殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
勘違いしないでよねっ
兄弟子と妹弟子
文久三年旧暦五月十五日の朝。旅籠の一室には、昨夜までとは打って変わった穏やかな空気が流れていた。
「河上殿。もう少し、こちらに向けてもらえぬでござるか?」
「こう?」
「そうそう」
赤衣は、そう言った彦斎の背後に座り、その長い髪を手に取る。
「んー……やはり、少々乱れているようでござるな」
「多少なら、あんまり気にはしないけど?」
「とはいっても、目にかかるのはうっとうしいでござろう?」
「まぁ、ときどきは」
「では、すこし失礼するでござる」
彼女の髪型は、 月代を剃らず、髪をすべて伸ばしたまま無造作に一つへ束ねる髪型——いわゆる総髪である。
この髪型自体は、諸国を流れる浪人によく見られる形ではあったが、もっとも、それは伊達や酔狂で選ばれるものではなかった。月代を整える銭を払えない、懐の寂しい浪人がこぞってやるだけの髪型である。
まぁ、それで構わぬと開き直った者、あるいは構う余裕すらなかった者が、月代を剃らぬまま総髪で通すのだが。
しかし、それはあくまで男の話。
彦斎は女の子である。
女であれば、はじめから月代など無縁。島田や勝山といった結い方で髪を彩るのが、この時代の当たり前だった。
だというのに、彼女は結うことすらせず、ただ一つに束ね縛りあげているだけ。髪飾りのひとつもなく、女らしさを削ぎ落としたような結び方は、彼女の生き方をそのまま映しているのかもしれない。
だが、寝起きのまま結わずにいれば、日常生活にも支障が出る。ならばと、当たり前のように世話を焼き始めたのが、根っからの世話焼き魂を持つこの男なのである。
「それにしても、随分と毛量が多いのでござるな」
「そう……? 普通じゃないかしら」
「うーむ……これでは元結だけではまとまりが悪いし……これからは少し、鬢付け油をつけてみてはいかがでござるか?」
「私、そんなもの持ってないけど」
「そこは旅籠の女中さんにでも借りるといいでござるよ」
赤衣は笑いながら、指先で毛束を整えていく。
油気のない髪は指の通りが悪いらしく、丁寧に手櫛で梳くたびに引っかかった。それでも根気強く梳いていけば、それなりに綺麗にはなる。あとは後ろで束ね、元結でひとつにまとめていく、手慣れた仕草であった。
その間、彦斎はというと、赤衣が今朝も握った握り飯をもぐもぐと頬張っていた。
なにしろ、彼女の体は燃費が悪い。一週間も食わずの生活をしていたのだから、どれだけ食っても足りないほどである。
髪を結う赤衣と、その膝元で握り飯を頬張る彦斎。
傍から見れば、およそ殺し合いとは縁のなさそうな、のどかな朝の一幕に――。
「おーい。起きとっとか、客じ————」
と、景気よく襖を開けた胴元——もとい松田重助は、その姿勢のまま入り口で固まってしまった。
当然、部屋の中にいた彦斎と、踏み込もうとした松田の目が合う。
見られたと悟った彦斎もまた、握り飯を口いっぱいに頬張ったまま、ぴたりと動きを止めた。
「…………」
「…………」
見つめ合うこと、数瞬——いや、当人たちにとっては数十の
彦斎は、しばし思案げな顔をしたかと思うと――なにを思ったのか、手に持っていたそれを、たった一口ですべて飲み込んでしまう。
それはもう、迷いのない一息である。
「おい……」
「あ、胴元さん。来ていたのでござるか。おはようでござる」
両頬をパンパンに膨らませて必死に咀嚼する彦斎に、なにかしらの追及を見せようとしたとき。その声に気づいた赤衣が、手元で手櫛を動かす手を止めぬまま、至極のんきに軽く会釈してみせた。
そもそもツケのせいで飯を喰えないはずの彦斎が、何かしらを口にしていること自体がおかしいのだが、それと同じくらい――初対面の女の髪を、何らやましさもなく平然と梳いてやっているこの男も男で、相当に異常である。
なにをどのようにして事を運べば、このような奇妙奇天烈な光景が生まれるというのか。
二重の意味で訳が分からないと言いたくなった松田は、鴨居に手をつき頭を抱える。
