殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
逢魔が時が近づく京の壬生村近く。
五条橋のたもとで、原田左之助は町人へと軽く頭を下げた。
「話を聞かせてくれて、どうも助かりました。恩に着ます」
「い、いえ、そんな……なにかのお役に立てたのであれば、私は……」
大小を差した武士にしては、妙に柔らかな物腰に町人の女もすこし戸惑ったのだろう。
原田が頭を上げたころには、すっかり頬を赤らめた女が、そのまま、そそくさと逃げるように去っていくのが見えた。
原田はそんな女の後ろ姿を見送りながら、微かに表情を曇らせてひとつ長い息を吐く。
「はぁ……しっかし、厄介なことになってきやがった」
ぽつりとこぼした独り言が、川の濁流音に吸い込まれる。
先ほどの女から聞き出した話は、単なる市中の騒ぎとして片付けられるものではなかった。
ここ最近——というよりも、四日前からか。
壬生浪士組の空気は、あの上覧試合以降よりも、重たいものになっている。
薩摩の人斬り騒動——沖田の多摩への帰還命令——。
おおくの不幸が折り重なっているというのに、なにひとつとして解決の兆しは見えてこない。
いうところ、行き詰まりというやつだった。
隊内でも、あからさまに会話が減ったものだ。みんなで膝を突き合わせて飯を食っていたのが、今では懐かしく感じるくらいには、各々が各々の時間で好きに動くようになった。
まぁ、それは一概に会津藩から特例で見回り強化の命令が下されたためでもあるのだが。
原田が覚えている限り、全員と話す機会があったのは二日も前のこと。それも、沖田を多摩へ帰すと決めた土方が、全員を壬生寺に招集したときの話である。
必要最低限の——しかも、仕事の話以外のことは、あの場では誰も口にはしなかった。
藤堂や井上なんかは、一言も発しすらしていない。
「早く、なんとかしねぇとな……」
このままでは、自分が好きだった試衛館の空気が変わってしまう。
そうは分かっていても、なにから手をつけていいのやら、原田には見当もつかない。
幼少期から伊予松前で密偵としての訓練を叩きこまれた身であっても、今の状況ではあまりに判断材料がすくなすぎるのだ。
以前、幕府から清河八郎暗殺の密命を受け、あの男の周辺を探った折、薩摩の動向も腹に入れたが、いくらなんでも、今の薩摩が一藩を挙げてこのような人斬り騒動を扇動するとは思えなかった。
となれば、ただの一浪人が騒ぎを起こしているのか……。
しかし、それにしては焚いた火がでかすぎやしないか、と思わなくもない。
「幕府から命令もなし……あちらさんも、今回のことは何も掴んでいないってことか。それとも、幕府方の者による仕業か……」
濁り切った川の奔流を眺めながら、原田はぼやく。
今回の一件で表立って動きを見せているのは、京都守護職を預かる会津藩のみ。しかし、薩摩との関係悪化を恐れているのか、その会津藩もまた自陣の兵を動かすのではなく、壬生浪士組のような回りを使っての捜索を敢行している。
京に駐留している他の諸藩で、おおきな動きを見せているものも特にはいない。
しかし、それは動いていないということではなく、他に漏らさないよう細心の注意を払ってことを進めているという証拠だ。京の政情に噛んでいる者であれば、今回の騒動には多かれ少なかれ興味を示し、各々が勝手に調査をしているに違いない。
誰が先に薩摩の人斬りを捕まえ、この騒動を収められるか。
思考の泥沼に足を踏み入れかけた、まさにその時である。
「——おう、左之助。そっちはどうだ」
振り返った先に、永倉が立っていた。
薩摩の人斬りを探すべく、特例で許可の下りた見廻りの最中であろう。
