あの夜、魔蟲の毒牙から守るためだったとはいえ、おめおめと倒れ、意識を失ってしまった自分。その代わりに最後まで刀を振るった沖田総司の結末を、赤衣は知らねばならなかった。
どうしても——この目で確かめねば気が済まなかった。
だからこそ、危険を承知で彦斎の夢を呼び水とした。
本来、同じ時空にふたつの己が存在することなど許されはしない。いまもこの夏草の陰には、毒に倒れ、無防備に横たわる「あの夜の自分」がいる。
しかし、倒れた肉体と、立ち尽くすこの意識。その二つを曖昧に重ね合わせることで、「二人でひとつの存在」だと世界に錯覚させ、己の存在を過去へと投影してみせた。
口にするだけならば容易いことである。だが、これらの術理をすべて理解し、完璧に再現できる者など、古今東西を見渡しても一握りの賢者のみしかいない。
少しでも認識のズレが生じれば、己という存在そのものが世界の隙間へ分解し、霧散する。
この危険な投影を成し得たのは、ひとえに男の執念と、精緻を極めた魔術理論に基づくものであった。
「……」
そうして、赤衣はゆっくりと一歩を踏み出す。
足元の夏草は揺れず、土の沈む感触も返ってはこない。
「やはり……」
赤衣は小さく呟く。
この世界は赤衣という異物を誤認してはいても、そこに何らかの干渉を許しているわけではない。
旅籠で眠る自身の身体から切り離された、ただの情報体。この場においては、死霊よりもなお低級な存在に過ぎない、矮小なる影法師――それが今の赤衣の正体だ。
見ることしかできず、触れることも、声を届けることも叶わぬ。
質量も温度もない存在が、どのようにして物理的な干渉を及ぼすというのか。そのような奇跡を起こすのは、神に等しい御業と言えるだろう。
「ふ……」
自嘲の笑みが、静かに口元を歪めた。
奇跡など要らない。神の御業になど、あの時から興味もない。
何もできずともよいのだ。何も叶わぬとしても、構わなかったのだ。
ただ――知りたかった。
あの日、あの夜、一体何が起きたのかを。
そして受け止めねばならない。己が巻き込んでしまったかもしれない、一人の少女の結末を。
音もなく脚を運ぶ。事象への干渉は叶わずとも、この視界を動かすことだけは許されている。
そうして夏草をすり抜けるようにして並木道へと足を進めれば、ようやく――二つの影が対峙する場所に出た。
そこにいたのは、片腕を失いながらも大太刀を上段に構える男。薩摩の人斬り新兵衛と。
もう一人――。
「……沖田殿……」
思わず、唇の端からその名が零れ落ちた。
雨は、まだ降っていない。
ただ重く垂れ込めた雲の下、二人の刺客は静まり返った刻の中で互いを見据えていた。
押し殺された呼吸と、肌を灼くような殺気。次の一瞬で生と死が分かたれる、極限の緊張。
赤衣は、その光景をただじっと見つめ——。
『天誅、ジャ……キサマハ、コノ国ニャ、要ラン!!!!』
『奇遇ですね。いま私も、同じことを考えていました』
——その眼の異様さに、すぐさま気がついてしまった。
「…………」
そこにいる女の目は、己の知る目ではない。
いや、厳密にはかつて一度だけ向けられたことはあった。初めて会った時、己と殿内を殺すと決めていた時の目——他者の命を絶つことに何ら躊躇いも抱かぬ、冷酷無比な人斬りの眼差し。
いつもの朗らかさは、そこにはなかった。
団子を頬張る時の柔らかさも。路地の童と戯れる陽気さも。試衛館の仲間と笑い合うときの温かささえも……いまの顔には欠片ほども残されてはいなかった。
いま、彼女を動かしているものは、きっと汚泥に塗れた生々しい殺意だけだろう。
目の前の敵を疾く斬る。命を奪い去る。そのためだけに研ぎ澄まされた、凄絶なる斬人の本質そのものだ。
しかし、それ以上に——。
「……そうか」
赤衣はそこまで理解し、目を伏せてしまった。
沖田の目に、殺意と同じくらい悲しみに濡れた痛々しさがあったからだ。
妙なほど、腑に落ちてしまう。
夏草の陰に倒れ伏す己の姿など、確認する必要すらない。
この場において、あの薩摩の人斬りを前に、沖田が殺意を剥き出しにしている理由――いくら己へ向けられる好感に鈍感な赤衣でも、理解できぬはずもない。沖田がなにを思い戦っているかなど、ひとつしか存在しないのだから。
「……某のため、でござるか」
ぽつりと、掠れた声が漏れる。