「はぁ、こいつのズレっぷりは今に始まったことじゃねぇし、どうだってよかけどよ……お前らって、いつの間にそんな仲良うなったんだ」
「「?」」
松田の心底不思議そうな問いに、赤衣と彦斎は綺麗に揃って首を傾げた。
互いに顔を見合わせ、まるで「何か変なことでもあっただろうか」とでも言いたげな顔で、しばし思案に暮れる。
当人たちには全く自覚がないあたりが実にタチが悪い。
沈黙の中、真っ先に答えを見出したかのように口を開いたのは、彦斎だった。
「一晩ともに寝てから……かしら?」
あっけらかんと。まるで、さも当然の如き言いように。
「……間違っても、よそ様ん前でそういうことを言うんじゃねぇぞ。バカ上」
松田は、本日二度目のため息を漏らした。
幸いにも、流石に「そういう意味」での床入りではないと、大人の彼はすぐに見抜いたのである。
— 壱 —
朝の一騒動から、小半刻ほどが過ぎた頃だ。
部屋の隅では彦斎が刀の手入れをしている。目釘を抜き、刀身にポンポンと打粉を打つ手つきは、恐ろしいほどに手慣れた様子だった。
しかし、赤衣に結ってもらった髪がいつもと違うのが気になるのか、打粉を打つ手を時々止めては、毛先をくねくねといじっている。人に結ってもらった髪の収まりの悪さが、どうにも面映ゆいらしく、無意識に撫でては、また気を取り直したように刀身へ視線を戻す……という作業をひたすら繰り返していた。
そんな彦斎を尻目に、赤衣と松田は部屋の中央で向かい合う形で座していた。ふたりの間には、京都の洛中を描いた地図が置かれている。
「ひとまず。お前らが
「かたじけないでござる(いちゃつく、とは……?)」
赤衣は礼を言いながらも、聞き馴染みのない単語に内心で首を傾げる。
そんな彼の反応を気にする風もなく、松田は懐から数枚の書き付けを取り出し、畳の上に並べた。
「っと、そうだった。本題に入る前に、俺としても確認しときてぇことがあったんだ。おまえ、以蔵からはどれくらい聞かされとる?」
「以蔵殿、でござるか?」
「ああ。田中新兵衛に、武市半平太。それから土佐勤王党についてだ」
「いや、新兵衛は薩摩の脱藩浪人としか聞かされてはおらぬが……その武市とやらも土佐勤王党については、初耳でござる」
そもそも、岡田以蔵についてすら、赤衣が知りうる情報は少なかった。土佐の人間で、酒と賭博を愛し、お調子者でありながらやたらと人に噛みつく癖がある。赤衣が彼について知っているとすれば、それくらいのものであろう。
しかし、松田は以蔵との関わりが長いのか、「だろうなぁ」と何処か納得のいった様子で言葉を吐いた。
「……ま、あいつがそう簡単に仲間のことを話すわけもねぇか」
「? 丁半賭博のときから考えていたのだが、そもそも、土佐と田中新兵衛には、どのような繋がりがあるのでござるか?」
赤衣の言葉を聞いて、煙管を持った手で頭を掻く松田。
正直、よそ者に他藩の内情を軽々しく明かすのは気が進まないといった様子である。
しかし、賭けに負けた以上、口を噤み通すのも博徒としての矜持に欠ける。それに――このお人好しに賭けてみようと思ったのも、また事実だった。
「しゃあねぇ」
そう小さく呟いてから、松田は赤衣を見据えた。
「まずは、前提だけ話しといてやる。……あんまり外で言いふらすんじゃねぇぞ」
松田は煙管を口元へ運び、火皿を指で軽く叩く。
乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
「そもそも、田中新兵衛ってのは薩摩の郷士だ。京じゃあ、尊王攘夷を掲げる連中の中でも、かなり名の知れた人斬りでな。通称、人斬り新兵衛とも呼ばれとる」
「人斬り新兵衛……たしか、初めて胴元さんが言ったときも、その呼び名でござったか」
「ああ」
紫煙が天井へ向けてゆっくりと立ち昇っていく中、松田はさらに短く煙を吐いた。
「こいつの名が京で一気に知れ渡ったとは、去年のことだ。島田左近って男ば知っとるか?」
「いや、あまり聞きなじみはないが……有名な御仁で?」
「ああ。そいつは九条家に出入りしとった男でな。幕府寄りの公家連中と繋がって、朝廷ん中であれこれ手ぇ回しとった奸物よ。『今太閤』って呼んだほうが、ピンと来るかもしれん。京で幅ぁ利かせとった実権者で、尊攘派からも京の町人からも、そりゃあもう目障りこの上なか男だったわけだ」