忌々しげに眉をひそめているところを見ると、彼の方も芳しい収穫はなかったらしい。
「……新八か。こっちは今しがた、町民から話を聞き終えたところだ。お前は?」
「状況がいい、とはいえねぇなァ。薩摩の人斬りに関しての情報はなんにも……どうもきなくせぇことになってるみたいだぜ」
ほらよ、と言って永倉は、水滴のついた青笹の包みをポンと放り投げてよこした。
原田は「ん」と片手で受け取ると、ひんやりとした感触が手に伝わってくる。
「随分と冷えてんな……なんだこれ?」
「そこで買った生麩まんじゅう。どうせ、頭も回らなくなってきたところだ。食いながら話そうぜ」
そう提案された原田は、素直に「ありがてぇ」と思い、器用に片手で笹の葉を開いた。つるりとした生麩まんじゅうを口に放り込むと、瑞々しい上品な甘さと青笹の香りが広がり、煮詰まっていた脳が僅かに融けていく気がする。
原田が一口目を飲み終えるのを確認した永倉は、橋の欄干で頬杖をつきながら問いかけた。
「んで、この騒動はなんだったんだ? 薩摩の人斬り絡みか?」
「いや、関係ない。なんでも若い男が欄干に足かけて、そのまんま川に身を投げたんだとよ。しかも、それを追いかけて、二人も後を追って飛び込んだそうだ」
「三人揃って身投げだァ?」
——物騒な話だな、おい。
と永倉が忌々しげにこぼす。ただでさえ血生臭い京の町だというのに、自ら命を絶とうとする者までいるとは。
しかし、先ほどの女から騒動の顛末を耳にしていた原田は、手の中の笹の葉を丸めながら軽く首を横に振った。
「いや、身投げってよりは……止めようとして、揃って落ちちまったってのが、正しいところみてえだ」
それを聞いた永倉は、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻から短く息を吐く。
「で、生きてんのか、その三人」
「さあ、そこまでは。流れも速いし、下流のほうで誰か拾い上げてくれてりゃあいいが……」
「ちっ……これ以上の面倒事は勘弁して欲しいもんだぜ」
二人並んで、橋の上から川面を見下ろした。
夕刻の斜陽を反射して、濁った水面がどこか不吉に鈍く光っている。ただでさえきな臭い情勢の中、余計な騒ぎは御免被りたいというのが本音だろう。
「ただ、問題がひとつある」
「んだ? 早速、面倒事か」
「面倒事か、と聞かれたらそうだが。どちらかといえば、厄介事だな」
原田は少しだけ声を潜め、永倉の顔を見た。
「飛び降りたのは、例の赤衣さんだ」
「…………は? まじで?」
「ああ。少なくとも話を聞いたかぎりの特徴は、すべて合致してた」
永倉は天を仰ぎ、苛立たしげに腕を組んで「まじかァ」とぼやいた。
その顔には、隠しきれない焦燥が浮かんでいる。
「山南さんから、目を覚ましたとは聞いてはいたが……姿を見せないと思った矢先、これかよ……」
「沖田先輩のことを話してしまったっても言ってたしな。あの人なら、責任を感じてとぼんっ、てのもあり得る」
ふたりは赤衣と沖田が薩摩の人斬りと接敵した折、赤衣は倒れ、沖田は撮り逃すヘマをしたと聞いている。
あの他人に世話を焼くことが身に沁みたような男であれば、良くも悪くも、今回の沖田の一件に責任感を感じていてもおかしくはない。
思い悩んだ挙句、川で身投げをした——それが決してない、と言い切れないのが、なんともやるせないことだ。
だからこそ、最初は山南も赤衣に沖田のことは隠そうとしていたのだろう。
永倉は頭をがしがしと乱暴に掻きむしると、川に背を向け、後ろ手に欄干へ寄りかかって天を仰いだ。
「だから、俺は反対したんだよ。沖田の野郎を多摩に帰らせることに。隊士の士気も下がるし、なんの益もねぇってな。なのに、あの野郎は——」