あの少女は、生きているか死んでいるかも分からぬ男を守るため、己という人間を殺し、ただの一振りの刀になろうとしている。
赤衣は、自嘲の笑みを刷いた。
「仇討ちなど……似合わんでござるよ……」
声は届かない。そんなことは百も承知であった。
ここに佇む自分は、ただの影法師。
どれほど切なく手を伸ばそうとも。どれほど喉を潰して叫ぼうとも。
その言葉が、彼女の耳に届くことなど永久にない。
しかし、それでも――沖田がゆっくりと、低く構えを沈めたその瞬間。
赤衣の胸を、言いようのない痛みが締め付けた。
『一歩——音越』
「……ぬ」
赤衣は目を伏せ、唇を震わせる。
声を発しても、音は夜の深みへ消えるだけ。
それでも――祈るように言葉を重ねた。
『二歩——無間』
「……まぬ」
刃が奔る。
あまりにも速く、あまりにも惨烈で――そして、怖ろしいまでに美しかった。
わずか三歩の踏み込みで人の認識を置き去りにする、神速の領域。
かつて己が指摘した僅かな隙など、いまの構えのどこにも残されてはいない。
目線も。呼吸も。地の踏み締めすらも。
すべてを削ぎ落とし、超克してみせた、完成された一刀であった。
『三歩————』
届くはずのない手を。
止められるはずのない身体を。
――それでも。過去を彷徨う男は、その少女へ向けて手を伸ばし、声を絞り出す。
殺さずの剣客が————ただひとり、人斬りの君へ。
『————絶刀』
「すまぬ……沖田、殿……」
「――――――――――」
ただ、その凄絶なる結末を見届けるよりほかに道はなかった。
この一撃で、すべてが終わる。
そこに居合わせた者がいれば、誰しもが疑いなく確信したであろう必殺の一撃。
夜の闇を容赦なく引き裂く一本の閃光が、次いで、鮮血を暗がりへと鮮烈に舞い散らせた。
――だが、その瞬間。
『あ、ガッ――』
「――――」
血飛沫の舞う闇の中で、誰もが目を疑う奇跡が起きていた。
肩口から脇腹にかけて深く肉を裂かれながらも、薩摩の男は倒れることなく、荒い息を繋いでいる。あれほどまでに研ぎ澄まされた必殺の一刀だ。骨を断ち切り、胴を叩き割り、その命を絶滅せしめて何ら不思議はないはずであった。
にもかかわらず。
刃は、最後の最後——紙一重のところで僅かに軌道を逸れていたのだ。
技が鈍ったのではない。
怖気や躊躇で身体が竦んだわけでもない。
あの神速の刹那、人を殺めるためだけに極められた絶技の領域において――沖田自身が、自らの刃を殺したのだ。
『馬鹿は、私のほうかもしれませんね……』
雨が狙ったかのように.降り始める。
重く湿った夜気の中、女の呟いた小さな独り言だけが、不思議なほど静かに赤衣の胸底へと落ちてきた。
「沖田殿……」
赤衣は、それを見て、女の名前を呼ぶことしかできなかった。
ただ、詰めていた息をゆっくりと吐き、雨に濡れる沖田を見つめる。
胸の奥を激しく締め付けていたなにかが、ほんの少しだけ解けていくように感じながら——この時、闇のなか佇む男の表情を窺い知ることは、誰にもできなかった。
— 壱 —
その後の光景は、あたかも夢の頁が手繰られるように、滑らかに流れていった。
倒れたはずの新兵衛が不意を突いて沖田を襲う姿。
その横合いから一閃、その腕を斬り落とした河上彦斎。
そして、横たわる沖田へ投げかけられた――あまりにも真っ直ぐで、残酷な問い。
だが、もはやそれ以上に得られるものなど存在しなかった。
ここから先は、彦斎から聞き、既に知っている記憶だ。
これ以上の滞留は、答えを探す術ではなく、ひとりの少女の過去を無遠慮に盗み見るだけの無道な行為となってしまう。
(……十分、でござるか)
赤衣は静かに踵を返した。
――その瞬間であった。
世界が、凪いだ水面に石を投じられたかのように、大きく歪み始める。
並木道も、夏草も、重く垂れ込めた夜空も。目映い波紋となって境界を失い、白く、儚く溶けて消えてゆく。
そして――ふっと、落ちていた意識が水面へと浮上した。
重たい瞼を、ゆっくりと開く。
視界に広がったのは、ゆらゆらと淡く揺れる行灯の光。さっきまで見ていた旅籠の天井。
そして、耳に届く小さな少女の寝息だった。
ふと見下ろせば、自身の右手には、いまも変わらず彦斎の小さな温もりが残されていた。
「ふふ……猫……かわいい……」
「……戻れた、ようでござるな」
掠れた声を零し、そっとその手を解く。