煙管の先で宙をなぞるように続ける松田の顔には、嫌な奴を思い出すときのような苦々しい色が残る。
彼としても、その島田左近という人物は、かなり気に入らない部類の男であったらしい。
「田中新兵衛は、その今太閤を一ヶ月間かけて追い回し、とうとう斬っちまった」
「一ヶ月……?」
「張り込んどったのさ。念入りに暗殺の段取りば組むためにな」
にやりと。
まるで我が意を得たりと言わんばかりの松田は、煙管を歯で噛むように咥えた。
「しかし、奴の大仕事はそれだけじゃなかった。あの男は斬っただけじゃ飽き足らず、討ち取った相手の首ば晒して、その傍らに斬奸状まで掲げやがったのさ」
「……」
「つまり、ただ人を殺したんじゃねぇ。『これは天誅だ』と、世間に向かって堂々と示したわけだ。ククク……しかも、斬った相手が民衆からも嫌われとったけん、あっさり受け入れられちまったのさ」
なるほど、たしかにそれは偉業なのかもしれない。
京で名を馳せる佐幕派の大物を、たった一人の一藩士の身でありながら独力で討ち取った――それだけでも、尋常な話ではなかった。生半可な度胸と剣技で成せる業ではないことは、刀を振るう者であれば容易に想像がつく。
だが、新兵衛の犯行が都を震撼させた本当の理由は、その先にあったのだろう。
人斬りに天誅という正当な名分を与え、世間に見せつける。それがどれほど人の命を軽くし、世を狂わせる危うい思想か、察するに余りあった。
松田の吐き捨てるような言葉に、部屋の空気がいっそう重く沈む。
すると——部屋の隅で打粉を打っていた彦斎がポンと手を止め、どこか他人事のように小さく呟いた。
「じゃあ、あの薩摩がいまの流れを作ったの?」
「いいや……桜田門のこともあって、そうとは一概に言えねぇ。だがまぁ、お前と同じように見る奴も一定数おるのも事実だわな。実際、京で気に入らねぇ奴を斬っちゃあ『天誅』と称する連中が、やたら増えた。新兵衛がやったあの一件が、人を斬るっちゅうことを、ただの殺しじゃなく、大義のある行いだと信じさせたのかもしれん」
「……随分と、壮大な話でござるな」
「壮大も壮大たい。奴を、一つの暗殺で都を変えた男だと崇める志士までおるくらいだからな。今じゃ京で人斬りの話ばすりゃ、まず田中新兵衛の名が出る。それくれぇには有名人だろうよ」
「……なるほど」
赤衣は重々しく頷く。
ひとりの人斬りが、これほどまでに都の空気を変えたとあれば、たしかに無理からぬであろう。松田の言うとおり、信奉者のひとりやふたりは生まれても不思議ではない。
「では、その島田左近とやらを斬った時に、土佐勤王党が関わっていたのでござるか?」
「いや。そこまで一緒くたにせんでよか」
——言っただろう、前提の話だって。
足を組み直した松田は、足の痺れでも感じたのか片足だけを立てる。
「あれは新兵衛自身の意思であり、決意だ。少なくとも、俺が聞いとる話じゃあ、土佐の連中が一緒になって斬ったわけじゃねぇ」
「では、なぜ先ほど土佐勤王党の名を? 」
「そこからが、いまの話だからよ」
「今の話——でござるか?」
「そうだ。俺がいま語ったのは、人斬り新兵衛誕生の話にすぎねぇ。奴はその後も京都で人を斬り続けて、いつの間にか周りには長州、久留米、水戸といった他藩の尊攘派とも繋がりができとった。土佐も、その一つにすぎんのさ」
目を細めた松田は煙管の灰を落とし、また一服吸いつける。
「ま、新兵衛と武市にどういう付き合いがあったかは、俺が話すこっちゃねぇ。俺が賭けに出したとは、あくまで薩摩の人斬り――田中新兵衛についてたい。他藩の内輪話まで、俺が勝手に喋る義理はねぇ。知りたきゃ、本人たちにでも聞きな」
それは、突き放すような物言いであるが、その裏には、他藩の事情にこれ以上踏み込ませまいとする、松田なりの線引きが透けて見えた。
これ以上野暮な追及はさせないという、喰えない男ならではのあしらい方である。ふっと吹き出された紫煙が、二人の間にどこか煙に巻くような間合いを作った。
しかし、離れたところで刀の手入れをしていた彦斎は、まだ聞き足りないことがあるのか。刀身を布で拭いながら、松田へと尋ねた。