「そのへんにしとけよ、新八。今更、それを掘り返したってどうにもならねぇだろ」
「じゃあ、てめぇはどうすんだ? 今回のこと、沖田に言えんのか」
「……言えるかよ、馬鹿。おまえも見ただろ、あのときの沖田先輩の顔」
原田の声が、少しだけ低く、苦みを帯びる。
大切な仲間を想うからこそのやるせなさが、二人の間に漂っていた。
組織を束ねるための非情な決断。それが正しいのか間違っているのか、彼ら自身にも答えは出ていない。
ただ、結果として仲間が欠け、周囲に波紋を広げている事実だけがそこにあった。
「なんにせよ――」
原田は再び、川の下流へと視線を流した。
濁った水は、何事もなかったかのように冷たく流れ去っていく。
「無事だといいけどな」
誰に向けるでもない原田の独白は、夕暮れの喧騒に吸い込まれるように消えていった。
— 壱 —
冷たい——いや、痛い。
最初に知覚したのは、それだった。
肌を刺すような暴力的な水温が、心地よく回っていた酒の熱を一息に奪い去る。
次いで襲ってきたのは、全身の骨を軋ませるような凄まじい水の圧力だった。
「——ッ!」
以蔵は反射的に息を止めた。
水面がどこにあるのかすら分からない。
上も下もなく、身体だけが濁流に揉まれていく。着物が水を吸い、刀が腰を引っ張る。
さっきまで酔いでふらついていた足が、今度は自分の意思ではどうにもならぬほど流れに持っていかれていた。
——あの馬鹿、何を考えちょる。何をするつもりじゃ。
問いただす暇もなく、あの男は橋から飛び降りた。
ならば、追う。あの時、以蔵の頭に浮かんだのは、それだけだった。それ以外が頭に浮かぶことはなかった。
「——ッ、ぷはぁっ!」
どれほどそうしていただろうか。
息の続く限り水を蹴り、流れに逆らわず身を任せつづけ——やがて水勢がわずかに緩んだ淀みに差し掛かったところで、ようやく水面に顔を出すことができた。
空気を求めてあえぐ顔を、容赦ない水飛沫が打ち据える。
肺へ無理やり空気を送り込み、咳き込みながらも水を掻く。
流れが速い。まともに泳ごうとすれば、身体があっけなく取られてしまう。
抵抗するだけ無駄だと以蔵はすぐに諦め、流れに逆らうのではなく、流されながら泳いだ。
「こんくらいでっ、わしを殺せると……思うなよっ……!」
その悪態は荒れ狂う川に向けたものなのか。はたまた、自身が飛び込むきっかけになった男へのものだったのか。それすら、もはや分からなかった。
しかし、生きることだけは諦めない。
以蔵は海に近い土佐の育ちである。それに加えて幼い頃は、龍馬の姉に水練と称し、よく魚釣りの要領で鏡川へ投げ込まれたものだ。
荒波に揉まれて育った男の泳力を、舐めてもらっては困る。
「おい! どこじゃ——どこに行きおった、優男!!」
そうしていくばくかの余裕が生まれたのか、水面から顔をだした以蔵は叫ぶ。
「返事を————返事をせんかやっ!」
けれど、叫んで返ってくるのは、どれも水の轟音ばかり。人の声なんて聞こえやしない。
「っ——、くそぉぉぉぉ!!!」
それでも、探すしかなかった。それでも、泳ぎ続けるしかなかった。
あの馬鹿が死んだ。そう考えるだけで、妙に腹の底がざわついてしまう。なにも考えず、がむしゃらに己の腕と口を動かす以外に、この激情を忘れる手立てを知らなかった。
「——!!」
しかし、そのときだった。
少し先の水面に、何かが浮かんだのが見えたのは。
「おいっ! しっかりせぇ!」
視界の端に映った、濁流に揉まれ、沈んでは浮かび、また沈む影のようなもの。
一瞬しか見えなかった。だが、人の頭と肩らしきものだけは、以蔵のその天才的な目が確かに捉えていた。