無体な真似で夢を暴いてしまったお詫びにと、彼女の脳裏には今、ささやかな佳い夢を見せているのだが、なんとも愛らしい寝言を漏らすものだと、赤衣の口元がわずかに緩む。
起こさぬよう静息で身を起こし、畳の上へと立ち上がろうとする。
夢の余韻は、いまだ胸の奥で濃密に燻っている。だが、いまはもうどうしようもないことだ。
あの一閃と結末を見届けた以上、新兵衛やあの男が沖田に魔蟲を仕込んだという筋は消えた。山南が口にしていた通り――赤衣が案じていた少女は、本当に無事、多摩の故郷へ帰ったのだと信じていいのかもしれない。
故に、赤衣がこの口から何かを零すことはなかった。
沖田のことも、あの夜の真相も。すべては胸の奥底へ沈めればいい。
ただ――。
立ち上がりかけた足をふと止め、赤衣は寝息を立てる小さな寝顔に視線を落とした。
あの凄惨な夜、倒れ伏す沖田と新兵衛の間に割って入り、最後に彼女を護ってくれた刺客。
「沖田殿を守ってくれて、ありがとう……感謝するでござるよ、河上殿」
届かぬ声でぽつりと呟くと、赤衣は無骨な掌を差し伸ばした。
撫でるというほどの心持ちでもない。ただ、少女を起こさぬよう細心の注意を払いながら、その頭のあたりへ、そっと掠めるように一度だけ触れた。
髪の毛一本ほども乱さぬ、あまりにも静かで、不器用な男なりの礼であった。
――その、わずかな体温の触れ合いに反応したのだろうか。
「ん……」
夢とうつつの狭間にいる彦斎が、猫のように小さく身をよじらせた。
そのまま、離れていった温もりを慈しむように、布団の深くへと小さく息を吐きながら潜り込んでいく。その顔には、先ほどまで過去で見ていた剣客としての険しさはなく、ただ一人の女の子のような穏やかな寝顔だけが浮かんでいた。
「……さて」
赤衣は彦斎が布団にすっぽりと納まったのを見届けると、短く息を吐いた。
そっと気配を消すように立ち上がり、夜も深くなった部屋の入口——その固く閉ざされた襖へと視線を滑らせる。
「遠慮せず入ってきたらどうですか」
ぽつりと落とされた声。
一拍。部屋の中は、何事もなかったかのように静まり返っている。
虫の音すら途絶えた、死したような静寂。
が――次の瞬間であった。
ふっと部屋の隅に置かれた行灯の灯火が突如として吹き消され、深々とした夜の闇が室内を丸ごと呑み込んだ。
「呵呵——」
闇の底、赤衣のすぐ背後から、嗄れた老人の高笑いが響く。
気配もなく間合いを詰められたというのに、赤衣は肩ひとつ揺らさず、闇の奥へと言葉を投げかけた。
「盗み聞きとは、あまり趣味がよいとは言えませんよ」
「なにを言う。本当に聞かれて不味いのであれば、入口を塞ぐなりすればよいものを。それをせぬ時点で、おぬしが儂に盗み聞いてほしいと言っているようなものよ」
「相変わらず、ですね。わざわざ気配を忍ばせてまで現れたというのに、随分と理屈っぽいことだ」
「ホホ。おぬしこそ、ずいぶんと物思いに耽っておったようではないか」
老人の口調には、すべてを見透かしたような、底知れぬ嘲りが滲んでいた。
だが、赤衣の眉根が揺れることはない。
静かな暗闇の中、ただゆっくりと背後の気配へ向き直る。
「……お久しぶりです。随分と変わりましたね――マキリさん」
「そう言う主は、随分と見窄らしくなったではないか。のう、小童?」
暗がりの中、蠢く蟲のごとき気配を纏い、老顔を歪める男。
そこに佇んでいたのは、今回の黒幕とも言うべき存在――マキリ・ゾォルケンの姿があった。
今回は短めだよ。
うそ、これが普通の長さだよ? 5000はあるからね?
さて、11周年おめでとーーーー!ということで、引き続きよろしくお願いします。
現地でぐだぐだ朗読劇とライブ見ていましたが、いやー、悠木碧さんすごかったですね笑
フェスまでには、これらすべてをかたをつけたかったですが、普通に無理でした。理由は色々とありますが、シンプルにメッセージフラッグを投稿していました、ははは!
さて、そんな駄弁も置いておくとして、今回の件でようやっとご対面。
はじめまして、マキリさん。初登場おめでとうございます。
え? 前も出てなかったかって?
なにそれ、怖い…幽霊でも観たんじゃないですか?
てなわけで、まぁ本文で赤衣がなにやらおかしいことをしていた気がしますが、気の所為ですので忘れましょう。深く考えてはいけないんだぁよ。