「ねぇ。もう、ひとついい?」
「珍しいな。お前が積極的に、こんな話に首ば突っ込んでくるなんて。人斬り新兵衛に思い入れでもあったか?」
「別に、そういうわけではないけれど……」
彦斎は布を持つ手を止め、しばし視線を刀身へ落とした。
そこには、言葉を選ぶような短い間があった。
「どうにも、腑に落ちないのよね。あの土佐犬……何故、その田中新兵衛とやらを探しているの?」
「土佐犬……とは、以蔵殿のことでござるか?」
「そう。貴方も気にならない? あいつだって土佐勤王党の一員で、それなりに名の知れた――」
「そこまでだ、彦斎」
紫煙をひと筋燻らせながら、松田は煙管を咥えたまま、彦斎の言葉を封じた。
「何度も言わすんじゃねぇ。俺たちが賭けに乗せたとは、あくまで田中新兵衛だ。それ以外ば、べらべらと喋るんは、俺が許さん」
「……ごめんなさい」
「お前も、俺たちにそれ以外のことは聞くな。当然、岡田以蔵についてもだ。どうしても知りたきゃ、本人に聞け」
「……承知したでござる」
しょんぼりと肩を落とす彦斎は、まるで叱られた子供そのものだった。
赤衣もまた、それ以上は追及せず、ただ静かに頷く。
そんな二人の様子を眺めながら、松田はふんと鼻を鳴らした。
「まあ、兎にも角にも本題だ。あいつが最近、どこで誰ば斬っとるのか――だが」
松田はそう言って、畳に置いていた小さな白い紙片と青い紙片をいくつか取りあげると、まずは白い紙片を地図の上へ並べていく。
「これには、薩摩の人斬りの噂ばまとめてある。奴が関わったと思われる辻斬りには、薩摩のもんらしい品が必ず残っとるって話だが、さすがに中には愉快犯もおるだろうよ。全部が確かな話ってわけじゃねぇが……」
「いや、十分でござるよ」
「そうかい」
赤衣は並べられた白い紙片へと目線を落とした。
描かれた京の街と白い紙片の位置関係を照らし合わせるように、視線だけをゆっくり滑らせていく。
そのうちのひとつ。
松田は腰から煙草入れを取り出すと、その角で地図の一点をこんと叩いた。
「んじゃ、まず、ここから近い四条坊城たい。壬生から四条通を東へ出て、少し行ったあたりだ」
「殺されたのは?」
「奸商だ。裏じゃあ
奸商――つまりは、異人に国を売って私腹を肥やす悪徳商人のことである。
攘夷に狂信的な志士たちからしてみれば、これ以上ない天誅の的ともいえるだろう。さっき聞かされた田中新兵衛の人物像からしても、真っ先に標的にしてもおかしくない男だった。
続いて——。
「次は三条大橋の近く。ここは公武合体派、佐幕寄りの公家の家臣が殺されとった」
「では、こちらは?」
「そっちは寺町通だな。殺されたのは、開国論ば唱えとった蘭学者と、それを信奉しとった護衛の浪士ども三名だ」
次々と紹介された事件の被害者たちは、そのどれもが、政の縮図をそのまま切り取ったような顔ぶれだった。
公武合体、佐幕、開国。
思想の優劣や立場こそ違えど、どれも尊攘派志士からすれば斬るべき国賊の範疇に収まった者たちである。薩摩の人斬りが動く動機としては十分すぎるものばかりだった。
「こうしてみると、人斬り新兵衛は政敵や顰蹙を買っている商人を斬り殺しているように見えるでござるな……」
「まあな。実際、白んほうは、あえてそういう事件ばかり俺が拾って分けた」
「拾って分けた?」
「ああ。政治絡みの臭いがする奴は白。そうじゃなかもんは、青だ」
松田はそう吐き捨てると、煙草入れを畳に起き直し、今度は青い紙片を洛中地図のうえへと乗せていく。
「例えば、こいつは壬生から北へ少し、二条堀川で起こった人斬りだが――殺されたのは、なんら政治にゃ関係ねぇ町人の女だった」
間髪を入れず、また一枚。
「こっちは四条より少し上。井戸の近くで死んどるところを、同村の人間が見つけたらしい」
その後も、松田の指先が動くたび、青い紙片が京の街並みを塗り潰していく。
木屋町の裏手で、材木屋の手代。
三条通から少し南へ下ったところで、町の漢方医。
錦小路の近くでは、旅籠の女中。
寺町通の寺院で、下働きの男。
六角堂から少し離れた路地では町人の夫婦。
祇園新地では、馴染みの客すら持たない芸妓がひとり。
そして――最後の一片が置かれる。