考えるより先に、身体がうごく。波の音にかき消されそうな怒声を張り上げ、無造作に腕を伸ばす。
「おい、優男————」
以蔵はぐったりと肩に倒れ込んできた頭を引き起こし、水を払ってその顔を覗き込んだ。
「————」
そこで、声が止まる。
息も凍りつくような川の中で、以蔵の目は、たしかに見開かれた。
「……おまんはっ」
見覚えのある顔だったのだ。いや、ここに飛び降りる寸前、見た顔であることに違いはない。
けれど——。
濡れて肌に張り付いた前髪。
その下から覗いた顔は——赤衣を追っていた一人の少女。
河上彦斎のものであった。
— 壱 —
「はぁ、はぁ……この程度で溺れかけるたぁ……わしも歳かっ」
濁流から逃れるようにして浅瀬へ這い上がると、以蔵はたまらず泥の中に膝をついた。
全身にまとわりつく水が、鉛のように身体を重くしている。ずぶ濡れの着物を絞る気力すらないまま、以蔵は傍らに放り出した己の釣果を見下ろした。
川から掬い上げた、女——河上彦斎である。
「……こいつ、まさか死んどりゃせんじゃろうな」
別に彦斎が死んだところで、以蔵にとってはなんら問題はない。
相手は、田中新兵衛を斬ったと豪語する得体の知れない女だ。なんなら、くたばってくれたほうが今後の仲間のためになる可能性だってある。
しかし、せっかく命がけで拾い上げたものをそのまま死なせるのは、どうにも目覚めが悪かった。
以蔵は忌々しげに舌打ちをし、蒼白な顔の鼻先へ手をかざす。
「ふん……ずいぶんとしぶとい女じゃ。生命力だけは一丁前か」
息があることを確認した以蔵は、彦斎の襟首を無造作に掴むと、そのまま泥濘をずるずると引きずり、少しでも水気の少ない日向へと放り出した。水を吐き出させやすいよう身体を横向きに寝かせてやるあたり、根っからの悪人にはなりきれない以蔵の性が透けて見える。
そこまでしてようやく己の足袋を脱ぎ、着物の裾を絞り始める。水気を飛ばすように髪先を手でぱっぱと払い、冷えた体を温めるため
「しっかし、あの阿呆……どこまで流されよったがか……」
川上を振り返った以蔵が、目を
当然だが、視線の先にあるのは猛る濁流だけだ。落ちてきたはずの五条橋はおろか、視界のどこにも赤衣らしき姿はない。
死んだとは思っていない——いや、思いたくないだけか。
いくらあの優男が妙に胆の据わった手合いだとしても、この荒れ狂う川を前にして「無事だ」と決めつけるのは、以蔵からしてもあまりに楽観的すぎた。
重い身体に鞭を打ち、以蔵は再び着物の両袖へと腕を通す。
「とにかく、見つけんことには話が進まん。難しいことは、わしには分からんしのぅ」
苛立ちながら濡れた腰を上げ、以蔵は泥だらけの脛に力を込める。
自分より流されていると断定するのであれば、川下へ。
自分より先に岸に上がっていると考えるのなら、川上へ。
どっちに向かうか迷った以蔵は、ひとまず流木を拾い上げ、それを放り投げる。そして、その流木が指し示した川下へと足を向けようとした——その時だった。
「……けほっ……かはっ、けほ……」
背後で、水を吐き出すような小さな咳き込みが聞こえた。
以蔵は、ゆったりとした動作で振り返る。
それが、彼の運の尽きだったのかもしれない。
「おう、なんじゃ女。ようやく気がつい——ぶべぇあ!?」
以蔵が振り返るよりも早く、情け容赦ない柄頭の一撃が、以蔵の顔面にクリーンヒットした。
「……人斬り、以蔵?」
「
まさに殺気すら伴わない、完全なる防衛本能の反射である。
たまらず顔を覆い、泥濘の上を無様に後ずさった以蔵は、強打された鼻先を押さえ涙目で、その女を見た。
当の彦斎といえば、すでに上体を起こし、濡れた髪が頬に張り付かせ驚きの顔で刀を構えている。
焦点の合わない目でしばらく以蔵の顔を見つめ、次いで、素早く周囲の状況を視線でなぞった。