「次は鴨川の東。こいつは浮浪者だ。近くの母屋は倒壊して、女房と旦那も殺されとる。彦斎が新兵衛を斬ったってのも、ここだな」
「……」
赤衣は黙って紙片を見つめた。
白と青。その決定的な違いは、被害者の名や身分ではなく、殺す理由の有無であろう。天誅という大義名分すら剥ぎ取られた、ただの屠殺劇。
誰かの正義のため、次代へと繋ぐ礎として斬られたのなら、まだ彼彼女らに救いもあったのかもしれない。
だが、この青い紙片の群れには、その体裁すらなかった。ただ殺すために殺された者たちが、理由もなく、名すら残らぬまま、京の片隅で忽然と命を絶たれている――赤衣の目には、それがひどく歪な光景に映った。
「……斬られた被害者に共通するものが、ないでござるな」
どこか縋るような視線を、赤衣は松田へと向けた。
だが、松田はすぐには答えない。ゆっくりと煙管を咥え直すと、少しばかり目を伏せ、ただ地図の上の紙片へ視線を落とした。
立ち上る紫煙の向こう。落ちた沈黙こそが、彼の答えなのであろう。
「宮部さん曰く、『この事件を起こしとる奴は、かなり底意地の悪い、悪意の塊みてぇな野郎だ』って言っとった。ただ、どうにも俺にはしっくりこねぇ。もし新兵衛がただの辻斬りに落ちたってんなら、この白はいったいなんだ? それこそ、話が合わんだろう」
「新兵衛本人は、今も『天誅』という己の理屈で斬り続けている、と?」
「少なくとも、俺にはそう見える。だが、それとは別に青の事件もあるのも事実だ。宮部さんは何か掴んどったみてぇだが、そこまでは教えてくれんかったからな」
――白と青。天誅と、理由なき惨殺。
白についてはもう、確認するまでもない。政の縁で殺された者たちだ。動機も、繋がりも、はっきりしている。
しかし問題は、青の方だった。人に共通点がないのであれば、他に共通するものはないのか?
脳裏をよぎったのは、初めて薩摩の人斬りについて聞かされた時のこと。
原田が言っていた『どうも、その辻斬りに斬られた死体は、死肉を荒らされ、極端に血がない状態になるって聞きます』という言葉。
死体があのような形で喰い荒らされて残るのは、新兵衛に植え付けられた魔蟲を維持するための栄養としてだろう。赤衣の知る間桐臓硯もまた、あの体を維持するため、女ひとりの肉を用意しなければいけない宿業を背負っていた。
だが、松田もはじめに語っていたように、事件現場に必ずと言っていいほど落とされる薩摩の遺留品の意味は分からない。なにか儀礼として使う魔術礼装だとしても、わざわざ薩摩を思わせる物品に寄せる意味もない。とすればやはり、あの老魔術師が、それを指揮する利も見えてこなかった。
――いや。
そもそも、前提を間違えてはいないだろうか、と赤衣は思う。
自分は、これらすべてをひとつの意思によるものだと決めつけてはいなかったろうか、と。
赤衣は昨夜、あの老人の言っていた言葉を思い返す。
自分は、少し背を押してやっただけだ——と。
歩いたのは、あの男自身だ——と。
そう言っていた。
ならば、新兵衛が自分の意思で行ったことと、あの老人の意思で行わせたこと。そのふたつが混在していても、なんら不思議ではないはずだ……いや、逆に混在していないとおかしいのだ。
すべてがすべて、間桐臓硯の望んだことであるはずがない。
「……複数、あるのか」
「あ?」
「この異様な事件の概要は、複数人の意図が絡んだ結果だったのではござらんか?」
松田が、怪訝そうに顔を上げる。
「なるほどな……宮部さんが言っとったのは、新兵衛じゃなく、もう一人の黒幕のことだったんか……斬っとる本人がなまじ有名すぎたせいで、その裏で誰が何を考えとるかまで見る奴がおらんかった……と」
松田の独り言に、赤衣は答えなかった
ただ、地図を見ている。
斬られた人間に意味はなく、事件の異様性そのものにも、臓硯らしい意図は見えてこない。
ならば、他に考えられる要素は何か。
刻限、人数、凶器、儀礼――魔術的にあり得そうな要素を、頭の中で一つずつ並べては消していく。どれも決め手に欠ける。
ならば、残るは————。
「……四神相応……青い、龍……」
赤衣は地図を見つめたまま、小さく呟いた。
「しじん……何だ、それ?」