轟音を立てる川。ずぶ濡れの己の衣服。見知らぬ岸辺。そして、目の前で鼻を押さえてうずくまる、ずぶ濡れの男。
わずか数秒で自身の置かれた状況と、そこに至る経緯を計算し終えたのだろう。
「……そう」と短く呟いた彦斎は、構えていた刀を降ろした。
「目が覚めた時に、目の前にあまりに暴漢めいた人がいたから、つい手癖で」
「つい手癖でって、なんじゃ!? 人様の顔面をいきなり殴っちょいて、言う事ぁそれだけか!」
「でも、貴方なら殴っても平気でしょう? ほら。犬はよく叩いて躾けるって言うし」
「殺すぞ、女ァ!! なんも理由になっとらんろうがっ!!」
悪びれる様子の欠片もない、抑揚の抜け落ちた声。さらに言えば、命の恩人に対する態度としてはあまりにも恩知らずで、人を小馬鹿にした響きすら含まれている。
そんなことを言われ、腹が立たない以蔵ではない。
なにより自分を馬鹿にする者を、ことごとく毛嫌いし、殺してきたような男である。
こめかみに、ぴきぴきと青筋が浮かべた以蔵は、その手を自然と腰の刀へと伸ばした。せっかく拾い上げた命を、今度は自らの手で川へ沈めてやることすら厭わない暴挙である。
「やっぱり、おまんはここで死ねッ……! わしはわしを馬鹿にしよるもんを、誰一人として生かしては帰さんきぃ!」
「やるっていうなら、仕方ない……相手になる」
そうして、凄絶な殺気と共に、以蔵の親指が鯉口を押し開けようとする。
対する彦斎も、応戦する覚悟で刀の柄に手をかけた。
互いの放つ殺気がぶつかり合い、川原の空気が凍りつく。
次に瞬きをした瞬間、どちらかの首が飛ぶ。そんな一触即発の、息詰まる死闘が幕を開ける——はずだった。
「ん、ぬぐっ……! ぬ、抜けんっ……!!」
——先陣を切るはずだった以蔵から、そのような情けない声が響くまでは。
「…………何してるの、貴方」
「や、やかましいっ! すこし黙っちょれ! 今すぐ抜いて叩き斬っちゃるき!!」
見れば、以蔵は柄を握る腕の筋肉が限界まで隆起させ、顔を真っ赤にして脂汗をも噴き出させている。
しかし、肝心の腰にある刀といえば、一寸たりとも鞘から顔を覗かせてはいなかった。
「別に待つのは構わないけど……そのままだと、刀を抜く前に力んで貴方の血管が切れるんじゃない?」
「誰の血管が、切れるかじゃぁぁぁぁぁぁっ!」
親指に全体重をかけ、歯を食いしばる以蔵。
しかし、先ほどまで濁流の中でたっぷりと水を吸った木製の鞘が内側に膨張し、刀身をぎちぎちに締め付けてしまっているのである。そう簡単に抜けるはずもない。
以蔵はついには足で鞘を押さえつけ、うんうん唸りながら力任せに刀と格闘し始める。
そんな無様な悪戦苦闘を見せられ、もはや完全にどうでもよくなった彦斎は、すっと刀から手を離した。
「滑稽な人。すこしは、刀の手入れくらいしたほうがいい」
「おまんに言われんでも、手入れくらいしちょるわ!!」
「そう。じゃあ、その刀が不憫ね」
「おまんみたいな目つきの悪い女に、物の気持ちが分かるわけないがじゃろ!!」
「……目つきは関係ない」
「ある! おまんみたいなんに握られる刀のほうが、よっぽど不憫ぜよ!!」
攻撃から口撃に切り替えた以蔵。
だからと言って、何を言おうとも刀が抜けぬ事実が変わるわけではない。以蔵をきっと睨んだ彦斎は、水気を吸った襟首の位置を整え、背を向けた。
もはや、抜けることもあるまい、と言いたげだった。
「それより、聞きたいんだけど。ここがどこかは分かる?」
「あぁ!? 京のどっかじゃろ!」
「どこかって何処?」
「わしが知るか、そんなもん!!」
抜けない刀に
五条橋からここまで流されたにしては、いつの間にか京の町特有の喧騒や、密集する家屋の気配がすっかり消え失せていた。
岸辺には人の背丈ほどもある見慣れぬ草がぼうぼうと茂り、その向こうには寂れた田畑らしき広がりが見える。遠くには木立があるものの、山というほどではない。何より、人の気配がまったくと言っていいほど無かった。
「人の気配もないし、かなり下流まで流されたみたいね」
「かなりって、どれくらいじゃ!?」
「さぁ? そこまでは分からない」
「けっ、役に立たん女じゃのぉ!! さっきから分からん分からんばかり言いおって!」
「一度しか言ってないけど……というより、あなたの方こそ知らないくせにやけに偉そうね」
「わしは京なんぞ、ろくに歩いちょらんきぃの! 島原までの道のりだけ覚えちょきゃあ、それで十分じゃ!」
その宣言は、いっそ清々しいまでの開き直りだった。
「ぜぇ、ぜぇ……くそっ。刀身が曲がってしもたせいかっ、全然っ、抜けん……!」
抜けぬ刀と格闘していた以蔵も、さすがに体力も尽きてきたのか、肩で大きく息をしながら、だらしなく腕を垂れ下げる。
そして————やめじゃやめ! 興が削がれた! とひとしきり喚くと、以蔵は鞘を乱暴に腰へ戻し、まるで何事もなかったかのように歩き出そうとした。
その背中へ、彦斎が声をかける。
「どこに行くつもり?」
「はんっ。おまんなんぞに言う義理ぁない」
彦斎はそれ以上追及しなかった。
ただ、歩き出した以蔵の背中を見ながら、ぽつりと続ける。
「どうせ、貴方もあの人を探しに行くんでしょ」
「あぁん――!!?」
あの人、が誰を指しているかなど言うまでもない。
名前も素性もろくに知らないが、だからこそ、あの人、なんていう呼ばれ方をする赤衣の優男。
以蔵の顔が、再びかっと燃え上がる。
「誰があんな阿呆さがすか! わしはただ、あのしけっ面に一発いれんと気が済まんだけじゃ! 道中で見つけたら、絶っ対ぶん殴っちゃる!!」
「それはつまり、探すってことでいいかしら」
「違う! ぶん殴りに行くだけじゃ!!」
その問いに彦斎は迷いなく頷いた。
「そう……正直、貴方の独特な表現も、目的にも興味は湧かないけど、目標が一致している以上、いまは協力をしたほうがよさそうね」
「はっ! 協力? なぁに寝ぼけたことを言っちょるがじゃ、おまん。わしはひとりで勝手にやる。というか、わしは探すなんぞ、いっぺんも言っとりゃせんぞ!!」
彦斎が折れたにも関わらず、以蔵はそうすげなく吐き捨てると、踵を返し足早に歩き出した。
子供っぽい理屈を持った男に、彦斎は小さく嘆息する。
勝手にしろと背を向けるのは簡単だが、探す対象が同じである以上、進む道も同じになるのは明白だ。わざわざ足並みを揃える必要もない。適当な距離を空けて川を下ればいいだけだと割り切り、彦斎もまた泥を払って彼の後を追うとことにした。
— 弐 —
そうして、どれほど歩いたろか。
川下へと歩いていた二人だったが、途中、日も落ちてきたため、現在地を確かめるべく民家を探そうと、川を離れて内陸の方角へと歩みを進めていた。
日が沈むにつれて冷え込む風が、容赦なく体温を奪っていく。だが、いくら薄暗い草むらを掻き分けて進めど、期待していた人家の灯りや人の気配は一向に見えてこない。
それどころか、気がつけば二人の周囲の景色はひどく様変わりしていた。
とうの昔に打ち捨てられたであろう、荒れ果てた田畑の跡。田道もろくに整備がされていないのか、そこかしこに雑草が生え、ひび割れた土の匂いだけが鼻をつく。
人の営みから完全に切り離されてしまったかのような、薄気味の悪い寂寥感だけが広がっていた。
「おい、法螺吹き女」
そんなとき、ふいに前を歩いていた以蔵が足を止め、振り返りもせずに低い声で言った。
「なに」