松田が訊ねるも、答えは返ってこない。
赤衣は地図へ手を伸ばしかけ――しかし、次の瞬間には勢いよく立ち上がっていた。
「——すまぬ、胴元さん!」
「は?」
突然のことに、松田は目を丸くする。
「少々、急いで確認せねばならぬことができた! 某はこれにて失敬するでござるよ!」
「はぁ? え、あっ、おい」
それだけ言うと、赤衣は返事も待たずに襖を開けて出ていった。
廊下を駆ける足音が、みるみる遠ざかっていく。
残された松田は、いまだに狐につままれたような顔をしていた。
— 弐 —
「……なんなんだ、あいつ」
「さあ? でも、何かは分かったみたい」
唐突に立ち上がり、嵐のように部屋を飛び出していった赤衣。
残された地図と手書きの紙片を呆然と見送っていた松田に対し、彦斎の動作には一切の遅滞がなかった。
手入れを終えたばかりの愛刀を腰へと差すと、引き締まった身こなしのまま立ち上がる。刀の収まりを確かめる手つきにも、迷いや躊躇の欠片すら見当たらない。
そのあからさまな出撃準備に、松田は慌てて制止の声を上げた。
「おいおい、待て待て。まさか、ついていくつもりじゃねーだろうな?」
「? ついていくけど」
「やめとけ、馬鹿。どうせお前、自分がこれから何をしようとしとるかも、誰を斬らなきゃならねーかも、分かってねーだろ」
松田の指摘は至極当然だった。
今の今まで二人の会話を聞いていたとしても、彼女が、その構造や敵の正体を理解しているとは到底思えない。
だが、彦斎にとってそんな理屈はどうでもいいのだ。
「分かってはない……と思うわ。でも、あの人が困ってるなら助けてくる」
「はぁ? お前、なんでそこまで……」
「握り飯を貰ったから。理由なんて、それだけで十分でしょ?」
あっけらかんと、迷いもなく言い放つ。
命を賭ける理由が——もしかしたら、相手の命を奪うかもしれぬ理由が、たったひとつの握り飯とは。
あまりに軽すぎる。いや、あまりに純粋すぎるその行動基準に、松田は返す言葉を失った。
しかし、だからと言って、それだけで自身の同志を死地へ送り出してやれるほど、松田も人はできていない。
「礼なんざ、また別んときでもよかろうが……この件にわざわざ首ば突っ込むなんて、お前ほんとうにそれだけが理由なのか?」
そう問われて、彦斎は入口の襖に手をかけたものの、ふと立ち止まる。
松田としては、少しでも彦斎の真意を理解しようとして投げかけた問いだった。
だが、彦斎にそんな深謀遠慮など端からないのか。
ただただ素直に「他に理由があったかしら」とばかりに宙へ視線を泳がせ、何事かを小首を傾げて吟味したあと、くるりと松田へ振り返った。
「名前」
「は?」
「そう言えば、私、あの人の名前をまだ教えてもらってなかった。お礼を返す相手なのに、名前も知らないのは変でしょう?」
「…………」
松田の額に深いシワが寄る。
「はぁ……握り飯だの、名前だの、いい加減言いやがって。単にお前が助けたいと思ってるだけじゃねぇか……」
「なにか言った?」
「いや、しがねぇ中年のぼやきたい。気にすんな」
松田は盛大にため息を吐くと、煙管を置き、真っ直ぐに彦斎を見た。
「なぁ、彦斎。あいつの名前だが……聞くことが叶ったら、俺にも教えてくれんか」
「? 別にいいけど、松田さんは行かないのね」
「行かん。武市の奴が何ば企んどるのか、さっきので大体見えてきちまったからな。同じ志ば持つ者として、あいつのやりたいことも、その先の目的も理解できちまうんだよ。ここで俺みたいな奴が不躾に動けば、土佐との角も立つ……」
——何より、あいつの気持ちが分かっちまう以上、邪魔ばするわけにゃいかんしな、と。
同じ時代を駆け抜ける志士としての共感と、政治的配慮。松田の言葉に含まれたそれら重みを感じ取ったのか、そこで初めて彦斎は己の足を進ませるのを止めてしまった。
肥後勤王党として松田が留まるというのであれば、当然、自分もここへ留まるべきではないかという逡巡がよぎったためである。
いくら私的な恩があろうとも、藩や仲間の方向性は絶対だ。志を同じくする者が集うこの場所で、一人だけ背を向けることは許されていいものではない。それは、仲間の命を危険に晒すことになる。
しかし、その逡巡を振り払わせるように、松田の声が鋭さを増した。
「勘違いすんなよ、彦斎。俺が残るけんって、お前まで俺たちに付き合う必要はねぇんだ。そんなもんのために、お前を引き留めちゃいねぇんだよ、こっちは」
「でも……」
言いかけた彦斎の言葉を遮るように、松田の眼光が冷たく彼女を射抜く。
さっきまでの軽妙な態度はどこへやら、煙管を持つ指先には微かな力が込められ、そこに居るのは紛れもなく幾多の死線を潜り抜けてきた一国の志士だった。
組織の理屈や政治の都合など、この少女が背負う必要はない。
今後、彼女には数多の悲運が舞い込むであろうが、それでも、自分の手元にいる間だけは、大人たちの都合という鎖をかけたくないという、松田なりの不器用な情愛だった。
「いいか、よく聞け。どれだけ目的や志が正しかろうが、民草ば犠牲にしてまで通す大義なんてものはねぇ。大一番で下の者ば蔑ろにするような代物は、どんだけ大層な御託ば並べようと、下策にも劣る、ただの愚策たい」
彦斎は口を挟まず、ただ黙って聞いていた。
こんな風に真っ向から諭されるのは、思えば久方ぶりのことだった。
「彦斎、お前は自由たい。小さい頃、林先生や宮部さんが、お前に思想と兵法ば叩き込んだが、ありゃ失敗だった。おかげで、お前は少し偏った考えばするようになった。なまじ剣の才があったお前は、それに準じた剣の生き方しか知らずに育ってしまった」
語りかける松田の目には、咎めるような色はない。
ただただ、時代と才覚に振り回され、歪んだ純粋さのまま大人になってしまった彼女への、深い悔恨と慈愛があった。
幼き日に叩き込まれた苛烈な攘夷思想と、あまりに研ぎ澄まされすぎた斬人の才能。なにより本人の愚直すぎるがゆえの純真。それらが噛み合った結果、周りから彼女へ人斬り稼業に手を染めるよう、いくつも打診が来ている。
だが、それは彼女自身が望んで選んだ幸福ではないはずだ。松田とて、彼女がそれを心から願うならば、その手を血に染めさせることなど厭わないだろう。
しかし、周りがもちあげ、自分たちが悪人と決めつけた人間を、ただ斬らせることだけは、決してやってはいけない。
それだけは、させたくない。
「なぁ、彦斎よ。これだけは忘れんじゃねぇぞ」
「?」
松田は区切り、笑う——。
「俺たちがお前ば学を与えたんは、決して、お前を不幸に縛るためじゃない。お前に剣の道を問うたのは、お前に何かを斬らせるためだけでもない」
照れ隠しでも自嘲でもない——ただ、ひとりの妹弟子を偲ぶ兄貴分のような顔で。
「だから、お前は、お前が必要だと思ったほうに奔れ。お前が成したいと心から思ったことを成せ。他人に、俺たちに、世情に縛られることはなんもねぇ。お前の体に一本の芯が通っていりゃ、俺たちはそれで文句もねぇんだからよ」
「……松田さん」
「そうやって走り抜けていりゃ、まあ……俺たちの教え込みそこねた——『斬る以外の剣を振るう理由』くらい、勝手に見ついてくるだろうさ」
彦斎は、少しの間、押し黙った。柄にもなく真っ直ぐな言葉に、どう応えていいか分からなかったのかもしれない。
彦斎本人に、偏った思想を与えられたという自覚はない。
今でも攘夷こそ真に必要なことだと思っているし、
剣は斬るためのものであり。
斬るのは相手を殺すためであり。
殺すのは世を太平へと導くためである。
それが河上彦斎という剣客のすべてであり、たったひとつの剣の振るう理由だった。
だからこそ、いまの松田の言葉を、河上彦斎は完全に理解することはできない。
だけど、なぜだろうか。
なぜ、いきなりこんな話をされたのか意味がわからないのに。
松田が自分に何を伝えたいのか理解もできないのに。
「相変わらず、松田さんのお話は難しくてよく分からないけれど……でも、そうね」
どうしてか——。
「兄弟子が私の心配をしてくれているのだけは、流石の私でも分かったわ。だから、そう……そんな心配そうな顔をしないで」
——ただ自然と、口元が緩んでしまっていた。
「それじゃ、行ってきます」
そう言って、彦斎は赤衣のあとを追うために奔って部屋をあとにする。あとに残されたのは、開け放たれた襖と、どこか気恥ずかしさの残る静寂だけだった。