民家を探すべく辺りを見回していた彦斎が短く応じる。
「さっきまで、こんなもんあったがか?」
以蔵が顎でしゃくった先を見て、彦斎もまた怪訝に眉をひそめた。
見渡す限りの枯れ野と化した、薄闇の水田のど真ん中。
その只中に、それはぽつりとあった。
高さは四尺ほど。東西に六間半、南北に七間といったところか。周囲よりわずかに小高くなった場所に、その四角い土壇が残っている。土壇には大きな木々が生い茂り、まるでそこだけ小さな林を成していた。
「いえ。見えなかったけど」
「んじゃ、なんで急に見えるようになった」
「さぁ? 貴方、座頭なんじゃない」
「殺すぞ。わしは昔から目ぇだけはええほうじゃ。そう言う、おまんは瞽女か」
「失礼な奴。私は三味線なんか弾いたことない」
彦斎はすました顔で返し、湿った着物の袖を軽く払った。
軽口を叩き合ってはいるものの、二人の視線は眼前の塚から片刻も離れていない。
人斬り特有の野性の勘というやつか。
二人とも、どこかこの空間のいびつさに警鐘を鳴らしていた。
「……で、どうするがぜよ」
「どうするって?」
「決まっとろう。探すのは民家じゃろ」
言って、以蔵は盛大に鼻を鳴らした。
実際、民家を探すのが先だ。
日はもう傾いている。濡れ鼠のまま野宿など、冗談ではない。
だが――目の前の土壇も、どうにも気になる。
周囲の田畑に比べて、そこだけ妙に古びている。
中央には大きな窪みがあり、草木が生い茂っている。人の手が入らなくなって久しいことは分かる。
「そうね。とりあえず、中に入って休めるか見てくる」
「はぁ!? こんな気味の悪い藪、わざわざ突っ込む気か?」
「正直、これ以上は探すだけ無駄だと思うけど。雨風を凌ぐにもちょうどいいし」
そう言うなり、彦斎はさっさと壇へ向かって歩き出した。
以蔵がついてくるかどうかなど、端から気にしていないらしい。
「おい、あん阿呆は!?」
思わず呼び止めると、彦斎が足を止め、振り返った。
「驚いた。まさか、心配してるの?」
「阿呆抜かせ! 髪の毛先もしとるわけないじゃろ!」
「そう」
彦斎は一度、川に乱された髪の毛先を摘まんだ。
「私は心配」
「はぁ!?」
「正直、貴方も私も流されただけみたいだし。溺れ死んでいる可能性は低い。けど、あの蟲老公や、旅籠で聞いたこともある」
「っ、おまんはさっきからなんの話をしとるがじゃ! 蟲がどうとか、旅籠がどうとかのう! わしにも分かるように説明せぇ!」
彦斎は少しだけ考える素振りを見せる。
本当に見せるだけなのだが。
「じゃあ、今度話す」
「今せぇ!」
「言語化はとても難しい、から……」
「知るか! おまんの事情なんぞ! ちょっ、おい、待て! 話はまだ終わっとらんぞ!!」
そう言って、以蔵も足元の腐葉土を踏み荒らしながらその後に続いた。
土壇へと足を踏み入れれば、冷たい夜風がぴたりと途絶えた。
まるで、外界からそこだけ切り離されたかのような不自然な静寂。外からは見上げる形だった木々も、中央の窪地へと降り立つと一転して二人を覆い尽くす天井となり、沈みきった暗闇をさらに濃く塗り潰している。
「けっ……薄気味が悪い場所じゃのぉ」
以蔵が低く呟き、無意識のうちに柄頭へ手をやった。抜刀するほどではないが、いつでも踏み込めるよう野性の本能が身構えている。
対する彦斎は、窪地の中心あたりで足を止め、暗がりを見つめたまま動かなかった。
「おい。なに見とる、おまん」
「足元。何か踏んだみたい」
「踏んだぁ?」
彦斎が着物の裾を少し持ち上げる。
見れば、雑草の中に半ば埋もれるようにして、何かが転がっていた。
以蔵も、腰をかがめて目を凝らす。
「瓶、か?」
「みたい。やけに精巧ね、それ」