松田は深い溜息とともに腰を上げると、重い足取りで窓枠へと歩み寄る。そして、幾重にも組まれた木枠を力任せに押し広げた。
吹き込んできた朝の冷気が、男の汗ばんだ頬を撫でる。
眼下に広がるのは、今なお時代のうねりに呑まれようとしている京の洛中。白みゆく空の下、すでに不穏な空気と人々のざわめきが蜘蛛の巣のように張り巡らされているその街を、赤衣が疾風のごとく駆け抜けていく。
——そして、その背中を、文字通り一直線に猛追していく小さな影があった。
遠目にも分かる、あの無遠慮で、まっすぐすぎる走り方。
窓から身を乗り出し、その背中が喧騒の向こうへと消えていくのを見届けながら、松田は乾いた笑いを零した。
「けッ――なにが『よく分からない』だ。そくそ妹弟子が」
口では悪態を吐き捨てつつも、その顔には笑みが浮かんでいる。
あんな顔の彦斎を見るのは、一体いつ以来だろうか。理屈としがらみに凝り固まっていた妹弟子を、たった一日同室に転がしておいただけでこれである。
自分も似合わないことを口にしてしまった。
あんな機会でもなければ、一生、自分の思い丈なんぞ、妹弟子には語らなかったことであろう。
「彦斎を頼むぜ、優男」
二人の姿が京の雑踏に溶けて消えるまで、松田は見つめ続けた。
この気まぐれな選択が、歴史の表裏にどう転ぶかは分からない。
だが、きっと最悪の結果にはならないはずだと、根っからの博徒らしく、彼は密かに賭けてみることにしたのだ。
より良い明るい未来に。
誰もが新時代を生きられるような、そんな最善の夢へと。
さて、久々の一万文字超えかな?
彦斎がいつから人を斬っていたかというのは、意外と史料にはありません。
基本的に、佐久間象山以外はだれかしらの創作が入った話だと思ったほうがよいレベルです。
なので、当作ではまだ彼女もヒラクチの彦斎や人斬り彦斎と呼ばれるほどの人物ではありませぬ。
というか、作者的には彼女が人斬りになったのは――(以下ネタバレの可能性ありのため省略)
とまぁ話は変わって、ひとりモブキャラではあるものの目覚ましく書かれている胴元――もとい松田さんですが、これはおもいっきり捏造なので、FGO本編にいた?とか思っている人は安心してください。いませんよ。
ただなぁ、同じ肥後勤王党でひとりくらい、彦斎をおもいやる人がいてもいんではないでしょうか。
みんなに煙たがられ、恐れられていたかもしれないけど、やっぱり彦斎は根っからのいい子ですよ。ちょっと会話が苦手に見えるだけで。
そういう不器用さもあわせ、可愛がってくれる人はいたはずなんだ。
という気持ちで作られた一話でもありました。
こういう解釈もいいね!と思ってくれたら、それは二次創作の書き手冥利につきまする。
さて、今回はかなり歴史の豆知識で語りたいこともあるのですが、
だいぶ、色々と話の都合上、あと読みやすさの観点から当話も削りに削りを行なってしまった。
なので、一部カットシーン(会話劇)を供養します。
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松田「ったく……こいつを煙たがる奴は多くおったが、まさかこうなるたぁなぁ……お前さん、本当に稀有な性格しとる」
赤衣「そうでござるか? 河上殿は少し変わっているやもしれぬが、可愛らしく良い御仁でござるよ」
彦斎「そう。私は腕も性格も良い……と評判の剣客。断じて、煙たがられてなんていない。……仮に煙たがられているとしても、そいつらに見る目がないだけ……」
松田「おい。目が死んどるぞ、目が……つうか、お前、一応気にはしとったんだな?」
彦斎「気になんて……して、ない……」
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さて、次回か次々回くらいに、ちょう久しぶりに登場するキャラクターがでるかな?
あと、次回か次々回に、新しいFGO出自キャラクターもでてくるかな?
新しいFGO出自キャラクターに関しては、当てられる人がいたら天才レベルで、「え?おまえくんの?」となる予想。
ただ、話の都合上ださないこともありえるので、確約はできませぬ!
さぁ、誰でしょうなぁ…(遠い目)