「ふん。なんぞ薬物でも入っちょったか」
落ちていたのは、割れた硝子瓶の破片と、そこにこびりついた赤黒い沈殿物だった。さらにその脇には、焦げた革切れのようなものまで散らばっている。
「気味悪いもんばっかじゃのぉ。ほいたら、ここはどこぞの拝み屋の隠れ家か?」
「拝み屋なら、もう少し明るいところでやるんじゃない?」
「なんじゃ。おまんは拝み屋に詳しいがか」
「全然。あまり知らないけど」
「……なら、いちいち口ぃ挟むな。おまんと話ししちょると、どうにも腹が立つ」
以蔵が言葉を途切らせ、ふと鼻を鳴らした。
そんなことより——。
「——おい。気づいちょるか」
「ええ」
どうやら、彦斎も既に同じことに気づいていたらしい。
「なにかいるみたいね」
足音は、ほとんど殺されている。
だが、完全に消しきれてはいない。
殺気と呼べるほどのものはないが、それでも、こちらを見定めるような、隠しきれない敵意だけは、はっきりと感じ取れた。
以蔵の手が、自然と腰の刀へ伸びる。しかし、抜けないことは、既に骨身に染みている。舌打ちひとつ、以蔵は鞘ごと刀を握り直した。得物として抜けぬのなら、鈍器として振るうまで。
彦斎もまた、静かに刀の柄へ手をかける。
互いに、無言のまま、その場にとどまる。
相手がどこにいるか分からない以上、下手に動くよりも、こちらは気づいていないフリを続けるのが得策だった。
そして、闇の奥で何かが動いた。
同時に、彦斎と以蔵の得物が振り上げられる。
殺気と殺気が、交差する――その、寸前。
「——おぬしっ」
「——あなたは」
薄闇に差し込む、わずかな光に照らされたその顔に、彦斎は思わず息を呑んだ。
が、一本だけ止まらない。
「チェェェェストォォォォォォ!!」
「おろぉ!?」
「あ」
以蔵の渾身の上段が、2人を狙っていた何者か——赤衣の顔面へと炸裂するのだった。
すぽっと鞘が抜ける以蔵の刀。
それを見届けた以蔵は、「討ち取ったりいいいいい」と赤衣に気づかずに勝ち鬨を上げるのだった。
以蔵と彦斎の掛け合いがむずかしすぎて、普通に難産だったよ。
えらく気に食わないと思いながら描いてたから、解釈違いとかあったらごめんね。
さて、ちょーと私生活も忙しくなってきたせいで投稿スピードは落ちたけど、いうても終わりのカウントダウンが聞こえるくらいには射程圏内に入ったかな。
みなさん、アンケートもありがとう!
雰囲気で読めてる人が多くて、よかった。
時々、知らない人名だしてはいるが、知ってる人なら「あーね」となるくらいの小ネタ要素だから、そこまで気にしなくていいんだよ。
さて、次回で佳境に入るかな。
FGOのイベントがうますぎて周回したりしてるから、遅れるかも。
あと、2回天井させられて、シンプルに病んでる。
みんなも、ほどほどにね!
現在の作品を読んでいて、「幕末の知識が足りなくて分からない」と感じることはある?
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特にない。普通に理解できてる!
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分からないことはあれど、雰囲気で読めてる
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分からないことはあれど、困っていない
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ところどころ分からなくて読みづらい
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なんも分からん、助けて